映画「レイ」は、シリアスな映画である。
「レイ」とは、昨年(2004年)に亡くなったレイ・チャールスのことだが、亡くなって1年も経たない昨秋に間髪を入れずに映画が完成し、今年のアカデミー賞の有力候補となっているという。“花金”の夜、久々の日比谷みゆき座へ出かけてきた。
この映画がシリアスであるという意味はふたつある。
ひとつは、7歳時に失明したレイ・チャールス自身の生い立ちから始まる音楽人生の、音楽、女、そしてヘロインとの壮絶な闘いぶりが描かれているからだ。一種のサクセスストーリーとも言えるのに、暗い映画である。
ふと思い出したのが、今日のモダンジャズのスタイルであるBebop(ビーバップ)を完成させ、モダンジャズの創始者と称えられたチャーリー・パーカーだ。アルトサックスの超絶テクニシャンにしてインプロビゼーション(即興演奏)の大天才を描くその伝記映画「バード」も、終世ドラッグと女に助けられながら自分の音楽を創造し、一期一会の演奏に生きていく悲劇的な一生が描かれ、重かった。
この映画でも、最初は他人の音楽スタイルの模倣から始まり、ロックンロール、R&B、ジャズ、そして敬虔な教会音楽だったゴスペルと出会いつつ、ついに「ソウルミュージック」にたどり着いて魂を浄化していく彼の音楽創造の内面が、たいへん重く描かれていく。
盲目であること、黒人という社会的被差別者であるという現実から、彼は常に逃れることができない。そこでともかく歌っていかざるを得ないのだから、当然といえば当然である。現実から逃れようとして創造し、歌い演奏することで解放されながら、それによって新たに困難な現実に迫られる。
僕が感じたもうひとつのシリアスさというのは、彼を通して僕らの大好きなアメリカの大衆音楽の歴史が、それこそまさに即興的に誕生していくプロセスがそれなりの必然性を感じさせながら、ていねいに描かれているからだ。
レイ・チャールスが7歳のときに失明したのは、貧しい南部での母子の暮らしのなか、いっしょに遊んでいた弟が目の前で水に溺れて死んでしまうのを、一部始終見てしまったからである。それまで見えていた世界が次第に遠のき、もはや“総天然色カラー”の絵はがきのようなイメージでしか思い出せなくなってしまう。(このあたりのメモリアル映像は印象的だ)
映画では、聡明な母親が、自立して独りで生きていくよう、レイを厳しくしつける。映画でのその母子のやりとりのシーンはまことに切ないが、これはドラマ上のある種のフィクションとして“美談”に仕組まれた印象を否定できない。
実際のところ、レイの本当の母親は別におり、ここに登場する母は育ての母であるらしい。たぶん、母親の実像を描くにははばかれる事実があったのだろう。
しかし映画は、フラッシュバックでたびたび登場するこの母子のシーンによって、なんとか救われる。こういう話をところどころに挿入しなければ、とてもやっていけないぞという、あるのっぴきならない現実が、映画に感じられる。実際に、憐れにもレイは幼少の頃からまったく孤独で、まったくの目が見えなくなるという、過酷な境遇に投げ込まれてしまった。そこから、どのようにして生きていくというのだ。
レイは、ブルーズ、R&B、ジャズ、ゴスペル、ソウル、カントリー、ポップスというそれぞれ固有の音楽ジャンルの本質や風土、形式を、歌うために生きるために、自分の遺伝子に換骨奪胎し、すべて自分のものに昇華してしまった。
その心を借り、リズムを借り、原風景を借り、コード進行を発展させ、コンテンツ(内容)それぞれを自分に引き寄せ、自分の感性に奪い取ってしまう。
それを生み出したのは、その時々の避けることのできない現実あるいは人間関係であり、そこから切羽詰まって即興的に発露させなければならなかったのが、彼の音楽ではなかったか。映画をみると、そこのところがよくわかる。
彼が自分のバンドで始めた、女性コーラスを使ってのあの素晴らしいライブ感覚、かけあい、励まし合い、痴話喧嘩、挑発・・・・これが“レイ・ミュージック”の醍醐味であり、Jazzyなものの魅力であり、この映画の真骨頂でもあった。どの音楽シーンでも、身体が自然にリズムを刻んでしまうので、押さえるのにとても苦労してしまう。
このようにレイの音楽は孤独であり、猥雑であり、悦楽である。
猥雑さのなかに、どうしようもない哀しみがあり、苛立ちがあり、ダイヤモンドのような輝きがある。同じことを繰り返し、繰り返すなかからいきなり発展する。天性の閃きは、それだけ彼の現実が重かったという証明だろう。
ミュージシャンという活動はすべからくそうであるだろうが、彼は批評せず、表現する。率直に表現する。いきなり触発される。発想の飛躍、感性の飛躍、回帰。どんな音楽ジャンルがあろうとスタイルがあろうとも、それらを超えたところに彼のライブの声がある。彼でなければならなかった歌声がある。
ともあれ、映画「レイ」では、こうした“レイ・ミュージック”とでも言いようのない彼の音楽がどのように発現され歌われ人を楽しませてきたかを、ライブそのものとして実感させてくれる。そこにあるのはすべて、リアルな関係性から生まれるもので、そして、底の底にあるのは、紛れもなくブルーズの精神である。
ブルーズ。あのたった4×3の12小節のスタイル。ブルーズから始まり、ブルーズに帰る。貧困と孤独と哀しみから生まれるブルーズ。レイ・チャールスの俗と聖。
映画のシーンのなかで、レイがたびたび語る。
「ぼくの目は耳なのだよ。ぼくは耳で見る」
飛び込んでくる音、忍び寄る声、リアルに、ライブに過ぎ去っていくこれらのもの・ことに応え、思いを返すには、やはり、歌うしかないではないか。
余計なひと言を付け加えるなら、映画で示された黒人の公民権運動への彼の関わりや「我が心のジョージア」がジョージア州の州歌となるいきさつなどは、映画にとってはあまり意味がない。彼の原風景としての音楽との出会いを、むしろもっと描いてほしかった。
「レイ」とは、昨年(2004年)に亡くなったレイ・チャールスのことだが、亡くなって1年も経たない昨秋に間髪を入れずに映画が完成し、今年のアカデミー賞の有力候補となっているという。“花金”の夜、久々の日比谷みゆき座へ出かけてきた。
この映画がシリアスであるという意味はふたつある。
ひとつは、7歳時に失明したレイ・チャールス自身の生い立ちから始まる音楽人生の、音楽、女、そしてヘロインとの壮絶な闘いぶりが描かれているからだ。一種のサクセスストーリーとも言えるのに、暗い映画である。
ふと思い出したのが、今日のモダンジャズのスタイルであるBebop(ビーバップ)を完成させ、モダンジャズの創始者と称えられたチャーリー・パーカーだ。アルトサックスの超絶テクニシャンにしてインプロビゼーション(即興演奏)の大天才を描くその伝記映画「バード」も、終世ドラッグと女に助けられながら自分の音楽を創造し、一期一会の演奏に生きていく悲劇的な一生が描かれ、重かった。
この映画でも、最初は他人の音楽スタイルの模倣から始まり、ロックンロール、R&B、ジャズ、そして敬虔な教会音楽だったゴスペルと出会いつつ、ついに「ソウルミュージック」にたどり着いて魂を浄化していく彼の音楽創造の内面が、たいへん重く描かれていく。
盲目であること、黒人という社会的被差別者であるという現実から、彼は常に逃れることができない。そこでともかく歌っていかざるを得ないのだから、当然といえば当然である。現実から逃れようとして創造し、歌い演奏することで解放されながら、それによって新たに困難な現実に迫られる。
僕が感じたもうひとつのシリアスさというのは、彼を通して僕らの大好きなアメリカの大衆音楽の歴史が、それこそまさに即興的に誕生していくプロセスがそれなりの必然性を感じさせながら、ていねいに描かれているからだ。
レイ・チャールスが7歳のときに失明したのは、貧しい南部での母子の暮らしのなか、いっしょに遊んでいた弟が目の前で水に溺れて死んでしまうのを、一部始終見てしまったからである。それまで見えていた世界が次第に遠のき、もはや“総天然色カラー”の絵はがきのようなイメージでしか思い出せなくなってしまう。(このあたりのメモリアル映像は印象的だ)
映画では、聡明な母親が、自立して独りで生きていくよう、レイを厳しくしつける。映画でのその母子のやりとりのシーンはまことに切ないが、これはドラマ上のある種のフィクションとして“美談”に仕組まれた印象を否定できない。
実際のところ、レイの本当の母親は別におり、ここに登場する母は育ての母であるらしい。たぶん、母親の実像を描くにははばかれる事実があったのだろう。
しかし映画は、フラッシュバックでたびたび登場するこの母子のシーンによって、なんとか救われる。こういう話をところどころに挿入しなければ、とてもやっていけないぞという、あるのっぴきならない現実が、映画に感じられる。実際に、憐れにもレイは幼少の頃からまったく孤独で、まったくの目が見えなくなるという、過酷な境遇に投げ込まれてしまった。そこから、どのようにして生きていくというのだ。
レイは、ブルーズ、R&B、ジャズ、ゴスペル、ソウル、カントリー、ポップスというそれぞれ固有の音楽ジャンルの本質や風土、形式を、歌うために生きるために、自分の遺伝子に換骨奪胎し、すべて自分のものに昇華してしまった。
その心を借り、リズムを借り、原風景を借り、コード進行を発展させ、コンテンツ(内容)それぞれを自分に引き寄せ、自分の感性に奪い取ってしまう。
それを生み出したのは、その時々の避けることのできない現実あるいは人間関係であり、そこから切羽詰まって即興的に発露させなければならなかったのが、彼の音楽ではなかったか。映画をみると、そこのところがよくわかる。
彼が自分のバンドで始めた、女性コーラスを使ってのあの素晴らしいライブ感覚、かけあい、励まし合い、痴話喧嘩、挑発・・・・これが“レイ・ミュージック”の醍醐味であり、Jazzyなものの魅力であり、この映画の真骨頂でもあった。どの音楽シーンでも、身体が自然にリズムを刻んでしまうので、押さえるのにとても苦労してしまう。
このようにレイの音楽は孤独であり、猥雑であり、悦楽である。
猥雑さのなかに、どうしようもない哀しみがあり、苛立ちがあり、ダイヤモンドのような輝きがある。同じことを繰り返し、繰り返すなかからいきなり発展する。天性の閃きは、それだけ彼の現実が重かったという証明だろう。
ミュージシャンという活動はすべからくそうであるだろうが、彼は批評せず、表現する。率直に表現する。いきなり触発される。発想の飛躍、感性の飛躍、回帰。どんな音楽ジャンルがあろうとスタイルがあろうとも、それらを超えたところに彼のライブの声がある。彼でなければならなかった歌声がある。
ともあれ、映画「レイ」では、こうした“レイ・ミュージック”とでも言いようのない彼の音楽がどのように発現され歌われ人を楽しませてきたかを、ライブそのものとして実感させてくれる。そこにあるのはすべて、リアルな関係性から生まれるもので、そして、底の底にあるのは、紛れもなくブルーズの精神である。
ブルーズ。あのたった4×3の12小節のスタイル。ブルーズから始まり、ブルーズに帰る。貧困と孤独と哀しみから生まれるブルーズ。レイ・チャールスの俗と聖。
映画のシーンのなかで、レイがたびたび語る。
「ぼくの目は耳なのだよ。ぼくは耳で見る」
飛び込んでくる音、忍び寄る声、リアルに、ライブに過ぎ去っていくこれらのもの・ことに応え、思いを返すには、やはり、歌うしかないではないか。
余計なひと言を付け加えるなら、映画で示された黒人の公民権運動への彼の関わりや「我が心のジョージア」がジョージア州の州歌となるいきさつなどは、映画にとってはあまり意味がない。彼の原風景としての音楽との出会いを、むしろもっと描いてほしかった。