
<ながらへば またこのごろや しのばれむ
憂しと見し世ぞ いまは恋しき>
(生きながらえていたら
またこの頃がなつかしくなるんだろうか
辛いこと いやなことの多い
この頃なのに
~~辛いこと多かった昔の
あの時代が
いまは なつかしいんだもの)
・これはさらりと詠んで、
人の共感を誘う歌。
この歌を好き、という人も多い。
『新古今集』巻十八・雑に、
「題知らず」として出ている。
清輔は、世を憂しとみる条件がそろっていた。
藤原清輔(きよすけ)(1104~1177)、
王朝末期の有名な歌人である。
俊成よりも十一歳年長で、
歌人としては大先輩で、
歌壇の長老であった。
清輔の父は顕輔(あきすけ)、
その父の顕季(あきすえ)も歌人で、
邸が六条烏丸にあったので、
世に六条家とよばれ、
歌の師匠の家柄である。
六条家に対して、
俊成・定家父子の家は、
御子左家(みこひだりけ)と呼ぶ。
のちに俊成や定家の世になって、
六条家は圧迫されてしまうが、
それまでは、みな六条家であった。
ところがこの清輔は父の顕輔と不和で、
顕輔が崇徳院の仰せで『詞花集』を選んだときも、
清輔は一首もとられなかった。
その後、二条天皇によって清輔は、
『続詞花集』を選進することになった。
ところが今度は完成を見ぬ前に、
二条天皇は崩御され、
清輔の栄光は砕かれてしまった。
プロ歌人として、
辛かったであろうと思われる。
しかも、彼の生きた時代は、
保元・平治の乱の乱世である。
さまざまの憂苦をなめた人として、
しかしそれでいながら、
(まあ、いい・・・生きよう。
長く生きていれば、
この時代だって、
また恋しくなるだろうから)
と気を取り直したのであろう。
過去の経験に照らし、
先の人生にかすかなのぞみをつなぐ、
そういう「気の取り直し方」は、
いくばくかの人生的蓄積がなければ出来ない。
家集の『清輔朝臣集』で見ると、
愛した女に死に別れた歌、
三歳の小さな子を亡くした歌、
<をりをりに物思うことは ありしかど
このたびばかり 悲しきはなし>
などというしみじみとした歌も見られるが、
率直にいって清輔は歌論家、歌学者、批評家であるが、
私にはあまり魅力ある歌人とは思えない。
なおこの清輔は長生きで七十四で死んだが、
六十九のとき、年来の望みとて、
長寿の人を集めて「尚歯会(しょうしかい)」
という和歌の会を催した。
清輔はその序に書いている。
「我ら頭に雪の山を戴けど、
心は消えぬものなりければ・・・」
老人たちのこの時の歌も、
中々しゃんとしていていい。
王朝の貴族、
わりに長生きしている人も多いのは、
食べもののせいではないかと思われる。
添加物のない自然のものを美味しく食べ、
よい空気を吸い、
戦乱や疫病から細心に身を守ったのであろう。
・・・あの時は、
死んだほうがましだと思ったが・・・
とあとになって思える時が来るものである。



(次回へ)