花洛転合咄

畿内近辺の徘徊情報・裏話その他です。

大坂城のすまんだを歩く。

2012年10月09日 | 徘徊情報・浪花
 本日の出発は京阪電車の天満橋駅から、この近くで、高校の時の先生がお仲間と木版画の作品展をしておられるので、見に行きます。平生、音楽や美術に縁のない小生は、こういう外出は本当に久しぶりです。この先生は、数学の先生ですから、高校の時の成績を以てすれば、赤点王であった小生は不肖の弟子どころではなく、「どなたはん?」と言われても仕方がないのですが、受付のところで温かく迎えていただき、色々と説明をしてもらいました。会場でも言いましたが、先生の作品が一番素晴らしかったですよ。



 さて、会場を出ると、ここならばやはり大坂城ですね。このところのゴタゴタで支那人の数も少ないだろうし、これはチャンスやなあというところです。城に向かうと先ず見えてきたのは「乾櫓(いぬいやぐら)」、待っとれよー、すぐそばに行くからなあ。



 近くに「大手前高地区配水喞筒場」、「喞筒」とはポンプのことだそうです。これも近代化遺産としては相当なものだ(今も現役ですが)と思いますが、道行く人は殆ど目を向けない感じです。



 さらに進むと千貫櫓、これは一般公開の時に中に入ったことがあります。これらの櫓はいずれも大坂夏の陣の後に徳川氏によって再建された大阪城の遺構です。



 多聞櫓の槍落とし、狭い方の長方形、今は蓋がしてありますが、これが開いて、ここから槍や熱湯が落とせるようになっています。



 西の丸庭園に入りました。この広場のところには大坂城代の屋敷がありました。幕府にあってはかなりの高官です。一時期、江戸時代の大坂には武士はいなかったみたいな議論が為されたことがありましたが、明らかに間違いです。



 そして、先ほどは堀の外から見た乾櫓へ。今日は厳重に閉まった状態。ここも時々は公開しているようです。



 今日は支那人はいないはず、と思っていたら天守閣から支那語のアナウンス、こりゃ!支那人、日本人の寛容の精神を良く学んで帰れよ。ヤツラは何かと侵略、侵略と叫びますが、当時の支那人にとって最大の脅威は支那そのものの軍隊でした。南京云々も国民党軍がやった蛮行が多く日本軍のせいにされています。八路軍の綱紀が厳正?笑わしてはいけない。今日の中国共産党幹部の腐敗を見よと申す処。
 今回のデモでも彼らのレベルの低さが良く学べましたね。もうそろそろ、日本人は支那人や韓国人の言う「歴史」とやらを聞く時には眉に唾をつけながら聞くということを学ぶべきです。けれども一番悪いのは、そういう嘘に乗っかる日本人、社民党や共産党の連中です。



 さらに進めば坤櫓(ひつじさるやぐら)跡、乾櫓からこの櫓までの石垣の上には白壁が築かれていました。


坤櫓跡

 石垣に近寄れば、千貫櫓・多聞櫓がこのように見えます。



 さらに乾櫓の近くに戻ります。壁がボコッと出っ張っているところは、槍落としです。石垣を登ってくる敵には槍よりも煮えたぎった油などが効果的でしょう。けどまかり間違うと、自分で自分の居場所に火を付けることにもなる。


乾櫓


同じく乾櫓

 休憩所付近を歩いていると、やたらに超望遠のカメラを下げたオッサン(ときにオバハン)を見かけます。城の壁のシミでも撮るのかなと思っていたら、「鳥」だそうです。鳴いてるのはカラスが多いので「カラスですかあ?」と間抜けな質問をしたら、今はちょうど渡りの季節で名前は忘れましたが「~ヒタキ」などが多く見られるそうです。それにしても千ミリの望遠だと対象を捉えるだけで一仕事です。この二の丸庭園が一番目立ちましたが、こういった善男善女は城中至る所で活動中でした。



 そういう人たちからは一顧だにされていませんが、「すごいなあ!」と思うのは「煙硝蔵」、火気厳禁です。





 西の丸庭園は通り抜けができませんので、再び入り口に戻ってきて、本丸方面には行かないで東に向かえば、六番櫓。一番から七番まであったそうですが、現在は一番と六番のみが残っています。



 豊國神社の前に近衛歩兵聯隊の碑、神社の中、ここにはだれもけえへんでというところに大坂毛斯倫同盟會會員碑、おやおや何か毛斯倫と御縁ができましたね。名簿を見ていると、今日我々が知っている伊藤忠とか伊藤萬以外に「伊藤~」という会社がたくさんあったことに気付きます。


近衛歩兵第二聯隊碑


大坂毛斯倫同盟會會員碑


何か忘れた記功碑・徘徊にはメモ帳も必要

 豊國神社を抜けると一番櫓、今日は武道場で中学生の柔道の大会が開かれているのですが、行儀は今ひとつのようで、コンビニ弁当のゴミクズなども散乱しています。全てがこの関係者とはいいませんが、明らかに試合の関係者が捨てているのもありました。ゴミ箱が近くに見あたらないのも原因です。オリンピックなんかどうでもいいから、心を鍛えねば。




一番櫓槍落とし

 玉造口へは向かわずに北進します。蓮如の松は豊臣氏以前、この地に石山本願寺があった名残です。残念ながら松は切り株の跡を残すのみです。その横に名号碑。




蓮如上人名号碑

 青屋門へと下がっていく坂は江戸時代には石段になっていたようで「雁木坂」の名が残ります。


雁木坂

 青屋門は、場内の遺構を示す建物の中では最も新しく、1949年の再建。ちなみに天守閣の再建は1931年、満州事変の年です。



 青屋門から西に向かえば、伏見櫓跡。極楽橋から本丸に入れますが、このまま二の丸を巡ります。


伏見櫓跡

 ぐるーと回って、旧陸上自衛隊大阪地方連絡部の赤煉瓦が見えてきました。戦前は勿論陸軍の施設です。



 京橋口の門跡を眺めてさらに二の丸を進もうとしましたが、先ほどの二の丸庭園の壁に遮られました。外に出るのもシャクなので、極楽橋まで戻って本丸に入ります。


京橋口門跡

 極楽橋から入ってすぐに残石広場、ここまで来て石垣に慣れなかったとなると「残念石」が表現としてはいいかも知れません。一番手前の石は細川氏の刻印が記されています。まあ、子どもらには格好の遊び場です。



 その広場と道を隔てて豊臣秀頼自刃地の碑、ここいらが山里郭だったのですね。といっても、徳川氏は豊臣氏の大阪城の上に徹底的に土盛りをして城を再建しましたから、地下7メートルぐらいにもぐれば、秀頼や淀殿の血の跡も見られるというところです。



 さすがに天守周辺は人だらけ、予想に反して支那人だらけです。まあ、この連中に思いきり親切にして支那に帰してやれば、蛮族にも多少は教化が及ぶというものです。また大音量で音楽を流すパフォーマー(こやつは日本人?・恥、許可する市もあほぢゃ!)などもいて、静かに歴史を懐古する雰囲気ではありません。まあ大坂城が大阪城である以上仕方のないことなのかも知れませんが。ちょっと外れて金蔵あたりになると格段に人は少なくなります。金蔵はただ今お色直し中。



 速攻で三の丸を抜けて、最初に入った大手門に戻ってきました。大坂城は今は建物の殆どが失われています。堀の石垣上の銃眼もむき出しになっていますが、本来は石垣の上は櫓や壁に覆われていました。従って、石垣上の銃眼も次のようになっていたわけです。



 これを外から見ると、壁にも円い穴が開けられていて、石垣と壁の境にある銃眼も合わせて、二段構成の防御になっていたことがわかります。



 改めて乾櫓を眺めると、「やっぱり堅城ぢゃ!」と感心させられます。戊辰の役の折、徳川慶喜が江戸に逃げて帰らず、ここで薩長を迎え撃っていれば日本陸戦史に残る攻防戦が見られたかも知れません。将軍退城後の失火、多くの櫓が失われたところを見ると失火ではなく、明らかに放火、そのままでは薩長に渡さぬぞというところだったのでしょうが、浅はかなことをしました。


もう一度乾櫓

 うひょうひょうひょ、「島らっきょうぢゃー、するめの天麩羅ぢゃー。」とここから京橋まで歩きましたが、考えてみたら「やまげん」の開店まで未だ1時間半あります。結局、その1時間半が我慢できず、「くれおーる」でたこ焼きを食べてしまった。勿論生中も。



6 コメント

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大阪のシンボル (ささ舟)
2012-10-10 12:00:11
こんにちは~、大阪に行けば「大阪城見えるかな」ときょろきょろしてしまいます。大阪城天守閣にはじめて上がったのは、鳴尾の大学に行っていた娘とここで待ち合わせたときですから約30年前になります。その後、お城の前に住む青年の頼まれ仲人を天守閣が目の前に見えるホテルで行ないました。いままで梅林など数回訪れましたが未だに一周したことがないのです。とにかく広いから・・・坤櫓(ひつじさるやぐら)って未申方向にあるのでしょうか?また千貫櫓や多聞櫓など、秀吉らしい名前ですね。それとも徳川大阪城になってからの名称でしょうか?花木を見るだけの散策ではダメですね。次の機会があればこちらのブログを思い出しましょう。
京阪京橋の”大阪いったらよらなあかん”「くくる」のたこ焼き美味しかったです。
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名称は (gunkanatago)
2012-10-10 14:00:00
 ささ舟様、コメントをありがとうございます。京阪京橋駅構内の「くくる」のたこ焼きもおいしいですね。あそこは5時からはささやかな居酒屋に変身します。
 坤櫓はおっしゃっておられるように城の未申(南西)部に位置することから付けられています。多聞櫓は固有名詞でもあり普通名詞でもあるようで、多くの城が大手からの侵入者を防ぐために設けている施設で、確か松永久秀の多聞山城を嚆矢とすると聞いたことがあります。
 その他の櫓の命名は江戸幕府の役人でしょうね。とにかく秀吉の跡を徹底的に消し去りたかったようですから。11月3日・4日と今年も千貫櫓と多聞櫓を公開するみたいです。
 梅の季節だと梅林だけで十分堪能しますね。また、大阪城を企画した時は御一緒下さい。
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大阪城は飽きない (mfujino)
2012-10-10 21:27:12
gunkanatagoさん、大阪城は飽きまへんなあ。この春、師匠にご一緒させて頂いて八軒浜から空堀方面、難波宮跡界隈と今の城外から始まり、石垣のあちこち等を見て回り、まさに大阪城を一周したのを思い出しました。
この城を見て、これが太閤さんが作った城や、と思いがちですが、今の姿は江戸幕府が莫大な盛り土で作り替えたもの。そういう意味では石山本願寺の跡を探すのも地中を掘り返さないと駄目で諦めざるをえませんよね。発掘調査で本願寺の何かが出てきたというニュースは聞いたことがないのですがどうなんでしょう?しかし大手前まで足を運んだときに見せて頂いた豊臣時代の城壁の名残は感激ものでした。夏の陣で天守に徳川の大砲が飛んで来て淀の方が震え上がったと聞きますが、今のコンクリート造りの天守を見ていたら駄目ですが、丸岡城のあの木造の天守に登ってみると、昔の木造の作りだったら、と想像すると大砲の破壊力を実感出来る様な気がします。

堀を埋められたらあれだけの大きかった城も難攻不落ではなくなった。家康も老獪で、大阪方の内部崩壊作り出すべき政治力を発揮しました。今の世をみるにつけ、家康軍がかの帝国主義国家の本性丸出しの支那にダブって見えてきますね。従軍慰安婦問題を作り上げた福島瑞穂ちゃんや朝日新聞はその問題を指摘されてのらりくらりと逃げ回る一方で社会の悪だとか追求する発言をして記事を書いている。軍事力でなくこういった輩によって日本が自壊していくのではないでしょうかね。スイスへ行けば独立国家の苦労も分かるというものですが、まあきれいな景色ばっかし見せられる定食ツアーで訪れる人がほとんどなのでしょう。

思い出しました。家康は夏の陣で茶臼山で幸村軍に殺され、遺体は堺に埋葬されてる、という話があるんですね。家康が乗って逃げ回った駕籠も残っているそうですが。
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すまんだに和みの秋を見つけたり (道草)
2012-10-11 10:23:04
天満橋は通勤途上の駅ながら、古本屋くらいしか馴染みがありません。桜の造幣局も、この駅からでしたか。それにしましても、数学の先生が木版画展など大した才能ではないですか。差し詰め、歴史の先生のgunkanatagoさんなら、バレーの独演会ですか・・・。
名にし負う大阪も、恥ずかしながら未訪の場所です(放送局へは行きましたが)。いきなり、「喞筒」などと珍しい言葉に出会いました。ポンプのことですか。昔、「身の不遇を喞つ」などと使われているのを見た記憶がありますが。

それにしましても、戦闘態勢の各種の櫓は徳川氏によって作られたのですか。武士も銃弾で一思いに死ぬならまだ救われ(?)ますけど、頭から熱湯を掛けられたアカツキには、一体どうなるのでしょう。
何処かの城では糞尿を掛けたと聞いたことがありますが、まだこの被害の方がマシかも。肥によって、死んだり怪我することはないでしょうし・・・。

ところで、秀吉に関係する大阪城へは、韓国人は来ないのでしょうか。隣国からはかなり多い様ですが。ただ、アマカメラマン(日本人?)が多いのは、それだけここは鳥の天国なのでしょう。アマカメは邪魔でも、鳥の棲家になるだけでも大阪城は価値がありそうです。

続いて毛斯倫とは、いつか教えてもらった懐かしい名称に再会しました。そもそも、伊藤とは「糸」が語源なのでしょうか。歴史博士にお訊きしたいものです。余談ですけど、満州事変の1931は「満州の野はヒトクサイ」と憶えたものです。機械的な暗記ながら今でも忘れないのは、それなりの効果がある・・・ないですよネ。

我が母校も、園部城の城門と角櫓が残っています。ただ、在学中も歴史にはまるで無関心でしたし、城下には旨いたこ焼き屋もありませんでしたし。
それにしましても、「すまんだ」の言葉は初めて聞きました。〝すまなかった〟の意味かと思いましたが〝すみっこ〟の事なのですか。知りませんでした。
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特高警察の復活 (gunkanatago)
2012-10-11 14:21:28
 mfujino様、コメントをありがとうございます。そうですね、大阪城は現存する部分だけでなくて、例えば空堀辺りまでの広がりを持っていた城ですから、まだまだ楽しめそうですね。ン?豊臣氏の石垣?小生は未だ見ていないような。
 なるほど淀殿の怯えも今の大阪城天守閣を見ていると「チェ、だから女は…」となってしまうのですね。これは今まで気付きませんでした。ありがとうございます。それにしても力押しでは無理だと悟り、功名に和議を持ちかけ掘りを埋める、やはり家康は天才ですね。
 南宗寺の家康の墓、江戸時代の大坂の発展を無視した(というか敢えて見ない)大阪人の希望が作り上げたものですね。そう言う意味では韓国の「歴史」によく似ています。違うのは日本ではそういうのは、あくまで珍説の域を出ませんが、韓国では本当の歴史になるというところですね。
 今の日本は朝日新聞や社民党などの獅子身中の虫どもを何とかしなくてはなりませんね。大江健三郎も含めて日本が嫌なら北朝鮮にでも行けばいいのにと思います。特別高等警察の復活も一案、息苦しくなるのは連中だけで、我々には何の問題もないと思います。
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戦闘は (gunkanatago)
2012-10-11 14:45:27
 道草様、コメントをありがとうございます。城の櫓からは槍や石を落とすことが中心というか、大阪城が造られた頃ならば、既に銃撃戦が中心であったと考えられますが、糞尿を落とすならばもちろん沸騰させたやつですよ(笑)。その代わり櫓の中も悲惨な状況になるでしょうね。
 伊藤忠も伊藤萬も創業は幕末・明治ですから、本格的な会社組織になる前は何人もの番頭さんがのれん分けをしてもらって「伊藤~」を名乗ったのでは等と思っていますが、ホントに思っているだけで証拠は示せません。
 園部城の城門と角櫓、今度行った時に見させてもらいますね。最近は河原町のマツモトぐらいにしか行ってないので、いいことを聞かせていただきました。
 「すまんだ」、純粋な大阪弁かどうか分かりませんが、小生が子供のころからよく聞いた言葉で、今でも「猫が押入のすまんだに入って出てきよれへん。」という風に普通に使います。
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