本日は先日に登れなかったロックガーデンのリベンジ。けれども、阪急芦屋川駅に着くとまたまた雨が降っています。春雷もスゴイ。しかも今日は傘すら持っていません。やむなし、今日はこの近辺をウロウロとして撤退するかと線路に沿って岡本方向に歩き始めました。先ずは最初に芦屋廃寺の碑。
雨が激しくなり、駅に引き返そうと思った時に向こうに八幡神のお社が見えました。ここで雨宿りをさせていただきます。
境内には尼崎藩の境界碑、さらに他の地域では珍しい一言主の大神のお社がありました。
おもしろいなあと思って境内をウロウロしているうちに雨が上がりました。まあ、これは八幡神が「ちょっと寄っていけ。」と呼んで下さったのでしょう。この後も雨は時々降りましたが、まあいずれも短時間の雨宿りでやり過ごせました。
それではと駅には戻らずにそのままロックガーデンを目指して北上したところ、勾配のある住宅地(というよりお屋敷街)をグルグルするハメに陥りました。とにかく北へ北へと上ればいいのですが、行き止まりばかり。北に登り詰めては下り、また登り詰めては下りの連続。山にぶつかれば越えていけるのですが、お屋敷にぶつかると侵入できません(当たり前)。
山手中学校の横にあったこの道、これは間違いなくロックガーデンへの道に続いていると思ったら、やはり行き止まりでした。スリバチのようになった谷底でおしまい。対岸に見えるお屋敷の庭で犬が吠えています。おもいきり手を振りましたが、住人が見たら「あほ」と思うやろな。
何とか本来の道に復帰して、本日は城山から荒地山を目指します。いつもなら、高座の滝から風吹岩、そして荒地山のルートを採るのですが、素人ながら山城に多少の関心を持つようになった今は全て山城優先です(笑)。
しかも、この鷹尾山城は最近の興味の焦点である信長以前の戦国史に於いて、細川高国と澄元が争った古戦跡でもある。
本日は眺望は今ひとつ
ややこしい人間関係は略しますが、細川澄元が高国との戦い(於如意ヶ岳)に敗れて阿波に逃走するのが永正6年(1509)、阿波で勢力を蓄えた澄元と家臣の三好之長(三好長慶のひいおじいさん)が永正8年(1511)に再び京都侵攻を目指します。すなわち實隆公記に「細川澄元、兵を阿波に起し、京都に入らんとす、是日、其族細川政賢、同尚春等の兵、同高国の兵と和泉に戦ひて、之を破る、尋で、澄元、播磨守護赤松義村をして、高国の党瓦林政頼を摂津灘鷹尾城に攻めしむ、政頼、敗れて、同国伊丹に退く」というのがそれです。その後、この城は史書にも出てこないようですから、そのまま廃城になったのでしょう。
主郭への道
この時、澄元等は京都に侵攻しましたが、船岡山の戦いに敗れて撤退しています。之長等の破局、澄元の病死はもう少し先で永正17年、守将の瓦林政頼も同年に高国によって切腹させられています。敵も味方も諸共にというやつです。
地形も城も見る目のない小生ですが、2ヶ所の堀切だけは確認できました。これ以外は何も遺構は確認できないようです。堀切、写真に写すのは難しいですね。よく分からんという人は是非現地に赴きましょう。
主郭址
堀切1・落ち葉の溜まっているところは深く剔られていたはず
堀切2
城跡を去ると進むに連れて荒地山がグングンと迫ってきます。道標辺りまでは「目えつむってケンケンでも行けるでえ」の世界。
道標を過ぎた辺りからは愈々岩場がはっきりと見え始めます。高座の滝から風吹岩へのメインルートはロックガーデンというものの人の手がたくさん入っています。それはそれで有り難いことで、皆が安全に山登りを楽しむことができる。ただ、こちらのルートは、それほど手が入っていないので結構事故も多いようです。
岩梯子を過ぎてしばらくの間は、「よじ登る」という表現がピッタリです。ここから先の岩場をよじ登り終わればすぐに頂上。握れそうな木の枝はみんなツルツル。ビンヅルさんの頭のようになっています。
岩梯子
六甲最高峰に近い石の宝殿には白山権現が祀られているのですが、この権現様は平生は荒地山山頂付近におられるということです。この近辺で悪事を働いたり、山を荒らした者は山奥へ山奥へと引きずり込まれて帰ることができなくなる。
昔、七右衛門という真面目で律儀な成年がいました。けれども友人に裏切られた(詳細不明)ことがきっかけで、身を持ち崩し、とうとう芦屋と有馬を結ぶ魚屋道を往来する旅人を襲う強盗になってしまいます。神罰たちどころにくだり、この七右衛門が頭を割られて死んでいたところが七右衛門嵒(ぐら)、本来の七右衛門嵒は阪神淡路大震災の時に崩落してしまいましたが、今は新七右衛門嵒と名付けられたところを通ります。下の写真の左上の部分がそれ。今日は手ぶら(爆)ですが、リュックを背負っていたら、先にリュックを前へ押しやって、それから体を突入させます。登りより下りの方が難しい。
新七右衛門嵒
そういえば、裏六甲には盲目の按摩さんが迷い込んで死んだ座頭谷などもあり、六甲山もなかなかに怖いところですね。琴鳴山の話なども六甲の説話に入れていいでしょう。
ロープ場
梯子場
元の七右衛門嵒(ただしウロ覚え、うそかも。)
幸いにして権現様の神罰も受けず、本日も頂上(549米)に至ることができました。七右衛門の故事を思い出して見るからか、頂上付近は何か清浄な感じがします。
それでも帰路の高座谷を抜けていく長い長い道、夕暮れも迫ってくると奥へ奥へと進んでいるのではないかと思ったりもします。今日は立ち小便もしてないし、道を譲ってくれた人には丁重に礼を述べたし、うん、悪いことは何もしていないはず。谷に下り立ってしまうと、すぐに高座の滝から風吹岩へのメインルートに出会います。
高座の滝の上流、幾つもの砂防ダムが建設されています。いずれのダムもぼ満杯状態で、六甲山系が崩れやすい花崗岩の山ということがよく分かります。
高座の滝1
高座の滝2
本日は高座の滝付近の茶店は2店とも休業。ビールは今少しお預けです。そのまま芦屋川駅に戻り梅田の串カツ屋で呑みました。呑んでいる途中で、何か思い出しそうで思い出せない状態になり、「あー気持ち悪い!」という感じが続きました。そやつを今、思い出しました。「日の出もり家」へのリベンジが為せていません(爆)。夢に出てこないよう早い目に行かなくてはなりません。作家風に言うと「私の人生はこの思いとの戦いであった」(笑)。
雨が激しくなり、駅に引き返そうと思った時に向こうに八幡神のお社が見えました。ここで雨宿りをさせていただきます。
境内には尼崎藩の境界碑、さらに他の地域では珍しい一言主の大神のお社がありました。
おもしろいなあと思って境内をウロウロしているうちに雨が上がりました。まあ、これは八幡神が「ちょっと寄っていけ。」と呼んで下さったのでしょう。この後も雨は時々降りましたが、まあいずれも短時間の雨宿りでやり過ごせました。
それではと駅には戻らずにそのままロックガーデンを目指して北上したところ、勾配のある住宅地(というよりお屋敷街)をグルグルするハメに陥りました。とにかく北へ北へと上ればいいのですが、行き止まりばかり。北に登り詰めては下り、また登り詰めては下りの連続。山にぶつかれば越えていけるのですが、お屋敷にぶつかると侵入できません(当たり前)。
山手中学校の横にあったこの道、これは間違いなくロックガーデンへの道に続いていると思ったら、やはり行き止まりでした。スリバチのようになった谷底でおしまい。対岸に見えるお屋敷の庭で犬が吠えています。おもいきり手を振りましたが、住人が見たら「あほ」と思うやろな。
何とか本来の道に復帰して、本日は城山から荒地山を目指します。いつもなら、高座の滝から風吹岩、そして荒地山のルートを採るのですが、素人ながら山城に多少の関心を持つようになった今は全て山城優先です(笑)。
しかも、この鷹尾山城は最近の興味の焦点である信長以前の戦国史に於いて、細川高国と澄元が争った古戦跡でもある。
本日は眺望は今ひとつ
ややこしい人間関係は略しますが、細川澄元が高国との戦い(於如意ヶ岳)に敗れて阿波に逃走するのが永正6年(1509)、阿波で勢力を蓄えた澄元と家臣の三好之長(三好長慶のひいおじいさん)が永正8年(1511)に再び京都侵攻を目指します。すなわち實隆公記に「細川澄元、兵を阿波に起し、京都に入らんとす、是日、其族細川政賢、同尚春等の兵、同高国の兵と和泉に戦ひて、之を破る、尋で、澄元、播磨守護赤松義村をして、高国の党瓦林政頼を摂津灘鷹尾城に攻めしむ、政頼、敗れて、同国伊丹に退く」というのがそれです。その後、この城は史書にも出てこないようですから、そのまま廃城になったのでしょう。
主郭への道
この時、澄元等は京都に侵攻しましたが、船岡山の戦いに敗れて撤退しています。之長等の破局、澄元の病死はもう少し先で永正17年、守将の瓦林政頼も同年に高国によって切腹させられています。敵も味方も諸共にというやつです。
地形も城も見る目のない小生ですが、2ヶ所の堀切だけは確認できました。これ以外は何も遺構は確認できないようです。堀切、写真に写すのは難しいですね。よく分からんという人は是非現地に赴きましょう。
主郭址
堀切1・落ち葉の溜まっているところは深く剔られていたはず
堀切2
城跡を去ると進むに連れて荒地山がグングンと迫ってきます。道標辺りまでは「目えつむってケンケンでも行けるでえ」の世界。
道標を過ぎた辺りからは愈々岩場がはっきりと見え始めます。高座の滝から風吹岩へのメインルートはロックガーデンというものの人の手がたくさん入っています。それはそれで有り難いことで、皆が安全に山登りを楽しむことができる。ただ、こちらのルートは、それほど手が入っていないので結構事故も多いようです。
岩梯子を過ぎてしばらくの間は、「よじ登る」という表現がピッタリです。ここから先の岩場をよじ登り終わればすぐに頂上。握れそうな木の枝はみんなツルツル。ビンヅルさんの頭のようになっています。
岩梯子
六甲最高峰に近い石の宝殿には白山権現が祀られているのですが、この権現様は平生は荒地山山頂付近におられるということです。この近辺で悪事を働いたり、山を荒らした者は山奥へ山奥へと引きずり込まれて帰ることができなくなる。
昔、七右衛門という真面目で律儀な成年がいました。けれども友人に裏切られた(詳細不明)ことがきっかけで、身を持ち崩し、とうとう芦屋と有馬を結ぶ魚屋道を往来する旅人を襲う強盗になってしまいます。神罰たちどころにくだり、この七右衛門が頭を割られて死んでいたところが七右衛門嵒(ぐら)、本来の七右衛門嵒は阪神淡路大震災の時に崩落してしまいましたが、今は新七右衛門嵒と名付けられたところを通ります。下の写真の左上の部分がそれ。今日は手ぶら(爆)ですが、リュックを背負っていたら、先にリュックを前へ押しやって、それから体を突入させます。登りより下りの方が難しい。
新七右衛門嵒
そういえば、裏六甲には盲目の按摩さんが迷い込んで死んだ座頭谷などもあり、六甲山もなかなかに怖いところですね。琴鳴山の話なども六甲の説話に入れていいでしょう。
ロープ場
梯子場
元の七右衛門嵒(ただしウロ覚え、うそかも。)
幸いにして権現様の神罰も受けず、本日も頂上(549米)に至ることができました。七右衛門の故事を思い出して見るからか、頂上付近は何か清浄な感じがします。
それでも帰路の高座谷を抜けていく長い長い道、夕暮れも迫ってくると奥へ奥へと進んでいるのではないかと思ったりもします。今日は立ち小便もしてないし、道を譲ってくれた人には丁重に礼を述べたし、うん、悪いことは何もしていないはず。谷に下り立ってしまうと、すぐに高座の滝から風吹岩へのメインルートに出会います。
高座の滝の上流、幾つもの砂防ダムが建設されています。いずれのダムもぼ満杯状態で、六甲山系が崩れやすい花崗岩の山ということがよく分かります。
高座の滝1
高座の滝2
本日は高座の滝付近の茶店は2店とも休業。ビールは今少しお預けです。そのまま芦屋川駅に戻り梅田の串カツ屋で呑みました。呑んでいる途中で、何か思い出しそうで思い出せない状態になり、「あー気持ち悪い!」という感じが続きました。そやつを今、思い出しました。「日の出もり家」へのリベンジが為せていません(爆)。夢に出てこないよう早い目に行かなくてはなりません。作家風に言うと「私の人生はこの思いとの戦いであった」(笑)。
さすがにgunkanatagoさんは、天候も回復した曉には目的を達成され、日頃の秀でた品性を証明されて何よりでした。荒地の名称が付いていますから、やはり昔から相当に荒廃した山なのでしょうか。
それにしましても、新七右衛門嵒ですか。地震で壊れたので別の所に〝新〟とは、如何なものでしょうか。元々が伝説ですから、そんなモノなのかも知れませんが。
それもそうとして「日の出もり」と称するのですか。私は「日の出さかり」だとばかり思っていました。
「春雷に鼓舞されながら思い馳せ」道草
七右衛門嵒、まあもともとの処もトンネルになっていたからそう言っていただけで、そのうち「新」は取れると思います。震災の時にはこの付近で500トンもの岩(なまず岩)が転がり落ちました。未明でなく、人がもっと活動する時間だったらえげつないことになっただろうなと思います。
「日の出もり家」は新在家にあるお好み焼き屋です。ビールはエビス、日本酒は何故か月桂冠ですが、どってりと落ち着ける店です。機会があれば、また行きましょう。休日がどうしても覚えられず、外すことも多いのですが。
それと山城に目が行ってますね(^_・)どうも最近はシロマイラーではございませぬか?
六甲の良いところは表情が豊かだということですよね。岩有り、滝有り、谷ありとどんどん変化する様で飽きないのではないでしょうか。それと展望が素晴らしい。都心から直ぐ行けるし。歩いた後は色々なおしゃれな店で喉を潤すことも出来ますし。でも何か箱庭という感じがしないでもない。
今朝は-4℃でした。冬に逆戻り、寒いよ~(*_*)今日はどこを徘徊されるのやら、、、
一言さんは、葛城山麓以外のところでは大変珍しいのではないかと思います。「へえー珍しいなあ。」というのが正直な感想でした。伊丹は勿論として、どうもこの辺りはやはり行基さんの勢力が絶大なようです。芦屋廃寺もやはりそうであるようです。さらに山の方に行けば分かりませんが、この付近には役行者開創のお寺は少ないようです。
6月は長老ですか?皆さんをお連れする時は、仏主から一定のところまでは車でしょうか。それとも、あの尾根道でしょうか。今思ったのですが、平屋富士と城山などもいいかも知れませんね。「長老越節義之誉」、浄瑠璃の歌詞を読みたいなあとずっと思っています。この「仏主のおこん」さんのことを教えて下さったのもmfujino様ですよ。
写真の鷹尾城辺りの道は歩き易そうですね。岩梯子は何処に足をかけて登られたのでしょうか?
昔、燕岳の登山でほんの少しだけ岩場を登りましたけど怖い怖い!
最後の一杯、これでこそ長~い間、徘徊が続けられるのでしょうね、失礼(爆笑)
六甲山は、あの六甲山系全体の名称だと思います。一番高いところも単に「最高峰」としかいいません。けど、普段は意識しませんが、ご指摘を受けて改めて「ウーン?」と考えますね。ありがとうございます。
岩梯子は、岩に足や手をかけるところがありますから、そのまま登っていきます。ロックガーデン本道と違って、こちらは通人も少ないので、ビビリながら登ります。