花洛転合咄

畿内近辺の徘徊情報・裏話その他です。

川口・玉川・福島

2011年02月08日 | 徘徊情報・浪花
 本日は、先ずは中之島の西の端までやって参りました。この辺りには府の国際会議場や、高級ホテルがありますが、どちらにも縁無き衆生、あまりウロウロはしないところです。基本的にはビジネス街ですから、京阪電車中之島線も日祝日には閑散としています。
 「昭和」の名も懐かしい橋を渡ります。

          
          昭和橋

 分かりにくいのですが、中之島の西の端です。二つの橋の台場になっているところですが、近づいてみるとゴミ捨て場みたいになっていました。左が船津橋、右が端建蔵橋です。

          

 西の端から眺める大阪中央卸売市場、「天下の台所」の台所です。平日に行けば、それなりに面白いのではないかと思います。

          

 この辺りからは、川口の居留地が近い。江戸期の中之島は各藩の蔵屋敷がそれこそビッシリと立ち並んでいました。その中之島が尽きたところは文字通り堂島川と土佐堀川の川口、明治の初年にここに居留地が設けられました。今は、市街地がさらに西に広がっていますが、当時は西のドン突きです。その居留地の名残が川口教会です。

          

 聖公会の教会というと何やらなじみが薄いように思われますが、英国国教会のことで、立教大学などはこの宗派の大学です。イギリス国王のわがままから生まれた宗派で、その成立には感心することが出来ませんが、今は無垢な善男善女を集めているようです。
 神国たる本邦とは異なり、英国王室の歴史などは「剥き出しの愚昧と野蛮」とでも評すべきもので、現在の王室も何やかやと恥を晒していますが、これは昔から。
 16世紀前半、ヘンリー8世は兄王の喪中にスペインの王女と結婚します。けれども後になってみると、この王女と離婚したくてしたくて仕方がない。「離婚できまへんか?」とローマ教皇にお伺いを立てると「アカン!」の一言で片づけられてしまいます。「堅苦しいやっちゃ、ほんだらええわい!今日からはワイがイギリスの聖も俗も支配したるわい!」と作られたのが英国国教会です。こやつ、ローマ教会から離脱してまで、スペイン王女と離婚し、その時に再婚したアン=ブーリン(エリザベス1世の母)を3年後には処刑し、その処刑の日から10日後にはジェーン=シーモアと再婚するというとんでもないヤツです。娘のエリザベス1世も後に、同じような感じで愛人のエセックス伯を処刑していますね。まことに血は争えぬ。「ユートピア」の著者として知られるトマス=モアもこやつに処刑されています。このオッサンは今や聖人でっせ。
 このあたりの事情は聖公会も触れられたくはないようで、本来ならば宗派の創始者は聖人以上の者と崇めねばならぬところですが、ヘンリーではねえ…というのが幸か不幸か聖公会に絡んでしまった人々の本音でしょう。今は「カトリックとプロテスタントの中間」と自らを規定しているようです。よくは解りませんが、まあそれでいいでしょう。

          

 それでも聖堂の中に入るとパイプオルガンの音色が厳粛に響き、挨拶を交わす人は皆々上品で善良な人ばかりのようで、仏教でも見苦しいエロ坊主や強欲坊主などがいる寺に比べると遥かに真実というか天に近いように思われます。

             

 聖堂の建設は1920年とのことですから、中之島の中央公会堂とほぼ同じころです。阪神大震災では大きな被害が出たそうですが、今は立派に復興されています(隣がGSというのはちょっとかわいそう)。道路を隔てたところにある建物も何か趣があります。

          

          

          

 この教会のすぐ近くに川口居留地の碑。プール女学院ばかりか豊中の梅花女学院や京都の平安女学院なども、この地が発祥の地とのことです。今も残っていたら日本最大の女子教育のメッカとなっていたでしょうね。いや、メッカはまずいかな。

          

 この川口とは木津川を挟んで向かい側にある江之子島は明治の初年に府庁が置かれたところです。それはそれは壮麗な建築だったそうです。何か痕跡はないかとうろつきますが、それらしきものはありません。だだっ広いサラ地があるだけです。ここを有効に利用せよといわれても府も辛いですね。
 ここでは、府庁絡みは何もありませんが、「天満宮神幸御上陸地の碑」と「雑喉場跡の碑」を見つけました。昔はこんなところまで、天神祭の船渡御の船が来ていたということです。雑喉場は堂島の米市場、天満の青物市場と並び、大坂の三大市場と呼ばれた所です。落語家の名前にもありますね。

             

          

 松島遊郭も近く、そんな訳はないのですが、後ろから「ニイチャン!」の声が聞こえるようです。ウロウロしているとそのまま行ってしまいそうになるので、この辺りの徘徊はこれぐらいにします。後は例のニオイで面白そうな所を捜します。
 再び、中之島の西の端に戻り、新なにわ筋を北上します。玉川までやってくると恵比寿神社がありました。祭神が「事代主命」とあるのはちょっと珍しいえべっさんです。マンションと道路の中を抜けて、こういう空間に出たらホッとしますね。

          

            
            日露戦争戦勝記念碑

 この辺りは旧野田村の中心地と見えて、古い町並みや建物がよく残っています。神社の隣の薬屋さんも立派なものでした。

          

 すぐ近くに浄土真宗圓満寺、その門前に「二十一人討ち死にの碑」があります。オッと、出てきたぞ性格異常者の六郎=細川晴元。応仁の乱(1467)の東軍の主将が細川勝元、その子が政元で、その養子が澄元、晴元は澄元の子です。晴元とライバルの細川高国との戦いに大きな功績を挙げたのは三好元長、三好長慶の父です。しかし晴元は、元長の勢力が拡大するのを恐れて本願寺に依頼して飯盛城で対戦中の元長の背後から襲わせて、元長は堺まで逃れた後に切腹、これが1532年のことです。しかるに、この一連の戦いで本願寺の戦力の大きさに度肝を抜かれた晴元は、今度は法華宗と手を組んで本願寺の根拠地であった山科本願寺を焼き討ちさせます。時の門主である証如(蓮如のひ孫)は、根拠地を大阪の石山に移すことになります。

          
          二十一人討ち死にの碑

 大阪に移った後も晴元の攻撃は続いたようで、1533年、この野田村で証如が晴元軍に襲われたときに、証如を守って戦死した門徒が21名、このことを忘れぬようにと圓満寺が建立されました。
 後日談ですが、山科本願寺を襲った法華宗も1536年に比叡山と六角氏の連合軍に攻められて壊滅します。この時に京都の上京区周辺は壊滅しました(天文法華の乱)。焼け跡には数えきれぬ法華信者の死体が残されたとのことですが、原因を作ったのは細川晴元です。そういえば、年代的にはヘンリー8世と同じやな。この変質者、1561年に三好長慶の軍門に下り、1563年に幽閉先の富田の普門寺で死亡しますが、小生なんかは心が狭いから、今でもこやつの末路が可能な限り悲惨なものであったことを願っています。眠るが如くあの世に行かれたらミンナたまらんでぇーと申す処。

          
          圓満寺

 JR野田駅前に出ました。この駅前には「野田城跡の碑」があります。野田城というと例の武田信玄が狙撃されたという三河の野田城が有名ですが、大阪のこの辺りも石山本願寺、三好三人衆、織田信長の軍が激しい戦いを展開したところです。

          

 ここよりは「あみだ池」筋を南下して、再び堂島川の畔に出ます。川筋よりは一本北になりますが、「逆櫓の松跡」の碑です。

             

 時代はぐっと遡ります。一ノ谷の敗戦後に屋島に陣取った平氏を討つために源義経がこの地から四国へと渡ります。その際に梶原景時と逆櫓を付けるか付けないかで争ったという場所です。逆櫓云々は真実ではないでしょうが、平安時代末期は先ほどの川口は未だ海の中、ここら辺りが海浜であったとはよく解ることです。このまま行くと、大阪はいつごろ淡路島とくっつくのかな。
 最近移転してきた朝日放送の敷地は、江戸時代には豊前中津藩の蔵屋敷があったところ、そこで「福澤諭吉生誕地」であります。

          

 題字は小泉信三、といってもこの人の名も遥か昔のことになりましたね(今上陛下の師であった人です)。諭吉先生、ここで成人したとなれば、確かに適塾は近い。
 ここより再び北上してJR福島駅に。途中にあるのが福島天満宮ですが、「ン?浄正橋(かつて蜆川に架かっていた橋)近くの天神さん?」、どこかで見たぞいと思っていたら、宮本輝の小説『泥の河』で、主人公の二人の少年が自分たちだけで天神さんの縁日に行った、まさにその天神さんです。ということは、先ほどの中之島の西端あたりは昔は船で暮らす人たちが沢山その船を繋留していたところで、中には船を利用した売春宿もあったところです。「そうであった。そうであった。よし、もう一度振り出しに戻って確認だ」、これをやるには今日は寒すぎる。

          

 福島から梅田まではハービスの地下を通ってヌクヌクといけるはずと思っていましたら、その潜り口を見落としてしまいました。地表を歩いて大阪駅に。けれどもその途中にたこ焼きが座って食える店がありました。少々小振りのたこ焼きがコロコロと、ソースもなければ青のりもありません。「ヌヌヌ、こりはもしや。」と思って店の中をよく見ると「ラヂオ焼」の言葉があります。
 おお、これこそ「たこ焼き」の発祥を名乗る萩ノ茶屋のたこ焼き屋の支店ではないか。そんなものがあったのか。もらったパンフを見ると、随分と支店が増えています。さらに「ゲッ、箕面ビール。」、ここでも飲ませているようです。ラヂオ焼と箕面ビールは次回の宿題となりました。味はまあ池田の「ひばり」の方が上やな。さて、たこ焼きは食うたし、震えながらビールも飲んだし、後は「スルメの天ぷら」で熱燗をやるだけであります。

          

 



6 コメント

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お、浪速だ (mfujino)
2011-02-08 23:14:59
gunkanatagoさま、 今回は中之島の西端から北上ですね。私は野田やら川口は通過するのみで殆ど徘徊経験はありませんでしたので、いろいろ勉強になりました。浪速も西へ西へと陸地が延びていったのですが、大正区などでも昔の碑がありそうですね。まあ精々近世までの世界でしょうけど。千鳥・恩加島・千鳥とか泉尾なんて地名は昔の名残りではないかと想像するのですけれどどうなんでしょう。こういったところにもどんどん高いビルが建っていますが、南港の建物などはビルの高さと同じ程の支柱で支えられているそうですね。余談ですが南港のニュータウンなどは赤提灯がぶら下がるまでは自殺者が多かったそうです。

今回はどうも酒の記述スペースが少ないですね。福島まで来るといろんな店がありますが…。今回は北上されましたが、次は南下して九条界隈や大正区へと徘徊されたら面白い酒屋に出会えるかもしれませんね。沖縄の食材なら平尾の商店街がいいとおもいます。スルメの天ぷらが出ましたけど、スルメ天の乗ったソバなら堺筋本町は船場センター地下街の大名そばを一度案内しましょうか。
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そろそろ地ビールの季節・・・。 (道草)
2011-02-09 10:14:23
梅田に事務所があった時でも、中之島の西端へ行く機会は意外に少なかったようです。地下街が出来てからは、イベントなどでその機会がやや増えたましたものの、やはり未知の場所に等しい様です。
大阪中央卸売市場は、その辺りにあるのですか。難波に勤めていた頃は、確かあの辺りにも大きな卸売り市場があった、と記憶しています。ただ、「中央」ではなかったのかも知れません。場内に安い丼飯屋があり、昼飯をたまに食べに行っていました。
それもそうとして、ヘンリー8世は、そんなに悪い奴ですか。私はキリスト教に(回教・仏教・神道・・・諸々にも)ご縁がありませんので、上流階級の扮装には無関心ですが。T・モアの処刑は気の毒には思いますけど・・・・。
聖堂内は気品と善良に満ちているとの由。母がクリスチャン(一応)でしたので、葬儀は教会で挙行しました。確かに葬儀代は安かったです。今は菩提寺(禅宗)の墓地に納め、法要は仏式です。先日7回忌を済ませましたが、結構高くてやはり坊主丸儲けだ、と再認識したことでした。
それにしても、土佐堀の川口辺りが幾多の女子大の発祥地とは、何かの因縁でしょうか。これらはキリスト教系の大学なのですか。昔は、アルバイト先で知った女子大生に、その出身者が居たような居なかったような・・・。
それより、雑喉場は魚市場のことだったのですネ。雑魚と同じ意味でしょうか。同名の落語家は、朝丸時代とそんなに変わらないと思えます。
それより、徘徊堂さんお馴染みの松島遊技場が廃れて、さぞ残念無念でしょう。恐らく顔パスだったのでは、と推測しております。
玉川や野田となりますと、私にはほとんど未開の土地です。福島は取引先もあり、音楽会館もあって、何度か降りた経験はあります。駅前は、かなり場末の感がありました。今は知りません。
「泥の河」の舞台はその辺りなのですか。原作もさりながら、小栗監督の映画も印象に残っています。少年が沢蟹に石油を掛けてライターの火で燃やす場面は、残酷さより孤独感が溢れていました。ヒロインの藤田弓子より、娼婦役の加賀まりこが今も目に焼き付いています。
それにしても、細川某も悪い奴なのですねぇ。くれぐれも、私はその子孫ではありませんので、お見逃し下さいますよう。
それより、「ラヂオ焼き」なる物を初めて知りました。ただ、支店が増えすぎるとロクな展開にはならないのが世の常です。それもそうとして、箕面ビールは駄目ですか?周山ビールも頑張っていることですし、長い目で見てやつて下さい。「地ビールの旨さと共に春が来る」道草。
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未知の土地が多すぎて (gunkanatago)
2011-02-09 13:22:37
 mfujino様、コメントをありがとうございます。船場センター街「大名そば」、しっかりと頭に格納させていただきました。センター街は日曜日などは休んでいるので、平日で休みの取れるときにしなくてはなりませんね。
 今度阪神難波線が開通し、少しアクセスも楽になりましたが、千鳥、伝法、さらに千船や出来島、この辺りはしっかりと歩いたことのない未知の地域です。何か色々とおもしろいものがありそうです。この野田や福島の辺りも、江戸時代までは小さな島であったところです。
 南港はやはりそうですか。非合法の死体処理、山ならば能勢、海ならば南港という感じですね。ヤクザがいっぱい沈んでいるのでしょうね。
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箕面ビール (gunkanatago)
2011-02-09 13:35:29
 道草様、コメントをありがとうございます。この徘徊の一週間後に箕面ビールを飲みました。どっちにしても飲む運命にあったわけです。多くの地ビールはケルシュやピルスナーは造りますが、なかなかヴァイツェンはありません。周山ビールも箕面ビールもこれがあるのが嬉しいです。箕面ビールは各地のビール、例えば池田ビールやビリケンビールなどもラベルを貼って出荷していますから、本当は何処かで飲んでいるかも知れません。
 それから、内緒ですが(笑)、松島遊郭は現役ですよ。池田の槻木など地方のそれは、売防法以後、いっぺんに無くなりましたが、さすがは松島と飛田、元気に頑張っています。
 ラヂオ焼は近々食べに行こうと思っています。タコの代わりにスジとこんにゃくが入っているのですが、それのお好み焼き版が高砂の「にくてん」です。焼きそば版が長田の「ぼっかけそば」(神戸では「そば焼き」と言わねばなりませんが)で、それぞれ産地が散らばっているのがおもしろいですね。
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手始めに (ささ舟)
2011-02-14 12:20:27
こんにちは。タイトルの川口、玉川の名前すら知りませんでした。福島区も阪神電車や環状線で通ることはあっても地面を歩いたことがないと思います。大阪の西の方に行ったのは海遊館と京セラドーム位です。仕事で阿波座はしょっちゅう行きましたけれど、その頃は周りを見る余裕もなく仕事が終わればせかせか帰ったものです。今になって田舎や町だけでなく大都市の歩く楽しさを体感したいな、と思うようになりました。先ずは去年教えて頂きました中ノ島のバラ園に行き、その界隈をgunkanatagoさんのブログを参考に歩いてみたいと思っています。
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中之島 (gunkanatago)
2011-02-14 13:22:02
 ささ舟様、コメントをありがとうございます。暖かくなれば、是非お出かけ下さい。ただ、現在までのところ、中之島のバラ園の方は未だ整備中のようです。難波橋から堂島川に沿った「バラの小径」の方は様々なバラが植えられていて、花を咲かすと思います。バラの旬というのが今ひとつ解らないのですが、バラ園は整備され次第お知らせします。
 平日でお時間があるようでしたら、mfujino様が色々と面白いところを案内して下さるのではないでしょうか(勝手に決めてる)。小生も、平日に行きたいなあと思うところがいっぱいあります。京都の徘徊、次回は西賀茂だと思います。また、おいで下さい。
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