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「姥ざかり」

田辺聖子著
昭和56年新潮社刊より

93番、鎌倉右大臣

2023年07月03日 08時43分20秒 | 「百人一首」田辺聖子訳










<世の中は 常にもがもな 渚こぐ
あまの小舟の 綱手かなしも>


(世の中は無常 つねに変わるというけれど
ああ どうか
いつも変わらずにあってほしい
渚こぐ海人の小舟が
今日は曳綱で曳かれてゆく
天空と海のあわいに
ぽつんと小さな人間の生の営み
しぶきに濡れ
張ってはたゆむ曳綱のさま
海人のかけ声
この世は美しい~~
愛すべきものでみちみちている
おお いつまでも変わらずにあれ
人の世の このいとしさ)






・これは意あまって、
舌足らずになっている歌で、
ちょっとわかりにくい。

鎌倉右大臣というのは周知のように、
鎌倉幕府の三代将軍、源実朝のことである。

実朝は、王朝末期の歌人の中では、
風変わりな歌を詠んだ。

それもそのはず、
生まれ育ってず~っと死ぬまで、
東国に暮らしていたのだから、
京都の空気を吸わない歌人なのである。

当時の文化は京にしかなかった。

実朝は京都歌壇にあこがれつつ、
体は鎌倉にしばられていた。

武家の棟梁の家に生まれながら、
侍に号令するよりは、
書斎で歌を作ったりしたい、
という文学好き青年であった。

しかし頼朝の子として生まれた宿命から、
のがれられない。

兄の頼家が暗殺されたあと、
まだ十二歳というのに、
三代将軍のポストに据えられる。

もちろん実権は、
母方の縁戚、北条一族が握っていて、
実朝はロボットである。

それやこれやで、
実朝の心はいよいよ、
好きな文学の道に走るのであった。

その頃撰進された『新古今集』は、
京を遠く離れた文学少年の、
またなき座右の書となった。

定家に師事したのは十八歳のとき。
尤も、鎌倉と京都である。

思うさま師弟の交流が出来るわけではなく、
半分は実朝の独学であった。

定家に作歌法の書を送ってもらったり、
『万葉集』を教わったり、
「本歌取り」の手法を習ったりして、
実朝はさかんに歌を作りはじめる。

歌の詠み方に忠実に従い、
最初は古来からの歌枕に、
それらしい縁語を並べた模倣作ばかりであった。

けれど実朝には、
天性、詩人の素質があった。

少年から青年にうつる間、
いろんな語句をおぼえ、
用語をふやしていった彼は、
自分好みの歌風をしだいに確立しはじめた。

なまじいに、
京都の歌人仲間に加わって、
手垢のついた旧来の観念に毒されなかったのが、
よかった。

青年実朝の澄んだ目と、
みずみずしい心は、
わが住む地方にあらためて向けられた。

今まで、
京へ、京へ、とあこがれ続けた彼の心に、
座標軸がさだまって、
周囲の風物を清新に享受できるようになった。

鎌倉やその周辺は、
京の歌人がかつて歌に詠むことのない、
土地であった。

実朝は、
しらべの美しい歌をよむようになる。

<もののふの 矢並つくろふ 籠手(こて)の上に
霰たばしる 那須の篠原>

<箱根路を わが越えくれば 伊豆の海や
沖の小島に 波の寄る見ゆ>

<大海の 磯もとどろに 寄する波
われてくだけて 裂けて散るかも>

海の姿は、
青年将軍の歌にふさわしく、
優美でスケールがおおきい。

ところでこの歌であるが、
「綱手」というのは、
舟を曳く曳綱のことである。

「かなしも」は「愛しも」であろう。

海を見る青年詩人の心に、
何とはない憂鬱と、
限りない愛着が湧きおこる。

承久元年(1219)一月、
鶴岡八幡宮に拝礼におもむいた実朝は、
甥の公暁に暗殺された。
年二十八歳。

六十歳近い定家は、
才能ある愛弟子の横死を、
どんなに惜しんだことであろう。

しかし実朝の死は、
鎌倉幕府打倒を夢見る後鳥羽院には、
願ってもない好機到来であった。

院は二年後、
乱を起こしてかえって敗れる。

これが「承久の変」で、
後鳥羽院は隠岐へ流される。

定家はその数年のち、
後堀河天皇の勅命で勅撰集を撰んだとき、
実朝のこの歌を入れた。

そしてまた百人一首にもこの歌を加え、
実朝に寄せる愛惜と、
後鳥羽院への真実を表明した。

実朝は公家文化にも心酔した人であったから、
身は鎌倉にありながら、
そして武家の棟梁でありながら、
君にふた心持ちません、
と誓ったのは、
後鳥羽院に対してであった。

<山はさけ 海はあせなむ 世なりとも
君にふた心 わがあらめやも>






          


(次回へ)

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