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おじさんの独り言

団塊の世代の呟きです。

72歳で死んだ人々 政治家・官僚 田中正造

2019-01-17 03:45:26 | Weblog

田中正造(1841年12月15日・天保12年11月3日~1913年・大正2年9月4日)下野国安蘇郡小中村(現・栃木県佐野市小中町)出身名主の家生まれ、幼名、兼三郎。

 

日本初の公害事件と言われる足尾鉱毒事件を明治天皇に直訴した政治家として有名。衆議院議員選挙に当選6回。

 

父の跡を継いで小中村名主となる。

1868年・慶応04年、幕末から村民らと領主である高家六角家に対して幕末から村民らと

政治的要求を行っていたが、投獄された、翌年に出所。

1870年・明治03年、江刺県花輪支庁(現・秋田県鹿角市)の官吏となった。翌年、上司木村新八郎殺害の容疑者として逮捕され、投獄されている。冤罪だと思われる。

1874年・明治07年、に釈放されて小中村に戻る。

1876年・明治09年、隣の石塚村(現・佐野市石塚町)の造り酒屋蛭子屋の番頭を務めた。

1878年・明治11年、区会議員として政治活動を再開。栃木新聞(現在の下野新聞)が創立

されると、翌年には同紙編集長になり、紙面上で国会の設立を訴えた。嚶鳴社や交詢社に社員として参加している。

1880年・明治13年、栃木県議会議員。

1882年・明治15年、4月、立憲改進党が結党されると、12月に入党。

1885年・明治18年、加波山事件に関係したとして逮捕されるが、三島知事が異動で栃木県を去ると年末に釈放された。

1886年・明治19年、4月1日開会の第13回臨時県会で、議長に当選す。

1890年・明治23年、第1回衆議院議員総選挙に栃木3区から出馬し、初当選す。

この年渡良瀬川で大洪水があり、上流にある足尾銅山から流れ出した鉱毒によって稲が立ち枯れる現象が流域各地で確認され、騒ぎとなった。

1891年・明治24年、鉱毒の害を視察し、第2回帝国議会で鉱毒問題に関する質問を行った。1896年・明治29年、にも質問を行う。

1897年・明治30年、農民の鉱毒反対運動が激化。東京へ陳情団が押しかけた。当時このような運動には名前がついておらず、東京で演説を行った。農商務省と足尾銅山側は予防工事を確約、脱硫装置など実際に着工されるが、効果は薄かった。

1900年・明治33年、2月13日、農民らが東京へ陳情に出かけようとしたところ、途中の群馬県邑楽郡佐貫村大字川俣村(現・明和町川俣)で警官隊と衝突。流血の惨事となり、農民多数が逮捕された(川俣事件)。2日後と4日後国会で質問を行った。これが「亡国に至るを知らざれば之れ即ち亡国の儀につき質問書」で、日本の憲政史上に残る大演説であった。当時の総理大臣・山縣有朋は答弁を拒否した。この年の川俣事件公判の傍聴中、田中があくびをしたところ、態度が悪いとして官吏侮辱罪に問われ、裁判にかけられた。なお、川俣事件は仙台控訴審での差し戻し審で、起訴状に担当検事の署名がないという理由で1902年(明治35年)に公訴不受理(一審で無罪だった者については控訴棄却)という判決が下り、全員が釈放された。

1901年・明治34年、10月23日、田中は議員を辞職したが、鉱毒被害を訴える活動は止めなかった。

12月10日、東京市日比谷において、帝国議会開院式から帰る途 中の明治天皇に足尾鉱毒事件について直訴を行う。途中で警備の警官に取り押さえられて直訴は失敗した。政府は単に狂人が馬車の前によろめいただけだとして不問にし即日釈放された。

1902年・明治35年、川俣事件公判の際にあくびをした罪で重禁固40日の判決を受け服役。このとき聖書を読み、影響を受けた。この後の田中の言葉には、聖書からの引用が多くなる。キリスト教への改宗はしなかった。

渡良瀬川下流に貯水池をつくる計画が浮上。建設予定地となっていた埼玉県川辺村・利島村計画は白紙になった。

1903年、明治36年、栃木県下都賀郡谷中村が貯水池になる案が浮上。

1904年・明治37年、栃木県会は秘密会で谷中村買収を決議。貯水池にするための工事がはめられた。

1906年・明治39年、谷中村議会は藤岡町への合併案を否決するが、栃木県は「谷中村は藤岡町へ合併した」と発表。谷中村は強制廃村となる。

1907年・明治40年、政府は土地収用法の適用を発表。「村に残れば犯罪者となり逮捕されると圧力をかけ、多くの村民が村外に出た。

1908年・明治41年、政府は谷中村全域を河川地域に指定。

1911年・明治44年、旧谷中村村民の北海道常呂郡サロマベツ原野への移住が開始された。

自分の生命が先行き長くないことを知ると、

1913年・大正2年、7月、古参の支援者らへの挨拶まわりに出かける(運動資金援助を求める旅だったともされる)。その途上の8月2日、足利郡吾妻村下羽田(現・佐野市下羽田町)の支援者・庭田清四郎宅で倒れ、約1ヵ月後の9月4日に同所で客死した。下野新聞によれば、死因は胃ガン。

 

財産はすべて鉱毒反対運動などに使い果たし、死去したときは無一文だったという。死亡時の全財産は菅笠一蓋、信玄袋1つで、中身は書きかけの原稿と新約聖書、鼻紙、川海苔、小石3個、日記3冊、帝国憲法とマタイ伝の合本だけであった。病死前の1月22日に、小中の邸宅と田畑は地元の仮称旗川村小中農教会(現・小中農教倶楽部)に寄付していた。

雲龍寺で、9月6日に密葬が行われ、10月12日に佐野町(現・佐野市)惣宗寺で本葬が行われた。参列者は数万人ともいわれる。

日記の最後は8月1日、「悪魔を退くる力なきは其身も亦悪魔なればなり、茲に於いてか懺悔洗礼を要す」と書かれてあった。

その最期を看取った木下尚江は「恰も太陽の海に入るが如し」と形容したが、この時点に於いて客観的に見れば、この明治最大の義人は、まさしく野たれ死にひとしい死に方をしたのである。

足尾銅山は1973年・昭和48年に閉山となり、現在でもその跡を残している。そして田中が明治天皇へ行おうとした直訴状は、2013年・平成25年に渡良瀬遊水地や田中の出生地である佐野市を訪れた今上天皇へと伝えられることとなった。未遂から実に112年後のことであった。


72歳で死んだ人々 政治家・官僚 榎本武揚

2019-01-15 12:45:53 | Weblog

榎本武揚(1836年10月5日・天保7年8月25日~1908年・明治41年10月26日)

江戸下谷御徒町柳川横町(現在の東京都台東区浅草橋付近)、通称・三味線堀の組屋敷で西丸御徒目付、伊能忠敬の元弟子であった幕臣・榎本武規(箱田良助)、母琴の次男として生まれる。は、武士(幕臣)、化学者、外交官、政治家。海軍中将、正二位勲一等子爵。通称は釜次郎、号は梁川。「夏木金八(郎)」という変名も用いていた。

田辺石庵]に入門し儒学を学ぶ、1851年嘉永4年、昌平坂学問所に入学。1853年嘉永6年)に修了、1854年安政元年)、箱館奉行・堀利煕の従者として蝦夷地箱館(現在の北海道函館市)に赴き、蝦夷地・樺太巡視に随行。1855年安政2年、昌平坂学問所に再入学(翌年7月退学)が、同年長崎海軍伝習所の聴講生となった後、1857年安政4年に第2期生として入学。翌1858年(安政5年)海軍伝習所を修了、江戸の軍築地艦操練所教授となる。この頃、ジョン万次郎の私塾で英語を学び、後に箱館戦争をともに戦う大鳥圭介と出会う。1862年、幕府の開陽丸発注に伴いオランダへ留学。1866年慶応2年)7月17日に開陽丸が竣工、同年10月25日、を経由して、1867年慶応3年)3月26日、横浜港に帰着した。帰国後、戊辰戦争では旧幕府軍を率いて箱館戦争で敗北し降伏、東京・辰の口の牢獄に2年半投獄された。敵将・黒田清隆の尽力により助命され(後年榎本を批判する福澤諭吉も助命活動を行ってる)。釈放後、明治政府に仕えた。開拓使で北海道の資源調査を行い、駐露特命全権公使として樺太千島交換条約を締結したほか、外務大輔、海軍卿、駐清特命全権公使を務め、内閣制度開始後は、逓信大臣・文部大臣・外務大臣・農商務大臣などを歴任、子爵となった。1879年明治12年、渡辺洪基らと東京地学協会。1885年明治18年(東京農業大学の前身)「徳川育英会育英黌農業科」を設立して自らが会長を務めた。1888年明治21年に電気学術の調査・研究と広報・普及を目的に志田林三郎等によって創立、初代会長には榎本武揚が就任した。1893年明治26年、榎本が会長となり殖民協会を設立、メキシコに殖民団を送る。1898年・明治31年工業化学会の初代会長となる。

1898年・明治31年、富山県で発見された隕石から製作させた日本刀・「流星刀」を皇太子に献上。流星刀の製造技術を論文『流星刀記事』として発表した。1900年明治33年、盟友・黒田清隆が死去した際、葬儀委員長を務めた。1905年明治38年10月19日、海軍中将を退役となる。

1908年明治41年7月13日発病、から病気となり、10月26日、向島の自宅で、腎臓病で死去。同月30日、海軍葬が行われた。

鳥谷部春汀に「江戸っ子の代表的人物」と評されたように、執着心に乏しく野暮が嫌いで、正直で義理堅く、涙もろい人間であった。親交のあった新門辰五郎の孫を引き取り学校に通わせた。その葬式は江戸っ子葬ともいうべき景観を呈したという。

鴎外の日記「三十日(金)午後榎本子武揚の葬を送りて駒込吉祥寺に至る」

榎本は、明治の最良官僚としての働きをしたが、しかし与えられたのはついに伴食大臣であり、また子爵に過ぎなかった。

がんじがらめの薩長閥の中で、前政権の残党というハンディキャップを認めてやっても、彼が日本の近代化に貢献した実績は、果たして彼があえて生きのびたにふさわしいものであったか、どうか。 彼が

誇った幕末の留学体験は、新政府以来おびただしいハイカラが生まれたせいもあって、それほど役にはたたなかったのである。

それより、オランダ帰りのこの海将が、義と侠との旗の下に、五稜郭で、三十三歳で壮烈な死をとげていたら、あるいは彼こそ、維新の嵐における最大のヒーローとなり、それどころか、永遠に日本人を鼓舞する幾人かの叙事詩的英雄の一人として残ったのではあるまいか。

福沢の「痩せ我慢の説」は、あながちまとはずれでもなったのである。

しかし、おそらく彼は最後まで、ほんのちょっとしたゆきちがいで自分の一大スポークスマンとなってくれたかも知れない福沢諭吉という人間を敵にまわしてしまった愚かさに気がつかなかったかもしれない。そしてまた、自分の人生の花は、彼が一つの挫折と考えていた五稜郭で咲ききってしまったことに気づかず、」それ以後の、幕臣としては珍しい明治の官僚としての働きに自己満足して瞑目したのではあるまいか。


72歳で死んだ人々 政治家・官僚 水戸光圀

2019-01-14 04:56:24 | Weblog

水戸光圀(徳川 光圀・とくがわ みつくに)(寛永5年6月10日・1628年7月11日~元禄13年12月6日・1701年1月14日)水戸城下柵町(茨城県水戸市宮町)の家臣・三木之次(仁兵衛)屋敷で生まれる。常陸水戸藩初代藩主・徳川頼房の三男。徳川家康の孫、母は谷重則(佐野信吉家臣、のち鳥居忠政家臣)の娘である久子。水戸藩の第2代藩主。「水戸黄門」としても知られる。 諡号は「義公」、字は「子龍」、号は「梅里」。また神号は「高譲味道根之命」(たかゆずるうましみちねのみこと)。に当たる。儒学を奨励し、彰考館を設けて『大日本史』を編纂、水戸学の基礎をつくった。藩主時代には寺社改革や殉死の禁止、快風丸建造による蝦夷地(後の石狩国)の探検などを行った。また、後に『大日本史』と呼ばれる修史事業に着手し、古典研究や文化財の保存活動など数々の文化事業を行った。さらに、徳川一門の長老として、徳川綱吉期には幕政にも影響力を持った。同時代から言行録や伝記を通じて名君伝説が確立している。『大日本史』の編纂に必要な資料収集のために家臣を諸国に派遣したことや、隠居後に水戸藩領内を巡視した話などから諸国漫遊がイメージされたと思われるが、実際の光圀は日光、鎌倉、金沢八景、房総などしか訪れたことがなく、関東に隣接する勿来と熱海(新編鎌倉志参照)を除くと現在の関東地方の範囲から出た記録は無い。

寛永9年・1632年に水戸城に入城した。翌寛永10年11月・1633年に光圀は世子に決定、寛永13年・1636年に元服、将軍・家光からの偏諱を与えられて光国と改める。

明暦3年・1657年、駒込邸に史局を設置し、紀伝体の歴史書である『大日本史』の編纂作業に着手する。

寛文元年・1661年7月、父・頼房が水戸城で死去。風習であった家臣の殉死を禁ず。8月19日、幕府の上使を受け水戸藩28万石の第2代藩主となる。延宝7年・1679年頃、諱を光圀に改める。元禄3年(1690年)10月14日に幕府より隠居の許可がおり、養嗣子の綱條が水戸藩主を継ぐ。元禄4年・1691年5月、久慈郡新宿村西山に建設された隠居所(西山荘)に隠棲した。元禄12年暮れ疲労が人目に見えるようになる。から食欲不振が目立ち始める、幕府からの見舞の使者は西山から五里半の道を馬で水戸城行き迎えた。歩行は杖を突いてたどたどしかったが補助されるのを嫌った。 12月1日、列伝の原稿の文章を訂正した。2日、病床につく。3日、夜具の上に座り湯を二口飲み口をふきそれから呼吸がだんだん細くなり、元禄13年12月6日・1701年1月14日に食道癌のため死去。

(大日本史)他の編纂文書

『礼儀類典』 - 朝廷の恒例・臨時の朝儀・公事に関する記事を抽出・分類して部類分けした書。目録1巻、恒例230巻、臨時280巻、附図3巻の計514巻。

『万葉代匠記』 - 万葉集の注釈書。契沖著。元禄3年(1690年)完成(精撰本)。20巻。

『扶桑拾遺集』 - 序・跋・記・日記・紀行・賛などの仮名文313点をほぼ年代順・作者別におさめた書。30巻。

『草露貫珠』 - 中国の漢から明までの草書を法帖から抜き出して集録した草書字典。中村立節・岡谷義端編。元禄8年(1695年)成立。21巻・拾遺1巻。

『花押藪』 - 古記旧文についての諸家の花押を集めて姓名と事歴を記した書。丸山活堂編。7巻。同じく丸山活堂編『続花押藪』7巻もある。

『新編鎌倉志』 - 光圀が延宝元年(1673年)の鎌倉旅行をもとに、河井友水らに編纂させた地誌8巻。


72歳で死んだ人々 政治家・官僚

2019-01-13 11:01:58 | Weblog

阿部仲麻呂(文武天皇2年・698年~宝亀元年1月・770年)大和国に中務大輔・阿倍船守の長男として生まれる。奈良時代の遣唐留学生。姓(かばね)は朝臣。

霊亀3年・養老元年(717年)多治比県守が率いる第9次遣唐使に同行して唐の都・長安に留学する。唐の太学で学び科挙に合格し、玄宗に仕える。神亀2年・725年洛陽の司経局校書として任官、神亀5年・728年左拾遺、天平3年・731年左補闕と官職を重ねた。唐の朝廷で主に文学畑の役職を務めた為、『全唐詩』には彼に関する唐詩人の作品が現存している。天平5年・734年、儀王友に昇進。天平勝宝4年・752年、衛尉少卿に昇進。在唐35年を経過していた仲麻呂は清河らとともに、翌年秘書監・衛尉卿を授けられた上で帰国を図った。この時王維は「秘書晁監の日本国へ還るを送る」の別離の詩を詠んでいる。 しかし、仲麻呂や清河の乗船した第1船は暴風雨に遭って南方へ流される。このとき李白は彼が落命したという誤報を伝え聞き、「明月不歸沈碧海」の七言絶句「哭晁卿衡」を詠んで仲麻呂を悼んだ。実際には仲麻呂は死んでおらず船は以前平群広成らが流されたのとほぼ同じ漂流ルートをたどり、幸いにも唐の領内である安南の驩州(現・ベトナム中部ヴィン)に漂着した。結局、仲麻呂一行は天平勝宝7年(755年)には長安に帰着。この年、安禄山の乱が起こる。仲麻呂は帰国を断念して唐で再び官途に就き、天平宝字4年・760年には左散騎常侍(従三品)から鎮南都護・安南節度使(正三品)ベトナムに赴き総督を務める。天平宝字5年・761年から神護景雲元年・767年まで6年間ハノイの安南都護府に在任、天平神護2年・766年、安南節度使を授けられる。最後は潞州大都督(従二品)を贈られている。宝亀元年1月・770年死去。

仲麻呂の作品としては、「天の原 ふりさけみれば 春日なる 三笠の山に いでし月かも」が百人一首にも選ばれている。
『全唐詩』巻732には、仲麻呂が帰国時に作った五言排律「銜命還国作」を収録している(作者名は「朝衡」)。なお、この詩は、王維が朝衡(晁衡:仲麻呂)に贈った送別の詩 “送秘書晁監還日本國”へのお返しに作ったものと言われている。


72歳で死んだ人々 思想家

2019-01-09 01:21:41 | Weblog

柳宗悦(1889321日・明治22年~1961年)53日・昭和36年)

 

東京・麻布市兵衛町で、海軍少将・柳楢悦の三男として生まれる。は、民藝運動を起こした思想家、美学者、宗教哲学者。

 

旧制学習院高等科を卒業ごろから同人雑誌『白樺』に参加する。東京帝國大学哲学科(現在の大学院人文社会系研究科)に進学、 1913年(大正2年)、大学卒業。このころからウォルト・ホイットマンの「直観」を重視する思想に影響を受け、これが芸術と宗教に立脚する独特な柳思想の基礎となった。

 

1924年(大正13年)にはソウルに「朝鮮民族美術館」を設立、李朝時代の無名の職人によって作られた民衆の日用雑器の美を評価した。

 

1925年(大正14年)から「民藝」の言葉を用い、翌年、「日本民藝美術館設立趣意書」を発表した。1931年(昭和6年)には、雑誌『工藝』を創刊、民芸運動の機関紙として共鳴者を増やした。1934年(昭和9年)、民藝運動の活動母体となる日本民藝協会が設立される。1936年(昭和11年)、東京駒場に日本民藝館が開設、宗悦が初代館長となった。

 

67歳の時脳溢血で半身不随となる。長期療養で回復。1961年4月29日、日本民芸館で昼食後館員と談笑中に脳溢血でこん睡状態になり、5月3日死去。

 

著作

 

『柳宗悦全集 著作篇』 全22巻(25分冊)・『柳宗悦蒐集 民藝大鑑』全5巻・柳宗悦選集」 全10巻・「柳宗悦宗教選集」 全5巻・「私版本 柳宗悦集」 全6巻


72歳で死んだ人々 思想家

2019-01-08 02:03:24 | Weblog

アルトゥル・ショーペンハウエル(Arthur Schopenhauer)(1788年2月22日~ 1860年9月21日)

1788年、富裕な商人の父と女流作家の母(ヨハンナ・ショーペンハウアー)のもとダイツィヒで生まれる。ドイツの哲学者。

1806年に父が死去、1809年、ゲッティンゲン大学医学部に進学。ゴットロープ・エルンスト・シュルツェのもとで哲学を学び、のち哲学部へ転部する。ベルリン大学に移り、フィヒテの講義を受ける。1820年、ベルリン大学講師の地位を得る、1831年以降は、フランクフルトに隠棲。尊敬するカントと同様日常生活は完全に規律正しく健康に注意した。同地で余生を過ごす。7~8に起きて大きなスポンジで冷水摩擦、目を開けたまま顔を水につけて洗眼、自分でコーヒーをいれてベットで朝食、午前中は著作、町のレストランで昼食、帰宅後一時間午睡、読書、夕方に犬を連れて散歩、夜の8~9時町のレストランで冷たい肉料理と赤ワイン、帰宅後一時間ほど読書、就寝。1860年4月、昼食のレストランから帰る途中呼吸困難と心臓の異常な動悸を感じる。8月起床後心臓発作、9月上旬肺炎を起こすがすぐに回復。9月18日、起床後心臓発作。9月21日、いつものように冷水摩擦、ベットでコーヒーを飲む。往診の医者が訪れた時、ソファーに座って仰向けにして息絶えていた。

仏教精神そのものといえる思想と、インド哲学の精髄を明晰に語り尽くした思想家、本人は「仏陀、エックハルト、そして私は、本質的には同じことを教えている」と述べている。その哲学は多くの哲学者、芸術家、作家に重要な影響を与え、生の哲学、実存主義の先駆と見ることもできる。その哲学は現代思想においても受け継がれている。

主著は『充足理由律の四つの根拠について』Über die vierfache Wurzel des Satzes vom zureichenden Grunde (1813年)

『見ることと色とについて』 Über das Sehen und die Farben (1816)

意志と表象としての世界Die Welt als Wille und Vorstellung (正編・1819年) (続編・1844年)

『生理学的色彩論』 Theoria colorum physiologica (『見ることと色とについて』をラテン語でまとめたもの、1830年)

『自然のうちなる意志について』 Über den Willen in der Natur (1836年)

『倫理学の二大根本問題』 Die beiden Grundprobleme der Ethik (1841年)

『余録と補遺』 Parerga und Paralipomena (1851年)


72歳で死んだ人々 思想家 沢庵

2019-01-07 02:54:52 | Weblog

沢庵(天正元年12月1日・1573年12月24日~正保2年12月11日・1646年1月27日)

但馬国出石(現兵庫県豊岡市)に秋葉綱典(山名家重臣)の次男として生まれる。臨済宗の僧。大徳寺住持。諡は普光国師(300年忌にあたる昭和19年(1944年)に宣下)。号に東海・暮翁など。 書画・詩文に通じ、茶の湯(茶道)にも親しみ、また多くの墨跡を残している。

天正10年・1582年、10歳で出石の唱念寺で出家し春翁の法諱を得た。天正13年・1586年、同じく出石の宗鏡寺に入り、希先西堂に師事。秀喜と改名した。天正19年・1591年、希先が没した後、宗鏡寺・薫甫に師事することになった。文禄3年・1594年、薫甫が大徳寺住持となり上京したため、沢庵もこれに従い大徳寺に入った。大徳寺では三玄院の春屋宗園に師事し、宗彭と改名した。慶長4年・1599年、石田三成が居城佐和山城内亡母の供養のために瑞嶽寺という一寺を建立した際、薫甫を住職に任命、師である薫甫と共に沢庵も佐和山城に同行。関ヶ原の戦いの結果、佐和山城が陥落すると、薫甫と沢庵は共に城を脱出し、春屋のところに落ち延びた。この後、春屋と共に、処刑された三成の遺体を引き取った後、三玄院に葬り、手厚く弔っている。慶長6年、薫甫が亡くなった後、和泉国堺に出て、文西洞仁の門下に入った。文西が慶長8年・1603年に亡くなった後は南宗寺陽春庵の一凍紹滴に師事し、32歳になった慶長9年・1604年8月4日、遂に大悟し、沢庵の法号を得た。寛永4年・1627年、紫衣事件で出羽国に流罪となる。寛永16年赦されて江戸に萬松山東海寺を開く。正保2年12月11日・1646年1月27日、「夢」と書き遺誡を残した、「全身を埋めて、ただ土を覆うて去れ。経を読むことなかれ。斎を設くることなかれ。道俗の弔賦浮くることなかれ。衆僧、著衣喫飯平日のごとくせよ。塔を立て像を安置することなかれ。碑を立ことなかれ。・・・・・年譜を作ることなかれ」そして、死んだ。東海寺の僧たちは遺戒通りに埋葬し、ただその上に松の木一本を植えた。

同じ年の5月12日、宮本武蔵が死を迎えている。史実では沢庵と武蔵の接触の記録はない。吉川英治は沢庵と武蔵の出会いは自身の創作と明言している。

一般的に沢庵漬けの考案者と言われているが、これについては諸説ある。


72歳で死んだ人々

2019-01-06 06:58:30 | Weblog

山田風太郎 人間臨終図鑑

思想家

孔子(紀元前552年9月28日~紀元前479年3月9日)中国・周・春秋時代・魯国平郷辺境の陬邑生まれ。氏:孔、諱・丘、字・仲尼。思想家・哲学者・儒家の始祖。

紀元前525年魯に仕官。紀元前518年初めて弟子をとる、周都洛陽へ遊学。紀元前517年魯に戻る。紀元前502年魯から斉へ追放される。宋、晋を転々とする。紀元前501年晋定公に中都の宰に取り立てられる。紀元前500年大司寇に就任。紀元前497年官を辞し弟子とともに諸国巡遊の旅に出る。紀元前484年魯に帰国。

『礼記』

「泰山もやはり崩れるだろう

 橋の横木も腐り落ちるだろう

 鉄人だって病んで死ぬ日が来るだろう」

と言い寝付いて七日目に老衰で死去。