本日は、師匠の案内で池田と箕面の徘徊であります。最終目標はひら川における秋鹿の熱燗と呉春(こやつは冷やで飲む)、風の冷たい日の徘徊となりました。このルート、期せずして5つの街道(西国街道・能勢街道・有馬街道・箕面街道・巡礼街道)をちょっとずつ囓ることにもなりました。
先ずは、能勢街道と西国街道の分岐点にあった石橋村高札場跡における道標です。ここは、阪急石橋駅より線路に沿ってわずかに東に行ったところです。近くの小学校には、この辺りが「石橋」という名で呼ばれるようになった由来を示す「石橋」があります。小さな川に架かっていたものでしょう。真ん中の穴は、1863年の8月18日の政変で長州に落ちていった七卿が乗っていた馬の足跡だということですが、ちょっと無理があります。
「右妙見 すぐ西宮」
阪急石橋駅のほうに戻り、商店街を抜けます。能勢街道は商店街を出ると国道171号線と176号線を超えて北上します。写真を撮るのは忘れましたが、途次阪急バスの営業所の中に太い白線が二本ひかれていて、その線と線の間に「市道」という文字が大きく太く記されているのは面白い。阪急バスが市道を挟んで両側を営業所の敷地としているために歩く者が判らなくなるのを防ぐためでしょう。
しばらく行くと、二子塚古墳、今は前方部の頂上にお稲荷さんが祀られているので稲荷山古墳ともいいます。6世紀中葉の前方後円墳ということで、継体・欽明期のものであるとすれば、猪名川対岸の川西市にある勝福寺古墳と同類で6世紀前半の抗争を勝ち抜いて新たに勃興した豪族のものである可能性が高いと思われます。この古墳、石室がきれいに残っています。
井口堂のお地蔵さんまで来ると能勢街道と有馬街道が出会います。このお地蔵さん、実は道標が祀られています。
しばらく有馬街道を東に歩き、再び西国街道に出ます
。
この辺りは西国街道瀬川宿で、半町(はんじょう)にあった本陣の長屋門がこの間まで残っていたのですが、今は駐車場になっています。旧版の山川「大阪府の歴史散歩」には写真も出ていますが、惜しいことをしました。
瀬川宿本陣跡 東は郡山宿 西は昆陽宿
しばらく西国街道を進みます。阪急箕面線を渡ると道は狭くなりますが、旧街道の趣は結構残っています。少し、街道から外れて入り込まねばならないところに「牛回しの碑」、大威徳明王(牛に乗ったはる)と刻まれた石塔の周りを牛に回らせてその無病息災を祈るもので、師匠に拠ると同様の碑が豊中にもあるそうです。昭和初期まで行われていた風習だそうで、当時は牛も大切な家族であったのでしょう。
牧落の高札場で、箕面街道と出会います。この場所には後ほど戻ってきますが、今はひたすら東上します。
そう、目指すは箕面ビール。工場の裏手で少しばかり飲めるようにもなっています。呑気なもので、大声で「こんにちワ-」を5回ぐらい言うとようやくオネエチャンが姿を現しました。それからビールにありつくまでも時間がだいぶとかかりました。それでもヴァイツェンはなかなか美味です。同行者はアテにしたくん製のゆで卵を「ウマイウマイ」と食べていましたが、小生はそういうイカモノは食べませんので、もみぢの天ぷらをアテにしました。これもまた奇怪。ビリケンビールであるとか池田ビールであるとか、醸造所もないのに地ビールだけがある奇妙さ、実はその多くはこの箕面ビールのラベルだけを貼り替えたものです。
本日は、この冬一の寒さ、ビールを飲んで体がスッカリと冷え切って、調子が出てきたでーというところで牧落の高札場付近に戻り牧落八幡宮に参拝、珍しく重さが記された力石が民家の横に置かれています。
牧落八幡宮
当初昼飯は池田箕面の市境に近い玄生(くろき)でと決めておったのですが、ここは2時から6時まで中休みを取りますので、もはや間に合いそうにない。阪急牧落駅近くの自在庵に急遽切り替えます。それにしても師匠等は最後のひら川でも蕎麦をたぐっていました。余程に好きなのだなあと申す処。
牧落より桜ヶ丘に入ると、1922年に開催された住宅改良博覧会展示場跡地です。展示物件はその後に販売されました。現在も洋館がいくつか建ち並んでいますが、更地になっているところもあれば、売りに出ているのもあります。これが中流階級の住宅のモデルだとすれば、小生などは下層も下層、革命運動に走っても可笑しくないのかもしれません。
揉めに揉めた上で開館したミヤコ蝶々記念館を横に見て、しばらく行くと式内社阿比太神社です。一風変わった名前は物部氏系の豪族に由来するとのことです。今の御祭神は明治以後に急に忙しくなったスサノオですが、それ以前は牛頭天王を祀り、さらにそれ以前は豪族の氏神を祀っていたのでしょう。
北上すると巡礼街道に出ました。西国三十三所の巡礼道、恥ずかしい勝尾寺と別に恥ずかしくない中山寺の間になります。本日5つ目の街道であります。
巡礼街道
山麓の道路を渡ると新稲(にいな)古墳。ここも石室が露出していますが、ちょっとけったいな感じになっています。
この辺りに中池公園というのがあり、ここからはなかなかよい景色が望めます。
振り返ると、古墳と産廃と短大という奇妙な組み合わせ。右手の森が古墳、左の緑の塀が産廃、向こうの建物が短大であります。
巡礼街道を池田に向かいます。この付近には庚申塚が多く残っています。江戸時代には庚申の日ごとにワイワイといいながら酒を飲んだのでしょう。
佛日寺への道標は間もなく字が読めなくなるでしょう。
佛日寺は麻田藩藩主青木氏の菩提寺です。開山は1654年に来朝し、黄檗宗の開祖となった隠元禅師、禅師は1955年に富田の普門寺(例の細川晴元が隠居した寺)に入りましたが、第2代藩主であった青木重兼が深く帰依をして1659年に佛日寺を建立しました。重兼は万福寺の作事奉行も務めています。このあたりは調べてみれば面白いことがいっぱい出てきそうです。
今やあちこちに散らばっている感じがしますが、佛日寺の墓地には歴代麻田藩主の墓塔が整然と並び、一般の墓地の中には「信長公記」の著者である太田牛一の墓も有ります。ただ、この墓は現在の太田氏の子孫の方が先祖代々の墓として建立された、その第一代の先祖さんとして牛一の名が刻まれているようで、昔からここに牛一が眠っていたというわけではなさそうです。
巡礼街道はやがて山麓の道路と合流します。その合流点に玄生、師匠はまだまだ未練があるようで、「4時にあけてくれたらなあ」等とブツブツ言っています。「ここは大治郎が飲めるんや」とも。ナルホド、畑で畑酒造の酒を飲むか。
池田市に入ったこの一帯は、畑の地名で解るように秦氏の故地です。池田の場合は後に東漢氏の子孫である坂上氏が入ってきたからややこしい。この二氏がグチャグチャに絡み合って説話を創っています。そこの氏神さんが土師氏を先祖とする菅公を祀る天満宮。今や畑天満宮とも称していますが、もともとは単に「天満宮」とのみ称したように思われます。
この天神さん、石像物に関しては宝の山です。先ずは永和(1375~1379)年間の石灯籠、北朝の年号が刻まれているのも珍しいし、ここまで古いものはなかなかありません。
さらに天保の御陰参りを記念した狛犬。ほぼ60年周期で大流行した伊勢神宮参拝ですが、こういう狛犬を見るのは初めてです。
とどめとばかりに稲荷社の隣に鎌倉時代の板碑、右側は三界万霊供養碑ですが、これも珍しい。ただ、この板碑はもとからこの場所にあったのではなさそうです。
正面に六甲山が見えてきました。今日は何オロシなのでしょうか。いよいよ寒さが身にしみます。そのまま団地を抜けて茶臼山古墳、さらに能勢街道に戻り薬師堂と星の宮、参拝も見学もそこそこに「ひら川」に飛び込みます。5時の予約が4時30分に。最初は「ひばり」でたこ焼きを焼いてからと思っていたのですが、今日はもう座ったらそのまま落ち着いてしまう危険性があるのでパス。この店の料理は京都でもちょっと味わえぬ感があります。しかも威張らない。何よりも何よりも酒臭い酒、秋鹿の熱燗は馳走でありました。
薬師堂
星の宮と能勢街道道標「左 京 大坂 道」
先ずは、能勢街道と西国街道の分岐点にあった石橋村高札場跡における道標です。ここは、阪急石橋駅より線路に沿ってわずかに東に行ったところです。近くの小学校には、この辺りが「石橋」という名で呼ばれるようになった由来を示す「石橋」があります。小さな川に架かっていたものでしょう。真ん中の穴は、1863年の8月18日の政変で長州に落ちていった七卿が乗っていた馬の足跡だということですが、ちょっと無理があります。
「右妙見 すぐ西宮」
阪急石橋駅のほうに戻り、商店街を抜けます。能勢街道は商店街を出ると国道171号線と176号線を超えて北上します。写真を撮るのは忘れましたが、途次阪急バスの営業所の中に太い白線が二本ひかれていて、その線と線の間に「市道」という文字が大きく太く記されているのは面白い。阪急バスが市道を挟んで両側を営業所の敷地としているために歩く者が判らなくなるのを防ぐためでしょう。
しばらく行くと、二子塚古墳、今は前方部の頂上にお稲荷さんが祀られているので稲荷山古墳ともいいます。6世紀中葉の前方後円墳ということで、継体・欽明期のものであるとすれば、猪名川対岸の川西市にある勝福寺古墳と同類で6世紀前半の抗争を勝ち抜いて新たに勃興した豪族のものである可能性が高いと思われます。この古墳、石室がきれいに残っています。
井口堂のお地蔵さんまで来ると能勢街道と有馬街道が出会います。このお地蔵さん、実は道標が祀られています。
しばらく有馬街道を東に歩き、再び西国街道に出ます
。
この辺りは西国街道瀬川宿で、半町(はんじょう)にあった本陣の長屋門がこの間まで残っていたのですが、今は駐車場になっています。旧版の山川「大阪府の歴史散歩」には写真も出ていますが、惜しいことをしました。
瀬川宿本陣跡 東は郡山宿 西は昆陽宿
しばらく西国街道を進みます。阪急箕面線を渡ると道は狭くなりますが、旧街道の趣は結構残っています。少し、街道から外れて入り込まねばならないところに「牛回しの碑」、大威徳明王(牛に乗ったはる)と刻まれた石塔の周りを牛に回らせてその無病息災を祈るもので、師匠に拠ると同様の碑が豊中にもあるそうです。昭和初期まで行われていた風習だそうで、当時は牛も大切な家族であったのでしょう。
牧落の高札場で、箕面街道と出会います。この場所には後ほど戻ってきますが、今はひたすら東上します。
そう、目指すは箕面ビール。工場の裏手で少しばかり飲めるようにもなっています。呑気なもので、大声で「こんにちワ-」を5回ぐらい言うとようやくオネエチャンが姿を現しました。それからビールにありつくまでも時間がだいぶとかかりました。それでもヴァイツェンはなかなか美味です。同行者はアテにしたくん製のゆで卵を「ウマイウマイ」と食べていましたが、小生はそういうイカモノは食べませんので、もみぢの天ぷらをアテにしました。これもまた奇怪。ビリケンビールであるとか池田ビールであるとか、醸造所もないのに地ビールだけがある奇妙さ、実はその多くはこの箕面ビールのラベルだけを貼り替えたものです。
本日は、この冬一の寒さ、ビールを飲んで体がスッカリと冷え切って、調子が出てきたでーというところで牧落の高札場付近に戻り牧落八幡宮に参拝、珍しく重さが記された力石が民家の横に置かれています。
牧落八幡宮
当初昼飯は池田箕面の市境に近い玄生(くろき)でと決めておったのですが、ここは2時から6時まで中休みを取りますので、もはや間に合いそうにない。阪急牧落駅近くの自在庵に急遽切り替えます。それにしても師匠等は最後のひら川でも蕎麦をたぐっていました。余程に好きなのだなあと申す処。
牧落より桜ヶ丘に入ると、1922年に開催された住宅改良博覧会展示場跡地です。展示物件はその後に販売されました。現在も洋館がいくつか建ち並んでいますが、更地になっているところもあれば、売りに出ているのもあります。これが中流階級の住宅のモデルだとすれば、小生などは下層も下層、革命運動に走っても可笑しくないのかもしれません。
揉めに揉めた上で開館したミヤコ蝶々記念館を横に見て、しばらく行くと式内社阿比太神社です。一風変わった名前は物部氏系の豪族に由来するとのことです。今の御祭神は明治以後に急に忙しくなったスサノオですが、それ以前は牛頭天王を祀り、さらにそれ以前は豪族の氏神を祀っていたのでしょう。
北上すると巡礼街道に出ました。西国三十三所の巡礼道、恥ずかしい勝尾寺と別に恥ずかしくない中山寺の間になります。本日5つ目の街道であります。
巡礼街道
山麓の道路を渡ると新稲(にいな)古墳。ここも石室が露出していますが、ちょっとけったいな感じになっています。
この辺りに中池公園というのがあり、ここからはなかなかよい景色が望めます。
振り返ると、古墳と産廃と短大という奇妙な組み合わせ。右手の森が古墳、左の緑の塀が産廃、向こうの建物が短大であります。
巡礼街道を池田に向かいます。この付近には庚申塚が多く残っています。江戸時代には庚申の日ごとにワイワイといいながら酒を飲んだのでしょう。
佛日寺への道標は間もなく字が読めなくなるでしょう。
佛日寺は麻田藩藩主青木氏の菩提寺です。開山は1654年に来朝し、黄檗宗の開祖となった隠元禅師、禅師は1955年に富田の普門寺(例の細川晴元が隠居した寺)に入りましたが、第2代藩主であった青木重兼が深く帰依をして1659年に佛日寺を建立しました。重兼は万福寺の作事奉行も務めています。このあたりは調べてみれば面白いことがいっぱい出てきそうです。
今やあちこちに散らばっている感じがしますが、佛日寺の墓地には歴代麻田藩主の墓塔が整然と並び、一般の墓地の中には「信長公記」の著者である太田牛一の墓も有ります。ただ、この墓は現在の太田氏の子孫の方が先祖代々の墓として建立された、その第一代の先祖さんとして牛一の名が刻まれているようで、昔からここに牛一が眠っていたというわけではなさそうです。
巡礼街道はやがて山麓の道路と合流します。その合流点に玄生、師匠はまだまだ未練があるようで、「4時にあけてくれたらなあ」等とブツブツ言っています。「ここは大治郎が飲めるんや」とも。ナルホド、畑で畑酒造の酒を飲むか。
池田市に入ったこの一帯は、畑の地名で解るように秦氏の故地です。池田の場合は後に東漢氏の子孫である坂上氏が入ってきたからややこしい。この二氏がグチャグチャに絡み合って説話を創っています。そこの氏神さんが土師氏を先祖とする菅公を祀る天満宮。今や畑天満宮とも称していますが、もともとは単に「天満宮」とのみ称したように思われます。
この天神さん、石像物に関しては宝の山です。先ずは永和(1375~1379)年間の石灯籠、北朝の年号が刻まれているのも珍しいし、ここまで古いものはなかなかありません。
さらに天保の御陰参りを記念した狛犬。ほぼ60年周期で大流行した伊勢神宮参拝ですが、こういう狛犬を見るのは初めてです。
とどめとばかりに稲荷社の隣に鎌倉時代の板碑、右側は三界万霊供養碑ですが、これも珍しい。ただ、この板碑はもとからこの場所にあったのではなさそうです。
正面に六甲山が見えてきました。今日は何オロシなのでしょうか。いよいよ寒さが身にしみます。そのまま団地を抜けて茶臼山古墳、さらに能勢街道に戻り薬師堂と星の宮、参拝も見学もそこそこに「ひら川」に飛び込みます。5時の予約が4時30分に。最初は「ひばり」でたこ焼きを焼いてからと思っていたのですが、今日はもう座ったらそのまま落ち着いてしまう危険性があるのでパス。この店の料理は京都でもちょっと味わえぬ感があります。しかも威張らない。何よりも何よりも酒臭い酒、秋鹿の熱燗は馳走でありました。
薬師堂
星の宮と能勢街道道標「左 京 大坂 道」
池田は以前にほんの触りだけをお伴したのみですから、この辺りは全く未知の世界です。それでも一山越えれば、麗人のお住まいになる亀岡ではないのでしょうか。一帯は寺社もさりながら古墳的な遺跡もかなり多い様ですが、かつては豪族の生息地で、住み心地の好い土地だったのかも知れません。この狛犬は渡来犬ですか?
箕面は今ではかなりの高級住宅地と聞きますが、如何なものですか。また、ビールにしろ和酒にしろ、醸造所を経営するとなればかなりの財産家でないと不可能でしようし。八木のA酒造もその通りで、1年後輩が居りますが生意気な男(昔は)でした。妹は中々の美人でしたが。それにしても、箕面ビールは名を変えてあちこちで出没しているのですか。有名酒にしても、他で作らせている場合がありますから、そんなもんかも知れません。
話は外れましたが、牧落は耳にした名称です。阪急で何度か通過したのかも知れません。それにしても、最後はやはり落ち着く所に落ち着かれた様で結構でした。このところ、京都より大阪の方が寒かったのと違いますか。月曜日の夕方は、中之島周辺は凄い雪でしたが、京都に着くと霙でした。私は、土曜日は長老の冷酒を堪能しました。
箕面はやはり高級住宅地だと思います。ミヤコ蝶々記念館あたりも豪邸が並びます。ただ忠魂碑にイチャモンをつけるケチくさい訴訟で有名になったのは残念なことでした。
箕面ビールはなかなかの味ですが、周山ビールに比べると劣ると思いますし、飲ませるということに関しては工場ではやる気無しです。
あの辺り一帯は秦氏の伝承の上に坂上氏の伝承が乗っていますからちょっと厄介です。
有馬・西国街道、それに巡礼道の行き交うところで史跡も多いのですね。一つ思い出すのは、律令制の初期から西国街道をはじめ、立派な道路網を築いていたのですね。NHKの番組で見たのを思い出しました。そのルートは今の高速道網とよく似ているとか。でもこれだけ住宅化が進むとその跡は残っていないのでしょう。
ただこの巡礼街道、中山寺と勝尾寺を結んでいるのでしょうが、昨日脱税を指摘された相国寺の和尚がテレビカメラの前で今まで税務署はなんとも言っていなかったからとかなんとか弁解しているシーンを見て勝尾寺の入口ゲートを思い出さされました。仰る様に中山寺はそういう雰囲気ではありませんが、それでも、儲かってるなあ、という雰囲気を感じましたし、巡礼をする人の浄財で温々生きている坊主共の姿を見るにつけ今の寺院の本質に改めて気持ちが行ってしまいました。
狛犬ですけれど誰だったか落語家があちこち調査しているテレビ番組を見て、何でも奥深いものだなあと感心していたことを思い出しました。それこそ千差万別、無数の形があるようですね。細野の春日神社にある石について友達と話していたのですが、彼曰く狛犬に彫って貰う金が無くてあの様な石が置いてあるのでは、なんて云っていましたが。
徘徊記録のコメントでなく心境発露になってしまいました。ごめんなさい。
古代の官道、本当に七道全てに渡って完成していたのかどうかは疑問だと思います。駅家周辺はそれなりに整備されていたと思いますが、基本的には一部は完成していたものの大部分は未着工に終わったのではと思っています。それでも、山陽道は大宰府につながるので、官道としても最も重要な道だったのではと思います。西国街道は、この山陽道をベースに発展した街道ですが、ところどころで山陽道から外れたりはしています。
細野の春日神社、薬師寺と共に一度ゆっくりとお参りしたいと思っています。トレイルが再開される4月以後に周山城と合わせてじっくりと拝見したいと考えています。
その折にも話しておりましたが、師匠の徘徊は放っておくと、もの凄い距離、中味満載になってしまいます。ささ舟様が参加されるときには、最も素晴らしいところだけを歩いていただけるようにセット致しますので、気候が良くなれば、是非お越し下さい。