京都市右京区嵯峨越畑にある「フレンドパークまつばら」の蕎麦につきましては昨年の暮れにもご報告致しましたが、この店の「天ザル」の天麩羅は地域で穫れた季節の野菜であります。決して得体の知れぬ海老などを使用しない。近年、とある外食レストランなどは非常に安価で「海老増量」などとやっていますが、そういうのは国民のことを「乞食」だと思っている民主党の選挙政策と同じで、皆々そんなものには心を動かされない。
この野菜天麩羅は当たり前ですが、四季によって異なります。前回食うたのは冬のものであるならば春も食わねばならぬと思っておりましたが、いつのまにか季節は夏、やむを得ぬ、夏のものを食いに行こうということになりました。前回ご報告と同じルートで恐縮ですが、やはり2回目となると「ゆとり」が違う。前回に見落としていたものを中心にご紹介したいと思います。
また、小生は直接の当事者ではないのですが、今回の水尾の里散策と越畑への食い意地の旅は里の人の温かい心に触れる旅にもなりました。今回は「野菜天麩羅と蕎麦と酒」に釣られて8キロの道を遠しとせぬ酒飲み4名で出かけました。誰か一人が犠牲となって車の運転をすれば、苦労せずに行ける所なのですが。
さて、いつものように保津峡駅から出発です。本日も我が小隊の他には水尾へ歩こうかという人はパラパラというところです。ワイワイといいながら明智越えの分岐まで来たところ、同行の先生(小生が高校の時の先生)が「ありゃ!ベントウを買っとくのを忘れたわ!」
と衝撃的なお言葉、越畑の蕎麦屋着は3時を予定しているので途中で昼食を取ります。「えー?もうどこにも売ってませんよ。」、「いやあ、水尾に着けば何かあるじゃろ。」…小生は水尾に着いても何も無いことはよく知っていますが、先生は「人の住むところぢゃからおにぎりやパンぐらいは売っとる。」と自信満々です。「無いとオモウケドナー」程度で済ましておきます。
水尾の里の入口まで来ると初老の婦人が二人、道に座って話をされています。道に座っておられるので、普通は不自然に感じるのでしょうが、この場では別段おかしいとも思えません。明るい初夏の日差しの中でご婦人の声が良く通ります。我が先生、「この先でパンとか売ってませんか?」と尋ねますが、即座に「そんなもん、あるかいな!」とつれない返事。小生の心の声は「ほらほら」と。「先生、今日はみんながおにぎりを一つずつくれますよ。そうしなくてはやむを得ませんよ。」等と実際の声。
この辺りの方は買い物はどこに出るのかと尋ねましたところ、「嵯峨」とのこと。昔日、水尾の人々は嵯峨への「米買い道」を通って必需品を手に入れていました。今、その米買い道自体は使われることは無いにしても、嵯峨とのつながりは今もそのままであるようです。
我が先生、婦人がたが帽子の中に入れておられるものを見付けました。「そりゃ、わらびぢゃないかい?」「暇やから話をしもって摘んだけど、わたしは食べんからあげようか?どうせお隣さんにあげよと思っていたし。」。ベントウを忘れたという先生を哀れに思われたのでしょう。大量のワラビを先生に恵んで下さいました。「先生、よかったですねぇ。それだけワラビをしがんだら腹もふくれますよ。」、「アホ言え。」とワイワイ話しております。
水尾の里に入りました。先生は鳥スキの店に入っていって、握り飯を売るようにと無理難題をふっかけています。やってることは殆ど不審者です。米買い道への分岐から清和天皇社に参拝です。
米買い道
清和天皇社
同じところを訪ねても、その時その時の事情が異なりますから、「あれ、こんなもんがあったんや」と新しい発見があるのが徘徊の魅力、清和天皇社では水尾が京都市に編入された記念碑を見付けました。昭和6年(1931年)、満州事変の年です。これと同じものは、この先の樒原の神社にもありました。刻まれている歌などは異なります。その裏面には保津峡駅ができた記念の文も刻んであります。今は、水尾から嵯峨に向かうのは保津峡駅の近くを通る六丁峠越しか考えられませんが、駅の無いころにはやはり米買い道がメインルートだったのです。
向寺の地蔵は謎のまま
清和天皇社の隣が円覚寺、本日はバザーとやらをするとかで賑わっています。「先生、やりましたね。何かありますよ。」「ほうぢゃな。」と喜んだのも束の間、バザーは午後2時からだそうです。「先生、やっぱりワラビをしがむしかありませんよ。」。こういうアホな会話を水尾小学校跡の金次郎君が微笑みながら聞いております。
本日はユズ茶屋も、前回ユズ茶を恵んでもらった店も閉まっています。先生、いよいよ進退窮まった。ところがところが、ユズ茶屋のシャッターが半分開いていて中に誰かがいます。先生は早速駆け込みます。
「握り飯か何か売ってもらえんかなぁ。」、「いゃあ、もうここは店はやっとらんのです。」と中の人が言った瞬間に先生はあるものを見つけました。「それはなんぢゃいな」、見ればスポンジの部分が緑色をしているケーキです。バザーに出すためにほうれん草を生地にを練り込んだケーキを作っておられるのでした。ケーキ自体はバザーに出すということで今は売れぬとのこと。横に大量の…何というのでしょう、布ならば端切れ、端ケーキというか、スポンジの切り取ったのが山と積まれています。
先生、「そしたら、そいつを売って下さい。」と頼むと「こんなもんで金は取れません。どうぞ持って行きなさい。」と目出度き結末。小生もかけらを恵んでもらいましたが、ラズベリーのジャムがのっていてなかなかの味です。この大量の端ケーキが先生の昼食となったのであります。「先生、もうこの辺でテントを張って住まれたらどうですか?里人の厚意で元気に生きていけますよ。」と小生は今回第三者でしたが、何と温かい人々であることよと感動です。
里の外れ、園芸種でしょうが上の如き花が自生している辺りで目出度い昼食、レジ袋いっぱいの端ケーキを食べているのは誰だ。一旦谷に下りてまた登る清和天皇陵に行くことは皆に却下されました。今一人の師匠(こちらも高校の時の先生)は、本日を挟んで3日連続の徘徊ですが(ということは3日連続の宴会もある)、翌日に酒宴で清和天皇陵をパスしたことをご友人に話したところ、なじられちゃったいということです。このご友人というのは祇園さんの長刀鉾関係の人、伝統の中に生きる人ですからさもありなん。
樒原への道は、上の1枚でご勘弁、モリアオガエルが鳴いている道でした。途次、愛宕に登りたいアベックと明智越で道を間違えて神明峠に出てきた青年に道を聞かれますが、自分自身を鏡で見るかの如き青年(道を間違えるプロとして)には特に丁寧に道を教えます。
樒原の集落に入りました。今回、友人に教えてもらった植物はユキノシタ、花の形がもの凄く変わっています。杉林の中をずーっと歩いてきたので、青空が見えると何か開放感があります。
四所神社に参拝、ここで大いに反省、今まで何を見てたんやと申す処。大きな「征清記念碑」があります。これを見逃すとはオレでは無いではないかと。じっと眺めていると「雪の進軍」が聞こえてきそうです。中国が再び「暴戻なる支那」になりつつある今、この「征清」の精神は大切です。トップの写真も四所神社です。
鎧田という名の棚田はちょうど田植えが終わったところ、本当に美しい景色です。四所神社近くには何名かの方がカメラを構えて写真撮影です。さもありなん。
なじみとなりたる道標。「みぎ こしはた かみよし せきすじ」は「右 越畑 神吉 世木 筋」です。
経王塔は右が文化年間、左が嘉永年間のものですが、この地にはどこからか移されてきたということです。少しずつ情報が蓄積されます。あと50回も来れば謎は解けるでしょう。
京都市内最古、明暦年間の棟札が残る河原家住宅を過ぎれば、すぐにフレンドパークまつばらです。今回は越畑の集落内を通りましたので、河原家もよく見ることができました。大きなイチョウです。
「まつばら」の本日の天麩羅には「たらの葉」の天麩羅がありました。酒は越畑で穫れた米を使って伏見の招徳酒造が醸したもので爽やかな冷酒です。常々「お前の報告には料理の写真がないぞい」と言われていますが、料理が出てきたら写真を撮る精神的な余裕を失うのであります。わしらはみんな欠食児童。
まつばらの夏の営業は4時まで。3時半に店を出ましたら八木行きのバスは5時過ぎまでありません。アオイや空木などを愛でつつ坂を下ります。
亀岡市の旭町の田畑を潤す廻田池は本日は満水。山城国葛野郡と丹波国桑田郡の国境の碑を見た後は、八木まで歩くことを提案しますが、即刻却下されます。流石に人生の先輩方、廻田池の畔で悠々と昼寝を始めます。地蔵山の山容がくっきりと見えています。寝っ転がって青空を見ているとホンマに「あほになりそうや」と申す処ですが、いやいやもう既に取り返しのつかぬところに来ているかも知れません。
廻田池の改修記念碑、何かの再利用ですね。(追記・記念碑については早速師匠が亀岡市に問い合わせて下さいました。その場で議論していたように水を流す水路の再利用だそうで、穴には栓をしていたそうです。穴の横にある番号については判らぬとのこと、電話を他の部署に回さずに、以上を即座に答えたという亀岡市役所のお姉ちゃんもなかなかです。碑が実際に建っている京都市の市役所の人は何も知りまへんと返事したそうです)、一人で見ていると何の疑問も抱かずに見過ごしてしまうのですが、やはり色々な人と来れば、次の宿題も浮かんでくるものであります。さて、あとは市内で一杯やるだけです。
この野菜天麩羅は当たり前ですが、四季によって異なります。前回食うたのは冬のものであるならば春も食わねばならぬと思っておりましたが、いつのまにか季節は夏、やむを得ぬ、夏のものを食いに行こうということになりました。前回ご報告と同じルートで恐縮ですが、やはり2回目となると「ゆとり」が違う。前回に見落としていたものを中心にご紹介したいと思います。
また、小生は直接の当事者ではないのですが、今回の水尾の里散策と越畑への食い意地の旅は里の人の温かい心に触れる旅にもなりました。今回は「野菜天麩羅と蕎麦と酒」に釣られて8キロの道を遠しとせぬ酒飲み4名で出かけました。誰か一人が犠牲となって車の運転をすれば、苦労せずに行ける所なのですが。
さて、いつものように保津峡駅から出発です。本日も我が小隊の他には水尾へ歩こうかという人はパラパラというところです。ワイワイといいながら明智越えの分岐まで来たところ、同行の先生(小生が高校の時の先生)が「ありゃ!ベントウを買っとくのを忘れたわ!」
と衝撃的なお言葉、越畑の蕎麦屋着は3時を予定しているので途中で昼食を取ります。「えー?もうどこにも売ってませんよ。」、「いやあ、水尾に着けば何かあるじゃろ。」…小生は水尾に着いても何も無いことはよく知っていますが、先生は「人の住むところぢゃからおにぎりやパンぐらいは売っとる。」と自信満々です。「無いとオモウケドナー」程度で済ましておきます。
水尾の里の入口まで来ると初老の婦人が二人、道に座って話をされています。道に座っておられるので、普通は不自然に感じるのでしょうが、この場では別段おかしいとも思えません。明るい初夏の日差しの中でご婦人の声が良く通ります。我が先生、「この先でパンとか売ってませんか?」と尋ねますが、即座に「そんなもん、あるかいな!」とつれない返事。小生の心の声は「ほらほら」と。「先生、今日はみんながおにぎりを一つずつくれますよ。そうしなくてはやむを得ませんよ。」等と実際の声。
この辺りの方は買い物はどこに出るのかと尋ねましたところ、「嵯峨」とのこと。昔日、水尾の人々は嵯峨への「米買い道」を通って必需品を手に入れていました。今、その米買い道自体は使われることは無いにしても、嵯峨とのつながりは今もそのままであるようです。
我が先生、婦人がたが帽子の中に入れておられるものを見付けました。「そりゃ、わらびぢゃないかい?」「暇やから話をしもって摘んだけど、わたしは食べんからあげようか?どうせお隣さんにあげよと思っていたし。」。ベントウを忘れたという先生を哀れに思われたのでしょう。大量のワラビを先生に恵んで下さいました。「先生、よかったですねぇ。それだけワラビをしがんだら腹もふくれますよ。」、「アホ言え。」とワイワイ話しております。
水尾の里に入りました。先生は鳥スキの店に入っていって、握り飯を売るようにと無理難題をふっかけています。やってることは殆ど不審者です。米買い道への分岐から清和天皇社に参拝です。
米買い道
清和天皇社
同じところを訪ねても、その時その時の事情が異なりますから、「あれ、こんなもんがあったんや」と新しい発見があるのが徘徊の魅力、清和天皇社では水尾が京都市に編入された記念碑を見付けました。昭和6年(1931年)、満州事変の年です。これと同じものは、この先の樒原の神社にもありました。刻まれている歌などは異なります。その裏面には保津峡駅ができた記念の文も刻んであります。今は、水尾から嵯峨に向かうのは保津峡駅の近くを通る六丁峠越しか考えられませんが、駅の無いころにはやはり米買い道がメインルートだったのです。
向寺の地蔵は謎のまま
清和天皇社の隣が円覚寺、本日はバザーとやらをするとかで賑わっています。「先生、やりましたね。何かありますよ。」「ほうぢゃな。」と喜んだのも束の間、バザーは午後2時からだそうです。「先生、やっぱりワラビをしがむしかありませんよ。」。こういうアホな会話を水尾小学校跡の金次郎君が微笑みながら聞いております。
本日はユズ茶屋も、前回ユズ茶を恵んでもらった店も閉まっています。先生、いよいよ進退窮まった。ところがところが、ユズ茶屋のシャッターが半分開いていて中に誰かがいます。先生は早速駆け込みます。
「握り飯か何か売ってもらえんかなぁ。」、「いゃあ、もうここは店はやっとらんのです。」と中の人が言った瞬間に先生はあるものを見つけました。「それはなんぢゃいな」、見ればスポンジの部分が緑色をしているケーキです。バザーに出すためにほうれん草を生地にを練り込んだケーキを作っておられるのでした。ケーキ自体はバザーに出すということで今は売れぬとのこと。横に大量の…何というのでしょう、布ならば端切れ、端ケーキというか、スポンジの切り取ったのが山と積まれています。
先生、「そしたら、そいつを売って下さい。」と頼むと「こんなもんで金は取れません。どうぞ持って行きなさい。」と目出度き結末。小生もかけらを恵んでもらいましたが、ラズベリーのジャムがのっていてなかなかの味です。この大量の端ケーキが先生の昼食となったのであります。「先生、もうこの辺でテントを張って住まれたらどうですか?里人の厚意で元気に生きていけますよ。」と小生は今回第三者でしたが、何と温かい人々であることよと感動です。
里の外れ、園芸種でしょうが上の如き花が自生している辺りで目出度い昼食、レジ袋いっぱいの端ケーキを食べているのは誰だ。一旦谷に下りてまた登る清和天皇陵に行くことは皆に却下されました。今一人の師匠(こちらも高校の時の先生)は、本日を挟んで3日連続の徘徊ですが(ということは3日連続の宴会もある)、翌日に酒宴で清和天皇陵をパスしたことをご友人に話したところ、なじられちゃったいということです。このご友人というのは祇園さんの長刀鉾関係の人、伝統の中に生きる人ですからさもありなん。
樒原への道は、上の1枚でご勘弁、モリアオガエルが鳴いている道でした。途次、愛宕に登りたいアベックと明智越で道を間違えて神明峠に出てきた青年に道を聞かれますが、自分自身を鏡で見るかの如き青年(道を間違えるプロとして)には特に丁寧に道を教えます。
樒原の集落に入りました。今回、友人に教えてもらった植物はユキノシタ、花の形がもの凄く変わっています。杉林の中をずーっと歩いてきたので、青空が見えると何か開放感があります。
四所神社に参拝、ここで大いに反省、今まで何を見てたんやと申す処。大きな「征清記念碑」があります。これを見逃すとはオレでは無いではないかと。じっと眺めていると「雪の進軍」が聞こえてきそうです。中国が再び「暴戻なる支那」になりつつある今、この「征清」の精神は大切です。トップの写真も四所神社です。
鎧田という名の棚田はちょうど田植えが終わったところ、本当に美しい景色です。四所神社近くには何名かの方がカメラを構えて写真撮影です。さもありなん。
なじみとなりたる道標。「みぎ こしはた かみよし せきすじ」は「右 越畑 神吉 世木 筋」です。
経王塔は右が文化年間、左が嘉永年間のものですが、この地にはどこからか移されてきたということです。少しずつ情報が蓄積されます。あと50回も来れば謎は解けるでしょう。
京都市内最古、明暦年間の棟札が残る河原家住宅を過ぎれば、すぐにフレンドパークまつばらです。今回は越畑の集落内を通りましたので、河原家もよく見ることができました。大きなイチョウです。
「まつばら」の本日の天麩羅には「たらの葉」の天麩羅がありました。酒は越畑で穫れた米を使って伏見の招徳酒造が醸したもので爽やかな冷酒です。常々「お前の報告には料理の写真がないぞい」と言われていますが、料理が出てきたら写真を撮る精神的な余裕を失うのであります。わしらはみんな欠食児童。
まつばらの夏の営業は4時まで。3時半に店を出ましたら八木行きのバスは5時過ぎまでありません。アオイや空木などを愛でつつ坂を下ります。
亀岡市の旭町の田畑を潤す廻田池は本日は満水。山城国葛野郡と丹波国桑田郡の国境の碑を見た後は、八木まで歩くことを提案しますが、即刻却下されます。流石に人生の先輩方、廻田池の畔で悠々と昼寝を始めます。地蔵山の山容がくっきりと見えています。寝っ転がって青空を見ているとホンマに「あほになりそうや」と申す処ですが、いやいやもう既に取り返しのつかぬところに来ているかも知れません。
廻田池の改修記念碑、何かの再利用ですね。(追記・記念碑については早速師匠が亀岡市に問い合わせて下さいました。その場で議論していたように水を流す水路の再利用だそうで、穴には栓をしていたそうです。穴の横にある番号については判らぬとのこと、電話を他の部署に回さずに、以上を即座に答えたという亀岡市役所のお姉ちゃんもなかなかです。碑が実際に建っている京都市の市役所の人は何も知りまへんと返事したそうです)、一人で見ていると何の疑問も抱かずに見過ごしてしまうのですが、やはり色々な人と来れば、次の宿題も浮かんでくるものであります。さて、あとは市内で一杯やるだけです。
2度目は、子供が幼児の頃に、家族4人で弁当を持ってハイキングに行きました。酒気抜きの極めて質素な行楽でした。T先生は弁当を忘れて悲壮感が漂う道行きだったのですねぇ。同行者から握り飯を1個もしくは半個ずつ恵んでもらっても、最も大量に有り付けたと思うのですが。私は京北トレイルへ行った日(1回目)は弁当を持参せず、目当ての常照皇寺前の「山陵汀」が休みで往生しました。仕方なく井戸峠を越えて、弓削の上中の「レストランゆげ」でやっと昼飯に有り付けました。もう2時頃でしたけど、死なずに(寸前でしたけど)辿り着けました。
話はそれましたけど、私が汽車通をしていた頃、保津峡から毎朝乗って来る麗人がおられました。水尾から車で吊り橋の畔まで送ってもらい、そこから汽車に乗り換えられるのでした。当時は本数も少なくて、乗る車両も一定していました。内気な私はただ眺めるだけで、一言も口を利いたことが(目を合わせたも)ありませんでした。その御方は1年間くらいで乗って来られなくなり、何処かへ嫁いで行かれたのだろう、と秘かに落胆したものです(祝福せずに心の狭い人間でした)。
道端に座っていた老婆が、もしかして未亡人になって帰って来たその人かも・・・なんて訳はありませんでせう。
それにしても、端ケーキが無料で入手出来たのは、やはりT先生の日頃の善行かお人柄の為せるところでしょう。もし蕨を生で食べておられたら、今頃は病院巡りをされていたと思いますが。
5月だと言うのにもう田植えも終わり、棚田の景色は中々のものがありますが、蛙は鳴いていましたか?水尾辺りでしたら、川に河鹿・田圃に殿様蛙・山には森青蛙が盛んに鳴いていると思うのですが。ただ、最近は殿様蛙すら激減していますので、どうでしょうか。
今回の水尾は歴史的な再発見もあって、中々収穫が大で何よりでした。私は長女の「ポスカ展」と重なり断念して残念でした。ただ、あの辺りを縄張りにする女性が亀岡に住んでおられますので、何かお土産(無形でもいいでしょうけど)でも差し上げたら、次回も安全が保障される・・・はずです。「水の尾の風情人情五月晴れ」道草。
トレイル行、山陵汀が休んでいたとは大変でしたね。あの店では一度だけビールを飲んで山菜うどんを食べたことがあります。その後すぐに周山のビアハウスに行きました。近江の街道徘徊などでも、昼食を摂る店がないということがしばしばあります。ひとまず、何かを用意しておかなければなりませんね。
水尾の里には、多くの方がおられますから、かの佳人もまた里に住んでおられるかも知れません。越畑の蕎麦賞味も兼ねて秋には一度ご一緒にどうでしょうか?勿論あの辺りを縄張りとされる方にも筋を通しておかねばなりません。
本日の朝、宇津でトノサマガエルを握ってきましたよ。人の足元付近でウロウロするので踏みそうになり、手で捕まえて草原に放してやりましたが、「キューン」とか何とか、分からぬ鳴き方で抗議してました。あの辺りはまだまだ蛙の大合唱を聞くことができます。
夏も終わり頃にはあそこで売っているブドウを食べたいのですが、今日は買うぞ~と通ったら店が出てなかったりしてまだ果たせてません。昔大阪の狭山で畑で採れたての完熟ブドウ、その甘さが忘れられず、越畑と言えば今は蕎麦はそっちのけ、ブドウばっかしを頭に浮かべております。
大学の先輩に蕎麦を教授料にしてあの袴田を写真に収める技術指導をして貰おうと約束していたのですが雨で流れたままなのです。水田に浮かぶ夕陽の景色を撮りたいのですが。一眼レフはやはり三脚で露出をいじりとやってみるのですが、バカチョンデジカメの方が上手く写るやん、という結果ばかりで、こりゃレンズが悪いとか道具の性にしております(*_*)
越畑の袴田を潤す水は細野の芦見谷から来ているのはご存じですか?芦見谷の取水口を訪れたいと思っています。もう一つ興味を持ってるのは宕陰郡です。昔は今の左京区の方まで京の北側を東西に跨ぐ様に広がっていたそうですが詳しいことはわかりません。宕陰小学校ってあったでしょう。
あの棚田に夕陽が照れば、一つ一つの田の水に映ってさぞかしきれいでしょうね。バスの便は5時で終わりですから、車で行かなくてはなりませんが。その水が芦見谷から来ているとは知りませんでした。大きな愛宕山の鳥居の立っているところから水路沿いに山に入って行けそうです。ただ、芦見谷や三頭山には本当に熊がいますね。宕陰小は花背や雲ヶ畑と同じく今は小中一貫校になっていました。子供はああいう環境で育つべきだと思います。宕陰郡についても初めて知りました。ご教示ありがとうございます。
お弁当のお話、楽しく読ませていただきました。楽しいなどと他人は(私のこと)薄情なものですねぇ^^ほんとに願ったり叶ったりで万歳三唱です!
情けなく貧相な縄張りでして、開店されて既に10年?ほど経っているという「まつばら」にまだ一度も行っていませぬ。いや店の前までは何度か行きましたが、余ほど相性がよくないのか?何時も列を成していましたから、待つのが苦手な短気者でして・・・。
廻り池(私らは長池と言います)の碑の穴、唯、ぼんやり眺めていただけで恥ずかしいです!
子供のころは堰の横に小さな家が建っていて、池番のお婆さんともうひとり(息子さんだったか娘さん建ったか)が住んでいられました。あの池の伝説めいた話を何度か聞きました。お婆さんとは一度だけ話したことあります。何年生の時だったかな、まだ道が狭いころ、廻り池に宇津のトラックが落ちたことがありました。学校から走って走って見に行きましたわ^^
池番のお婆さんがおられたのですね。そういうお話は、やはり近くで育った方に伺わない限り、絶対に知ることが出来ません。そういえば、昔は踏切踏切ごとにも踏切番のおっちゃんがいてましたね。ああいう仕事が今もあれば、近年の雇用問題なんかはおきないのにと思います。
長池の碑の穴は、小生も今まで見ていて見てなかったというところです。先生方に指摘されて、「あれ?何やろう。」と思いました。