この6月17日、日本のラグビー協会の頭脳で次期リーダーと目されていた
宿沢広朗さんが急逝した。享年わずか55歳。
その昔、「早稲田ラグビーといえば宿沢」という時代があった。
1970年に新日鉄釜石を、1971年には三菱自工を破って、
学生チームの早稲田が日本選手権を2連覇したとき、
いずれもSH(スクラムハーフ)として大活躍したのが彼だった。
最初の1970年には自分が社会に飛び出した年だったので、よく覚えている。
社会人をやっつけた学生のひときわ小さな男のことが、
しばしば新聞やテレビで取り上げられていた。
自分の在学時代は、さまざまな活動とアルバイトで、
ラグビーどころか野球の早慶戦にさえ観戦に行ったことがなかったが、
サラリーマンになったそのとき初めて、
宿沢の活躍で早稲田ラグビーを知ったといえるかもしれない。
それ以後数年は注目していたが、その後すぐに低迷し始め、
時折はテレビ観戦するくらいであった。
その後1980年代初期になって、人気を集めた本城、吉野というタレントが輩出した頃から
ぽつぽつと秩父宮や国立へでかけ、
以降ふたたび低迷に落ちこんだ時代は、またテレビ観戦に逆戻り。
1980年代の後半に、昨年まで監督をやって早稲田を常勝軍団に押し上げた清宮や、
堀越、今泉、藤掛の黄金トリオの時代からは、勝っても負けても毎年、
ラグビー場へ足を運ぶようになったものだ。
明治に負けるのは仕方がない、が、たまに奇蹟の逆転?で勝ったときのあの興奮、嬉しさは、
正直に言って、現在の常勝圧勝の感激の比ではなかった。
早稲田のラグビーは、ほんの数名のラグビー名門校からの推薦入学者と、
大多数の一般入試組みとの力の差をどうカバーしてまとめるかが、
毎年の課題であった。
そのなかで一般入試組みの宿沢は、入学早々東伏見のラグビー練習場に来ては
細かいメモをノートに記し、これでは勝てないと思って入部したという。
きわめて論理的なラグビー分析に長けていたことが、
無名選手が多くしかも他の伝統校よりも体格に劣る早稲田が、
どうしたら大きくて強い選手に勝てるかを至上課題としてきたチームカラーに
合っていたのだろう。
その後、三井住友銀行に入社してラグビーから離れたものの、
ヨーロッパに在職中に本場のラグビー状況とコミットし続け、
やがて日本ラグビー協会からその頭脳と分析を買われ協会理事となり、
ビジネスとの二足の草鞋、日本代表の監督にもなってワールドカップで初めて1勝。
その“記録”は未だに破られていないという。
いま大騒ぎのサッカーとは違って?
残念ながら日本ラグビーは未だに世界に通用していないのだ。
ともあれ、宿沢という固有名詞によって僕は早稲田ラグビーを“発見”した。
そして、小さな宿沢がグラウンドをすばしっこく走り抜けていく姿に、
勝敗とは関係なく、小さい者がどうしたら大きく強い相手に勝てるのか、
という早稲田ラガーマンのイメージがインプリンティングされたのだと思う。
37年後のいま、改めてそれに気が付いた。
繰り返すが、ずっと昔、宿沢が早稲田ラグビーの象徴だった時代が、確かにあったのだ。
身長162cmの小兵でラグビーと海外ビジネスの第一線で戦い、
世界をめざす日本ラグビー界の任務を期待されていた宿沢氏は、あっけなく逝ってしまった。
合掌。
宿沢広朗さんが急逝した。享年わずか55歳。
その昔、「早稲田ラグビーといえば宿沢」という時代があった。
1970年に新日鉄釜石を、1971年には三菱自工を破って、
学生チームの早稲田が日本選手権を2連覇したとき、
いずれもSH(スクラムハーフ)として大活躍したのが彼だった。
最初の1970年には自分が社会に飛び出した年だったので、よく覚えている。
社会人をやっつけた学生のひときわ小さな男のことが、
しばしば新聞やテレビで取り上げられていた。
自分の在学時代は、さまざまな活動とアルバイトで、
ラグビーどころか野球の早慶戦にさえ観戦に行ったことがなかったが、
サラリーマンになったそのとき初めて、
宿沢の活躍で早稲田ラグビーを知ったといえるかもしれない。
それ以後数年は注目していたが、その後すぐに低迷し始め、
時折はテレビ観戦するくらいであった。
その後1980年代初期になって、人気を集めた本城、吉野というタレントが輩出した頃から
ぽつぽつと秩父宮や国立へでかけ、
以降ふたたび低迷に落ちこんだ時代は、またテレビ観戦に逆戻り。
1980年代の後半に、昨年まで監督をやって早稲田を常勝軍団に押し上げた清宮や、
堀越、今泉、藤掛の黄金トリオの時代からは、勝っても負けても毎年、
ラグビー場へ足を運ぶようになったものだ。
明治に負けるのは仕方がない、が、たまに奇蹟の逆転?で勝ったときのあの興奮、嬉しさは、
正直に言って、現在の常勝圧勝の感激の比ではなかった。
早稲田のラグビーは、ほんの数名のラグビー名門校からの推薦入学者と、
大多数の一般入試組みとの力の差をどうカバーしてまとめるかが、
毎年の課題であった。
そのなかで一般入試組みの宿沢は、入学早々東伏見のラグビー練習場に来ては
細かいメモをノートに記し、これでは勝てないと思って入部したという。
きわめて論理的なラグビー分析に長けていたことが、
無名選手が多くしかも他の伝統校よりも体格に劣る早稲田が、
どうしたら大きくて強い選手に勝てるかを至上課題としてきたチームカラーに
合っていたのだろう。
その後、三井住友銀行に入社してラグビーから離れたものの、
ヨーロッパに在職中に本場のラグビー状況とコミットし続け、
やがて日本ラグビー協会からその頭脳と分析を買われ協会理事となり、
ビジネスとの二足の草鞋、日本代表の監督にもなってワールドカップで初めて1勝。
その“記録”は未だに破られていないという。
いま大騒ぎのサッカーとは違って?
残念ながら日本ラグビーは未だに世界に通用していないのだ。
ともあれ、宿沢という固有名詞によって僕は早稲田ラグビーを“発見”した。
そして、小さな宿沢がグラウンドをすばしっこく走り抜けていく姿に、
勝敗とは関係なく、小さい者がどうしたら大きく強い相手に勝てるのか、
という早稲田ラガーマンのイメージがインプリンティングされたのだと思う。
37年後のいま、改めてそれに気が付いた。
繰り返すが、ずっと昔、宿沢が早稲田ラグビーの象徴だった時代が、確かにあったのだ。
身長162cmの小兵でラグビーと海外ビジネスの第一線で戦い、
世界をめざす日本ラグビー界の任務を期待されていた宿沢氏は、あっけなく逝ってしまった。
合掌。