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カッパ・ど・ピア

劇団暁座のこと、私のことをたくさん書きます。

そのひとを知る 2

2005-06-21 15:29:31 | 回想
不思議と名前だけは頭にのこっていた。筋ジストロフィーの難波紘一さん。その人の生活や思いをもっともっと知りたいと思い著書も購入した。
そして、翌年の講演は田原米子さんという方だった。田原さんは高校三年生の時、電車の来るホームに飛び込み自殺をしようとしたのだ。幸い一命は取りとめたが、手足に障害を負うことになってしまった。足と手の指の切断により不自由な生活を送ることとなった。片腕の3本の指を残し切断されてしまった。「なんで自分だけが不幸なの」というマイナスな考えから「自分にはまだ3本の指がある」と変わっていった話などを聞いた。田原さんは伝道師の旦那様と出会い明るく前向きに生きていると話した。残された3本の指を皆に見せながら力強く講演していた。私は出来ることなら自分の手なんて誰にも見せたくはないし、何で自分だけが不幸なのかと考えていたので、かなり衝撃的だった。講演が終わって控え室で、たまたま田原さんにお会いできた。「大丈夫よ。あなたには10本指があるじゃない。」そんなふうに声をかけてもらえた。
田原さんは、たくさんの学校などで講演をしていたらしい。障害者の方を勇気づけ若者の悩みや相談を聞き、たくさんの勇気を与え続けていたと報じられていた。
そして、今年4月に67歳で昇天したことを先ほど知った。


うらみます

2005-06-15 19:16:20 | 回想
先生から聞いた本のタイトル「佐川君からの手紙」で唐十郎の著書を調べた。何件か本屋を渡り歩いて探しだし、購入した。そして、「霧の中」はすでに絶版になっていたらしく手に入れるまでに1年近くかかった。あまりにも私の中で衝撃的なストーリーに感じ、どうしても読んでみたかったのだ。そこには、フィクションにしか思えないくらいかけ離れた世界があった。私には、リアルでなかった。
そして、もう一つ国語の授業での衝撃的な出来事があった。授業で聴いた中島みゆきの「うらみます」。学校の授業で音楽鑑賞と言えばクラッシックとかであろう。この「うらみます」が他の何よりも印象に残った。教室でラジカセから流れる曲を聴きながら、一回目のうらみますはどんな気持ちで誰に言っているのかとか。その背後のストーリーをつくるといったような授業だった。
この状況がすごい!!
その曲をはじめて聴いた私は、ゾクゾクした。実は、高校生活に対してこの感覚がマッチしていたかもしれない。うらみつらみなんて、人はあまり表には出さない感情のはずだ。しかし、めいいっぱい訴えていると気持ちがいい。そんな気持ちが自由に操れたなら、女優になれるのだろう。



人を食う?!

2005-06-14 17:16:07 | 回想
現在劇団を主宰している私が、こんなにも演劇の世界にはまるきっかけになったのはやはり高校時代に演劇部の公演を観てからである。
運動部のようなハードな稽古にはついていけないのと、自分に対しての自信をすべてなくしていた高校生活であったため消極的な応援をするしか術がなかった。
時折、演劇部の顧問の先生を訪ねては戯曲の話を聞いたりした。
ピチピチの女子高生達が演じる演劇の中で流れる音楽の選曲はものすごく重く暗い物が多かった。
そんな暗さがまたいいと思った。
ある日、唐十郎の著書「佐川君からの手紙」の話を聞いた。そしてその佐川君が書いた「霧の中」という本の話も話題に出た。フィクションではない、ある意味演劇的な衝撃を受けた本であった。
人が人を食べる・・・タイムリーでは知らなかったニュースであった。同時に唐十郎という人物にも興味をもった。『唐組』の芝居が観たいと思った。
高校生活にうんざりして、逃げ出したくてたまらない。あと何日で卒業だ。なんて数えていた自分は、本当にどん底なのか?人が人を食ってしまうことを考えたらちょっと勇気がわいてきていた。

第二ボタン

2005-06-13 15:32:26 | 回想
嫌がらせ電話があってから、強気になっていた。障害者という言葉をことごとく聞かされたからであろうか?障害者であることで何でそんなふうに言われなければならないのか。あまり言われなれていなかった言葉で、傷つけられた。
そういえば、最初にその言葉によるダメージを受けたのは、中学三年生の時だった。卒業式を迎える前になると女の子達は好きな男子生徒の学生服の第二ボタンをもらうため告白したりしていた。私も気になる男の子がいた。友達同士で盛り上がり、私も第二ボタンが欲しいと思った。卒業式の後、友達が仲介に入ってくれ、第二ボタンを送ってもらえる事になった。中学生活のいい思い出になる予定だった。数日後郵便で届けられた封筒の中にはボタンと紙切れが入っていた。
障害者・・・禁句。ほかに何が書いてあったかは覚えていない。
私の中で、大嫌いな言葉となった。
心なしか私は皆と同じ事を望んではいけないのだと思ってしまった。
しかし、そんなダメージも二度目ともなると人間はうたれづよくものなのだろうか?


「障害者」は差別?

2005-06-09 18:55:05 | 回想
障害者という言葉を使うのは差別である。といった意見をよく聞く。そしてまた、差別用語というものも存在する。相手を故意に傷付けようとして発せられた言葉の方がよほどひどいと思う。
はげていない人に対し、はげといっても傷つかないがはげにはげと言ったらはげは怒るぞっ。とたとえとして言ったりするが、障害者に障害者と言ったら怒るのか?怒れればまだいい。実際は何も言い返せないのではないか。絶句してしまうと思う。この言葉によって傷つくか、怒るか、それはその状況による。今回の嫌がらせ電話のような状況では、紛れもなく傷つける為に発したに違いない。
いわば最上級の嫌がらせであった。おそらく、面と向かっては言えないのだろう。
もし、目の前で私に向かって同じ様に「ショウガイシャハデテイケ」と言えるのだろうか?
差別として言い放ったのではなく、私自信をめがけてぶつける手段として、障害者という言葉を使ったのであろう。

いやな電話 3

2005-06-08 19:58:19 | 回想
留守番電話は一方的にしゃべり続ける。毎日のようにかかってきているし、犯人がだいたい想像できたので、放って置いた。この人にとって障害者である私に対し何を言おうとしているのか考えてみた。もしかしたら、障害者ということをいったらものすごく私が傷つくと思ったのだと思う。私はものすごく傷ついた。言葉ではなく、その行為にだ。
4ヶ月前に最愛の人を亡くした私を励まそうと企画してくれた誕生日パーティーで知り合った人からのいやがらせ電話であったからだ。
私に最愛の人がいたこと、私を励ましてくれる友達がいたこと、すべてのことがうらやましかったのかもしれない。
電話が鳴り受話器をとった「オトコグルイ。ショウガイシャハデテイケ」異様な声が繰り返される。実際の電話にでてしまったのだ。
私は、ゆっくりと「そんなことをして、悲しくなりませんか?」と問いかけた。
沈黙が続き電話は切れた。
ぞっとする思いと怖さで手が震えた。
それ以来電話はかかってこなかった。

いやな電話 2

2005-06-07 19:15:04 | 回想
ちょうど一週間ほど前の日曜日にボランティアグループの仲間とその知り合い8人で集まって、私の誕生日パーティをしてもらった。そのメンバーの中に、怪しい人はいた!
そういえば、おもちゃのボイスチェンジャーみたいな物を持っていた。考えれば考えるほど怪しく思う。初対面だったのであまり話もしなかったが、みんなが私の誕生日パーティーをしてくれることをとてもうらやんでいた。
友達に電話で確認してみると、私が怪しいと思っている人は、つい最近仕事をやめてしまったらしい。すごい、透視が当たっている。だからといって確信はない。
みんなでまたご飯を食べに行くことになった。その中に怪しいやつがいた。
私は友達と打ち合わせてその食事に参加した。「最近、変な電話がかかってくるんだよね。どう思う?」なんて聞いてみた。相手の反応をみつつ、探りを入れた。
知らん顔をしていたが、反応が妙に不自然である。
さすがに、その日は留守電の録音はなかった。
「ショウガイシャハデテイケ」という録音内容が全く理解できない。しかも永遠に入っているのだから気分が悪い。そんな時はどうしたらいいんだろう。

いやな電話 1

2005-06-06 14:38:31 | 回想
家に帰ると、留守番電話のランプが点滅していた。
いつものように留守ボタンを押して用件を確認する。留守3件です。
「☆○△××◇・・」用件が聞き取れなかった。電話の前に座ってもう一度、聞きなおした。
「オトコグルイーーッ。ショウガイシャハデテイケーー。」繰り返し入っていた。しかもボイスチェンジャーを使って声を変えていたのだ。ぞっとした。なぜなら私の名指しで入っていたのだ。
こんな電話は初めてだった。一人暮らしの心細さが倍増した。
男に狂うほどの覚えもなく、ただただ唖然とするばかりだった。そんな留守番電話が一週間ほど続いた。内容はやはり変わらず「ショウガイシャハデテイケー!!カタワハデテイケー。」まるでシュプレヒコールのようにいい続けていた。
知り合いのちょっと特殊能力をもったお姉さんに相談したところ、電話の相手を分析してくれた。中年の男性で、今仕事のことで悩んでいる人だと思うとのことだった。
あっ、ちょっと心当たりがあった。早速次なる作戦にかけてみた。
それよりも私は、カタワという言葉の意味を知らなかった。

女優志願

2005-06-03 13:52:00 | 回想
そこで待っていたのは、ロングヘアの女の子だった。「あっ、なーんだ、チョウサン」中学の時の友達である。中学の時はいつもショートカットでボーイッシュな感じであった友達はイメージがすっかり変わっていた。が、私達だけで呼び合っていたあだ名で呼び出ししてしまうセンスは全く変わっていなかった。ちなみに私は「ゴン」と呼ばれていた。チョウサンと一緒に演劇部の公演を観にいくことにした。私の高校の演劇部は全国大会に出場し、かなりレベルが高かったらしい。新しい校舎の地下には演劇部専用といっていいくらいの立派なホールが作られた。このバザーの日には他校の生徒が演劇部の公演を観るためにつめかけていた。「銀河鉄道の夜」の公演だ。全員女性だとわかっていてもかっこいいと思う。カンパネルラやジョバンニ役なんて宝塚の役者みたい。鍛え抜かれた発声は、ホール中に響いた。うらやましかった。
人前で話すことが苦手なのに、人前に立ちたいと思うなんて変な私だ。
美術部では、壊れかけた風車が1つだけ売れ残った。部室のイーゼルに飾っておこう。バザーが終わり、また平凡な学校生活に戻る。

かざぐるま屋

2005-06-02 16:25:54 | 回想
私が通った高校では、年に一度バザーがあった。いわゆる文化祭というか学園祭みたいな物だ。やはり目玉は、生徒が家から持ち寄った家庭雑貨の販売である。地域に住む人たちがこぞって買いに来る。そして、生徒達のクラスごとの出し物や部活動ごとの出し物がある。クラスのみんなと協力しあうことにためらいがあった私は、部活動に所属していて本当に良かったと思う。美術部ではなぜか手作りの風車を販売するのが伝統だった。バザー一ヶ月前くらいから、紙に和紙を貼り付けて加工し竹の棒に針金を通して風車を100本くらい作るのだ。デザインもさることながら、回り具合がいい物を作らなければいけない。美術部は当日風車だけ売っていればいいのかというとそうではない。お客さんの似顔絵を無料で描くのも出し物なのである。私はなんとしても似顔絵は描きたくなかった。いくらただでもへたくそな似顔絵は最悪だろう。そう思うと描けない。
バザー当日はかなりの人が集まる。用意した風車もほとんど完売してしまう。
もう一つの所属のアニメ部では、自作のセル画が展示されていた。周りの作品がすばらしすぎて私の作品もそれなりにうまく見えてしまうのが不思議だ。
校内放送が繰り返し流れる。「美術部のカネコさん、チョウさんがお待ちです。」
あれ、私だ。チョウさんってだれ?中国の人だったらどうしよう。中国語しゃべれないし・・・。全く見当がつかないが、私が呼び出されていることは間違いないようだ。中庭まで急いで向った。