かつてひとりの娼婦がいた。
彼女の名前は“ハマのメリー”
そんなごくありふれたコピーから映画が始まった。
そしてまさに、これ以外にはないだろうと思わせるように、
青江三奈のかつての流行り唄がかぶさる。
なにもかもがハマっている。
あなた知ってる 港ヨコハマ
街の並木に 潮風吹けば
花散る夜を 惜しむよに
伊勢佐木あたりに 灯りがともる・・・・
これは、ハマの夜の歓楽街伊勢佐木町を舞台に、
戦後すぐの米軍占領時代から
そこに娼婦として生き続けてきた通称“ハマのメリー”について、
そのインタビューを中心に描いたドキュメンタリー映画である。
“ハマのメリー”とは誰か。
写真に遺された記憶と、人の語る様子では、
常に“高貴ふうに”装ったフリルの付いた真っ白なドレスに、
さらに真白いドーランで塗り固めた顔。
くっきりと描かれた眉とアイシャドーからは長い付け睫がぱっちり、
口元には薄く真一文字にさした真っ赤な紅。
そんないかにも奇態ないでたちで、
伊勢佐木町の街角にずっと立ち続けてきた娼婦。
アメリカの上級将校だけにしか身を売らず、
またかつてはたくさんいた仲間ともけして打ちとけることなく、常に孤高な娼婦。
自分は公家の出で高貴な育ちだとうそぶき、ときに“皇后さま”と呼ばれ、
その風体から“きんきらさん”とも呼ばれ、
なぜか一目置かれた存在でずっとあり続けた、
出身も年齢正体さえも、自分のことは一切語らない謎の老娼婦。
彼女は、かつて相思相愛で過ごした米軍のさる高官との別離を
現実と受け止めることができないまま、ひたすら待っているのだ・・・・とも。
若い頃はいざ知らず、
スティル写真だけで登場してくるメリーはすでに相当な高齢である。
今では頭髪も白く、高齢のため腰は曲がり、
宿無しだから、着衣一切を詰め込んだキャスト付きの古びたトランクを
ずるずると引きずって、ネオンの町を歩き、横断歩道を渡り、
決まった街路やビルの一角に佇んでいる。
完全に、周囲の風景から浮いている。
通り過ぎる人みな、その奇態さに驚き訝しがり嫌悪や嘲笑を込めて振り返る。
振り返らない人は、この伊勢佐木町に昔から出入りし、
メリーがこの町の著名人であることをよく知っている。
彼らの目には、メリーの佇まいは浮いてはいない。
戦後の伊勢佐木町の風景にずっと溶け込んでいるのだ。
そのメリーがある日、忽然と伊勢佐木町から姿を消し、
消息はまったく不明となった。
人は国へ帰ったと言い、いやとうとう野垂れ死にしたのだ、と別な人が言う。
そのようにメリーの断片をいろいろと語る人たちがいる。
元キャバレーのやり手支配人、元ドラッグストアの経営者で今は舞踏家、
風俗ライター、作家、
かつてアメリカ軍人や外国船員で賑わったこの町の
夜の社交場に巣食っていた遊び人、
芸者、美容院のママ、宝石店の女主人、
メリーをヒントに芝居を書いた脚本家、その役者、
メリーと失われていく町を撮り続ける写真家、
そして元男娼でこの町の有名人ともなったシャンソン歌手・・・・
メリーの行く先、佇む先でメリーに出会い、
そのことによって自分の裡になにか投影するものを感じた人たちが、
行方知れずになったメリーの断片を、さまざまに語る。
その投影されたことやもの、まさに自分の人生のひとコマを、語り続ける。
これらの人たちはみな、あの敗戦後のハマの荒廃のなかを、
それぞれなりに、さまざまに、自分なりに生き、
なんとか懸命にやってきた者たちなのだ。
メリーを語りながら、そういう背景が次第に浮かび上がってくるのである。
・・・・それにしてもみな、老いた。
とりわけ、むしろこの映画の主役と言ってもよい
永登元二郎というシャンソン歌手は癌を病んでおり、
メリーの記憶ともども、
明日とも知れぬ自分の一生を語り尽くそうとする。
老いたメリーの暮らしを支援し、メリーとのかかわりの浅からぬ彼には、
メリーに共振する何かが見えているのだろう。
そして、自分の死ぬ前に、メリーに再会したいと思う。
再会して、自分のテーマソングでもある「マイ・ウェイ」(元はシャンソン)を
彼はまた歌ってあげたいと、強く思う。
それは元二郎さんの遺書でもあるのだろうか。
だが、メリーはどうなったというのだ。
メリーが忽然といなくなったということから、
この映画は始まっていたはずである。
その後、はっと息を呑み、
不覚にもはらはらっとなるシーンが続いた。
だが、その“意外性”については、ここで語らないことにする。
人々が語る断片を集めることで、メリーのどのような像が描かれたのか。
メリーはなぜあのように白い顔料を塗り
白いドレスを身にまとっていたのだろうか。
それは仮面なのだという作家もいれば、
まるで死神のようだとおびえる人もいる。
なに、老醜を隠そうという女の気持ちだろうという解釈もあれば
いや、隠そうとしているのは、あの丁寧で上品な喋り方そのまま、
高貴な氏素性に違いないと推理する人もいた。
いずれにしても、
そうしたメリーの謎は明かされたかのように、映画は終わる。
メリーと元二郎さんは会えたのだろうか。
この映画は5年を費やして、昨年の2005年に完成したようだ。
インタビューに答えていたシャンソン歌手元二郎は
映画の完成を待たずこの世を去り、
同じようにメリーを熱く語った脚本家と風俗ライターも
あっという間に、亡くなった。
もちろん、メリーもすでにこの世にはいない。
そういう「事実」ばかりが、残る。
いまさら諸行無常ではないけれど、
そういうこともこういうことも、そしてああいうこともあった・・・・
ということで映画は終わるのだ。
人生は幻ではなく、確実に在って、過ぎていく。
実際に人は精一杯生きて、死んでいくのである。
ペシミズムからではなく、その精一杯さが、いとしい。
あなた馴染みの 港ヨコハマ
人にかくれて あの娘が泣いた
涙が花に なる時に
伊勢佐木あたりに 灯りがともる
恋のムードの
ドゥドゥビ ドゥビ ドゥビ ドゥビドゥ バー
灯がともる
(川内康範・詞/渚ようこ・歌)
(監督:中村高寛 スティル写真:森日出男)