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夢の途中

空に真赤な雲のいろ。
玻璃に真赤な酒の色。
なんでこの身が悲しかろ。
空に真赤な雲のいろ。

“ヨコハマメリー”は誰なのか?

2006-06-24 | 映画

かつてひとりの娼婦がいた。
彼女の名前は“ハマのメリー”

そんなごくありふれたコピーから映画が始まった。
そしてまさに、これ以外にはないだろうと思わせるように、
青江三奈のかつての流行り唄がかぶさる。
なにもかもがハマっている。

 あなた知ってる 港ヨコハマ
 街の並木に 潮風吹けば
 花散る夜を 惜しむよに
 伊勢佐木あたりに 灯りがともる・・・・

これは、ハマの夜の歓楽街伊勢佐木町を舞台に、
戦後すぐの米軍占領時代から
そこに娼婦として生き続けてきた通称“ハマのメリー”について、
そのインタビューを中心に描いたドキュメンタリー映画である。

“ハマのメリー”とは誰か。

写真に遺された記憶と、人の語る様子では、
常に“高貴ふうに”装ったフリルの付いた真っ白なドレスに、
さらに真白いドーランで塗り固めた顔。
くっきりと描かれた眉とアイシャドーからは長い付け睫がぱっちり、
口元には薄く真一文字にさした真っ赤な紅。

そんないかにも奇態ないでたちで、
伊勢佐木町の街角にずっと立ち続けてきた娼婦。
アメリカの上級将校だけにしか身を売らず、
またかつてはたくさんいた仲間ともけして打ちとけることなく、常に孤高な娼婦。

自分は公家の出で高貴な育ちだとうそぶき、ときに“皇后さま”と呼ばれ、
その風体から“きんきらさん”とも呼ばれ、
なぜか一目置かれた存在でずっとあり続けた、
出身も年齢正体さえも、自分のことは一切語らない謎の老娼婦。

彼女は、かつて相思相愛で過ごした米軍のさる高官との別離を
現実と受け止めることができないまま、ひたすら待っているのだ・・・・とも。

若い頃はいざ知らず、
スティル写真だけで登場してくるメリーはすでに相当な高齢である。
今では頭髪も白く、高齢のため腰は曲がり、
宿無しだから、着衣一切を詰め込んだキャスト付きの古びたトランクを
ずるずると引きずって、ネオンの町を歩き、横断歩道を渡り、
決まった街路やビルの一角に佇んでいる。
完全に、周囲の風景から浮いている。

通り過ぎる人みな、その奇態さに驚き訝しがり嫌悪や嘲笑を込めて振り返る。
振り返らない人は、この伊勢佐木町に昔から出入りし、
メリーがこの町の著名人であることをよく知っている。

彼らの目には、メリーの佇まいは浮いてはいない。
戦後の伊勢佐木町の風景にずっと溶け込んでいるのだ。

そのメリーがある日、忽然と伊勢佐木町から姿を消し、
消息はまったく不明となった。

人は国へ帰ったと言い、いやとうとう野垂れ死にしたのだ、と別な人が言う。
そのようにメリーの断片をいろいろと語る人たちがいる。

元キャバレーのやり手支配人、元ドラッグストアの経営者で今は舞踏家、
風俗ライター、作家、
かつてアメリカ軍人や外国船員で賑わったこの町の
夜の社交場に巣食っていた遊び人、
芸者、美容院のママ、宝石店の女主人、
メリーをヒントに芝居を書いた脚本家、その役者、
メリーと失われていく町を撮り続ける写真家、
そして元男娼でこの町の有名人ともなったシャンソン歌手・・・・

メリーの行く先、佇む先でメリーに出会い、
そのことによって自分の裡になにか投影するものを感じた人たちが、
行方知れずになったメリーの断片を、さまざまに語る。

その投影されたことやもの、まさに自分の人生のひとコマを、語り続ける。
これらの人たちはみな、あの敗戦後のハマの荒廃のなかを、
それぞれなりに、さまざまに、自分なりに生き、
なんとか懸命にやってきた者たちなのだ。

メリーを語りながら、そういう背景が次第に浮かび上がってくるのである。
・・・・それにしてもみな、老いた。

とりわけ、むしろこの映画の主役と言ってもよい
永登元二郎というシャンソン歌手は癌を病んでおり、
メリーの記憶ともども、
明日とも知れぬ自分の一生を語り尽くそうとする。

老いたメリーの暮らしを支援し、メリーとのかかわりの浅からぬ彼には、
メリーに共振する何かが見えているのだろう。
そして、自分の死ぬ前に、メリーに再会したいと思う。

再会して、自分のテーマソングでもある「マイ・ウェイ」(元はシャンソン)を
彼はまた歌ってあげたいと、強く思う。
それは元二郎さんの遺書でもあるのだろうか。

だが、メリーはどうなったというのだ。
メリーが忽然といなくなったということから、
この映画は始まっていたはずである。

その後、はっと息を呑み、
不覚にもはらはらっとなるシーンが続いた。
だが、その“意外性”については、ここで語らないことにする。

人々が語る断片を集めることで、メリーのどのような像が描かれたのか。
メリーはなぜあのように白い顔料を塗り
白いドレスを身にまとっていたのだろうか。

それは仮面なのだという作家もいれば、
まるで死神のようだとおびえる人もいる。

なに、老醜を隠そうという女の気持ちだろうという解釈もあれば
いや、隠そうとしているのは、あの丁寧で上品な喋り方そのまま、
高貴な氏素性に違いないと推理する人もいた。

いずれにしても、
そうしたメリーの謎は明かされたかのように、映画は終わる。
メリーと元二郎さんは会えたのだろうか。

この映画は5年を費やして、昨年の2005年に完成したようだ。
インタビューに答えていたシャンソン歌手元二郎は
映画の完成を待たずこの世を去り、
同じようにメリーを熱く語った脚本家と風俗ライターも
あっという間に、亡くなった。

もちろん、メリーもすでにこの世にはいない。
そういう「事実」ばかりが、残る。

いまさら諸行無常ではないけれど、
そういうこともこういうことも、そしてああいうこともあった・・・・
ということで映画は終わるのだ。

人生は幻ではなく、確実に在って、過ぎていく。
実際に人は精一杯生きて、死んでいくのである。
ペシミズムからではなく、その精一杯さが、いとしい。

 あなた馴染みの 港ヨコハマ
 人にかくれて あの娘が泣いた 
 涙が花に なる時に
 伊勢佐木あたりに 灯りがともる
 恋のムードの
 ドゥドゥビ ドゥビ ドゥビ ドゥビドゥ バー
 灯がともる
          (川内康範・詞/渚ようこ・歌)
          
 (監督:中村高寛 スティル写真:森日出男)

テーマをどこに見つける?映画「シリアナ」

2006-03-13 | 映画
この映画は、中東の石油利権をめぐる世界の強大国アメリカの石油産業の野望と、これを国益として積極的にバックアップするCIAの陰謀を暴いている。
しかし、単に暴露することを目的としたものではないことが、後でわかってくる。
この映画には、元CAIの中東諜報部員による「CAIは何をやってきたか」という暴露本の原作があるようだが、読んでいない。

世界のあちこちでCAIが仕組んできた政治的経済的な陰謀は、関心のある人にはむしろ公然と言ってよい話だが、関心のない人にはまったくなんのことかわからない退屈な映画となる。
現に映画が終わったあとで隣にいた若いカップルが顔を見合わせ、「ぜーんぜん、わからない!」としゃべっていたが、これ以降こういうテーマが彼らの間では二度と話題にはならなくなるとしたら、残念だ。

ところで、誰しもが噴き出したくなるようなこの映画のへんちくりんなタイトルはどういう意味か?
ネットサイトの「はてなダイアリー」によれば、「「シリアナとは、CIAが実際に使ってると言われる、イラン、イラク、シリアの三国がひとつの国家になるという事態を想定した架空の国のコードネーム」とある。

つまり、アメリカが絶対そうあってはならないとおそれている、「非民主的な異教徒イスラム世界」の、そして喉から手が出るほど欲しい「石油産油国」の大同団結を意味するテーマということか。
したがって通常の想像力があれば、例の多年に及んだイランとイラクとの“イラ・イラ戦争”や、911以降のイラク攻撃、そして今また核疑惑をテコにしたイランへの恫喝・・・と、みなその背後に「シリアナ」を阻止するためのアメリカの影が自然に浮かんでくるではないか。

それにしてもこの映画はちと欲が深い。ストーリーを形象する登場人物が4人から5人。
主役級のひとりは、組織の命によって殺人テロを行い、自国の利益にならないと思えば他国家の王族さえ平然と暗殺しようとするCAI諜報部員。
もうひとりは、まっとうで熱血漢でもあるような石油業界のアナリスト。
さらに他国の石油利権を強奪するために違法の合併を画策する石油企業を支援する、成り上がりの野心家黒人弁護士。

以上がアメリカ人で、ドラマ上ではこれらの人物たちの話は実際には触れ合うことなく並行して進むが、それぞれは別個のアプローチで、某石油産出国の皇太子と深く関わる。
この映画を受身でみていると、こうしたドラマの進行が複雑でわからなくなる。
映画をみる姿勢の問題なので、分からないとケチをつけても始まらない。

加えて最後の4人目として、国家間の石油利権争奪戦の犠牲となってテロリストに巣立っていく、パキスタンからの出稼ぎ労働者も登場している。

映画は、こうした人々を陰謀や複雑な駆け引きや暴力の世界に巻き込んだ果てに、悲劇的なふたつのテロが勃発して終わる。
ひとつは、CAIによるテロ。自国の将来を憂え、アメリカが企む石油利益を阻害する活動を始めた前述の某国皇太子が、ミサイルで謀殺される。
もうひとつは、ついにイスラム戦士に育った出稼ぎ労働者が、小型ミサイルを抱えて突っ込んだ自爆テロ。
彼は、アメリカの石油業界の面々が獲得した利権を祝っていた会場の石油基地に、ボートで突入する。
皮肉にもそのミサイルは、CAI諜報部員がイランの武器商人を暗殺するために囮として売ったもの。
さて、これらのふたつのテロに違いはあるのかどうか、因果関係はあるのだろうか。

ともあれ、国益という得体の知れない、そのためにはどんなに腐敗した活動も無原則に許されてしまうような価値観の元で、CAI諜報部員、イスラムの出稼ぎ、皇太子一家が、虫けらのように死んでいく。
CAI諜報部員はCAIという組織に利用され、暗殺のミッションを与えられていた当の皇太子ともどもに爆死させられた。
この皇太子の理念に賛同し、皇太子とともにあった熱血アナリストだけは奇跡的に爆死を免れ、この悪夢のような現実に打ちのめされ、妻と子の元へ帰ってゆく。
(自爆テロを受けた石油関係者たちがどうなったか、もちろん平然と生き延びているはずだ)

このように終わったこの映画は、一体何を語るか。
事実をか? まさか、これは映画であり、ドラマであり、あくまでフィクションであるに過ぎない。
しかし、冷戦以降にアメリカという国が行ってきた謀略の真実がある。
謀略の当事者が次のように吐くシーンがある。
世や人には腐敗があり、自分たちが腐敗しているからこそ利益が生まれ人々の生活も安定しているのだ、と。
そうした開き直りの世界観に対する、静かな憤りがある。
国益という、基本的には下品で、一見反論のしようもないセリフが政府指導者から出たときは、決して鵜呑みにしないほうがいい。それが、戦争や紛争を経験してきた国民の理性であるべきだろう。

この映画はかなり乱暴で強引なやり方で、そうした真実を語ろうとする。しかしそれだけにとどまらないと思う。
登場する5人を注意して思い起こすと、そこには親子のモチーフが色濃く立ちあらわれてくるのだ。
彼らひとりひとりにはすべて親や子との愛情や、確執や裏切りをうかがわせるシーンが登場する。彼らの行動を促す動機に、必ず自分の親や子の存在がある。
それぞれに親子の事情があり、そのあげくにどうにもならない別れや対立が待っている。

最後に生き残ったアナリストには、子どもがふたりいた。
そのうちのひとりは、家族で皇太子のパーティに招待された折に事故死してしまう。
これを契機として彼と皇太子とは結びつきを深めるのだが、それに危険なシグナルを察知する妻は残された子を連れて彼の元を去る。やがて彼らの理想のすべてが潰え去り、絶望と恐怖に打ちのめされた彼は家に帰る。残された子どもの元へ帰っていく。
そのとき、駆け寄ってくる子どもを抱きかかえるというシーンがさりげなく挿入される。
アナリストの彼だけが子どもに再会でき、やさしく抱きしめることができたのだ。
それはなんの変哲もないシーンで、そのあたりの扱い方がやや中途半端にも見えるが、監督の視点は実はこういうところにあったのではないかと思わせた。
監督はスティーヴン・ギャガン。初めて接する監督の、頑張りの一品だった。主演のCAI諜報部員は、ベテランのジョージ・クルーニーが熱演していた。



映画「カミュなんて知らない」の思いがけぬ迫力

2006-02-20 | 映画
もう6年前にもなる2000年のこと、愛知県の豊川で、17歳の高校生が「人を殺すという経験をしてみたかった。人を殺したらどうなるか、試してみたかった」の思いで、通学途中の見知らぬ家に入り込み、そこで高齢の主婦を殺害した。
この事件は若者によるいわゆる「理由のない殺人事件」として、いっとき世を震撼させ、いまではほとんど忘れられている。

映画「カミュなんか知らない」は、この事件をモチーフにした映画を制作している大学生たちを描いている。彼らの制作している映画のタイトルは「タイクツな殺人者」といい、元映画監督であった教授による授業制作として行われている。
かつての議論好きな映画青年ではあるまいし、いまどきの学生が自ら進んでこうしたシリアスで社会性あるテーマの映画を自作しようとはしないだろうから、この教授から与えられた課題なのであろう。

彼らの映画に対する嗜好は彼らのセリフにふんだんに出てくるが、どれも映画への「知識」ではあっても、映画への深い感動や共感、洞察や批評といった、自分と映画との関わりについての意識はほとんど伝わってこない。
自分たちがつくるべき映画に関しても、テーマの不条理さへの議論もそれほどなく、制作が進んでいく。

彼らは、カミュの書いたあの不条理な小説「異邦人」が、世界にどんな衝撃を与えたかなんてことは知らない世代だが、興味深いことに、殺人を犯した高校生と同じ年齢なのである。
この17歳の殺人者は、正常なのか異常なのか、ムルソーのような「異邦人」なのか、映画づくりを通して彼らはどう思い、どういうテーマを導き出すのだろうか。
それこそ、“映画をつくったらどうなるか試してみたかった”ということだったのか。

そのように、ある特定のテーマの映画をつくる若者たちを描くことで、その特定のテーマと青春との問題を深めようというのが、この映画のねらいなのだろう。
監督は大学時代の同期である柳町光男。かつて、中上健次の小説「十九歳の地図」や「火まつり」で話題となった寡作の監督だ。彼と同じ大学の同期でもっと寡作の監督、「泥の河」や「眠る男」の小栗康平がいる。

それにしても、大学のキャンパスというのは面白いところだ。
そこには同じ世代のたくさんの若者が行きかいすれ違い出会い、何かを共有する舞台なんだと改めて思う。いろいろなクラブの活動があり、遊びやアクションがあり、事件も起こる。
その気になれば、さまざまな経験が可能な場ともなる。また、そこに日々暮らしていると、現実と虚構との境界があいまいになる瞬間もある。
キャンパスという空間があまりにも狭いがゆえに、人間関係や人の想念のからみ合いが名状しがたい濃密さを漂わせてくるからだ。
それは時代こそ変われ、個人的な経験として十分に思い出すことができる。

そんな状況のなかで映画を作っているうちに、さまざまなことが起きる。登場人物たちが男女関係のなかで思いがけぬ事件を巻き起こし、事件に巻き込まれて、いよいよ殺人シーンの撮影にとりかかる。
ここまで、それこそタイクツなシーンもあった映画が、突然テンポもリアリティも一挙に変わって、息をつかせぬ展開となっていくのが見事だ。

映画の中の映画で主役の高校生が、役柄を演じるだけでなく、役柄を超えて役柄の高校生に乗り移るかのように、役柄としての老夫婦を本当に殺してしまうのではないかとハラハラしてくるのだ。これはそういう筋書きのないドラマなのではないかという不安と“期待”に、喉がひりついてくる感じである。
それが劇なのか、劇中劇でのことなのか、それとも新しい映画的現実なのか、と錯覚を起こさせるようなトリッキーな演出が駆使される。
それこそ映画の枠を超えてしまいそうな殺人シーンの不思議で圧倒的な迫力。そして、長いエンディングシーン。

果たして、彼らは映画作りを経ることで、不条理殺人の高校生の何かがわかったのか。
恋愛も殺人もセックスも、そしてキスさえもが、それこそ同じように試してみないとわからないことなのか。
わかることとわからないこと。あるいは「ごっこ」や「ゲーム」と、実際の「経験」。そのなかで、映画のリアリティとは・・・・

なにやら、「問い」ばかりが残ってしまうような印象であるが、これらに対する答えはよくわからない。青春に、答えなんかあるはずないだろう。
そう言ってみたら、昔読みあさった永島慎二の漫画「漫画家残酷物語」だったかの、あるセリフを思い出した。こんなふうな内容であったと思う。
・・・・それはいい経験だったなんていう言い方があるけれど、「経験する」ってそんな簡単なことなのだろうか。

ともあれこの映画には、昔懐かしいフランソワ・トリュフォーやルキノ・ビスコンティの映画のオマージュというかパロディが下敷きにもなっていて、ほほうと楽しめるシーンがいくつかある。それに気づいた人は、ちと複雑な想いにとらわれるかもしれないなあ。

「ミュンヘン」にたどり着いたスピルバーグ

2006-02-07 | 映画
これは、精魂こもった熱作である。
映画のもつエンターテインメント性と、作家のもつ精神性が、サスペンスドラマというスタイルのなかできわどく昇華された感がある。よほどの腕力、すなわち高い創造意識がないと、こうした作品は生まれないだろう。

そう、これと似た感覚の映画にどこかで出会ったなと頭をめぐらせてみたら、少し無理があるが、同じようにテロリストと国家とを描いた古い名画、ポーランドのアンジェイ・ワイダの「灰とダイヤモンド」を思い出す。
が、いや、あれはむしろ美学的ですらあるほどの芸術創造作品の趣きだったが、この「ミュンヘン」ときたらはらはらどきどきの娯楽作品でありながら、抱えている問題はもっと深く、かつ複雑で、のっぴきならない。
背景の重すぎる現実と歴史に目をそむけずに、よくもこんなテーマを取り上げ、飽かさずにみせ続けてくれたものかと思う。

オープニングで、この映画は史実に基づいた映画であると語られている。
1972年のミュンヘン・オリンピック開催中に、世界を驚かせる事件が起こった。パレスチナのゲリラ集団「黒い9月」の8人が、イスラエルの選手団を襲撃して11人を人質に取った。イスラエルで拘留されている300人にも及ぶパレスチナ人とバーターで解放しろと要求する。
この事件の様子は連日テレビ放映された後、西ドイツ警察のミスで脱出寸前の人質はゲリラに全員が射殺され、犯人も5人が警察に射殺された。

激昂したイスラエルの宰相メイア女史は、すぐにパレスチナに報復爆撃を行ったが、さらに数合わせで「黒い9月」に関連するパレスチナゲリラの指導者たち11人の報復殺害を指令した。それは非合法の地下組織ではなく国家が行うテロであり、国家秘密情報組織の「モハド」が実行した。

明白になっている「事実」はここまでくらいか。後は、モハドから秘密指令を受け報復テロのリーダーとなった男の告白を詳細に綴った原作から、「史実」として映画に濃密な血肉が与えられることとなった。

主人公は、こうした国の意向をわがこととして当然のごとく受けとめ、ヨーロッパ各地に住む四人の仲間と、一切の証拠も残さないプロの仕事を、緻密かつ冷徹に実行する。実社会には存在しない人間であると宣告され、身重の妻にも何も明かさず、目的達成までと消息を絶った。

ひとつひとつの“仕事”が丹念に、残酷に、そして意外性を孕みながら、常にスリリングに、、ヨーロッパの各地で実行される。アテネ、ロンドン、ローマ、パリ、アムステルダム、そして中近東のベイルート。
各地で成功し、失敗し、繰り返し、巻き添えが出、逆襲され、それらに一喜一憂するうち、次第にKGBやCIAの影にも翻弄されるようになる。
そして敵方パレスチナテロリスト集団との危機的な接触や、得体の知れない情報屋との駆け引きに疲弊するたびに、しだいにこちらも標的となっていく。
狙われ、追われ、おびえ、殺され、そしてそれへの復讐へ・・・・と、あの高邁だった「国家的報復の執行」が、途切れることのない単なる復讐テロの応酬るつぼに嵌まり込んでいく。

それは、世界中の人々が絶望的に目を覆い耳を塞ぎたいと実感している、イスラエルとパレスチナとの果てしない煉獄そのものである。、いや、当事者双方が深くそれと認識している煉獄のはずである。
緊迫する日々のただなかで、主人公たちがそうした実感にとらわれていくプロセスが、リアルに描かれていく。

まだやり合うのか・・・・
スピルバーグの声にならないうめきが聞こえてくる。そのうめきには政治とか主義とか思想、宗教などの色合いはまったく感じられない。
たとえば、いくつか印象的なシーンがある。
主人公が、もうじき爆死させるターゲットである人物に偶然話しかけられる。礼儀正しい、ふつうのやさしいおっさんである。
また、ある危機を辛うじてしのいだ後にパレスチナ系のテロリストの若いリーダーと、夜更けにちらっと会話するシーンがある。
(パレスチナの)あんな痩せた土地に暮らせるのか? と用心しながら聞いてみる。
あんな土地でも自分たちの国をもてるという喜びはとてつもなく大きいのだ、語る彼の目が輝やいている。
イスラエル人の想いとまったく同じである。

もちろん、イスラエル人にだって熱く語らせる。やっと自分たちの国を得たこと、そして現にそこに暮らしていること、誰にもどんなことがあっても手放さないと、その計り知れない喜びや決意を、たとえば主人公の母親を通してもっと強く語らせている。
彼女は知っているのだ。その目的のために、自分の夫つまり彼の父親が辿った道をいままた息子が歩もうとしている“悲劇”を。

しかし、スピルバーグが決意なしで、パレスチナ人が熱い想いを語るシーンなどを挿入するわけがない。
よく知られていることだろうが、スティーブン・スピルバーグはユダヤ系アメリカ人である。
この前のブログに書いたように、スピルバーグが前作「宇宙戦争」で身内の“偶像”を殺してしまうシーンをみて、ぶったまげたボクはついに彼は一歩踏み込んだと思った。そしていまは、地雷原へとさらに進んでしまったのかも知れない。
この映画によって、アメリカの経済や政治の世界を動かしているといわれるユダヤ系アメリカ人が、わざわざなぜだ?と、どれだけ彼を批判してきたかは想像に難くない。

しかし彼は果敢に批判を切り返しているという。
この映画を製作するにあたって彼はどれほど苦渋し、ユダヤ系である自分の視点でこそこの映画を世に問うてみたいと決心したことだろう。一観客としてみているだけでも、サスペンスふうのプロットが展開するごとに、それがひしひしと伝わってくるのだ。

「ミュンヘン」は、2月の末に恒例のアカデミー賞にも、<作品賞>としてノミネートされているようだ。これまではそれほど留意したことのなかったこのイベントの結果が、今から楽しみとなった。しかし、他のノミネート作品をみていない。
候補作をネットで探したら、「ブロークバック・マウンテンカウボーイ」というカウボーイの同性愛の映画が、上映禁止になった州もあるほど強烈なライバルらしい。いずれも“問題作”というところなのか。
その他の作品では「クラッシュ」というのを、日本で沢木耕太郎さんがベタ褒めしていた。彼が薦める映画は大体自分の感性に合うのが多いから、これはアカデミー賞発表までにみておきたいものだ。

想定の範囲内だった「ホテル・ルワンダ」

2006-02-04 | 映画
こういう映画をどう評価したらいいのだろう、「ホテル・ルワンダ」をみた。

昔、ドキュメンタリ映画を撮っていた友人たちが、「それは素材主義ってもんだぜ、素材ベッタリ主義だよ!」などとよく議論していた。撮る者の方法意識(思想性)が作品性を決定するドキュメンタリー映画と、娯楽性文化性を意識する商業映画を一緒にしてもはじまらないが、この映画をみて、ふとそんな議論を思い出した。

そこに、きわめて“人道的”で、誰も文句のつけようのない“英雄的”な行為という「素材」がある。ジャーナリズムから得ていたアフリカ・ルワンダの悲劇的な状況のなかで、スピルバーグの「シンドラーのリスト」のような英雄の話だと聞かされれば、それはみないでも想像できる。
まさにみて思ったことは、想像をまったく超えることは無かった。みることは、予め用意された“正しさ”に感動するしかないのか。

つまり、映画評として書きようがないのである。
一部の批評のなかで語られているような、“ルワンダの悲劇を知らないで惰眠を貪ってきたわれわれの罪”だのというような映画の評価とは見当はずれのことを、言ってみたりするしかないのかもしれない。それはなぜなんだろう。それでいいことなのだろうか。

思い切って言えば、この映画はあくまで西欧人の感覚と視点からしか作られていないからである。言わば免罪符として、あくまで“良心的に”制作されているがゆえに、批評のしようがないのである。
古くはベルギー、ドイツ、そして大戦後にはフランスやアメリカという欧米の国々が、ルワンダだのコンゴだのザイールをめぐって常に利権を漁ってきた。今はこれに中国が加わり、日本と競い合いだしたのは耳目に新しい。

この映画をみて、ツチ族とフツ族がなぜ、なんのために、憎悪に憎悪を報復させて殺し合うのか、その理由はまったく明らかにならない。
また、なぜ、国際世論が彼らを見殺しにしたのか、なぜ国際連合が組織的に機能しなかったのか、その理由もあいまいなままに明らかにされてない。

これほどの虐殺があって後に制作された映画にしては、こうしたテーマを少しでも暗示させる問題意識が製作者にあって然るべきであろう。
しかしそれが今なお続く国際政治の闇であり、タブーであるのは、少しでも国際政治に関心があって新聞を読んでいれば、すぐに気がつくことである。こうしたアフリカの紛争の悲劇には、国際政治を操る欧米諸国とりわけアメリカの多国籍企業の利害を抜きにしては語れない要因が、必ずある。誰が武器を売り渡し、殺し合いのための軍事訓練をしてきたというのだ。
イラク戦争が旧イラク政権の“好戦性”の理由で起こされたと信じている者は、最初から誰も居ない。

面白いことに、虐殺する側として描かれるツチ族の将軍が斧とも青龍刀ともつかぬような武器をわざわざ中国から仕入れたというシーンと、それを振るって殺される民衆のシーンが意図的に挿入される。
そんなもので、集団虐殺がいっぺんにできるものなのか。

一体、ツチ族とフツ族とは、どういう人たちなのか?
かつて、この国を支配したベルギーやドイツが言うには、ツチ族のほうが少し鼻も小さく理知的で、フツ族のほうが鼻は横に広がって野蛮であるという。そうした会話が挿入される。それは、単に先進国人としての趣味興味のような差別的な理解でしかない。実際にそのような外見の区別はつかないが、それが差別として語られてきた歴史があるのではないか。
さらに、それがツチとフツとの民族的な抗争に具体的に影響を与えた要因というものも。

だが映画では、それ以上のこと理解をしようという気配はなく、なんとなくフツ政府軍に反乱するツチ族のほうに、主人公たちにとってのある種の解放軍のごときイメージづくりがされている。どうやら“善玉”はツチっぽいのだ。
実際には双方が虐殺をしあってきたのにも関わらず、被虐者としてのツチ族、加害者としてのフツ族という図式が暗示される。
そして、こうしたドラマの功利性として、主人公はフツ族で、妻はツチ族で、子どもたちは象徴的に合いの子とするというバランスシートがみごと手配されている。
だがしかし、なぜ主人公の名前は「ポール」であって、たとえばなぜピコペリとか、ウバジャとかのネイティブ・フツの名前ではないのだろうか?

ことほど左様に、映画はツチやフツが住み暮らす環境とは無縁な、ある意味で無国籍空間である国際ホテルという舞台で展開し、観客として最大の関心事であるはずのこの両者の文化や暮らしへの視点を持つことがない。焦点は、そのようなホテルという舞台で得た富と引き換えに、“1200もの人々を助けたひとりのヒーロー”として描くことにあるからだ。

だから、ホテルの外にいて、今にも攻撃に転じてくるかも知れないフツ族の民兵や政府軍は、アメリカン・ネイティブであろうと、どこからかやってきた残虐なエイリアンたちでも一向に構わないだろう。それらに果敢に対峙し、自分たちがハッピーになれるヒーローが頑張ってくれさえしたら・・・・。
好むと好まざるとに関わらず、そうした文脈を創造しすでにいやというほど反復してきたのがハリウッド映画なのだから、すぐに視えてしまう。そこに共通するのは、自分たちの外側に暮らす人たちを理解しようという思いの希薄さ、というものである。

もちろん、そうしたヒーローの話は感動的である。そして、この映画は単なるヒロイズムを超えている。映画としてもとりわけ印象深かったのは、子どもたちへの愛情、子どもたちの扱いかたに、より配慮が働いていたことだろう。それが熱かった。

また、映像として見所だったのは、主人公がフツの悪徳将軍に陳情に行った明け方近く、将軍から検閲してないのでそっちから帰れと指示された川沿いの道を行くシーンがある。
ライトを落としたクルマが、暗闇のなか、途中から川原の悪路にでも迷い込んだかのように大きく揺れはじめる。道を間違えたかと下車する主人公が足をとられて転げ・・・・と、それは死体で、少しずつ明ける帳を通して眺めると、道の前後左右に累々と、累々と虐殺された死体が横たわっているのである。なんと、ずっと死体を轢きながら走ってきたわけで、これが将軍による、世にも恐ろしい恫喝でもあったのだ。

ところで、思想や民族間での虐殺を扱った映画といえば、アメリカの介入で始まったあのカンボジア内戦の300万人虐殺の悲劇「キリング・フィールド」を思い起こさせる。アメリカ人ジャーナリストとネイティブの医者との友情をベースとして、ハリウッドが製作した映画だった。人道も罪もなにも、一言も語らず、映像でそれが何であったか、どんなに酷いことであったかを、分からせてくれた。
そして、口舌にしがたい苦難の果てに再会を果たした二人、俺を許してくれというジャーナリストに、いや許すも何もないよと医者が語るエンディングシーンが記憶に残っている。
以前だったら、こんなに含蓄の深い映画をアメリカ人自身が作っていたんだよ。

やはり、人道だのヒーローだのの文字が少しでも踊っているような映画は、まさに想定の範囲内としておこうと思う。

アンリ・コルピ監督の訃報と「かくも長き不在」

2006-01-26 | 映画
1月24日の朝刊に、童謡歌手の川田正子さんが亡くなったという記事の横に、映画監督のアンリ・コルピ氏の訃報が小さく載っていた。川田正子71歳、アンリ・コルピ84歳。
 
川田さんは、かつてNHKの国民的ラジオドラマだった「鐘の鳴る丘」のテーマソング(♪みどりの丘の赤い屋根 とんがり帽子の時計台)や「みかんの咲く丘」「里の秋」を歌っていたという。ああ、そうだった、とすぐに思い出される。

コルピ監督とくれば、フランス映画「かくも長き不在」を思い出す。劇作家のマルグリット・デュラスがシナリオを書き、「第三の男」であんなにも眩しかったアリダ・ヴァリが中年のカフェの女主人として主演、イギリスの舞台の名優ジョルジュ・ウィルソンが助演した。
いずれも非の打ちどころのない名演だった。

この映画については、いったい何度観て、何度感動を人に語ってきただろうか。
ほとんどのデティールを思い起こすことができるほどで、ボクにとってこれまで観た映画のうちで未だに三本の指に入る、名画中の名画である。

第二次大戦後15年を過ぎた解放記念日のパリ、場末のありふれたカフェをひとりできりもりする女主人公の前を、大柄な浮浪者がゆっくりと、なにやら低く歌を呟きながら通り過ぎていく。
その途端、彼女は電撃に打たれ、かろうじて身を支えながら男の後姿をみつめる。
ナチス占領時代に抵抗運動のメンバーとしてゲシュタポに捕らえられてから、もう20年も行方知れずの夫に、あまりにも似ているのだ。

シナリオのマルグリット・デュラスは、ある日、新聞の三面に記憶喪失の浮浪者を自分の夫だと信じて疑わない中年の女のベタ記事を読んで、この映画を着想したという。
彼女は、「辻公園」などの芝居の脚本で世界に知られているが、日本の若き映画青年たちに多大な影響を与えたアラン・レネ監督の名画「ヒロシマわが愛」(邦題「24時間の情事」)や、比較的新しくは、自伝的な映画「愛人/ラマン」のシナリオも書いている。

アリダ・ヴァリ演じるこの中年の女は、戦後を逞しく強く生きてきた。しかしすでに中年を過ぎ、ゆるんだ腰の線も隠しようが無い。心の底にはいつもある“不在”を抱えていて、恋人はいるのだが、時に空ろな表情が浮かぶ。
ところが、この浮浪者に出会ってから、彼女はまったく変わってしまう。まるで若い乙女のように恋のとりことなっていくのだ。
アリダ・ヴァリのそのあたりの演技が、実にいい。あの情熱的な瞳をきらきら輝やかせ、彼に夢中になって、彼を知ろうと追いかける。町の人々が心配し始める。
そして・・・・

アルベール・ラングロア! 
映画の最後に近く、不在であった自分の人生の理由が、ある衝撃的なシーンで一挙に突きつけられる。一瞬のうちに、了解する。別れが来る。彼が去っていく。
彼女は、叫ぶ。夫の名前を。アルベール・ラングロア!
ほかにどうしたらよいと言うのか。叫ぶしかないのだ。“こんなにも長い間いなかった”夫の名前。何度も、必死に叫ぶ。
そして、そこから続くエンディングに向かって、感動が波のように襲ってくる。

アンリ・コルピ監督は、その当時難解なために大いに話題になったアラン・レネの「去年マリエンバードで」の助監督をつとめ、その後たった一作だけ、「かくも長き不在」を撮った。
なぜ次作を撮らなかったのか、実際はスイス人だったようだが、その後どうしていたかは不明である。
こうして彼の訃報は、わずか一篇のモノクロ版の名作によって、日本の新聞にもたらされたのである。

『いつか読書する日』は、いつ来るのか?

2005-07-24 | 映画
どこかの映画評を読んで、予感めいたものを感じていた『いつか読書をする日』(緒方明監督)は、それに違わず大変よく出来た映画だった。感想をひと言でたとえれば・・・・切なく、少し滑稽で、質の良いチェホフの中編でも読んだような印象である。
そう、チェホフの風味だな、これは。敢えて、これは上質の喜劇であると、宣言したいほどである。なぜかと言えば、悲劇であるとか、単なる純愛映画としてみるべきものではないからだ。

映画が進むにつれて、高校に入学したての一時期、ため息をつきながら夢中に読んだハイネの『歌の本』の一編が、すっと浮かんできた。井上正蔵のあの名訳。

たがいに惚れていたけれど
うちあけようとはしなかった
かえってつれないそぶりして
恋にいのちをちぢめてた

しまいに会えなくなっちまい
ただ夢にだけ出会ってた
とっくにめいめい死んじゃって
それさえてんで知らなんだ

誰もによくある、青春の恋の思い出。しかし、「思い出なのさ」と過去形で語るだけではすまされない“滑稽な真摯さ”がそこにある。それは、さる男と女の間にずっと30年も、それぞれの人生を支配し続けていたのである。

冒頭の未だ夜の明け切らない谷間の町。石畳の狭い階段道があちこちへ曲がっては続き、途絶え、下っていく。それらの階段道をかちゃかちゃと懐かしい音をさせて、中年を過ぎた女が息を切らしながら走る。起きかけた家々に、毎朝、毎朝、牛乳を届けて回る。

どこか懐かしい風景、延々と続いてきて、これからも一向に変わりそうもないその風景のなかで、それぞれに生きるさまざまな人たちがいる。毎朝6時、牛乳が届けられるのをきっかけとして、人々の今日の時間が流れだすかのようだ。
この町に住む、さる男と女の話も、こうして昨日と同じように始まっていく。

「女」は、毎朝の牛乳配達とスーパーマーケットで日がなレジを打って50歳になる独身女。
「男」は、明日の命も知れぬ難病の妻を介護しながら市役所の児童相談担当で働く役人。
男を演じるのは岸部一徳で、女を演じるのは田中裕子。岸部の茫洋と生きる表情、田中の内側の一点を見つめる演技。ふたりとも素晴らしい。実に、素晴らしい。

女と男はこの小さな町で高校生の頃から好き合っていたことがわかってくる。しかし、町に起こったあるスキャンダラスな出来事のために、まったく背を向け合う仲になった。逆に、互いの想いは強く残った。
それ以後、男は徹底的に平凡な人生を送ろうと決心し、女もこの町を出ず、毎朝辛い牛乳配達をして生きることに決めた。それぞれが残された想いを封殺し、時間だけが流れて行ったのである。

朝、バス停で市役所へ向かう男の前を、牛乳配達を終えてスーパーに通勤する女が自転車で過ぎる。やがて自転車の女をバスが追い越す。挨拶さえなく、女の視線と男の視線は、まったく合わされることはない。気がつかないのではない。知っていて意に介そうとしない。
男の乗るバスの窓から、よくある日常風景として女の自転車がゆっくり追い越されていく。男の目はそれを追わない。女の視線も前を向いたままである。

こういうシーンはたまらなく好きだ。きっとこの小さな町の片隅で、誰にも知られずに、毎朝続いてきたのだろう。

とうに両親を失い、たったひとりで暮らす女を見守る知人として、渡辺美佐子が登場している。女の亡くなった母の友人である。かつて奔放な舞台女優として喝采を浴びた名優。(映画にもなった福田善之脚本「真田風雲録」の舞台が未だ忘れられない) 女がゆいつ心を許す、その彼女がさりげなく尋ねる。

「そんなにこれまでひとりでいっしょけんめい生きてきて、楽しいことってあるの?」
「私は、牛乳配達が楽しいのよ。この町のみんなの家に配達したいと思っているくらい」

またスーパーの若い店長といい仲になっているレジの若い同僚も尋ねる。
「夜にひとりでいるのなんて、寂しくないんですか?」
「朝も昼も仕事をたくさんやっていればね、くたびれきってすぐに眠れるものなのよ」

女の自宅には大きな書架コーナーと文学書の立派な蔵書がある。女がここまでに少しずつ買いためて少しずつ読んできたのだろうか。ドストエフスキーの「カラマゾフの兄弟」なんかを開いてはいるが、そっちのけで爆睡しているシーンがあれば、ひとりベッドで嗚咽しているさりげないシーンも挿入されている。

男は・・・・と書き始めたら、さて困った。男のほうにも、枚挙にいとまないほど大変重い人生がある。この映画にとって重要な展開ともなる、仕事の厳しい実態もある。この作品に重要で必要なたくさんのディテールが描かれているから、この調子ではなかなか書き進められないぞ。

つまり、それがこの映画の優れたところなのだが、登場するさまざまなひとたち、彼らに関する現代的なことどもが実に丁寧に織り込まれ、描写されているのだ。
女の知人夫婦、とりわけ夫の元英文学者に流れてきた時間と遡っていく時間。
末期ガンに犯されている男の妻の、残された時間との闘いかた、そしてその凄み。
養育を放棄されていく子どもたちへの思いと怒り。
淡々とした日常のたたずまいで一番印象に残った左右田一平演じる牛乳屋の親父。
そして、スプーン片手に家々を訪ねてはカレーライスをねだる子どもの噂とその謎・・・・。

どのシーン、どの登場人物も、映画の基本的な作法として必要不可欠にきちんと描写されているので、おろそかに見過ごすことができない。

やがてあることを境に、男と女が視線を求め合うようになる。そして、えっ、そんなことのために?と、「理由」が明らかにされる。封印し耐えてきたことの意味は一体なんだったのだ。しかし、もう、そんなことはどうでもよい。
30年の時間が一挙に凝縮し、はじけてほとばしる。激流に翻弄されて、滑稽なほどぎこちなく求め合う。

「今まで、思い続けてきたことを、みんな、したい!」

「全部、して!」 

このように、耐えに耐えた二人二様、まさに男だから、女だから、という理由が判明する。さらに、そこから思いがけない結末に至って、映画は終わる。
そして、再び新しい時が流れだそうとする。それからの時は、どう過ぎていくのか。いつ、どのように、「いつか読書をする日」が、訪れるのだろう。

これは“勝ち組”だの“負け組”だのと愚かに時を潰しているような人たちにこそ、みてほしい。そして、愚直でしかなくとも、それぞれに懸命に生きる人たちがたくさんいるという、あたり前の事実を実感し、身につまされたり、笑ったり、泣いてほしい。
そのように、人が精一杯生きることをじっくりかみしめ味わうことのできる、久しぶりの佳き映画である。渋谷ユーロスペース。

『宇宙戦争』でスピルバーグが模索したこと

2005-07-03 | 映画
H・G・ウェルズ原作、S.スピルバーグ監督の『宇宙戦争』をみた。トム・クルーズ主演。子どもの頃にみたり読んだりした、大昔の同名映画のリメイク版である。漫画にもなって何度もみたので、デティールは断片的だが今も鮮明に残っている。

子どもの時にみたオリジナル版は、いわゆる当時の特撮ものだから、ぺらぺらな部分はあったが、それはそれ。今で言う“SF超大作”の走りとして、大挙して襲来した宇宙人に人類が刻一刻、滅亡させられていく恐怖は、かなりのものだった。だから、昔の強烈なシーンがどうリメイクされているか興味津々な部分もあった。SFという言葉、概念はまだなかった時代だったけれども。

しかしみ終わったら、これは単純なリメイクなんかではないなと思った。簡単に言ってしまえば、かつて“宇宙人対人間”だったものが、オリジナル版を借景にしたかと思えるほどの“人間ドラマ”に変わっているということ。
そしてさらにこの“人間たち”は、ただドラマのなかでリアルに生きるということだけでなく、どうやら「今日的世界的なシチュエーション」のなかで、とてつもない無力感を前に、何をどう選びどう対処するか、という模索のイメージが与えられているように感じられた。

さすがスピルバーグというか、あるいは、この2005年現在にアメリカという国家で主体的に生きようとする彼ならではの、現実認識の深さというか・・・・。
これまでのアメリカによくあるSF映画のような、はらはらどきどきの果てに大歓声をあげて勝っただの負けただのという、脳天気な映画ではない。暗く、無力感ただよう、そしてド迫力に圧倒される怖い映画である。低奏楽器として流れるのは、癒しを求めるこころであろうか。

主人公のトム・クルーズは、港湾の荷役労働者。クレーンを神業のごとく操って大きな荷物をさばく熟練だけが取り柄で、それ以外の生活や、世の中のむつかしいことにはパッパラパーン・・・・という、よくある男として登場する。離婚して、下町のちっぽけで乱雑に散らかった家に、ひとりで暮らしている。
冒頭に続くシーンは、その家の前で、別れて再婚した元女房と新しい夫、そして彼女が引き取った小学生の女の子と、高校生の男の子の4人が、彼の帰りを待ちわびている。この元女房夫婦がしばらく旅に出るので、子どもたちを預けに来たのだ。彼は、飛ばしてきたクルマを仕事でやるように狭いガレージにぴたっと納め、待ち合わせの時間にとっくに遅れているのに、得意そうに、帰ってきた。

息子はかつての親父をてんでバカにして口も聞かないが、女の子はこの気の好い父が嫌いではないらしい。イントロでは、こうした3人のぎこちない関係がかなり秀逸にシリアスに描かれる。そして、これはいったいどんなドラマになっていくのかと、やや襟を正させるような進み方をする。この男はきっと女房子どもに三行半をたたきつけられたのだろうと、すぐに想像できる。演じるクルーズは、全編実によい。

そこにいきなりの大破綻が突出する。信じられないような異変が、これでもかとこれでもかとぶつけられる。そして見たことも想像したこともない圧倒的な存在が、人間を、建造物を、道路を破壊し、世界最強の軍事力をもつアメリカのミサイルや戦車や航空機や軍隊などの攻撃も、ことごとくバリアでかわし、いとも簡単に粉砕してしまう。なにもかも圧倒的に、破壊し尽くしていく。
何からも守ってもらえない人々は恐怖を超え、無惨な狂気に駆られ、宇宙から襲ってきた異様なものたちにただ逃げまどうだけである。こうしたひたすら圧倒的であるものに対して、こちら側には、とてつもない無力感しかない。

圧倒するものの前で、かつての“親子”三人の逃避行がドラスチックに続く。娘は泣き叫び、逃げまどい、父にしがみつく。息子は、恐怖からある種の狂気に駆られて父を振り切ろうとする。父は息子を押さえつけ、娘を庇おうとするが、どうする術もない。
ただ、ひたすら娘をなだめる。必死で娘をなだめる。なんとか癒そうとする。癒し、癒し続けようとする。そうでもしないと、自分が娘や息子と同じになってしまうからだ。無差別テロに怯える人々の心をどう保つことができるのか。

そうこう逃げまどっているうちに、この映画は恐ろしい事件を起こす。父親が自分たちをいっとき助けてくれたある同胞を、自分たち親娘が殺されないために、冷静に“処分”してしまうのだ。娘に眼隠しをし、見てはいけないと言い聞かせ。
この同胞は、圧倒的なるものに家族全員を殺された元「消防士」であるという。彼は、冷徹な狂気に駆られて復讐のチャンスをうかがっている。“もろに闘うことの無意味さ”を思い知る父親にとっては、もうひとつの危険きわまりない存在となっている。こうして「意見が食い違った」果てに、父親は元「消防士」を葬り去ろうと決意する。
このシーンは、とても暗示的で、重要である。

ボクはこのシーンに慄然とした。
これまでのスピルバーグだったら、決してこんなふうには作らなかった。こういう意志を、敢えて明確に示すことはなかった。
そしてこの映画に、あの未曾有の事件911以降のアメリカという国と、この国を取り巻くさまざまな国々とさまざまにひき起こされてしまった事件への、ある模索のメッセージ、スピルバーグからの問題提起を感じ取ったのである。

さて、映画のプロットは原作どおりに終わる。
子どもの頃にみたり読んだりした印象的なシーンのいくつかは、とりわけ最後の宇宙人のシーンなど、まさにオリジナル版の作法がきちんと尊重されて、同じように描かれた。
が、蛸をイメージさせる宇宙船のモチーフはオリジナル版と同じではあったが、その攻撃性は想像を絶するほど強烈だった。人間を瞬時に破壊するあの殺人光線?の威力もすさまじく、蛇のように身を延ばして先端の眼球で人を探索してくるマシンも、ずっと怖かった。

しかし、天の助け。ある理由で宇宙人の攻撃はついに止む。その後の人間たちのドラマは、どうなっていくのだろうか。見終わって、解放された気分にならないのである。
それは、観客であるわれわれへの宿題なのかもしれない。
ともあれ、迫力はあった。これまでのSFものにはない、トーンの暗い独特の味覚があった。アメリカの映像作家の意識に、変わっていくものがあるのかもしれない。

映画『村の写真集』を、仲間といっしょに観た

2005-05-26 | 映画
紹介してくれる人があって、東京都写真美術館に映画『村の写真集』を観に行った。監督は三原光尋さんという人で、初めて知る人の初めて観る作品。
同年齢7人の団体鑑賞会である。こうした鑑賞会を時々やっては、その後に必ず飲み会をやっていろいろ話し合う。これは案外面白い。全体の反応や評価のありかたが分かるし、なるほどと膝打つ鋭い分析も飛び込んでくる。また、役者や舞台、監督など周辺のさまざまな情報もいろいろ入ってくるので、こちらの理解力も深まる。映画好きって、みんなモノ知り、ワケ知りなのである。

徳島の山奥、“秘境”とも言われている大歩危、祖谷渓あたりの起伏のある山村が舞台である。その地に、職人気骨の強いというか頑固、少し変人との評判の老写真家が住んでいる。
あるときその村がダムの底に沈むということになって、村役場ではその四季豊かで美しい村に住む人々の記念写真集を作ることにした。老いたる写真家は自分にしか撮れない最後の仕事と確信して自分を売り込み、東京で華やかなコマーシャル写真家をめざして下積みの生活をしている息子を助手に呼び戻す。

息子は、母親が死んでから父親との折り合いが悪く、家出同然に出て行ったらしい。姉もいたが、やはり父親と仲違いして東京に男と出奔し、行方知れない。高校生の妹だけがまったく屈託ない様子でひとり父親の面倒をみているが、彼女もやがて出て行きたいと思っている、いわば離散しつつある家族だ。こうしたシチュエーションで、映画が始まる。

始まってすぐに、やはりということになるのだが、
「東京と田舎(都会と自然)」
「父と子」
「銀塩写真と電子写真(アナログとデジタル)」
といった、対立的な図式を示しながらドラマが進展する。そして、
「自然はよい」
「ふるさとは美しい」
「田舎の人たちは人情たっぷりで、みな生き生きしている」
「デジカメなんかカルイなあ」
といった<情緒>が前提となっているから、スタイルは案外古風である。またそうしたシチュエーションの時間のなかに対立が溶けていくので、涙線はとめどなくゆるみ、劇場のあちこちですすり泣きと鼻をかむ音が止むことはなかった。

それはもちろん、悪いことではない。“泣ける”のはいいことだし、ディティールの演出もたいへんきめ細かくわかりやすいので、とてもよくできた好編と言える。
息子の恋人にこの時代らしく中国系のモデルの美女が登場し、息子の家族観の希薄さ冷たさを諭すなんていうシーンだって、決して悪くない。もう、日本人の若者には忘却されてしまった感性なのだからね。

そして、秋が深まりゆく山々や祖谷渓の景色は我を忘れるほど美しいし、村のここかしこでは、田を耕し、農作業し、荷を背負い、歩く年寄り、歓声あげて駆け回る子どもたちの表情はまるで、夢の世界のように明るく健康的である。それはすでに、哀惜の対象としか見えないように、感傷的に描かれる。
だが、どうなんだろう。

父と和解し父のフォトグラファーとしての仕事の“凄さ”を実感できた息子が、父の死後に旅だつ先は、なぜ、恋人のふるさとである東南アジアなのか? 

最後に家族の写真にただ収まるためであるかのように、不意に現れた姉とその子どもは、なぜ、父の死んだ後の家に住むことになるのか? 

いや、それらよりもっと大きな疑問。
もともと「このふるさとがダムに沈むため」ということで始まった映画のモチーフは、なぜ、あっさりと忘れられてしまったのか? 所詮、どうしようもないことだからか。
ダム建設をめぐり、賛成派の村人へ暴力事件さえ起こす反対派あるいは慎重派の老写真家は、ダムが建設されることで得ることのできたこの仕事を、本当はどんな気持ちで受け止めていたのだろうか。愛する亡き妻の思い出が勝るのか。

みんな、美しく情緒にながれてしまったなあ、
主人公と村の人々との交流も薄かったなあ、
リアリティにやや無理があるなあ、
というのが、敢えて言うところの感想である。

しかし、久しぶりに観た主演の藤竜也は少し偉そうだったけれど、最後の孫を見つめるシーンなど、ところどころに秀逸な表情があった。昔、大島渚の問題作『愛のコリーダ』で大島にずたずたにされた彼だったが、本質は実にやさしく真情あふれる役者なのだと思い出す。

また個人的には、太田省吾の「転形劇場」で、品川徹や瀬川哲也などのアクの強い役者にもまれ、若さいっぱい剛直に身体を張っていた大杉漣、その今や熟した演技を、テレビなんかでなく観られたのがよかった。苦労を年輪に刻みこんだ存在感は、ハンパではない。タケシの『花火』以来だなあ。
そう言えば、彼はこの映画になじみの徳島出身だったっけ。「転形劇場」にいた女優さんから確かそう聞いたが、あのTBS裏にあったちっぽけな劇場も、ずいぶん古い思い出になってしまったぞ。

映画「ウィスキー」

2005-05-15 | 映画
やあ、いい映画をみましたよ、珍しや、ウルグアイの映画。
珍しやなんて言ったら失礼かな、「ウィスキー」というタイトルで、昨年の東京映画祭のグランプリ、カンヌ映画祭でも受賞している。
タイトルどおりのお酒の映画ではない。見終わったあとに、ほのぼのと、で、一体どうなったんだろうと、結構深刻に心配したり、身につまされたり、いやニンマリ想像してしまうこともできる、きわめて印象的な映画なのである。

酒の話じゃなければ、ウィスキーとはなんなのか?
日本ふうに言えば、“はい、ちーず”なんだな。つまり、ほら、記念写真を撮るときに、○○のひとつ覚えみたいにそう言う人がいっぱいいるじゃん、面白くもなんともない、あれ。
ウィスキーとは、英語の発音では“ウィスキ”に近いけれど、これを“ウィスキイー”(これはウルグアイの言葉つまりスペイン語の発音だからなんだろうけれど)と最後のイーに力を込めて言うと、なんとなく笑顔になる。
男ふたりの女ひとりの3人が主人公。その3人がいっしょに「ウィスキイー」と言ってカメラにポーズを撮る。そう言って、そういう顔にでもしないと、何のために3人も集まって写真におさまるのか分からないほど、場がもてないのだ。

映画はこの3人の物語。
男ふたりはいいトシの兄弟。女は・・・・うーん、外国女性の年齢はちとわかりにくいので、一見50歳は超えているように見えるのだが、案外30歳代かもしれないという方なのである。失礼ながら美人とは縁遠く、色っぽいのイの字もなく、しかもほとんど笑わない。余計なことも一切言わない。後で出てくるある得意技以外はね。

小さな靴下製造の町工場を経営しているのが、兄貴。彼もまた、余計なことを一切言わない、どころか何を考えているのかさっぱり分からないような、いわゆる朴念仁に近いバツイチおっさん。女は、そのおっさん社長の秘書っていうか総務・人事で雇われているのか、これまた独身のおばさん。ま、工場とは言っても工員は若い二人の女の子だけで、結局4人しかいないんだけどもね。

この工場の4人がね、ともかく毎日毎日同じ事を繰り返している。狭くて汚い工場のなかで、いつも4人はそれぞれ決まった行動をとって、同じ数少ない言葉を発して、もう一体いつまで続くか、なあんにも変わらない日常を過ごしているわけなんです。
来る日も来る日も、判で押したようにまったく同じ。その描写がいいんですね。まるで毎日が儀式みたい。

ところが、ある日変わったことが起こる。
遠くブラジルにいて、どうやら最近亡くなったらしい兄弟の母親の葬式にもこれず、ずっーと会っていなかった弟が、母親の墓参にやってくると言うのだ。この弟は、だんだんわかってくるのだが、兄と同じ靴下の工場を経営しているらしい。兄貴よりずっと大きく、先端の機械を使った近代的な工場で、羽振りもよい。女房子どももいるらしい。

らしい・・・・というのは、それがこの映画の最大の特徴で、そこがとても面白く却って新鮮なのだが、説明的なシーンや会話がまったく無い! のだ。
そしていわゆる「長回し」のシーンがひんぱんにあって、カメラを据えたまま、主人公たちの姿をずっと音楽も台詞もなく追っていく。観客である僕らは、否応なく主人公の姿や表情、ちょっとしたアクションを凝視することになって、この人はいったいどんなことを考えているのかとか、この人の画面に出てこない生活はどんななのだろうかと、彼らにどんどん愛着を感じていく仕組みなのだ。
これが、実にうまい演出。監督はわずか30歳という、ファン・パブロ・レベージャという人らしい。

そう、弟が来るという。で、ハコボという名の兄貴は、使用人の彼女、マルタにむすっとした表情のまま、思いついたようにぽつんとひと言、
「弟がくるんだ。そのあいだ、家に来て、女房のふりをしててくれないか?」
ひと呼吸置いてマルタ、表情も変えず何の質問もなしに、むっつりしたまま、
「いいですよ」。

こうして始まっちゃうのだ、そうしてやってきちゃうのだ、陽気で饒舌な弟エルマンが、ブラジルから。
さあて、一体どうなると思う?


・・・・・・・・・・


さて、本当に、どうなってしまったのだろうか? 
すべてを語ってしまいたい欲求がむらむら襲ってくるけれど、でも、なのだ。どう語ったらよいだろうか、と僕は迷ってしまう。本当に、どうなってしまったのだろうか、この3人は。マルタがどうなったのか。ハコボはどうなったのか。エルマンもどうなったのか。
それは、まったくこの映画を観た者の、理解と解釈によると思う。
ハッピーエンドなのか、ドラスティックな悲劇なのか、はたまた、そうしたものさと感情の起伏なしにやり過ごせるのか。観ようによっては、かなり残酷であったり、哀しみにあふれていたり、やるなあと感心できるのである。

むしろ、僕は、この映画を観た人のそれぞれの感想を聞いてみたいほどだ。
別にいわゆる“不条理”な映画なのではないし、ミステリーでもない。淡々と、淡々としているばかりで、だから自分の想像力で補完するしかない。
優れた映画は、そのように“見者”たる観客の想像力をさまざまに刺激してくれる。解釈なるものは一様でない。だって、“見者”はまったくそれぞれの場所で、それぞれの感性で生きているのだもの。

あの寡黙にして無表情なマルタが、一瞬モーツアルトばり、えっと驚く才を見せる。それは面白くもあり哀しくもあり、しかし知りたいのは、おしまいほうのシーンで彼女が渡したあのメモに一体何が書かれていたのか、である。マルタのことなら、女性のほうが分かるかも知れない。で、男兄弟のハコボとエルマンなら、やはり男ならではの答えが出るかも知れない。

うーん、実は、今でも僕は“考え中”なのである・・・・。