
表題から大阪城から高槻まで歩きよったんかいなと思われる方もいるでしょうが、午前中は大阪城をウロウロして、午後から高槻をウロウロしたということです。雨も降っていたし、そこまで根性はありません(笑)。
「おい、大阪城で多聞櫓などを公開するでぇ。」と師匠から連絡、最近師匠は大阪城内をかなりウロウロされていますから、その成果も聞けるかなと先ずは大阪城の散歩です。
大阪人ですらよく言う言葉、「大阪城?何にもないでー。天守も復興やし。…」、これは間違いです。石山本願寺や豊臣氏の大阪城の痕跡は殆ど残っていませんが、徳川氏の大阪城、近代の遺産などはたくさん残っています。小生もこのことに改めて気がついたのは近年のこと、ここは謙虚に勉強を続けたいと思っています。
前置きはさておき、本日は大阪城ホールがある方、青屋門から場内に入ります。ここから眺める石垣が最も城の偉容を物語るように思います。先ず門外には大阪砲兵工廠の碑。この辺りは戦後も久しく整備されずに放ってあったところです。


第4師団司令部が置かれていたところですから、大東亜戦争中は無差別爆撃でむしろ女子供を殺すことに狂奔していた米空軍、ここもたまに攻撃を受けました。石垣に残るのは戦闘機による銃撃の跡?師匠はつぶさにこれらを調べ、教えてくれます。以下全て師匠にうかがったことです。

復興天守閣、バカにするつもりはありません。随分と立派になったことを喜んでいます。その天守閣のすぐ横に謎の斜面。

地図で配水池とあるように、これは大阪市の最初の水道で利用された貯水池でちょっとした近代化遺産です。都島で取水・消毒された水道用水は一旦この配水池に送られ、ここから大阪市内に供給されていました。今も一部の地域については現役です。
天守閣の石垣にも被災の跡、どのような衝撃を受ければこのように石垣が凹むのでしょうか。別の面にはナパーム弾の油がついて燃えた跡もくっきりと確認できます。

本日最初の特別公開は金蔵、文字通りの「かねぐら」です。時代劇などでは御金蔵と言われていますね。日本でただ一つ残る幕府の金蔵です。中では一部床板を外してありましたが、床下にもびっしりと50センチ×100センチぐらいの石が敷き詰めてありました。防犯もさることながら、金の重みで床が下がるのを防ぐためということです。うらやましい。この御金蔵、江戸期を通じて一度だけ盗難があったようですが、派手な御金蔵破りではなくて、主人についていった中間が主人の隙を見て入り込んだというものです。


金蔵の横は第4師団司令部跡、久しく大阪市立博物館として使われていた建物です。その機能は大阪歴史博物館に移りましたが、あの不細工な建物に比べたらこちらの方が2万倍は素晴らしいのに。


司令部の前に大正14年に建てられた臨時陸軍病院の碑、詳しく調べてはいませんが、西南戦争時のことでしょう。これは真田山陸軍墓地の創設にも関係があることです。

師匠発見の地下壕入り口?濠に面した石垣の横にいきなりブロックで遮断する壁が作られています。空堀をのぞき込めば、そこにも地下壕の入り口でこちらは公に発表されています。

謎の遮蔽物

師匠の最近のテーマは、仁丹の住所表示とラヂオ塔、場内にさすがに仁丹の住所表示はありませんが、ラヂオ塔はいっぱいあります。大阪城天守閣の下で、それイチ、ニノ、サンと体操をしたのでしょう。

上部がはずされたラヂオ塔

上部も残っているラヂオ塔
桜門を出て、大手門方面に向かえば赤煉瓦の塀、大阪陸軍兵器補給廠の遺構です。中は今は管理事務所としてプレハブが建っています。補給廠の建物はいつの間にか取り壊されたようです。この赤煉瓦の中を通って多聞櫓に入ります。


今多くの城跡では、石垣だけが残るところが多く、何かその姿が自然なように思えてしまうのですが、往時は石垣の上に建物が建てられていて、防御施設の一翼を担っていました。この櫓という建物、京都などでも戦国期には大きな屋敷の四隅に人が登って周囲を見張ることの出来るものが作られましたが、それをより実用的にしていったもののようです。
中は意外に広くて、兵たちが待機する部屋が内側に、外側には石落としや鑓落としが作られています。


多聞櫓に引き続いて、千貫櫓に入ります。当たり前といえば当たり前ですが、今更ながら城は要塞なのだと気付かされます。

銃を撃つ

矢を放つ

鑓を落とす
諸兄、以後城の門の下を通るときには要注意!誰かが鑓を落としてくるかも知れませんぞ。とまたまたアナクロニズムが出てしまいましたが、今は物を落とせぬようにガラスがはめられています。

これも今更ながらに気がついたのですが、櫓の壁の浮き出ている部分は、出窓などというのんびりしたものではなくて、石落としや鑓落としを作るためなのですね。


さて、大阪城に別れを告げ、高槻に向かいます。小生にしては珍しく慌ただしい移動です。


これもラヂオ塔
座ってから出てくるまでが2分、昼飯代わりのざるうどん、食うのに2分、パンと金をテーブルに置いていきたいのに、レジでの精算に2分もかかりました。午後は12時40分にJR高槻駅前の本山寺道標に集合です。

高槻市のしろあと歴史館主催の西国街道と周辺の寺社ウォークに師匠が申し込んで下さったものです。西国街道についてはこの辺りはかなりウロウロしているのですが、周辺の寺社については疎いのでちょっと参加してみようということになりました。
集合地点からすぐの所に明和4年(1767)の広智寺への道標。田沼意次の運勢がいよいよ最後の高みへと登っていこうとする時代ですね。芥川の宿が近づくに連れて、趣のある家も増えてきます。


芥川一里塚は、この間来たばかり、本陣の跡を学芸員の方に尋ねましたが、どうやら分からないようです。

橋のたもとの地蔵堂、これは東側のもので橋を渡った西側にも地蔵堂があります。愛宕灯籠も見えていますね。

お馴染みの金比羅灯籠、ここから金比羅さんまでは63里、芥川沿いに唐崎までは歩いて行き、唐崎からは淀川を下る舟に乗りました。大阪に出たら何かと物入りですから、江口で神崎川を下る舟に乗りかえたのかも知れません。どこの港から四国に渡る舟に乗りかえたのでしょう。近くには神峰山への道標。


橋を渡ったところで、強い雨が降ってきました。基本手ぶらの小生は傘を持っていません。1キロほど戻って傘を買いに行くこととなり、参加している皆さんとはしばらくお別れです。「高槻に田舎有り」、コンビニが全く無いことに改めて気がつきました。
傘を手に入れた後、芥川に沿って北上します。伊勢物語に、都から業平がさらってきた女が鬼に食われてしまう話がありますが、どの辺かな。阿久刀(あくと)神社は物部系の豪族阿刀連(あとのむらじ)の氏神を祀るお宮さんです。芥川の名もここから来ているそうです。

地図もちゃんともらっているのに、しっかり間違えました。どこまでいってもご一同に追いつかぬうちに神服神社まで来てしまいました。服部氏の総氏神です。世に言う「秦氏」というのは、一つの氏族をいうのではなくて、いくつかの氏族の連合体のように思われるのですが、服部氏などの事績も結局は何か得体の知れぬ「秦氏」の中に組み込まれていったような気がします。
社務所の人に「40人ぐらいのジーサン集団が来ませんでしたか?」と尋ねたところ、「いや、見てませんよ。」という返事、あーどこかで追い抜いたなあと思った瞬間、入り口の鳥居のところにジーサン集団登場です。ウォークの予定表を確認すると小生は笠森稲荷を見逃し、集団は阿久刀神社を見逃しました(雨が降っていたのでカットしたと云々)。

神服神社

御本殿
歴史ウォークの最終目的地は安岡寺、北摂の山間地域に多くある光仁天皇の皇子である開成(かいじょう)皇子が開いた寺の一つです。惟喬伝説の摂津版のようなもので、その真偽は分かりません。けれども、この地域では例の勝尾寺も含めて、このことを深く信じてきました。安岡寺はなかなかの名刹で、客仏の平安時代の十一面千手観音座像を拝観させて下さいましたが、実に美しい御姿でした。学芸員の皆さん、どうもありがとうございました。

「皆さんバスで帰られますよね?」という学芸員の方の期待に反し、「わしらはまだまだ歩くでー!」ということで、伊勢寺に向かいます。百人一首にも歌がある平安時代の女性「伊勢」が隠遁したというところです。伊勢は宇多天皇の妻でもありますから、菅原道真などと同時代の人ですね。宇多天皇の息子の妻でもある???、後世、能因法師が伊勢を慕って自らもこの地に住んだことも知られています。

伊勢寺参道


伊勢歌碑1
難波潟短き葦の節の間もあはでこの世をすぐしてよとや
寺の中に入ると、禅寺特有の引き締まった、そして清浄な空気に充ち満ちています。「ええ寺やのう!」を連発です。

本堂

庭・楓は未だ青い

伊勢歌碑2
見る人もなき山里の桜花ほかのちりなんのちにさかまし
他にも伊勢桜や筆塚など見るべきものも多くありましたが、白井河原合戦で討ち死にした和田惟政の墓がここにあるとは知りませんでした。例によって、墓場の中をグルグルグルグル。惟政の墓は江戸時代に高槻城中で見つかったモノをここに移したということです。
同じ墓場の中に伊勢廟(何か女性が座っているような形をした石が中にある)と高槻藩主永井氏が建てた顕彰碑があります。撰文が羅山というのは気に食わぬけど、永井氏はエライ!また、今のところ、誰もそのことには触れていませんが、文永年間の坊さんの墓を見つけました。これが本物なら記録モノです。師匠も、「オレの見た石碑類では一番古いぞ。」とちょっとビックリ。
伊勢寺、紅葉すればさらに見事と見ました。何やかやと予定が詰まっているけれど、何とか来れぬものかと思います。思えば、かつて近くの能因塚で「山里の春の夕暮れ来てみればいりあいのかねに花ぞ散りける」という歌に合わせるように鐘がゴーンと鳴って驚いたことがあるのですが、それは伊勢寺の鐘であったようです。
伊勢寺からは今ひとつ別の寺を訪ねる予定でしたが、分からんようになってしまいました。西国街道近くに出て自動車道となっている隧道の上に登れば、埴輪が並んでいました。昼神車塚古墳です。古墳を一旦切って、道路を造り、道路に屋根を付け、その上にもう一度土を乗せたようです。喜ぶべきか悲しむべきか?

ここに至ると振り出しのJR高槻駅はすぐそばです。いつもの店で飲みましたが、本日もまた充実した一日になりました。知らぬこと、分からぬことを学び、酒を飲む。小人閑居して不善を為すといいますが、なかなか退屈している暇がないから悪いこともできません(笑)。1万字の制限が近づいてきましたので、本日はこれにてお開きであります。大阪城、歴史ウォーク+伊勢寺など、今日は完全に師匠の術中にはまったなあ(笑)。
「おい、大阪城で多聞櫓などを公開するでぇ。」と師匠から連絡、最近師匠は大阪城内をかなりウロウロされていますから、その成果も聞けるかなと先ずは大阪城の散歩です。
大阪人ですらよく言う言葉、「大阪城?何にもないでー。天守も復興やし。…」、これは間違いです。石山本願寺や豊臣氏の大阪城の痕跡は殆ど残っていませんが、徳川氏の大阪城、近代の遺産などはたくさん残っています。小生もこのことに改めて気がついたのは近年のこと、ここは謙虚に勉強を続けたいと思っています。
前置きはさておき、本日は大阪城ホールがある方、青屋門から場内に入ります。ここから眺める石垣が最も城の偉容を物語るように思います。先ず門外には大阪砲兵工廠の碑。この辺りは戦後も久しく整備されずに放ってあったところです。


第4師団司令部が置かれていたところですから、大東亜戦争中は無差別爆撃でむしろ女子供を殺すことに狂奔していた米空軍、ここもたまに攻撃を受けました。石垣に残るのは戦闘機による銃撃の跡?師匠はつぶさにこれらを調べ、教えてくれます。以下全て師匠にうかがったことです。

復興天守閣、バカにするつもりはありません。随分と立派になったことを喜んでいます。その天守閣のすぐ横に謎の斜面。

地図で配水池とあるように、これは大阪市の最初の水道で利用された貯水池でちょっとした近代化遺産です。都島で取水・消毒された水道用水は一旦この配水池に送られ、ここから大阪市内に供給されていました。今も一部の地域については現役です。
天守閣の石垣にも被災の跡、どのような衝撃を受ければこのように石垣が凹むのでしょうか。別の面にはナパーム弾の油がついて燃えた跡もくっきりと確認できます。

本日最初の特別公開は金蔵、文字通りの「かねぐら」です。時代劇などでは御金蔵と言われていますね。日本でただ一つ残る幕府の金蔵です。中では一部床板を外してありましたが、床下にもびっしりと50センチ×100センチぐらいの石が敷き詰めてありました。防犯もさることながら、金の重みで床が下がるのを防ぐためということです。うらやましい。この御金蔵、江戸期を通じて一度だけ盗難があったようですが、派手な御金蔵破りではなくて、主人についていった中間が主人の隙を見て入り込んだというものです。


金蔵の横は第4師団司令部跡、久しく大阪市立博物館として使われていた建物です。その機能は大阪歴史博物館に移りましたが、あの不細工な建物に比べたらこちらの方が2万倍は素晴らしいのに。


司令部の前に大正14年に建てられた臨時陸軍病院の碑、詳しく調べてはいませんが、西南戦争時のことでしょう。これは真田山陸軍墓地の創設にも関係があることです。

師匠発見の地下壕入り口?濠に面した石垣の横にいきなりブロックで遮断する壁が作られています。空堀をのぞき込めば、そこにも地下壕の入り口でこちらは公に発表されています。

謎の遮蔽物

師匠の最近のテーマは、仁丹の住所表示とラヂオ塔、場内にさすがに仁丹の住所表示はありませんが、ラヂオ塔はいっぱいあります。大阪城天守閣の下で、それイチ、ニノ、サンと体操をしたのでしょう。

上部がはずされたラヂオ塔

上部も残っているラヂオ塔
桜門を出て、大手門方面に向かえば赤煉瓦の塀、大阪陸軍兵器補給廠の遺構です。中は今は管理事務所としてプレハブが建っています。補給廠の建物はいつの間にか取り壊されたようです。この赤煉瓦の中を通って多聞櫓に入ります。


今多くの城跡では、石垣だけが残るところが多く、何かその姿が自然なように思えてしまうのですが、往時は石垣の上に建物が建てられていて、防御施設の一翼を担っていました。この櫓という建物、京都などでも戦国期には大きな屋敷の四隅に人が登って周囲を見張ることの出来るものが作られましたが、それをより実用的にしていったもののようです。
中は意外に広くて、兵たちが待機する部屋が内側に、外側には石落としや鑓落としが作られています。


多聞櫓に引き続いて、千貫櫓に入ります。当たり前といえば当たり前ですが、今更ながら城は要塞なのだと気付かされます。

銃を撃つ

矢を放つ

鑓を落とす
諸兄、以後城の門の下を通るときには要注意!誰かが鑓を落としてくるかも知れませんぞ。とまたまたアナクロニズムが出てしまいましたが、今は物を落とせぬようにガラスがはめられています。

これも今更ながらに気がついたのですが、櫓の壁の浮き出ている部分は、出窓などというのんびりしたものではなくて、石落としや鑓落としを作るためなのですね。


さて、大阪城に別れを告げ、高槻に向かいます。小生にしては珍しく慌ただしい移動です。


これもラヂオ塔
座ってから出てくるまでが2分、昼飯代わりのざるうどん、食うのに2分、パンと金をテーブルに置いていきたいのに、レジでの精算に2分もかかりました。午後は12時40分にJR高槻駅前の本山寺道標に集合です。

高槻市のしろあと歴史館主催の西国街道と周辺の寺社ウォークに師匠が申し込んで下さったものです。西国街道についてはこの辺りはかなりウロウロしているのですが、周辺の寺社については疎いのでちょっと参加してみようということになりました。
集合地点からすぐの所に明和4年(1767)の広智寺への道標。田沼意次の運勢がいよいよ最後の高みへと登っていこうとする時代ですね。芥川の宿が近づくに連れて、趣のある家も増えてきます。


芥川一里塚は、この間来たばかり、本陣の跡を学芸員の方に尋ねましたが、どうやら分からないようです。

橋のたもとの地蔵堂、これは東側のもので橋を渡った西側にも地蔵堂があります。愛宕灯籠も見えていますね。

お馴染みの金比羅灯籠、ここから金比羅さんまでは63里、芥川沿いに唐崎までは歩いて行き、唐崎からは淀川を下る舟に乗りました。大阪に出たら何かと物入りですから、江口で神崎川を下る舟に乗りかえたのかも知れません。どこの港から四国に渡る舟に乗りかえたのでしょう。近くには神峰山への道標。


橋を渡ったところで、強い雨が降ってきました。基本手ぶらの小生は傘を持っていません。1キロほど戻って傘を買いに行くこととなり、参加している皆さんとはしばらくお別れです。「高槻に田舎有り」、コンビニが全く無いことに改めて気がつきました。
傘を手に入れた後、芥川に沿って北上します。伊勢物語に、都から業平がさらってきた女が鬼に食われてしまう話がありますが、どの辺かな。阿久刀(あくと)神社は物部系の豪族阿刀連(あとのむらじ)の氏神を祀るお宮さんです。芥川の名もここから来ているそうです。

地図もちゃんともらっているのに、しっかり間違えました。どこまでいってもご一同に追いつかぬうちに神服神社まで来てしまいました。服部氏の総氏神です。世に言う「秦氏」というのは、一つの氏族をいうのではなくて、いくつかの氏族の連合体のように思われるのですが、服部氏などの事績も結局は何か得体の知れぬ「秦氏」の中に組み込まれていったような気がします。
社務所の人に「40人ぐらいのジーサン集団が来ませんでしたか?」と尋ねたところ、「いや、見てませんよ。」という返事、あーどこかで追い抜いたなあと思った瞬間、入り口の鳥居のところにジーサン集団登場です。ウォークの予定表を確認すると小生は笠森稲荷を見逃し、集団は阿久刀神社を見逃しました(雨が降っていたのでカットしたと云々)。

神服神社

御本殿
歴史ウォークの最終目的地は安岡寺、北摂の山間地域に多くある光仁天皇の皇子である開成(かいじょう)皇子が開いた寺の一つです。惟喬伝説の摂津版のようなもので、その真偽は分かりません。けれども、この地域では例の勝尾寺も含めて、このことを深く信じてきました。安岡寺はなかなかの名刹で、客仏の平安時代の十一面千手観音座像を拝観させて下さいましたが、実に美しい御姿でした。学芸員の皆さん、どうもありがとうございました。

「皆さんバスで帰られますよね?」という学芸員の方の期待に反し、「わしらはまだまだ歩くでー!」ということで、伊勢寺に向かいます。百人一首にも歌がある平安時代の女性「伊勢」が隠遁したというところです。伊勢は宇多天皇の妻でもありますから、菅原道真などと同時代の人ですね。宇多天皇の息子の妻でもある???、後世、能因法師が伊勢を慕って自らもこの地に住んだことも知られています。

伊勢寺参道


伊勢歌碑1
難波潟短き葦の節の間もあはでこの世をすぐしてよとや
寺の中に入ると、禅寺特有の引き締まった、そして清浄な空気に充ち満ちています。「ええ寺やのう!」を連発です。

本堂

庭・楓は未だ青い

伊勢歌碑2
見る人もなき山里の桜花ほかのちりなんのちにさかまし
他にも伊勢桜や筆塚など見るべきものも多くありましたが、白井河原合戦で討ち死にした和田惟政の墓がここにあるとは知りませんでした。例によって、墓場の中をグルグルグルグル。惟政の墓は江戸時代に高槻城中で見つかったモノをここに移したということです。
同じ墓場の中に伊勢廟(何か女性が座っているような形をした石が中にある)と高槻藩主永井氏が建てた顕彰碑があります。撰文が羅山というのは気に食わぬけど、永井氏はエライ!また、今のところ、誰もそのことには触れていませんが、文永年間の坊さんの墓を見つけました。これが本物なら記録モノです。師匠も、「オレの見た石碑類では一番古いぞ。」とちょっとビックリ。
伊勢寺、紅葉すればさらに見事と見ました。何やかやと予定が詰まっているけれど、何とか来れぬものかと思います。思えば、かつて近くの能因塚で「山里の春の夕暮れ来てみればいりあいのかねに花ぞ散りける」という歌に合わせるように鐘がゴーンと鳴って驚いたことがあるのですが、それは伊勢寺の鐘であったようです。
伊勢寺からは今ひとつ別の寺を訪ねる予定でしたが、分からんようになってしまいました。西国街道近くに出て自動車道となっている隧道の上に登れば、埴輪が並んでいました。昼神車塚古墳です。古墳を一旦切って、道路を造り、道路に屋根を付け、その上にもう一度土を乗せたようです。喜ぶべきか悲しむべきか?

ここに至ると振り出しのJR高槻駅はすぐそばです。いつもの店で飲みましたが、本日もまた充実した一日になりました。知らぬこと、分からぬことを学び、酒を飲む。小人閑居して不善を為すといいますが、なかなか退屈している暇がないから悪いこともできません(笑)。1万字の制限が近づいてきましたので、本日はこれにてお開きであります。大阪城、歴史ウォーク+伊勢寺など、今日は完全に師匠の術中にはまったなあ(笑)。
しかし、さすがは徘徊堂師匠の恩師の大師匠です。見る所はしっかり観ておられる様です。京都の仁丹標識の探索でも、地元に住む輩より遙かに熱心で、且つ、大成果を挙げて居られるのではないでしょうか。
大阪城の石垣には、かくも凄まじい空襲の痕跡が残っていたのですか。大阪の空襲は昭和20年に7回か8回あったと思います。我が家は3回目くらいの6月初めの空襲で、大阪方面に物凄い煙が立ち上るのを見て、父が慌てて丹波の親戚を頼って疎開を決めました。相次ぐ空襲の火の手(煙)は、亀岡からも見えたそうです(後日談ですが)。
大阪造幣工廠の焼け跡の窃盗団の話は、読まれたと思いますが開健(日本三文オペラ)や小松左京(日本アパッチ族)が書いています。今や、空襲の痕跡さえ歴史の遺産となってしまいましたが。
地下壕は、崩壊の危険性があるから閉鎖されているのかも知れません。世界遺産の足尾銅山の坑道などは見学可能ですから、大阪城の地下壕も補強して見学させれば宜しいのに。橋下が市長になればやりますかネ。
それにしても、ラヂオ塔がかなり残っている様ですが、京都ではついぞ見掛けませんでした。やはり、何処かに残っているのでしょうか。私達も名和公園でラジオ体操をしましたけど、ラジオではなくて班長の号令でした。この塔も今や立派な遺跡なのでしょう。
石落とし・鑓落とし・銃眼などは、時代映画でも克明に映した作品は余りないみたいです。黒澤の「影武者」では見ましたが。以後、城門下を歩く時は注意しなくては。桃山城は大丈夫でしょうけど。
芥川はこの前に行ったばかりですが、今回の記事を読んであの時は伊勢に出逢うコースでなかったのが、残念な気がしなくもありません。
才色兼備(の筈の)伊勢の歌は、学校では「葦の節と節の間の様な短い時間でよろしいから逢いたいのに、貴方は逢わないで此の世を過ごせと仰るのでしょうか」と習いました。
しかし、本音は「この夜に私を強く抱きしめてほしい」の意である、と時間外に習った様な記憶があります。大師匠の解釈は如何なものでしょうか。寺の本堂は改築したのですか?伊勢の歌碑は質素ですけど。
途中で雨には遭われましたものの、相変わらず充実した一日で、素晴らしい徘徊録を有り難うございました。大人繁歩して大善を為すでしょう。
「伊勢偲び浪花の夜の旨し酒」道草
大阪城ホールの辺りは今でこそきれいになりましたが、お書きいただいたように戦後ずっとほったらかしにされていたところですね。この辺りから京橋まではすっかりとビジネス街にもなりました。
近年の大阪城のお勧めは梅林です。これは見事です。石垣の上から眺めることができます。また機会があれば計画しますね。
伊勢寺、広大な墓がお寺の収入源でしょう。本堂もきれいでしたし、隅々まで掃除も行き届いています。この辺りは能因塚もある古曽部の集落ですが、農家も一軒一軒が大変豊かな感じで、しかも近年になって土地を売ってという感じでもないので、何が産業としてあったのだろうかと思いました。
付近には墓誌も出た石川年足の墓もあるのですが、完全に民家の中に入ってしまっていると学芸員に教えてもらいました。もし教えてもらっていなかったら多分こいつを探してグルグルグルグルと歩き回ることになったと思います。いつも行き当たりバッタリの徘徊が多いのですが、きちんと情報を得ておくことはやはり大事ですね。
京都のラヂオ塔、小生は柳公園のものしか見ていませんが(船岡山のものは見ているはずですが記憶にありません)、師匠によるとあちらこちらに残っているようです。これも何か公園の改修工事などが行われると真っ先にコワされていく感じですから今のうちに見ておきたいですね。
大阪の空襲は幼いながら怖いと聞かされていました。地下壕は何時だったかテレビ放映で見ましたが綿密な構造になっているのに驚きました。
あらあら迷子になられたのですか?迷子さんをさっと引き寄せたのは美女の伊勢だったようですね^^「難波潟の芦の節の間のように短い間さえも、あなたに会わずにこの世を過ごせとおっしゃるの」と習った様な。いいお寺ですね。美人になれるならお参りしょうかしら(笑)
ラジオ塔は全く知りませんでした。
仰る様に石垣の雄大さは大阪城ホール少し南のあたりからの眺めがいいですね。あそこは我が運動会や野球の思い出の地でもあります。空堀には何か遺跡が残っていないのでしょうかね。司馬遼太郎の「城塞」を読みながら思案橋(本名は何という橋でしたっけ?)から大手門へ歩く描写などなつかしく思い出し始めました。
先日訪れた金沢城も確かに壮大な印象ですが、大阪城に比ぶれば、というところでしょうか。太閤さんは壮大な城を造ったものです。
しかし師匠殿は大阪城に大分入れ込んでおられる様で結構なことでございます。
話は全く飛びますが、今日からSoftBankの3Gというサービスでネットに接続しています。これは快適ですね。ネット接続のイライラは解消されそうです。
ああ大阪城、また行きたくなりました
梅林、もう既に行っておられたとはさすがです。梅林の中もさることながら、梅林全体を見渡せるスポットがあるというのは珍しいですね。今後ますます有名になっていくと思います。
掛川城は未だ行ったことがありません。江戸の徳川氏に備えて、豊臣秀吉が子飼いの大名を東海道沿いに点々と配置しましたが、その一つですね。結局秀吉の目算は外れてしまい、関ヶ原の際にはこれらの大名が全て徳川氏に味方してしまいましたが。
伊勢寺や能因塚は、JR高槻駅からでも十分に歩いていけるので、簡単昼から徘徊とでも名付けてまたウロウロしましょう。季候が良くなってからがいいですね。
真田丸の跡は、真田山一帯で墓地になっているみたいですね。陸軍墓地ツアー(何とボランティアガイドが墓にいるそうです)は師匠のお薦めなのですが、小生は基本的には墓地はキライなのでずっと遠慮しています(笑)。
先日、師匠から聞いたことなのですが、「遺跡はなぜ埋もれるのか」ということについて、やはり前の建築物の跡に土盛りをして新たな建物を建てることが第一の原因だそうです。豊臣氏の石垣は、一部見える穴がありますが、石山本願寺となると天守台からひっくり返さねば難しいようです。スゴイものがイッパイ埋まっているとは思います。
金沢城は、兼六園しか覚えていませんが、金沢大学がすっぽりと収まっているところですね。金沢自体は、井上靖の「北の海」のファンである小生にとっては別の意味の聖地(笑)で、一度ゆっくりと徘徊したいと思っています。
大阪城の跡で、空堀の辺りを呑気にブラブラと歩くのもいいですね。