花洛転合咄

畿内近辺の徘徊情報・裏話その他です。

北浜から口縄坂へ

2009年11月02日 | 徘徊情報・浪花
 今回の徘徊は、新世界の串カツという、しっかりとした目的がありますので「徘徊」の名に値せぬやも知れませんが、まあ北浜辺りからボチボチと歩こうという趣向であります。出発点は以前にも申し述べました少彦名神社、堺筋の少し東と言うことになります。道修町という薬の町の守り神でありますが、「神農さん」と言った方がよく通じます。中国の神話と日本の神話のごった煮でありますが、江戸期の薬問屋の会所仲間が両者を併祀したそうで、商い以外のことには融通無碍な浪花商人の気質がよく現れているように思われます。京都の五条天神や北白川天神宮、大阪の服部天神等の菅原道真以前の古い形態を残す天神社は概ね少彦名命を祭神とするところが多く、この神は本来「大神」と呼ばれるべき由来を持つ神であったように思うのですが、記紀神話では寧ろ滑稽な役回りをさせられています。神農氏は中国の三皇の一人でありますが、三皇五帝までは人間の形をしていない全くの異形の神であります。道教の神として漢方薬の輸出に携わった明国人や清国人が信仰していたものを日本の商人も受け入れたものと考えられます。少彦名自体も本来は4~5世紀に渡来した帰化系氏族が崇めていた神やも知れませんが、千年以上の時を経て両者が合祀されたとはなかなかロマンであります。おっと串カツ串カツ!
 堺筋より東のこの一帯、見るべきものは多いのですが、本日は浪花教会の裏側だけを見て先をば急ぎます。

          
          浪花教会・煉瓦作りのビルの左に尖塔部だけがちょこっと。

少し北に向かい、今橋筋を歩きますと、ここいらは江戸時代には鴻池の本宅や平野屋、天王寺屋といった両替商の店が並んでいたところです。天王寺屋五兵衛と平野屋五兵衛、二人合わせて十兵衛横丁などはホンマに落語かいなという塩梅ですが、そういえばこの辺りはかつてはクロという立派な犬が仕切っていた処でもありますなあ(鴻池の犬)。親類の食(めし)の旦さんでも凄まじい散財、御本宅の威光というのはどんなんでおましたんやろ(莨の火)。おっと串カツ串カツ!

          

          
          後ろは開平小学校(旧集英小学校)

 そのまま高麗橋を抜けて、真っ直ぐに行きますと銀座跡、銅座の跡は愛珠幼稚園の前に碑があり、大変目立つのですが、こやつはともすれば見過ごしてしまう感じです。

          

 松屋町筋を南下します。マイドーム大阪の前に西町奉行所跡、例の大塩はんは東町の与力であったそうです。短慮なことをしゃはった時にはここらも何もかも丸焼けー、以前に見た守口の白井家など先代は磔、当主は遠島で、世話になった人をたくさん不幸にしておいて、こういうのは義挙とはいわんやろと申す処。このマイドーム大阪というやつは、大阪国際ホテルの跡地に立っています。その前が府立貿易所跡とやらで商工会議所の会頭を務めた三人の爺さんの銅像が隅の方に並べて建てられていますが、なんか三首塔みたい。おっと串カツ串カツ!

          

 市内最古の橋である本町橋をひやかして、そのまま谷町筋の方に登っていきます。もうすこし南に行くと、身投げの名所「安堂寺橋」なのですが、本日はカット、身投げ希望の方には、またご案内します。谷町三丁目を南に行くと、西鶴終焉地、本日は東に参ります。左手に舍密局跡、その隣は大阪府警。上町筋に出て北の方を見ると天守閣が小さく小さく見えています。

          
          舍密局跡

          
          天守閣はどこでせう。

 この辺りは、難波宮跡です。孝徳朝と聖武朝の宮跡が発掘・整備され、平生は静かな遺跡公園になっていますが、本日は中央区区民祭とやらでワイワイとやっておりますので、その縁(へり)を通るのみ。「またも負けたか八連隊」で知られる第8連隊跡の碑の横を通ります。

          

 上町の交差点にあるのが、大村益次郎の殉難碑、京都で暴漢に襲われた大村益次郎はこの近くにあった大阪假病院で足を切断する手術を受けました。まあ、こねくりまわされたあげく結局は助からんかったのですが。それにしても、昭和15年に建立された碑の発起人、そうそうたるメンバーが並んでいます。写真はその一部に過ぎません。発起人の名を見ているだけで随分と時間がたってしまいます。火吹きだるまと呼ばれた大村益次郎を主人公とした司馬遼太郎の「花神」、大河ドラマとなって随分と評判は悪かったようなのですが、小生は最も秀逸であったと思います。おっと串カツ串カツ!

          

          

 谷町筋に戻り、近松の墓はお約束、空堀の商店街に入っていきたい欲求を抑えてちょっと南下し、西に入ると高津さんです。

          

          
          高津神社

 絵馬堂茶屋に絶世の美男美女がおるはずなのですが、絵馬堂茶屋そのものが見つかりません(崇徳院)。鳥取の大金持ちをカタるおっさんも今日は来ていないようです(高津の富)。かつて名物であった黒焼き屋も一軒も残っていないのですが、何故かほっこりとする空間ではあります。うそやおまへん、ほんまやでー。

          
          民のかまどは賑わいにけり

 高津さんの少し南、大坂七坂のうち最も北にある真言坂を登れば、生国魂神社すなわち生玉さんであります。大天才西鶴が本日も朗らかにお出迎えー。一昼夜に二万数千句の俳句を作ったのは、住吉さんでの話ですが、この生玉さんでも数千句の俳句を作るショーを実演しています。それにしても、盲目の娘を抱えつつも、元禄の世を明るく明るく生きた西鶴には本当に感動させられます。幕府は結構身障者には細かい配慮をしておりましたが、それでも現代には到底及びません。今は盲目=不幸とは言い切れませんが、当時は何かと大変でしたでしょう。「何で賽銭箱やねん。」と思いつつも、幾分の御奉謝は…と申す処。おっと串カツ串カツ。

          

          
          ご本殿

 同行の師匠に指摘されて、おもろいなーと思ったのですが、このお宮さんは玉垣を見ていても飽きることはありません。大正15年の石碑には、世界一周をしたというおっさんが、15ポンドを奉幣したと記されています。もらった側は「なんじゃいな」と思ったことでしょう。天神社に掲げられた算額も興味深い、池からはごっつい食用蛙が出てきて迎えてもくれます。サントリーも未だ「壽屋」でっせ。この鳥居はやっぱりサントリイというのでしょうか?信治郎さん、「やってみなはれ」で子孫が青いバラを売りよるとは思っても見なかったことでしょう。小西ボンド(北浜に町屋が残る)の丁稚から洋酒王へ、やはり立志伝中の人物であります。おっと串カツ串カツ!

             
             ポンドで御奉納

           

             

 参道を南に出れば、連れ込みホテル街で、こういう取り合わせがたまりまへんなあと申す処。源聖寺坂を登り詰めた辺りにあるうどん屋、客も亭主もグーグーと昼寝、いいところです。ガタロ横町と言ったのはこの辺りでしょうか。もう少し暗くなれば、タチンボのお姉ちゃんが並ぶのでしょうか。おっと串カツ串カツ!
 織田作所縁の口縄坂を経て、家隆塚、愛染さんへ。家隆塚は、何やら綺麗に整備されています。この付近には陸奥宗光縁の地蔵さんもおられます。

          
          口縄坂

             
             家隆塚にある碑

 愛染さんの本堂の裏手には見事な多宝塔があります。豊臣秀吉建立のこの塔、よくぞ戦災にも無事で残ったものです。愛染かつらの木も元気ですが、本日は津村浩三医師も高石かつ枝さんもお見えにはなっていないようです。後、大江神社、安居天神と立ち寄っているのですが、頭の中は串カツのことしかありません。夕陽丘でありますが、夕陽には未だ日が高い。みんなで口を開けて「ボー」と日の入りを待つという案は、当然却下されました。ホネの要塞「一心寺」を左手に見て、新世界へと向かいます。

             

             

 今回、新世界には久しぶりに足を踏み入れましたが(15年ぶりぐらい、ちょっと気が付くといつの間にか歳月がたってしまうのでタチが悪い、こうなるとローテーションを組んで月=新世界、火=京橋、水=池田、木=高槻、金=京都、土=近江、日=北山等とお気に入りを巡ることをやればいいのですが、ありゃー大和が入れへんし、難波も九条も忘れてる。十三もおまっせ。神戸方面も捨てがたい。時間的にも今はまだちょっと無理。)、様相は一変しておりました。かつて70円で馬券が買える店で牛すじ定食・味噌汁付き80円などを食べておった頃は、道行く人の大半はアル中のおっさん、酒の飲み過ぎで骨がスカスカになって、みんながみんなチンバをひいてヨタヨタ、ヨタヨタという感じでありましたが、何と何と若い女の子が串カツ屋の客引きをしているではありませんか。わびしい景色の代表だった通天閣に並ばんと登れん?「エーッ!」というところです。見れば家族連れ、若い女の子だけでウロウロしているのも多い。流石に1串20円という串カツは姿を消しているのですが、スマートボールなどはそのまま残っています。以前は目立ちに目立った大衆演劇の劇場、串カツ屋の中に埋没しているではないか。女物の振り袖を着てカラオケをやっていた爺さん連中、死に絶えたのかな?ヤクザの喧嘩をポリさんが仲裁しているのに出合ったのが、かろうじて以前の新世界を思い起こさせるのみ。
 健全な街、新世界で食った串カツ、やはり「おはぎ」の串カツが本日の白眉。甘いアンコとビールの苦みが口の中でグチャグチャになって、新世界の変容に混乱した頭には良い刺激となったのでありました。チョコレートのかかったバナナの串カツと日本酒の組み合わせも絶妙でありました。

 (09年10月記)

             
          


4 コメント

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あゝ串カツの旅。 (道草)
2009-11-02 13:56:39
「串カツ訪ねて三千里」ですか。マルコ少年のたび変じて、マルオ小父さんの長旅を満喫させて戴きました。旅芸人のペッピーノに代わって、串カツ屋のペッピーンの姉ちゃん登場で、目的地へ無事に辿り着かれてナニよりでした。
私はミナミ10年キタ15年の勤務経験がありますが、新世界へは残念ながら行ったことがありません。西町奉行所跡の石碑は見た記憶があれます。東町奉行所だったかも・・・。
それにしても、ナンとも価値ある串カツですねぇ。これだけの紆余曲折を経てと言いますか艱難辛苦を乗り越えてと申しますか、波乱万丈の苦節十年にも匹敵する努力と熱意を注いでゲットした串カツ。串カツサイドからすれば、まさに串カツ冥利に尽きるとはこの事なのでしょう。人間側からすれば、よーやるのー、と言うところでせうか。それにしても、この串カツの肉はナニのニクなのですか?
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串カツについて (gunkanarago)
2009-11-02 14:44:56
 道草様、コメントをありがとうございます。昔は、天王寺や新世界の串カツといえば肉の種類についてはグチャグチャ言わないという不文律がありましたし、肉の大きさは8ミリ四方で後はどわーとコロモというところもありました。今はメインは牛串で、豚や鳥はその旨を言って注文します。何も言わずに「串カツ」というと牛串になります。今回、久しぶりに新世界に行って、キタや京都の串カツが如何に高いかを実感しました。キタのある店などナンチャラコース、15串で5250円とか貼りだしてありますが、アホかいなという感じです。昨日行った中書島の立ち呑み屋は1串100円でしたが…。
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行列の店には裏切られっぱなしでしたが (mfujino)
2009-11-03 10:34:47
gunkanatagoさま、 おお、今回は上町台地を縦断でっか。浪速の昔を多く残しているエアリアで我がお気に入りの場所でもあります。自転車で何回通ったか数えきれまへん。我が職場への通勤は堺筋本町下車でありました。また大学も上本町八丁目のオンボロ校舎へ通いました。折角法円坂までいかはったんやったら越中井まで、、語り始めたら止まらへんので、串カツ串カツ、とつぶやきが聞こえてきそうで止めときまひょ。
最近は新世界の串カツ屋事情も変わってきているそうで、一回行ってみるか、てな気分になりました。
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新世界の様子 (gunkanatago)
2009-11-03 15:47:19
 mfujino様、コメントをありがとうございます。mfujino様が新世界に通っておられる頃はもう既に今日の隆昌があったのでしょうか。流石に15年も間があくと、いつのまにこうなったのかということが分かりません。特に有名な串カツ店は長蛇の列です。小生は並ぶのは嫌いですから、混んでもいないし空いてもいない店に入りました。とにかく昔の盛り場が持っていたパワーというか、そのようなものが充満していました。あれが毎土日に続いているとしたら、新世界は今日最も栄えている繁華街ということになろうかと思います。一度ご見聞下さい。落語でどうのこうのと話題になっている池田の商店街などは本当にわびしいものです。
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