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花洛転合咄

畿内近辺の徘徊情報・裏話その他です。

妙心寺の気概

2009年02月09日 | 徘徊情報・洛中洛外
 京都五山は南禅寺を別格に天竜寺、相国寺、建仁寺、東福寺、万寿寺で、いずれもすばらしい寺ですが、妙心寺が入っていません。五山自体は室町幕府の官寺に過ぎないので、別に五山に数えられなくても格下であるとかいうことはないのですが、高校日本史のすり込みは結構しつこいもので、個々の寺の名は忘れていても、「五山」という言葉だけはしっかりと覚えていて、これが寺格を表すものと勘違いしている人も多いようです。
 しかしながら、寺の起源からいっても(花園上皇発願)、末寺の多さからいっても妙心寺の寺格は、他を圧倒しているといってもよく、「妙心寺は五山の下ですか?」という問いには、「いやいや、別格中の別格で、断然上だ。」と答えてもいいと思います。まあ、ここで五山と妙心寺を「オレの方がエライー。」とけんかさせたい訳ではありませんから、この論はこのぐらいにしておきましょう。
 さて、妙心寺の現今の隆盛を見るに「坊主丸儲けで、さぞかしうまくやってきょったのだろう。」と考えることは僻事です。ちょっと調べてみると、この寺が時の権力者から随分といじめられてきた寺だということがわかります。朝廷に対する無礼という点では、本朝史上たぶんナンバー1であろう足利義満などは、応永の乱をおこした大内義弘に連座させて、寺を中絶させています。
 室町幕府の衰微により五山の寺もその庇護を得られなくなり、少しずつ荒れていくのですが、寧ろ圧力を受ける中で本来の禅を究めてきた姿勢が幸いし、妙心寺は興隆に向かいます。現在の塔頭には、堀尾氏の春光院、山内氏の大通院など豊臣系の大名が施主となって設けられたものが多いのですが、時代が徳川になったからといって態度を180度転換するような恥ずかしいことはしていません。
 方広寺の鐘銘事件がおこったときには、金地院崇伝を筆頭に五山の僧が学を曲げて徳川家康に阿り、「国家安康・君臣豊楽」等の銘を家康を呪い、豊臣氏の栄えを願うものとする林羅山の解釈に賛同した中、妙心寺の海山元珠(大竜和尚)のみは、この銘にそのような意味はないということを断言、銘の起草者の文英清韓を弁護しています。これは言うは易く行うは難きことで、一つ間違えは寺全体が吹き飛んでしまう危険性がありました。しかし、そのようなことも大竜和尚にとっては、どうでもよいことだったのでしょう。無くなったら無くなったときのことという割り切りがあればこその行動だったと考えられます。
 また、大阪夏の陣で豊臣氏が滅んだ後、秀吉を祀った豊国神社は家康によって徹底的に破却されるのですが、その境内には秀吉と淀殿の最初の子である鶴松の菩提寺「祥雲寺」がありました。この寺は鶴松の葬儀を妙心寺で行ったことが縁となって大竜和尚の師である南化玄興が開基となった寺なのですが、破却時には大竜和尚自らが鶴松像を胸に抱いて妙心寺に帰り、後に雲祥院を建立して鶴松の菩提を弔っています。何故に「祥」と「雲」をひっくり返したのか、誰か教えてくれないでしょうか?また、夏の陣で滅んだ豊臣方の人々を悼み、その祭祀を継続した節もあります。こうしたことも例えばホームページなどにも全く記さないあたりもゆかしいですね。トップの写真の衡梅院も豊臣家の武将であった真野蔵人に関係した寺院だということです。下の浴室は「明智風呂」といわれ、討つ者も討たれる者も仲良く併存しています。さらにまた、石田三成の長男である重家は関ヶ原の役の後に妙心寺にかくまわれ、後に家康の許しを得て寿聖院の住職となり、一族の供養塔を建立しています。

          

 豊臣氏絡みの塔頭ばかりではなく例えば春日局にゆかりの深い麟祥院等もあります。かといって幕府に媚びた訳ではないことは、江戸幕府が皇室の持つ特権に介入した紫衣事件においても、有名な沢庵宗彭とともに幕府の非を鳴らし、為に東源慧等と単伝士印が流罪となっています。けれどもこういう硬骨は例え一時の漠寂を得ても、やがては人の知るところとなります。沢庵宗彭が三代将軍家光に師と仰がれるようになったことは有名ですが、妙心寺法度など幕府による厳しい監視の続く中でも江戸期を通じて妙心寺は栄え、現在では臨済禅の本流となっているのです。
 「うるさい野郎だが、あっぱれな奴だ。」、こう思う心の奥には既に好意が芽生えていると言ってよいでしょう。逆に世に阿り、態度をふらふらと変えるものは無窮の誹りを受け続けることになります。儒学の林家なども、後代には随分と立派な人も出ているのですが、人の心のどこかに、この家をバカにしたい気持ちが残るのは家康に仕えんとして頭を丸め、その意に汲々とした羅山が恥ずかしいからでありましょう。夕闇迫る妙心寺北門、門内は聖地、門外は娑婆であります。ちょっと興味を引かれるところでは、若き日の今川義元もこの境内を歩いたはずです。

          

[2008年2月の記事を一部加筆して再録]           

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2 コメント

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遠き妙心寺。 (道草)
2009-02-11 09:40:51
 >(前略)しかれどもさすが妙心寺に歩一歩ふみ入れば、塔頭四十有餘古りたる時代の落着を示し、ほどよき配置は自ら臨濟の大本山たることを現はしてゐる。黙々たる僧の白壁の小門に消えゆく姿など白素地に濃淡の墨一色ながら無限の雅味を放つてゐる。(中略)この妙心寺などおそらく諸堂塔頭の整備せる點では洛中有數のものであらうと思はれるほど境内は充實してゐた。(後略)(「京洛ところどころ」井手成三/昭和16年12月発行)<
 妙心寺は私にも思い出のある寺です。歴史的な謂われはさて置き、かつて30歳半ばの頃、肋膜と肺浸潤で嵯峨野病院(木造でした)に6カ月ばかり入院したことがあります(仕事・・・ではなくて夜遊びが過ぎて、です。)長女が1歳になったばかりでした。少し病状が落ち着いた頃、家内が娘を連れて花園駅から見舞いに来てくれ、帰りは妙心寺の境内を通って見送りに出ました。久し振りに髭面の私を見て泣いた長女も、その頃はすっかりなついて寺の境内で鳩と遊びました。35年前のことです。
 僧侶をしている同級生が妙心寺で修業をし、断食の厳しい修業を終えて振舞われた般若湯が忘れられない、と申しておりました。どんな修業をしたのでしょう。八木町の寺で住職をしていて、昨年に息子に譲り引退しました。何かもが遠くなりつつあります。「仏光をそびらに般若湯熱し」(妙心寺)古市絵末。
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道草様 (gunkanatago)
2009-02-11 17:25:51
コメントをありがとうございます。35年前にも妙心寺でそのようなことがあったのですね。境内の空間には、人の多くの思いがぎっしりと詰まっていますが、おぞましいものではなく、清浄な雰囲気が漂っています。
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