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「姥ざかり」

田辺聖子著
昭和56年新潮社刊より

84番、藤原清輔朝臣

2023年06月24日 08時40分44秒 | 「百人一首」田辺聖子訳










<ながらへば またこのごろや しのばれむ
憂しと見し世ぞ いまは恋しき>


(生きながらえていたら
またこの頃がなつかしくなるんだろうか
辛いこと いやなことの多い
この頃なのに
~~辛いこと多かった昔の
あの時代が
いまは なつかしいんだもの)






・これはさらりと詠んで、
人の共感を誘う歌。

この歌を好き、という人も多い。

『新古今集』巻十八・雑に、
「題知らず」として出ている。

清輔は、世を憂しとみる条件がそろっていた。

藤原清輔(きよすけ)(1104~1177)、
王朝末期の有名な歌人である。

俊成よりも十一歳年長で、
歌人としては大先輩で、
歌壇の長老であった。

清輔の父は顕輔(あきすけ)、
その父の顕季(あきすえ)も歌人で、
邸が六条烏丸にあったので、
世に六条家とよばれ、
歌の師匠の家柄である。

六条家に対して、 
俊成・定家父子の家は、
御子左家(みこひだりけ)と呼ぶ。

のちに俊成や定家の世になって、
六条家は圧迫されてしまうが、
それまでは、みな六条家であった。

ところがこの清輔は父の顕輔と不和で、
顕輔が崇徳院の仰せで『詞花集』を選んだときも、
清輔は一首もとられなかった。

その後、二条天皇によって清輔は、
『続詞花集』を選進することになった。

ところが今度は完成を見ぬ前に、
二条天皇は崩御され、
清輔の栄光は砕かれてしまった。

プロ歌人として、
辛かったであろうと思われる。

しかも、彼の生きた時代は、
保元・平治の乱の乱世である。

さまざまの憂苦をなめた人として、
しかしそれでいながら、

(まあ、いい・・・生きよう。
長く生きていれば、
この時代だって、
また恋しくなるだろうから)

と気を取り直したのであろう。

過去の経験に照らし、
先の人生にかすかなのぞみをつなぐ、
そういう「気の取り直し方」は、
いくばくかの人生的蓄積がなければ出来ない。

家集の『清輔朝臣集』で見ると、
愛した女に死に別れた歌、
三歳の小さな子を亡くした歌、

<をりをりに物思うことは ありしかど
このたびばかり 悲しきはなし>

などというしみじみとした歌も見られるが、
率直にいって清輔は歌論家、歌学者、批評家であるが、
私にはあまり魅力ある歌人とは思えない。

なおこの清輔は長生きで七十四で死んだが、
六十九のとき、年来の望みとて、
長寿の人を集めて「尚歯会(しょうしかい)」
という和歌の会を催した。

清輔はその序に書いている。

「我ら頭に雪の山を戴けど、
心は消えぬものなりければ・・・」

老人たちのこの時の歌も、
中々しゃんとしていていい。

王朝の貴族、
わりに長生きしている人も多いのは、
食べもののせいではないかと思われる。

添加物のない自然のものを美味しく食べ、
よい空気を吸い、
戦乱や疫病から細心に身を守ったのであろう。

・・・あの時は、
死んだほうがましだと思ったが・・・

とあとになって思える時が来るものである。






          


(次回へ)

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