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「姥ざかり」

田辺聖子著
昭和56年新潮社刊より

3、紫 ①

2023年07月26日 08時46分14秒 | 「新源氏物語」田辺聖子訳










・年が明けて春になってから、
源氏は病にかかった。

北山の寺に、
徳の高い僧がいるというので、
加持祈祷をしてもらうために、
少ない人数で、
源氏は出かけた。

聖は高い峰の、
巌にかこまれたお堂に住んでいて、
源氏はねんごろな祈祷をした。

源氏はそのへんをそぞろ歩いていると、
かなたこなたに僧坊が見える。

その一つに優美に作られた庵があった。

きれいな小柴垣、
建物や廓のたたずまいも、
よしありげである。

「あれは誰の住むところか」

源氏が問うと、
なにがしの僧都の庵、
ということだった。

美しい童が、
仏に花を供えたりしている。

「おや・・・
まさか僧都に隠し妻でも?
女の姿が見えますな」

と目ざとい男がいった。

京の桜はもう散っていたのに、
山々の桜は今が盛りであった。

谷の水の清らかさに目を洗われて、
源氏は久しぶりにさわやかな気分を味わった。

「絵のような景色だな」

源氏が嘆声を放つと、
従者たちは、

「この山々などはまだまだ、
近いところでは、
播磨の明石の浦でしょうか」

「何か変わった景観があるのか」

「海を見はらす景色が、
大らかで美しゅうございます。
前播磨守入道が、
大事な一人娘を、
立派な館に住ませて、
かしずいております。
片田舎の浦辺ですが、
どうして、ぜいたくな邸でございます」

「どんな娘なのだ」

「美人らしいのですが、
代々の守が求婚しましても、
決して入道は承知しません。
少し偏屈物で、
都でのわが出世をあきらめて、
娘に野心を托しておりまして、
もし理想がかなえられなければ、
海へ身を投げて死ぬ、
と娘にいっているそうです」

明石の話をしたのは、
現在の播磨守の息子の良清で、
彼自身、
その娘に求婚したことがあるらしかった。

もう一晩泊って祈祷を受けることになったので、
源氏はつれづれな春の夕暮れ、
そぞろ歩いて、
さきほど見た小柴垣のところまで行ってみた。

惟光だけついて来た。

西向きの座敷に、
尼君がいて、
持仏を据えて勤行をしている。

簾が少し上げられ、
尼君は四十ぐらいで色白の、
美しい婦人である。

ほかに上品な中年の女房が二人、
そのほか、小さな女の子たちが遊んでいた。

そこへ十歳ばかりであろうか、
白い衣に山吹がさねの柔らかいのを着て、
走ってきた女の子は、
そのへんにいる子とはくらべものにならぬ、
美しい少女である。

髪は扇をひろげたようにゆらゆらして、
顔は泣いたあとらしく赤らめ、
尼君のそばへ来た。

「どうしたの?
子供たちと言い争いでもしたの?」

といいながら見上げた顔は、
少し似ているのでこの人の子供だろうか、
と源氏は思う。

それにしても・・・
この少女はどこかで見たことがある心地がする。

この少女は、
誰かを思いださせる。

「雀の子を、犬君が逃がしてしまったの。
伏籠の中に入れてあったのに・・・」

美しい女の子は残念そうにいった。

少納言の乳母と呼んでいる婦人が、

「またあのうっかり者が。
雀はどちらへ逃げましたの?
よく慣れて可愛くなっていましたのに。
鴉などにみつけられては可哀そうですわね」

と立っていった。

尼君はためいきをついた。

「どうしてあなたはそう幼いの?
生きものを閉じ込めて飼うことは、
罪深いことと、
いつも教えていますのに・・・
いらっしゃい、ここへ」

と招くと、
美しい少女は素直に従った。

源氏は目をそらすことが出来なかった。

(似ている・・・
どうしてああまで・・・
あのいとしい女のおもざしに、
あまりにも似通っている)

そう思うだけで、
源氏の心の中に、
藤壺の宮(継母に当る)に対する、
熱い苦い涙がしたたり落ちてくるのであった。

涙の熱さは思慕の熱さであり、
苦みは、逢う手立てのない苦痛のためである。

尼君は、
女の子の髪をかきなでて、

「梳くのをうるさがられるけど、
いいお髪ね・・・
あなたがあまり子供子供しているので、
おばあちゃまは心配ですよ。
亡くなったあなたのお母さまは、
十二の年におじいさまに死に別れたのだけど、
そのころはちゃんと、
物をよくわきまえておいでだった・・・
あなたみたいにがんぜないと、
もし、おばあちゃまが亡くなったら、
どうなるのかしら?
おばあちゃまは死ぬに死ねない気持ちですよ」

と涙ぐんでいるのを見て、
源氏も悲しく思った。

女の子も悲しく思うらしく、
しょんぼりとしている。

僧都が別棟からやってきて、
尼君にいう。

「おや、端近にいるんですね。
この山の上の聖の寺に、
都から源氏の君がお忍びで、
療養に来ていられるそうですよ。
私もご挨拶申し上げて来ようか」

「まあ、そうでしたか・・・
何も知らずに端近にいましたが、
誰かにのぞかれはしなかったかしら」

尼君はいい、
誰かが御簾を下ろした。






          




(次回へ)

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