
・年が明けて春になってから、
源氏は病にかかった。
北山の寺に、
徳の高い僧がいるというので、
加持祈祷をしてもらうために、
少ない人数で、
源氏は出かけた。
聖は高い峰の、
巌にかこまれたお堂に住んでいて、
源氏はねんごろな祈祷をした。
源氏はそのへんをそぞろ歩いていると、
かなたこなたに僧坊が見える。
その一つに優美に作られた庵があった。
きれいな小柴垣、
建物や廓のたたずまいも、
よしありげである。
「あれは誰の住むところか」
源氏が問うと、
なにがしの僧都の庵、
ということだった。
美しい童が、
仏に花を供えたりしている。
「おや・・・
まさか僧都に隠し妻でも?
女の姿が見えますな」
と目ざとい男がいった。
京の桜はもう散っていたのに、
山々の桜は今が盛りであった。
谷の水の清らかさに目を洗われて、
源氏は久しぶりにさわやかな気分を味わった。
「絵のような景色だな」
源氏が嘆声を放つと、
従者たちは、
「この山々などはまだまだ、
近いところでは、
播磨の明石の浦でしょうか」
「何か変わった景観があるのか」
「海を見はらす景色が、
大らかで美しゅうございます。
前播磨守入道が、
大事な一人娘を、
立派な館に住ませて、
かしずいております。
片田舎の浦辺ですが、
どうして、ぜいたくな邸でございます」
「どんな娘なのだ」
「美人らしいのですが、
代々の守が求婚しましても、
決して入道は承知しません。
少し偏屈物で、
都でのわが出世をあきらめて、
娘に野心を托しておりまして、
もし理想がかなえられなければ、
海へ身を投げて死ぬ、
と娘にいっているそうです」
明石の話をしたのは、
現在の播磨守の息子の良清で、
彼自身、
その娘に求婚したことがあるらしかった。
もう一晩泊って祈祷を受けることになったので、
源氏はつれづれな春の夕暮れ、
そぞろ歩いて、
さきほど見た小柴垣のところまで行ってみた。
惟光だけついて来た。
西向きの座敷に、
尼君がいて、
持仏を据えて勤行をしている。
簾が少し上げられ、
尼君は四十ぐらいで色白の、
美しい婦人である。
ほかに上品な中年の女房が二人、
そのほか、小さな女の子たちが遊んでいた。
そこへ十歳ばかりであろうか、
白い衣に山吹がさねの柔らかいのを着て、
走ってきた女の子は、
そのへんにいる子とはくらべものにならぬ、
美しい少女である。
髪は扇をひろげたようにゆらゆらして、
顔は泣いたあとらしく赤らめ、
尼君のそばへ来た。
「どうしたの?
子供たちと言い争いでもしたの?」
といいながら見上げた顔は、
少し似ているのでこの人の子供だろうか、
と源氏は思う。
それにしても・・・
この少女はどこかで見たことがある心地がする。
この少女は、
誰かを思いださせる。
「雀の子を、犬君が逃がしてしまったの。
伏籠の中に入れてあったのに・・・」
美しい女の子は残念そうにいった。
少納言の乳母と呼んでいる婦人が、
「またあのうっかり者が。
雀はどちらへ逃げましたの?
よく慣れて可愛くなっていましたのに。
鴉などにみつけられては可哀そうですわね」
と立っていった。
尼君はためいきをついた。
「どうしてあなたはそう幼いの?
生きものを閉じ込めて飼うことは、
罪深いことと、
いつも教えていますのに・・・
いらっしゃい、ここへ」
と招くと、
美しい少女は素直に従った。
源氏は目をそらすことが出来なかった。
(似ている・・・
どうしてああまで・・・
あのいとしい女のおもざしに、
あまりにも似通っている)
そう思うだけで、
源氏の心の中に、
藤壺の宮(継母に当る)に対する、
熱い苦い涙がしたたり落ちてくるのであった。
涙の熱さは思慕の熱さであり、
苦みは、逢う手立てのない苦痛のためである。
尼君は、
女の子の髪をかきなでて、
「梳くのをうるさがられるけど、
いいお髪ね・・・
あなたがあまり子供子供しているので、
おばあちゃまは心配ですよ。
亡くなったあなたのお母さまは、
十二の年におじいさまに死に別れたのだけど、
そのころはちゃんと、
物をよくわきまえておいでだった・・・
あなたみたいにがんぜないと、
もし、おばあちゃまが亡くなったら、
どうなるのかしら?
おばあちゃまは死ぬに死ねない気持ちですよ」
と涙ぐんでいるのを見て、
源氏も悲しく思った。
女の子も悲しく思うらしく、
しょんぼりとしている。
僧都が別棟からやってきて、
尼君にいう。
「おや、端近にいるんですね。
この山の上の聖の寺に、
都から源氏の君がお忍びで、
療養に来ていられるそうですよ。
私もご挨拶申し上げて来ようか」
「まあ、そうでしたか・・・
何も知らずに端近にいましたが、
誰かにのぞかれはしなかったかしら」
尼君はいい、
誰かが御簾を下ろした。



(次回へ)