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カッパ・ど・ピア

劇団暁座のこと、私のことをたくさん書きます。

はい、チーズ!!

2005-07-07 18:30:48 | 回想
自分の夢はどこへ行ってしまったのだろうか?やりたいことはなんだったのか。
あまりにも早い時間の流れに押し流された。
上京が決まってから卒業まではあっという間であった。私が、上京することはクラスの中や友達の中でもちょっとビックリのネタであった。
いやで、いやでしかたがなかった高校生活も終わりに近づきホッとしていた。
振り返ってみると、楽しかった思い出もあるにはあった。2年になるときにクラス換えがあり、凸凹コンビの友人と出会った。彼女は職員室のお供に、いつも一緒だった。そして、修学旅行の時も10人の班行動をしなければいけないときでも、凸凹コンビで外れるのであった。
京都、奈良、広島への旅行だった。京都の町には、風情のある立派な公衆トイレがあった。その前で記念に一枚写真を撮った。けっこうやみつきになった。そんなわけで、修学旅行のアルバムにはトイレの前での写真が多かった。女子高生なのに・・・
広島城の中の展示物に、なぜかオオサンショウオがいた。あまりのギャップに友達と名前をつけることにした。ハイグレードに『ぴーちゃん』と勝手に名づけた。やっぱり怪しい物を発見するとその前で写真を撮りたくなるのは人間の習性であるに違いない。
写真を撮った。すると写るはずのないものが写っていた!!
女子高生活の忘れられない思い出がこういったことなのだろうか、不満もあるが現実を見ることにする。



福祉ブーム到来

2005-07-06 14:16:17 | 回想
合格発表の当日、約束どおり電話が鳴った。友達は合格していたようだが、私は桜散る。
正直それほどのショックはなかった。しかし、東京での一人暮らしをあきらめるわけにも行かず、
次なるターゲットを探す。そうは言っても、何をやりたいという明確な目標もなく、とりあえず専門学校でどうだろうか?社会福祉系であれば問題ない。安易に決めていた。事前のリサーチもしないまま、願書を送った。不思議なことにほんとにその年は社会福祉ブームであったのだろうか。例年にないくらい社会福祉学科に人気が殺到していた。すでに募集人数を超えいてた。
そして、行き着いたところはその専門学校の系列の児童教育の専門学校であった。
児童文学や童話創作を専攻した。作文の審査だけであったので、入学許可は何とかおりた。
そして後は、入学式を待つばかり。
その前に965日も待ち続けた高校の卒業式だ。
友達は大体地元の短大や専門学校に進学した。


学生寮

2005-07-05 18:03:41 | 回想
東京の大学を受験することが、とんとん拍子に決まった。
推薦での受験なのでかなり早い時期の試験であった。慌てて勉強をはじめたがあまり成果は期待できない。
すでに、高校生活がいやでいやでたまらなかった事など忘れていた。
新たな東京での一人暮らし、キャンパスライフを夢見ていたのであった。
願書を書き郵送する。大学の敷地内に寮があり、地方からの受験者は試験の前日に宿泊できた。
私を含めて数人ではあったが寮には受験生が宿泊していた。大学までは東京で暮らしていたいとこが一緒に着いてきてくれた。試験の前日なんて勉強とかする気になれなかった。
2人部屋で同室になった子とあいさつを交わした。一言二言がなんと、盛り上がりすぎてしまった。彼女も大の米米クラブファンだったのだ。遅くまで話にはながさいてしまった。
おかげで緊張も和らいだ。試験当日、思った以上の受験生の数にビックリ仰天。受験した大学は国内で一番小さな大学である。にもかかわらず推薦入試を受験した人数は過去最多だった。
試験終了後、その友達になった彼女が合格発表を見に来るので結果を知らせてくれるということになった。後は結果を待つばかりだ。

もしも、私が家を借りるなら

2005-07-04 15:50:09 | 回想
高校3年の夏休みが過ぎると、クラス中が受験モードに切り替わる。とりあえず、進学したいと考えた。心理学に興味をもった。それは、カウンセラーになりたいと思っていたからである。特に福祉心理学というジャンルにひかれていた。大学受験になるのか?しかし、私の成績では不可能であろう。まさにこの時代、社会福祉と名のつく学科は例年になく倍率が上がっていた。
私なりには、考えていた。高校を卒業したら家を出て一人暮らしをしなさい、と母親に言われていた。ということは地方の学校でもいいわけだ。大学の赤本を読みながら、アパート情報誌を見ていた。バカである。それよりも何よりも勉強しなければ受験だって出来やしないということに気がついていないのか。2DKでお風呂とトイレが別、ロフトもついてる。家賃高いなあ・・・。ほんとにほんとにあほでした。部屋を考えるよりも受験が先だ。
結局、大学受験というものは偏差値で決まるものであるので、ジタバタしても仕方がなかったのだった。大学受験は半ばあきらめていた。
しかし、推薦で大学を受けることになった。しかも、東京の大学である。

道をはずした。

2005-07-01 20:03:33 | 回想
免許取得の1週間前には、新車のシビックが届いていた。私には大きいと思いながらも、大満足である。父親を助手席に乗せてちょっとドライブ。右折が怖いよー。でも平気、一本道をどんどん進み、山へ向った。通常は車で30分ほどの道のりを1時間かけて進んだ。目的は、おばさんの家だ。目的なく走るより目的があったほうがいいと思い、おばさんの家に行くことにした。
いつもは、バスに乗りよく遊びに行っていた。道はだいたいわかっている。ほんとに一本道なのだ。ずっと坂道の為、アクセルをかなり強く踏まないとスピードがでない。追い越されながらも、必死で運転した。
帰りに、おばさんが庭まで見送りに出てくれた。庭から坂を下って目の前が、中学校の野球のグランドがある。その手前を曲がって県道にでる。はずだった・・・
車が思うように進まなくなってしまった。えっ、車が傾いているよ。どうしてだ?左後ろのタイヤが雑草に埋もれていた。なんと、雑草に隠れて溝があったのだ!
しばらくじたばたしていると、目の前のグランドで野球をしていた中学生と先生らしき人がやってきて、車を持ち上げてくれました。ほんとに感謝感謝でした。でも、ちょっぴり恥ずかしくてそそくさと帰りました。

はばたいていきます。教官!

2005-06-29 18:47:29 | 回想
ハンドルを握る手に汗をかきながら、真剣に運転をしていた。信号待ちで停車する時は、カックンとなる。慣れればスムーズに止まれるのかと思った。ふと、隣に座る教官をみるとウトウトと居眠りしていたのだ。これはなんと恐ろしいことだ。私の運転で助手席で居眠りできるなんてただものでない。でも、起きてもらわないと非常に困る。「あのーぉ、すいません。」問いかけると、教官はあわてて起きた。そのあとなんだか気まずい雰囲気が漂うのであった。
少しずつオーバーしながらも何とか仮免までとれた。在学中には運転しないという条件で、教習所に通い始めたのであまり練習も出来なかった。それでも何とか期間内に本試験までこぎつけた。初めて試験場に行った時、試験に必要な書類を持っていくのを忘れて試験を受けれなかった。
そんなハプニングがあり、予定よりも免許を取得するのが遅くなった。取得さえ出来ればあとは運転の腕を磨くのみだ。

のろまな亀です。

2005-06-28 14:51:24 | 回想
私はしっかりハンドルを持っているつもりなのに、もっているだけじゃダメならしい。握らないとだめみたい。小さな手だけど左手でしっかり持っている。だが、右手はハンドルに乗せているだけのようだ。結局ハンドルに滑車?!を付けて基本的には左手でそれを握りハンドル操作することを進められた。なんかかき氷機みたいでいやだった。
バックさせる時、たまに片手の平でハンドルを回す人がいる、そんな姿はゾクゾクしちゃうけど、私が片手で滑車を使って運転している様子はかっこいいものではない。
初めて路上に出た時は、周りの車の速さにビックリした。自分ではスピード出しすぎかなと思っても、最低速度よりもゆっくりの私の車はどんどん追い抜かれている。斜線変更なんて怖くてできなかった。それでも教官の言うことを真剣に聞きながら、運転に集中した。路上も少し慣れてくると、周囲の状況も見れるようになってくる。私の習った教官は3人いた。友達の親戚の人と、もう少し若い教官だった。教官もいろいろな話を話しかけてくる。どんな音楽を聴くのとか、テレビの話やなんかを話しかける。真剣に答えていると、途中「ここを右折ね。」とか急に教官に戻る。
肩に力が入りすぎずに運転できると言うメリットはあった。
でもあるとき・・・ちょっとびっくり!!

教官!!

2005-06-27 17:24:04 | 回想
高校三年生で車の免許を取りに行くことになった。友達の親戚の人が教習所の教官をしていたのがきっかけであった。いずれは車の免許も取りたいと思っていたが高校で教習所へ通うとは思っていなかった。教習所に通うのは放課後塾に通うのと同じ感覚であった。授業を終えて家に帰り、教習所の迎えの車が来るところで待った。家から車で20分くらいのところに教習所はあった。
学校がおわってからだったので、かなりねむい。最初はほとんどビデオを見る講義ばっかりなのでしかたがない。私は結局オートマチック車の限定免許を取ることになっていた。当時はオートマチック車が出始めたばかりだったので、現在のような限定免許はなかった。わりと小柄な私は、運転席に座ると前が全く見えない。子供がおもちゃの車に乗りハンドルにしがみついているといった感じであった。そのため座布団とクッションを持参して、下に敷いて運転した。その姿はかなりこっけいだったに違いない。腕もまっすぐ伸びない為、ハンドルとの距離はかなり近いのである。初めてエンジンをかけたときなんてかなり感動した。オートマ車だから比較的ギアの扱いも楽だったはずであるが、スムーズにはいかない。めちゃくちゃスローなおもちゃの車は乗れるが、遊園地のゴーカートも乗ったことがないのだからしかたない。もっと言ってしまえば、自転車も乗れるがかっこよくは乗れない。後方確認やらミラーでの確認だけで頭が痛くなるくらい肩がこる。何しろ教習者は大きいから、私にとってはトラックを運転しているようなものだ。敷地内の坂道発進やらS字クランクは何とか出来た。問題は路上に出た時なのだ!

講演

2005-06-23 19:08:48 | 回想
全くおかしなことに、全校生徒が聞く講演で、私も話をした。学年ごとに代表で全校生徒の前で話をするのだ。クリスチャンの生徒が自分の信仰の証として話していた。私は精神的に一番不安定な時期ではあったが、まるで、自分の障害を含めすべてを受け止めて自信に満ちた生活を送っているかのように語っていた。代表でそんな話をしたことで、またクラスの中で友達との距離が開いてしまった様な気がした。私自身の苦しみや悩みは自分にしか分からない、と思いながらもがんばる障害者を切切と語った。というよりもがんばれば私も何でもできると信じていた。すべては高校を卒業することからだ。


さるだって

2005-06-22 19:35:59 | 回想
クリスチャンスクールの高校だったため、やはりクリスチャン系の講師が多かった。前に述べた二人の講師もそうである。そのあと実は、もっと感動し共感できた物があった。
それは、やはり全校生徒でみた映画鑑賞の映画だった。主役は、野生のニホンザル。片腕を事故による切断にって失くしてしまったが、野生として力強く生き抜いていく姿が映し出された映画であった。動物映画が大好き、がんばる障害者が大好きの私にとってすごく興味のある映画であった。
片腕がないニホンザルは過酷な試練に打ち勝っていった。そのシーンを見ているとせつなくもあり、心強くもあった。野生の厳しい環境で、くじけず生き抜こうとしているサルの姿を目に焼きついた私の目からは、涙があふれていた。切なくてたまらなかった。野生で生きていく中で、ハンディキャップがあることは人間よりもはるかに過酷なことである。
高校時代に聞いた講義、見た映画はこれから先の私にエールを送ってくれていた。