花洛転合咄

畿内近辺の徘徊情報・裏話その他です。

貝塚散歩

2009年11月09日 | 徘徊情報・和泉国
 一口に泉州と言っても、岸和田と貝塚では住民の気質なども大きく異なるそうで、一般の「泉州」のイメージは岸和田が代表しているようです。城下町岸和田に比べ、寺内町貝塚は、一般の「泉州」のイメージからすると随分とおとなしい感じがします。
 近年、例えば南河内の柏原市なども駅前再開発とやらで町の無味乾燥化が進んでおるのですが、貝塚は未だにそういうこともされておらず、南海電車の貝塚駅から少し歩くとしっとりとした寺内町に入り込むことができます。後ほど水間鉄道に関しても触れますが、極めて好ましい意味で、大阪府北部の私鉄沿線に比べると30年程度遅れている。遅れているという言い方が失礼ならば「時が止まっている」感があります。
 地内町の中心は願泉寺、石山合戦の後に顕如が一時期ここを本願寺としていたこともあるという寺で、真宗寺院のご多分に洩れず広大な本堂を有しています。現在は平成の大修理とやらで、境内は全くの工事現場と化していますから、修理の終わる平成23年を楽しみに待ちましょう。
 この寺内町の環濠の一部を残しているのが、当時環濠の外に造られた感田神社、写真の碑は少々見にくいのですが、日露戦争の記念碑です。「明治三十七、八年戦役」と記されており、その表現が何か重みを加えています。最近の小学校の教科書など「日ロ戦争」等という呆けた表現になっていますから。熱心な門徒は、阿弥陀如来以外の神仏には参らない(蓮如なども、その必要がないと言っている)ということですが、感田神社は寺内町の産土として大切にされているようです。寺内町の町並みは下のような感じです。
    
            

            

            
            感田神社

            
            環濠跡            

 さて寺内町の徘徊を終え、少しばかり東に歩くと、熊野街道に面した「半田の一里塚」が残っています。大阪の高麗橋には里程元標が残っているのですが、この半田の一里塚の石柱にも「高麗橋より三十二里…」と記されていて、当たり前と言えば当たり前なのですが、「おー、つながった。」と少し嬉しくなります。ため池の横という場所がよかったのでしょうか、塚自体は非常によく残っています。

            
            半田の一里塚

 水間寺へは、水間街道が昔の様子を残しながら続いていて、この街道を漫ろに歩くのもよいのですが、水間鉄道もまた乗る価値のある電車です。多くの鉄道では、切符にハサミを入れるというのは死語となっていますが、水間鉄道の場合は、車中で車掌が切符を売りに来て、切符の行き先や日付の所にハサミを入れてから渡してくれます。残念なのは、到着時の駅名などがテープで案内されていることで、昔の叡山電鉄が「次ぃはー、ちゃやまあ、ちゃやまあ。」とやっていたように、車掌が声をはりあげながら回ってきたら100点満点というところです。それでも、変にモダンになってしまった他の中小私鉄に比べると旅情が身に付くよい鉄道です。写真は石才駅です。

            

 水間寺は、この近隣では最も有名な寺です。

            

            
            水間街道に沿って

 西鶴の「日本永代蔵」の第一話が、水間寺で金を借りて成功した男の話です。縁日に来れば、往時の雰囲気が今も味わえるのではないかなと思われますが、銭を借りる人が列をなしたとまではいかないまでも、参拝客で結構賑わっています。「お夏清十郎」の墓には往年の林長二郎と田中絹代の名が刻まれています。けれども近くのお夏清十郎の由来を記した石碑をよく読むと西鶴が書いた話とは全く別物です。我が友人曰く「西鶴は、まあここへきたんやな。それでお夏清十郎という名を知った。五人女を書く際に姫路の話にこの名前を持ってきたんや。」と。さもありなん、姫路の男女、女が「おとら」で男が「ためごろう」とかでしたら、悲劇が喜劇になってしまいますから。それにしても、全く違う話なのに、大金を払って墓を整備する、以前の映画界も随分とおおらかなものでした。御両人とも、そのようなことは一切ご存じなかったでしょうね。
 近くの水間公園は、人影もなく寂しいのですが、よく整備されています。けれどもここを山のままで置いておいた方が、水間寺の威厳はより保たれたように思われます。同様に寺の横を流れる渓流も、これに沿って道路が造られているために神秘性が失われてしまっています。「聖観音出現の滝」なども、罰当たりなことですが行ってみたら苦笑して返って来ざるを得ない。
 さて、呑むところですが、駅前でもチェーンの居酒屋など1軒しかない奥ゆかしさ、けれどもその一軒で呑んでしまうところに小生の修行不足が解りますね。

            
            水間公園            

 (08年11月記に加筆して再録)
       


4 コメント

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懐かしの社内検察。 (道草)
2009-11-09 13:25:35
私は西鶴などには無縁で、お夏清十郎が脚色されたものかどうかは知りませんが、

>歴代の文學に朧を讚へたものが多い。清少納言が枕草紙に「春は曙、やうやう白くなり行く 」といひ、兼好が徒然草に「月は隈なきをのみ見るものかは」といひ、西鶴が「笠がよう似た菅笠が」といふ。お夏清十郎の情趣も「朧」の骨子を立ててゐる。上田秋成の雨月物語に至つて「朧」の美は極致に達する。 日本女性には「朧」のところがあつて性格美を潤澤ならしめてゐる。「いはぬはいふにいや増る」といふ氣質にして、もし、正當的確な眞情の表現をなし得るなら、これこそ最も日本女性の氣質的好標であらう。(「朧) 岡本かの子」。<

と古来の日本文学の端くれに貢献しているが如き読み物もあります。水間観音の名はよく耳にしますが、水間鉄道はまだCP化されていないのでしょうか。
切符切りの車内検察など実に懐かしい光景です。その昔、車掌の目を如何に掻い潜ってキセルをするか、に日夜懸命に腐心したものです。自動改札化されて、今ではそれも昔日の夢となりました。やはり最近はキセルなど不可能なのてむょうか。徘徊堂さんは、酒道に加え煙管道にもお詳しいのではないか、とつい失礼してしまいました。
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水間鉄道 (gunkanatago)
2009-11-09 15:42:11
 道草様、コメントをありがとうございます。朝夕のラッシュ時など、キセルなどをたくらむ中高生がいるかも知れませんが、昼間は車掌さんから見て社内は一目瞭然の世界、誰がどこから乗ったとかいうのも全部心得ているのではないでしょうか。大手の私鉄などは、使えるカードの多様化によって検札自体が無くなってしまいましたね。
 近年、このような小さな鉄道は「ネコ駅長」によって随分と救われているようですが、水間鉄道には未だ「ネコ駅長」はいません。雰囲気は30年前の能勢電鉄という感じですが、決して揶揄しているのではなく、好ましいものと思っています。後は、踏切ごとに「踏切番」のおっちゃんがいれば嬉しいのですが。
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街中良さそうですね (mfujino)
2009-11-10 15:18:38
gunkanatagoさま、貝塚は通るのですが街中を歩いたことありません。水間観音は大学時代にヨットに乗せてやると友人に誘われ一泊だけ合宿小屋で過ごしました。その時花火大会があるからと夜に訪れたのを思い出します。また西国観音めぐりでも2回ほど訪れました。寺内町や環濠跡がありなかなか面白そうですね。しかし水間観音とくれば今東光和尚のことが出てこないのは残念でありました(^_*)それと泉州といえば水茄子であります。この美味しいぬか漬けは我が大好物です。
堺市から南の、泉大津・岸和田・貝塚・泉佐野といった町の北からの順番がどうも完全に頭に入っていず、泉州といえば同じイメージを持ってしまうのですが、、、。岸和田の人がだんじり祭りに対する思い入れが尋常でないことは感じたことがあります。
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水茄子 (gunkanatago)
2009-11-10 19:12:42
 nfujino様、コメントをありがとうございます。水茄子は本当にうまいですね。けれども、やはり旬に食べてこそのもので、以前、冬に四天王寺の近くの水茄子専門店で水茄子の古漬け、店のおばちゃんがもの凄く熱心に言うので、2袋も買って帰って食べたところムチャクチャまずかったことがありました。これからしばらくは、水茄子は辛抱です。
 貝塚は、本当に見直しました。大阪北部の池田や兵庫東部の川西、宝塚などでは、もはや消え失せてしまった料亭もきちんと続いています。何か京都かしからずんば貝塚かというような感じでデーンと構えています。それでも、日紡貝塚からユニチカへと名を変えたご当地企業の撤退で、経済的にはどん底だそうです。
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