本日は吉例愛宕登山、ではなくて大文字集会。歩く植物図鑑氏のおかげで、この10年ほどは大文字を斜めから見る飲み会ができています。勿論、通常料金。
飲む前に、少し腹ごなしということで、師匠の案内で鴨川周辺を少し歩きました。時節柄、高瀬川の辺りにも百日紅が咲いています。
四条から木屋町を下ると坂本龍馬御用達の鳥彌左、師匠も小生も縁無きところです。京都にはこのような「鳥~」という店がたくさんあります。小生は一度だけだまされて、河原町姉小路西入ルの「鳥初」での宴会に参加したことがありますが、食べたのはだし巻きとそれに付いているはじかみだけ。はじかみは20本ぐらい食いましたが、ものすごく「ひもじ」かったのを覚えています。
たしか暗殺された日も龍馬は下僕に鶏肉を買いにやらせていたのではなかったかな。軍鶏鍋だったかな?
松原通は本来は五条通、青空を見ているとこのまま東に行きたい衝動に駆られますが、依然木屋町を南下します。
現在の五条大橋の北西角にある公園に来ました。ここには何代目かの植治=小川治兵衛が旧五条大橋の橋脚をオブジェとして作庭しています。この人は余程にこの橋脚が気に入ったようで、確か府庁にも同じように橋脚を庭石として使用した庭園がありました。
その公園の前から五条通への斜めの道は、かつて市電が走っていた址です。
ここから鴨川に降りると高瀬川の水位調節のための水路の跡があります。今これを見ると鴨川の水位が浚渫によって随分と低くなっていることが分かります。師匠、ようこんなもんを見つけましたねと言うと、この近辺に住まわれている師匠の将棋敵の情報だそうです。
本日は、上流、比叡山の方までがくっきりと眺められます。桟敷ヶ岳なども見えているのでしょうが、どれなのか分かりません。
五条大橋に上がると扇塚、牛若丸と弁慶でも知られている橋ですが、当時はここには橋は架かっていません。よしや当時の五条通である松原橋であったにせよ平家のお膝元であるこの橋で、源氏の御曹司が一騒ぎを引き起こすとは思えませんから、本来の説話は義朝の屋敷があった船岡山周辺のもので、清水寺の僧、あるいは五条天神関係者によって舞台が書き換えられたものと思われます。
さらに五条大橋を渡ると五条楽園、やはり寂しくはなってきましたが、現役の遊郭です。それにしても歌舞練場まであったとは知らなんだ。ここは、飛田や松島とは異なり、顔見世はありません。以前は真っ昼間でもやり手婆さんがいたのですが、今は姿を見ません。そういえば、松原通の団栗橋の上でも年老いた夫婦者のポン引きがいましたが、もう死んでしまったのでしょうねぇ。その一角に河原院跡の碑。
源融(みなもののとおる)の邸宅跡ですが、広大な面積を占めていたようです。源氏物語の光源氏のモデルとも言われています。小生などは河原院が後に化け物屋敷になっていたぐらいしか認識がなかったのですが、所謂嵯峨源氏の祖でもあります。有名なところでは渡辺綱、肥前の松浦党、俗なところでは松田聖子などもこの子孫でしょう。
趣味はズバリ「塩焼き」、当時東北地方の一風景は人々の憧れだったようで、塩竃をここに造り、毎日尼崎から海水を取り寄せて塩焼きをやったということです。
中信の東五条支店のビルは旧村井銀行のビル。伏見まで続く本町通を正面通まで下ると巨大な耳塚。この辺りはいわば豊臣氏の聖地。東には明治になって復活した豊国神社。
1998年は太閤400年祭に当たりましたが、取り立てて大規模な行事は行われなかったようです。これが100年遡って1898年の300年祭となるともう大変、徳川氏のくびきから解き放たれて30年しか経っていないこともあって京都を挙げて祭が行われました。
方広寺は豊臣家の菩提寺として建立されたのですが、建立当時から不幸に見舞われ、大仏の開眼に合わせて造られた鐘の銘が大阪の陣を引き起こすための口実とされたことは有名。最後に再建された天保の大仏も1973年に焼失し、大仏殿のあったところは今は駐車場です。小生は何の縁か、焼け落ちたばかりの大仏殿を目撃しています。
方広寺の鐘は今も健在です。徳川氏を呪うとされた鐘の銘が今も残っているということは、豊臣氏が滅んだ後は、徳川氏はこれを全然気にしなかったということで、まさに言いがかりのための言いがかりであったことを示しています。
以前は、物干し竿を持ったお婆さんが、問題の箇所を竿で指しながら説明してくれたものですが、今は鐘の下には入れぬようになっています。けれども、これだけ有名な鐘を拝観料とやらを取らずに見せている方広寺、太っ腹(パチパチ)。
六条橋の方に向かうと、島左近旧宅。今は料亭です。ここから河原に出たところが左近の主の石田三成が処刑された六条河原です。今は河原という河原がありません。
しばらくいくと、今をときめく任天堂の旧本社。今はゲームの聖地で、時々見物の外国人がウロウロしているそうです。
さらに進むと市比賣神社、宗像三神を中心にした女性のための神社です。このうちの市杵嶋姫命は広島県の厳島神社の祭神としても知られていますね。
目を引いたのはカード塚、そうですねこれほど人の念が籠もっているものもあまり無いでしょうね。やるやんけ!と申す処。
長講堂は、寺そのものよりも北朝の資金源としての「長講堂領」という荘園の集積で知られています。もともとは後白河院の所領が長講堂に寄進されたもの。上皇の御所がこの辺りにあったのですね。今の位置は豊臣秀吉によるものです。
文子天満宮は、菅原道真の乳母が道真を祀ったのが起こりです。お守りなどを外に出しておいて、志納料は賽銭箱に入れてねと何ともおおらかです。
最後は、車石。このお寺さんは、これにちなんだ名前もついています。その名も「輪形地蔵」。駅付近にあっては、もうピッタリという感じです。
京都駅で待ち合わせていた人たちと合流、師匠のサービス精神=「あれも見せてやろう、これも見せてやろう」のために8分遅れましたが、笑って許して下さいました。やっぱり炎天下に歩いた後のビールはうまい!
飲む前に、少し腹ごなしということで、師匠の案内で鴨川周辺を少し歩きました。時節柄、高瀬川の辺りにも百日紅が咲いています。
四条から木屋町を下ると坂本龍馬御用達の鳥彌左、師匠も小生も縁無きところです。京都にはこのような「鳥~」という店がたくさんあります。小生は一度だけだまされて、河原町姉小路西入ルの「鳥初」での宴会に参加したことがありますが、食べたのはだし巻きとそれに付いているはじかみだけ。はじかみは20本ぐらい食いましたが、ものすごく「ひもじ」かったのを覚えています。
たしか暗殺された日も龍馬は下僕に鶏肉を買いにやらせていたのではなかったかな。軍鶏鍋だったかな?
松原通は本来は五条通、青空を見ているとこのまま東に行きたい衝動に駆られますが、依然木屋町を南下します。
現在の五条大橋の北西角にある公園に来ました。ここには何代目かの植治=小川治兵衛が旧五条大橋の橋脚をオブジェとして作庭しています。この人は余程にこの橋脚が気に入ったようで、確か府庁にも同じように橋脚を庭石として使用した庭園がありました。
その公園の前から五条通への斜めの道は、かつて市電が走っていた址です。
ここから鴨川に降りると高瀬川の水位調節のための水路の跡があります。今これを見ると鴨川の水位が浚渫によって随分と低くなっていることが分かります。師匠、ようこんなもんを見つけましたねと言うと、この近辺に住まわれている師匠の将棋敵の情報だそうです。
本日は、上流、比叡山の方までがくっきりと眺められます。桟敷ヶ岳なども見えているのでしょうが、どれなのか分かりません。
五条大橋に上がると扇塚、牛若丸と弁慶でも知られている橋ですが、当時はここには橋は架かっていません。よしや当時の五条通である松原橋であったにせよ平家のお膝元であるこの橋で、源氏の御曹司が一騒ぎを引き起こすとは思えませんから、本来の説話は義朝の屋敷があった船岡山周辺のもので、清水寺の僧、あるいは五条天神関係者によって舞台が書き換えられたものと思われます。
さらに五条大橋を渡ると五条楽園、やはり寂しくはなってきましたが、現役の遊郭です。それにしても歌舞練場まであったとは知らなんだ。ここは、飛田や松島とは異なり、顔見世はありません。以前は真っ昼間でもやり手婆さんがいたのですが、今は姿を見ません。そういえば、松原通の団栗橋の上でも年老いた夫婦者のポン引きがいましたが、もう死んでしまったのでしょうねぇ。その一角に河原院跡の碑。
源融(みなもののとおる)の邸宅跡ですが、広大な面積を占めていたようです。源氏物語の光源氏のモデルとも言われています。小生などは河原院が後に化け物屋敷になっていたぐらいしか認識がなかったのですが、所謂嵯峨源氏の祖でもあります。有名なところでは渡辺綱、肥前の松浦党、俗なところでは松田聖子などもこの子孫でしょう。
趣味はズバリ「塩焼き」、当時東北地方の一風景は人々の憧れだったようで、塩竃をここに造り、毎日尼崎から海水を取り寄せて塩焼きをやったということです。
中信の東五条支店のビルは旧村井銀行のビル。伏見まで続く本町通を正面通まで下ると巨大な耳塚。この辺りはいわば豊臣氏の聖地。東には明治になって復活した豊国神社。
1998年は太閤400年祭に当たりましたが、取り立てて大規模な行事は行われなかったようです。これが100年遡って1898年の300年祭となるともう大変、徳川氏のくびきから解き放たれて30年しか経っていないこともあって京都を挙げて祭が行われました。
方広寺は豊臣家の菩提寺として建立されたのですが、建立当時から不幸に見舞われ、大仏の開眼に合わせて造られた鐘の銘が大阪の陣を引き起こすための口実とされたことは有名。最後に再建された天保の大仏も1973年に焼失し、大仏殿のあったところは今は駐車場です。小生は何の縁か、焼け落ちたばかりの大仏殿を目撃しています。
方広寺の鐘は今も健在です。徳川氏を呪うとされた鐘の銘が今も残っているということは、豊臣氏が滅んだ後は、徳川氏はこれを全然気にしなかったということで、まさに言いがかりのための言いがかりであったことを示しています。
以前は、物干し竿を持ったお婆さんが、問題の箇所を竿で指しながら説明してくれたものですが、今は鐘の下には入れぬようになっています。けれども、これだけ有名な鐘を拝観料とやらを取らずに見せている方広寺、太っ腹(パチパチ)。
六条橋の方に向かうと、島左近旧宅。今は料亭です。ここから河原に出たところが左近の主の石田三成が処刑された六条河原です。今は河原という河原がありません。
しばらくいくと、今をときめく任天堂の旧本社。今はゲームの聖地で、時々見物の外国人がウロウロしているそうです。
さらに進むと市比賣神社、宗像三神を中心にした女性のための神社です。このうちの市杵嶋姫命は広島県の厳島神社の祭神としても知られていますね。
目を引いたのはカード塚、そうですねこれほど人の念が籠もっているものもあまり無いでしょうね。やるやんけ!と申す処。
長講堂は、寺そのものよりも北朝の資金源としての「長講堂領」という荘園の集積で知られています。もともとは後白河院の所領が長講堂に寄進されたもの。上皇の御所がこの辺りにあったのですね。今の位置は豊臣秀吉によるものです。
文子天満宮は、菅原道真の乳母が道真を祀ったのが起こりです。お守りなどを外に出しておいて、志納料は賽銭箱に入れてねと何ともおおらかです。
最後は、車石。このお寺さんは、これにちなんだ名前もついています。その名も「輪形地蔵」。駅付近にあっては、もうピッタリという感じです。
京都駅で待ち合わせていた人たちと合流、師匠のサービス精神=「あれも見せてやろう、これも見せてやろう」のために8分遅れましたが、笑って許して下さいました。やっぱり炎天下に歩いた後のビールはうまい!
団栗橋や五条楽園は懐かしいトコロです(まだ市電が走っていました)。ただ、gunkanatagoの如く、顔パスでやり手婆に頭を下げられる様なコトはありませんでしたが・・・。丁度、牛若丸の石像が造られて五条大橋が新設された頃でしょうか。橋桁のモニュメントはどうだったか・・・。
方広寺の鐘の下で説明を聞いた記憶はありますが、今も無料なのですか。昔は東も西も、大抵の寺社は無料でしたのに。
当日は午後から急に時間が空いたので、夕方から外出して、岡崎の岡北で蕎麦を食べて、浄土寺の近くへ大文字を見に行きました。丁度真正面に当たり、大勢の人が道路や歩道に立って見ていました。
私らは少し山手の石段に座って眺めていました。あれだけ大きい送り火を見たのは初めてです。缶ビールを持参しなかったのが誤算でしたが・・・。
「大文字の火」 大塚五朗
「もうすぐ大文字がともるえ。」
子供の手を引きながら集つて來る人々の前にやがて煙をあげて赤々と燃えあがつて來る大文字の美しさ。その大文字が人々の心に忍びこませる新秋への感傷。まことに京都の人々にとつていち早く秋を感ぜしめる季節の觸手ともいふべきもので、何といつても牧歌的情趣のもつ水のやうな哀感である。
「お父さん、一寸も見えないよう。」
せがむ子供を高々と抱き上げ乍ら私は思ふのである。やがて子供が成長した後に於いてもその魂の奥深くにほのぼのと焚き込めるられた大文字の火は季節への感傷となつていつまでもあえかな夢を結ぶであらうと。 (『京都風土記』(昭和17年)。
もし万が一、今大文字集会を開いているところがダメになったら、当日4時に毘沙門橋、毘沙門谷を抜けて沢山に登り、6時半ぐらいから上の水峠で待機、8時からの大文字を見た後、闇の中をビビリながら千束に降りるという計画ですが、参加者は殆どいないでしょうね。
五条楽園が本当に栄えていた時を小生は知りません。それは五番町なども一緒ですね。それでも、来る度に寂れかたがひどくなっている感じで残念だなあと思っています。最近は夜に散歩してもやり手婆さんの声もかからぬようになってしまいました。
京都にはたしかに鳥**が多いですね、でも焼き鳥屋さんが少ないと思います。何でやろ?
高瀬川沿いにお住まいの人からスポットも見ますからと師匠から案内されていたのですが、かの高瀬川への水路跡を示す石、これもその一つでしょう。賀茂川の流れの解説は興味を持って聞けました。
方広寺の垣の石は大きかったですね。
師匠の「輪形地蔵」に寄って行こうという車石への執念はなかなかのものでしたね。
京の五條の橋の上、大の男の弁慶が・・・・の話、なるほどなるほどと聞いておりました。ただ、義経は当時は源のという意識はあったでしょうか(^_*)あのおっちょこちょい義経のことだからもしかしたらっ六波羅が平家のって知らずにいたかもしれないって気がしないでもないw。
いろいろ楽しませて頂きました。妙法が小さいながらもくっきりと見えたのはよかったです。
あの日、鴨川に沿って歩かれたのですね。短時間に凄く内容の濃い散策なさって・・・。楽しく見せて頂きました。
四条小橋から数歩下ったところに中華のミンミンがありました。油でごてごての黒光り、落書きだらけの小さな店でしたが、当時学生の間では大人気、ワンタンメンと豚まんがもう最高でした。高瀬川沿いに団栗橋までの雰囲気は今も好きで、祇園に行く時はこの橋をわたります。そこで○○婆さんらしき人見かけたことあります。わりに最近です。でも五條楽園のことは知りませんでした。松原橋近くは本籍地も近く、恋しくなったらふらっと足が向く所で、鴨川に映る鮒鶴を眺めると落ち着きます。文子天満宮は市比賣さんや渉成園に行った時お参りすることもあります。確か北野天神さん境内にもありましたね。
ええっ、わがた地蔵さんですか!行って見ますね♪
そうですね。焼鳥屋はあまりみないですね。鳥鍋の方がはるかに優勢ですね。やはり、高級志向なのかも知れません。
方広寺ゾーン、豊臣宗教地帯と言う感じですが、あの石垣を見ても如何に巨大な寺院であったかが偲ばれます。江戸時代に入って、豊国神社は閉鎖されて荒れるに任されていますし、耳塚なども草茫々だったでしょうから、怪談話の一つや二つはあってもよさそうですね。
そうですね、「鮒鶴」は大切な場所ですね。あの辺りの雰囲気は本当にいいですね。五条楽園は知っておられたらちょっとやばい(笑)。昔は今の季節、浴衣一枚の女性がよく立っていました。小生などは最初、幽霊かと思ったこともあります(爆)。
文子天満宮、北野の社は参道の位置から考えてみると北野の地に天神さんが祀られて一番最初のお社だった可能性がありますね。「わがた地蔵」、小生も全く知りませんでした。京都駅からはホントにすぐ近くです。秋は、渉成園に御一緒できる機会が持てるかも知れません。