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「姥ざかり」

田辺聖子著
昭和56年新潮社刊より

15,姥メッキ ②

2025年04月27日 08時38分10秒 | 「姥ざかり」田辺聖子作










・♪一、二、三、四、
四方の景色は 春とながめて
梅にうぐいす ホーホケキョ
あすは祇園の お姫さま方
三味線あわせて テンテン手毬唄
歌の中山 ちょうど五ン十で
ちょ六の六六
ちょ七の七七
ちょ八の八八
ちょ九が九ン十で
ちょうど一貫つきました♪

まだもっとあったと思うが、
思い出せない

思いついて、
お政どんに電話をしてみる

休日はこういうことも、
思い立って出来るから嬉しい

もと家の女中衆だったお政どんが、
のんびりと応対してくれる

「ちょうどよろしおました
いま帰ったところでござりま
村の公民館へ敬老落語大会を、
聞きにいっとりました」

「お政どん、
あんたな、大阪の手毬唄、
おぼえてまへんか」

「手毬唄・・・
どないしやはるおつもりでおます」

「ちょっと人に頼まれたんや、
その歌の文句知りたい、
いう人があってな、
あんた、船場へ来てから、
おぼえてまへんか」

「へえ、
何しろお守りしたんは、
坊んばっかりだしよってな、
こうっと・・・
一、二、三、四、
四方の景色は春とながめて・・・」

「それは知ってるのや」

「ねんね ころいち
天満のいちで 大根そろえて、船に積む
・・・これは子守唄だしたなあ」

「そやそや」

「大坊んちゃんも中坊んちゃんも、
小坊んちゃんも、
この子守唄でスヤスヤ寝やはりました」

お政どんは、
五十過ぎた私の息子らのことを、
そういった

「申し申し 男衆さん、
いう手毬唄おまへんでしたかいなあ」

「あったあった・・・
こーこは何というところ」

「ここは信濃の善光寺
善光寺さーんへ 願かけて・・・」

お政どんは気持ちよさそうに唄い、

「それから何でおましたかいなあ・・・」

「思い出せんようになってしもうた」

お政どんの電話を切ってから、
私はまたゴム毬をついてみる

どうしてもそこから先が思い出せない

この歌を唄っていると、
私の生まれた家ののれんや、
店先に坐っていた番頭や、
父や母、
ガラス戸棚の中の呉服、
反物の山などが思い出されるのに、
歌のつづきは茫々としている

細長い奥の庭で、
私は幼友達とこの歌を唄っている

なつかしいなあ、
子供のころ

そんなことを思い出しつつ、
手毬をついていると、
ドアフォンが鳴って、
開けてみると三男の嫁であった

「お姑さんお一人?
西宮も豊中も来ていられません?」

と嫁は長男や次男のことをいう

「来てませんよ、なんで?」

「だって敬老の日でしょ!
お見舞いに上がるべきですわ」

こういうとき私は、
「それはそう)とも、
(そやそや)とも、
(ほんとですわ)ともいいにくい

要するに敬老の日なんて、
私には全く関心がないのだ

あんなものは政府が人気取りに、
勝手に作ったのであって、
老人自体とは何の関係もないのだ

それに、
敬老の日やから見舞いに来る、
というのもけったいやねえ、
といいたい

形式主義というものではないか
嫁は言い返す

「あら、お姑さん、
誰も寄りつかなかったからといって、
そうひがむことないじゃありませんか」

「別にひがんでいうてるんじゃありませんよ」

「拗ねたいお気持ちはわかりますけど、
一人暮らしというのは、
ややもするとひがみっぽく、
拗ねてモノを解釈する傾向があると、
新聞に載ってました」

誰が拗ねるねんな、
機嫌よう毬つきしているものを

「お姑さん、
うちは敬老の日プレゼントを、
差し入れしますわ、
京都の幕の内ですわ、
この頃箕面にその料理屋の支店が、
出来たもんですから、
パパがお姑さんに持って行けって
晩御飯になさって下さい」

「それはありがとう
頂きますよ」

私はべつにひがみも、
拗ねもしない証拠に、
ありがたく礼をいうのである

「とってもおいしいという評判ですよ
それだけに思いのほか、
高かったわ!
でも何しろ普通の日じゃありませんのでね
敬老の日だから私も張り込みました
車ですぐ持って来たので大丈夫ですわ
お刺身も入ってるみたい、
早く召し上がったほうがいいですわ」

「それはそれは」

「絶対おいしいはず、
もしまずければ、
お姑さんの味覚が退行してるんです
新聞には味覚も鈍くなる、
とありましたからね」

このスカタン嫁は、
あと先見ずに言いたい放題いう女であるが、
それでも私には世間の女のように、

(これ、つまらぬものですが)

(お粗末ですけど)

などというより、
こういってくれたほうがましである

すべて(ほんまいうたら・・・)
というのが好もしくなっている私は、
スカタン嫁ながら、
本音をいう女のほうが扱いやすい

嫁は私を眺め、

「それはそうと、
お姑さん、そんな毬を持って、
何してらしたんですか」

「これかいな
手毬ついてましてん」

「へー、老人は、
童心に還るとありましたけど、
本当なんですね
へー」

「手毬唄を思い出そうとしたもんでね、
須美子さん、あんたも手毬唄歌うて、
毬ついたことありますか」

「あたし、
兵庫県に疎開してましたから、
そっちの歌ですけどね」

風流で上品だというから、
どんなみやびな文句かと思ったら、
要するに理解に苦しむ、
支離滅裂のしろもので、
むかしの遊び特集に、
収録しておくような雅致はないわけである

「あらー久しぶりに、
子供っぽいことやってしまった、
四十のオトナのやることやありませんわね」

「いいや、四十のオトナやからこそ、
したいことしたらよろしねん」

「でも年甲斐もなく・・・」

「いいや、
年甲斐なんてことばは、
この世にありませんよ」





          


(次回へ)

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