花洛転合咄

畿内近辺の徘徊情報・裏話その他です。

今城塚は来年整備完了。

2010年06月14日 | 徘徊情報・摂津国
 茨木市から高槻市にかけて存在する2つの大きな前方後円墳が太田茶臼山古墳(継体天皇陵)と今城塚古墳です。宮内庁お得意のチョンボ(今の宮内庁の役人が指定したのではありませんが)により、4世紀半ばの古墳といわれている太田茶臼山古墳の方が継体陵に指定されています。6世紀前半といわれる今城塚古墳は、本当の継体陵でしょうが、今現在は平成23年までの計画で整備(という名の公園化)が進められています。古墳や土器の編年、小生の如き短気な人間には到底真似できぬ様式学などの精緻な積み重ねがあって可能です(近年は年輪年代法なども)。今、我々が4世紀の古墳とか5世紀の古墳などと分かったようなことを言っていられるのは、そういう地道な研究成果のオイシイ部分だけを利用しているのです。
 整備?が進められて公開されるようになった古墳、最近では法隆寺の西にある藤ノ木古墳が知られていますが、この藤ノ木古墳の整備の過程をつらつらと観察するとこれはもう凄まじい現状の改変で墳丘部の草むしりといった生やさしいものではない。一度すっかりと壊して、また新たに一からこしらえた感があります。個人的な好みとしては、かつてのたんぼのなかのこんもりとした森であったころが懐かしい。
 さすがに今城塚古墳の規模では、一度すっかりと壊してとはいきませんが、工事はよほどに大規模です。中世に三好氏による出城が築かれて以来の鍬入れと申すところです。三好氏によって出城が築かれたために、今城塚古墳は「古墳」としての認識が薄いものとなり、江戸時代に高槻藩に「近くに御陵らしいものはないか?」と問い合わせが幕府から来たときに「ない!」ときっぱりと否定されてしまい、それがひいては隣の太田茶臼山古墳が継体陵として指定される遠因となりました。おかげで、今の我々は今城塚古墳から出土した立派な埴輪を見ることができる。このところ三好氏贔屓の小生ですが、やはり三好氏は立派だ。三好長慶があと10年生きていたら、尾張のお調子者など畿内で大きな顔はできなかったのにー。

          
          工事中の今城塚古墳

 閑話休題。それにしても、今城塚が継体天皇陵として、太田茶臼山はだれの墓なのでしょうか。全長226メートルという巨大さから見て、現地首長層の墳墓とは考えにくいのですが、記紀に記されている人物なのでしょうか。師匠にうかがったところに拠りますと、継体天皇の父系尊属ではないかという説が有力になりつつあるそうです。これらの古墳が、この地域にあり、継体天皇が久しく大和に入らなかったことについても、「大和に入れなかった」のではなくて、「入る必要がなかったのだ」とする見方が浮上していますが、太田茶臼山古墳の被葬者の問題とセットで考えるべきものであります。
 この2つの大きな古墳、建造時に並べられた埴輪の量も中途半端ではないのですが、それらの埴輪を焼いたであろう窯や、工房が高槻市の土室(はむろ)で出土しています。新池遺跡と呼ばれるこの遺跡はマンション群建設に伴う宅地造成中に出土したものです。もう何年前になるでしょうか、山を削ったむき出しの造成地で現地説明会を聞いたのは。今は、マンション群の中に綺麗に整備(それこそ整備)されて、ハニワ工場公園として知られるようになりました。
 公園では、登り窯や工房も復元されていますし、社会教育施設としてかなり意識しているなと思われるのは、漫画による詳しい説明がなされ、復元された埴輪も池に沿ってたくさん並べられています。地図で見ると小さなものですが、入ってみると意外に広く、芝に座って山からの風、マンションの作り出すビル風に吹かれていると何や複雑な気分にもなります。それでも、これだけの公園をよくぞ造ったと申す処。高槻市には文化関係でなかなかの逸材がそろっているようです。

          
          登り窯出土状況の展示

          
          土室の円墳

 複雑という点では、この公園のすぐ近くにある闘鶏野(つげの)神社、名神高速道路にかかる橋が参道になっています。このあたりの古墳も随分と道路のためにつぶされたということです。今だったら色々と議論もおこるところでしょうが、高度成長期の至上命令であった高速道路建設に神もその前庭をお譲りになられたのでしょう。青森の三内丸山遺跡や佐賀の吉野ヶ里遺跡などは出土した時期がよかった。もし、高度成長期に出土していたら、それぞれ工場団地や野球場になつていたかも知れません。先日、ゴルフ場によって巨勢山古墳群の墳墓4基が壊されていたことが大騒ぎとなっていましたが、騒ぎとなるのはこういうものはしっかりと守っていきたいという意識の高まりがあるからでしょう。近年闘鶏野神社裏の古墳が完全に未盗掘状態で保持されていることが判明、今後の調査が待たれます。

          
          闘鶏野神社参道(下は名神高速道路)

 ハニワ工場公園から闘鶏野神社、そして名神高速道路の上を通り、少し南下すると今城塚古墳です。それを東に行くと島上郡の郡衙跡が整備(これも整備)されています。今日では郡というものは何らの統治機関もありませんが、郡衙全体の構造を見ていると、国衙はもう要らんやんけという感があります。まあ、そう言いだしたら市役所があれば県庁は要らん、県庁があれば霞ヶ関は要らんと言っているのと同じで、本当は何やかやと仕事があったのかも知れませんが。

          
          島上郡郡衙跡

 このルート、一部西国街道にかぶるのですが、文政年間の道標なども多く、近くの芥川城址なども眺めると、古墳時代から近世まで幅広く歴史を楽しむことができます。途次、「嵐」なる店のたこ焼きとビールがうまい。少し足を伸ばせば阪急富田駅前の「ほのか」なる蕎麦屋、蕎麦もさることながら富田酒「清鶴」もうまい。


4 コメント

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限りなく遠き夢 (道草)
2010-06-14 20:56:27
古い遺跡や寺社などは限りない魅力がありますが、古墳となればいっそう謎めいた秘密がありそう(事実そうなのでしようけど)に思えます。徘徊堂さんの歴史徘徊は留まる処を知らず、の感があり敬服の極みです。茶臼山と言う名称はよく聞きますが、私には未知の場所です。
古墳と言えば堺市の仁徳天皇陵が、日本最大規模として有名です。ただ、あそこは調査発掘を宮内庁が許可しないとか。どうしてなのでしょう。ナニか具合の悪い物でも埋まっている可能性があるのでしょうか。
ただ、ボストン美術館に仁徳天皇陵から出土した銅鏡や環頭大刀などが収蔵されていると聞いたことがありますから、既に盗掘は行われていたのかも。
ところで、貝塚は古墳とは違うのでしょうが、やがて何年か後には、中地から酒塚が発見されることでしよう。
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貝塚 (gunkanatago)
2010-06-15 13:44:38
 道草様、コメントをありがとうございます。古墳の名称には茶臼山とか車塚とかが付いたものが多く、これは形からきたものと考えられます。亀岡の千歳車塚古墳は本当にその形をよくつかむことができます。古墳の発掘については、今は我々は発掘等という言葉を使いますが、古墳の築造者=被葬者から見れば「墓荒らし」以外の何ものでもありません。宮内庁にしてみれば「天皇の墓を荒らされてたまるか」というところでしょう。
 けれども寺や神社でも解体修理や仏像の修復が行われるように、被葬者の尊厳を冒さない形で(形式主義になるでしょうが)、学術的な調査は為されるべきだと思います。特に初期の前方後円墳=箸墓などはもう何が出るか分からんというところでしょうから、調査できる道を考えるべきだと思います。
 ただ、御陵の多くも既に盗掘はされているものと考えねばならないと思います。その点江戸幕府などは偉いものですからきちんと管理していましたが、それ以前がいけません。明日香などでも鎌倉時代に盗掘が大流行しました。
 貝塚は基本的にはゴミ捨て場です。人骨が出る場合がありますが、ゴミと考えられて捨てられたものです。これも考えてみれば、われわれが出したゴミ袋を誰かが開けて中身を見ているようなものですから、古代人はプライバシーの侵害だと思うかも知れませんね。
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千歳車塚古墳 (ささ舟)
2010-06-18 19:52:31
こんばんは。古墳のことは全く無知で、今城塚も意識の中で初めてでありますが、何時だったか映像で今城塚の堀?にのんびり太公望が糸を垂らしていたのを見たようでありますが定かでありません。普通(何が?)に云えば遠い感じの古墳や遺跡等も公園化して身近に見れるとなればそれもいいのではと、判らぬ者の意見です。
亀岡も古墳の多い所と聞いていますが、私は千歳の車塚しか訪れていません。車塚は市内の中学生の遠足でも行くようです。木1本もはえてなく芝生で覆われているので全容がよくわかりますネ。今は田圃になっていますが、一段低くなっていることから、たぶん堀がめぐらされていたのではないかと聞きました。古墳の主はわかりませんが、昔吉備の何某が塚のそばに住み、元明天皇の喪に服して塚をお守りしていたという話が伝えられているそうです。
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千歳車塚古墳の周辺 (gunkanatago)
2010-06-18 20:09:56
 ささ舟様、コメントをありがとうございます。「吉備」氏と千歳車塚古墳の話、初めて聞きました。ありがとうございます。この車塚古墳から丹波国分寺址や出雲大神宮に行く道、夏は日よけが無くてもの凄く暑いですが、それでも楽しい道ですね。出雲大神宮に着いて何でしたか湧いている名水を飲むのを楽しみにテクテクと歩いたことがあります。
 大神宮の裏手にも、いくつかの古墳があり、本来はこれらの古墳の祭祀が行われた場所が神社になっていったように思われます。さらに最も原初にさかのぼれば、神社はこの山の祭祀ではないかと思われる大神宮の神奈備山、登ろう登ろうと思ってまだ果たせていません。
 今日は細かい雨が蕭々と降っていましたね。保津辺りの景色、とても美しかったのではと思います。夕刻よりちょっと強くなってきましたが。
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