むかし・あけぼの

田辺聖子さん訳の、
「むかし・あけぼの」
~小説枕草子~
(1986年初版)角川文庫

「5」 ⑤

2024年09月20日 08時46分03秒 | 「むかし・あけぼの」  田辺聖子訳










・準備やら、
お目見得やらで、
いよいよ中宮のもとへ、
出仕したのは、
その年も暮れて、
正暦四年も冬に入ってしまった

「あなたの、
早くに亡くなられた、
お母さまの親類に、
少納言の人がいられたから、
その名を頂きなさい」

と弁のおもとはいった

顔もおぼえていない、
母であるけれど、
母ゆかりの名をよばれても、
悪くない気がする

それに、
父の清原の姓から一字とって、
清少納言と、
私は呼ばれることになる

しばしば、
里に帰るつもりでいたので、
私は吉祥にもことごとしい別れは、
告げない

吉祥も今は、
兄たちについて、
勉学の手ほどきを受ける、
年ごろになっている

私に一緒について来たがる癖は、
失せないが、
かなり男の子っぽくなって、
面がわりさえした

寒い頃であった

はじめて見る宮中は、
だだっ広く寒いところであった

巨大な殿舎の天井は、
高く暗く、
風がまともに吹きつけて、
格子をゆさぶり、
蔀を鳴らし、
御簾を高くまきあげた

木立も多かった

夜は全くの闇にとざされ、
果てもみえぬ広場の奥から、
松明の行列が見え、
砂利を踏む音が近づいてくる

しかし後宮のうちは、
あかあかと灯がつき、
人いきれと火桶の火で暖かい

私は物なれぬ勤めに、
怖じて、夜ばかり出仕していた

昼間は明るすぎて、
二十八のさだ過ぎた女が、
新参者でうろうろするのは、
気がさすからである

なるべく遠くの方に控えて、
人目に目立たぬようにしていた

応接の仕方、
居ずまい、
身ごなし、
仕事の手順もわからず、
ただひたすら物陰にいて、
一日も早く雰囲気に馴れたい、
と思うばかりである

「清少納言、
待ちかねました」

と中宮は仰せられた

顔もあげられないほど、
私はうつぶしている

「あなたの『春はあけぼの草子』が、
面白くて、弁のおもとに、
いくど催促したことやら
次を見せて、といったの」

中宮のお声は、
張りがあり、
甘くてあかるく澄んでいる

「これを書いたご本人に、
とても会いたかったの
顔を見せて」

「お許しくださいまし・・・」

「どうして?
恥ずかしがりなのねえ、
少納言は
あんなにすばらしい、
愉快な文章をかく人だから、
人柄も大胆で、
はきはきしているのか、
と思ったわ」

中宮はおかしがっていられる

死んだ気になって、
顔をあげると、
明るい大殿油の灯のもと、
十七歳のかがやく美貌の、
后の宮が笑っていらした

夢に描いていたような、
后の宮だった

現実に、
定子の宮を、
こうやって仰いでいるのだ

あこがれを捧げ、
慕い続けていた定子姫に

雪のような白いおん頬に浮かぶ、
なまめかしい微笑、
漆黒のお髪が紅の唐綾の、
表義に流れていて、
お袖からこぼれる小さい手は、
うす紅梅の色に匂っていた

なんという美しい方が、
この世にはいられるのだろう

「こっちへもっとお寄りなさい
そしてあなたの草子のお話を、
もっとしましょう
どうしてうつむいてばかりいるの?」

中宮は快活なお人柄らしい

「ほら、もっとこちらへ
あなたは早く退りたいと、
念じているのでしょう?」

中宮のお顔を盗み見る私は、
身も心も吸い取られる心地がする

私は美しい女ではない

それにもう、
花の盛りも過ぎた

髪は抜け落ちて少なくなり、
かもじを添えているが、
自髪は黒く、
かもじの毛は赤っぽく、
艶がないものだから、
明るいところで見ると、
それがわかって、
われながらうんざりする

この冬、
正暦四年(993)
私は二十八歳である

目尻や口辺の皺が深くなり、
眼窩が深くなっているのを、
知っている

私は自分自身を、
客観的に見る能力は、
あると思うので、
かなり自分を把握しているつもり

髪の衰えはいうまでもなく、
目も小さいし、
鼻も・・・

ところが不思議なことに、
全く容貌に自信ないと同じ程度に、

(まんざらでもないんじゃないかしら)

という、
抑えべからず自負心が、
あたまをもたげてくる

しかし宮中へあがった私が、
知ったのは動揺どころではなかった

自尊心も自負心も、
どこかへ吹っ飛んでしまった

自分を恥ずかしく、
卑小にばかり感じていた

(まんざらでもないわ)

と思った自分を支え、
生きてきたが、
それはこの雲の上の世界に、
身をおいてみると、
吹けば飛ぶような塵芥のような、
うぬぼれにすぎなかった

卑小なわが身ひとつ、
私はまわりのめでたさに、
目がくらんで、
ただもう、
おどおどとしていた






          


(了)

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