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夢の途中

空に真赤な雲のいろ。
玻璃に真赤な酒の色。
なんでこの身が悲しかろ。
空に真赤な雲のいろ。

GWの根津

2008-05-11 | 随想
久しぶりにGWの根津へ出かけた。
久しぶりといえば、このブログに投稿するのもかれこれ1年にもなる。
何もしていなくとも月日は流れるのだ。

「GWの根津」とは、よく知られているように“ツツジの根津権現”である。
根津権現のツツジは、毎年GWの頃に満開となる。
もう30年近く前に、初めてこの庭の傾斜地一帯に咲き乱れるツツジを目にしたとき、
それまで清楚で爽やかと感じていたこの花のイメージが一変した。
色さまざまに絢爛と盛り上がって咲くその艶やかさに、まったく驚くばかりだった。
そして宵闇迫る頃になると、その絢爛たる様は不気味な妖しさを帯びていった。

今年のGWでは、しかし、盛りを過ぎていた。
半分ほどはすでに花が終わり、谷間の道に花びらが散乱していた。
観光客もさほど多くなく、境内の出店にもあまり活気がない。

いつものようにこの先の坂の途中にある蕎麦の「無境庵」に寄った。
畳にあがってどっかり腰を下ろし、名物の蕎麦味噌を肴に、冷たいビール。
そして日本酒の冷やをのんびり含んで、盛りを一枚。
至福のぼんやりが過ぎると、いつの間にか1時間以上も時が進んでいた。

さて、「弥生美術館」で立原道造の詩と絵を見ていこうか、
「はん亭」に寄ろうか「根津の甚八」でもっと飲もうか、それとも、
根津の横丁の裏通りをぶらぶら、池之端まで歩こうか、
いつものようにそんなふうに思い思い、腰をあげた。



修子先生が亡くなった

2007-05-30 | 随想

小学1年生の、生れて初めての先生だった修子先生が亡くなった。
しばらくご無沙汰だったクラス会をする直前なのだ。
訃報を聞いて、まさかと耳を疑った。

修子先生はいつもクラス会を楽しみにして、
年賀状に今年は皆に会いたいですね、と毎年記されていた。
今回こそずいぶん楽しみにしておられたのだろう。
ようやく実現することになったのだから。

葬儀は檀家である曹洞宗の寺で行われた。
朝から陽射しの明るい、暑いくらいの土曜日だった。

かつての同級生が5,6人集まってきた。
やあ、やあと顔がほころび、気がついて厳粛な表情に切り替える。
いつものことながら、こういうときの態度はむつかしい。

焼香が終わり、陽射しの中を立ったまま野辺送りのときを待った。
5月の風が光っていた。
古い寺の瓦屋根も光って、新緑の樹木の葉が、風に揺れていた。
風の声が聞こえるようだった。

焼香のときに、先生、もう少し待ってくれたらよかったですね、と手を合わせた。
先生が風の声で答えてくれているように感じた。
明るい声に聞こえた。

お別れの声をかけられ、花を一輪手渡され、
ひとりひとりそっと、お棺に手向けた。
お顔を拝見したら、頬紅がほんのり赤く、目元も口元も可愛らしいくらいだった。
78歳になられたというが、お別れの際にこんなお顔を見たことがない。
まるで童女のようである。

そのまま出棺の声がかかるまで庭に立ち、
すらーすらーと光りながら舞う新緑の枝を、ぼんやり眺めていた。
なぜか、すべて世はこともなし、という感覚が風の間に間に
たゆたっていた。
童女のお顔は、これからも忘れないだろう。

靖国神社の遊就館をのぞいてみた

2006-04-15 | 随想
桜が散りかかる折に、靖国神社に出かけた。
花見がてら、いま問題となっている靖国神社参拝問題に関連して、見ておきたいものがあったのだ。神社内にある遊就館である。

遊就館には子どものころに夢中だった「ゼロ戦」の、最後の型式である52型が陳列されている。
ゼロ戦と並んでニッポン海軍の名機だった、複座の艦上爆撃機「彗星」もある。これはかなり大きい。
それに、空の特攻機「桜花」に、海の特攻艇「回天」。さらに戦車やカノン砲などの武器の数々・・・・。
館内の入り口の自動販売機で入場券800円を買ったら、指が販売機の口に触れて鋭い静電気が起き、瞬間、指を引っ込めた。悪い予感のようだった。

遊就館は、幕末から維新にかけての内戦と、日清・日露から第二次大戦までの諸外国との戦争の資料を展示した、言わば戦争博物館または軍事資料館である。
もちろん単なる展示ではない。
日本がなぜどのように諸外国と戦争してきたかを、時代ごとエポックごとに戦史として分かりやすく詳細に解説してある。
当然そこには一定の視点というものがある。結論から言えば、僕にはそうした視点、解説の方法つまり思想が馴染めなかった。

その理由はおおまかに3つにまとめられる。

ひとつ。
まず館内のあちこちから、突然パチンコ屋に入ったかと思えるような「軍艦マーチ」が響きわたる。
あるいは「海行かば」の荘重なコーラスが流れてきて、コーナーにある大型モニターや壁面一杯に、こうした軍歌と往時の戦意高揚のためのビデオがガンガンと鳴り、映される。
まさにタイムスリップして一挙に時間がさかのぼる。時代を意図的に戻している。ビデオはみな戦勝を讃えるものばかりなので、気分が高揚してくる。
それらを見ていると、あることに気づく。
威勢のいいシーンばかりで、敵味方を問わず累々戦死者の映像であるとか、戦争の負の面である悲惨な状況を伝えるものは、まず出てこない。大本営発表の時代と同じように、見たくないし、見せたくないのだろう。

もうひとつ。
それぞれの局面で紛争や攻撃がなぜ起こったのかを説明する記述がある。
思い出せばこんな記述である・・・・往時の遼東半島沖を航海する我が艦艇に「凶徒」が砲弾を打ち込んできたがため止む無く我が軍は・・・・また、台湾に漂着した我が多くの同胞が現地の○×族に惨殺されたがゆえに・・・・・などという、甚だこちら側からの一方的な説明がなされている。

遼東半島沖を航海すると言ったって、それは領海侵犯してのことだろうとか、
「凶徒」とは、それは日本からの侵攻を守ろうとするかの国の軍隊でしょとか、
また、なんの理由で台湾に多くの同胞が漂着なんぞしたのか知らぬが、
大昔の冒険小説に出てくるような野蛮な未開人でもあるまいし、
漂着しただけで台湾人が日本人を「惨殺」するなどということがあるのかとか、
現在のわれわれの通常の想像力をもってすれば、それらがいかに一方的意図的な理由をしか語っていないかが容易に察せられる。

さらにひとつ。
標本として軍服や刀剣、武器とともに陳列されている軍人たちはみな、これらの戦争を遂行し闘った(そして一部は生き残って「戦犯」とされた)名高い将校ばかりであること。
つまりは、「英雄」であり「軍神」と讃えられたような人たちばかりである。
出口付近には、夥しい写真のパネルが、まさにおまけのように展示されていた。
戦没した軍人の顔写真が、沖縄の戦没者の名前を刻んだ慰霊碑 「平和の礎」のごとく、“慰霊”されているのだ。
沖縄の場合は国籍も軍も民も問わない、まさに慰霊のための碑であるが、ここで展示されている方々の名前をつぶさに見てみると、みな軍人でしかも下士官以上であり、無名の一兵卒の遺影すら認められなかった。

それなら遊就館では、敗戦を決定づけた沖縄の、そして広島・長崎の悲惨さについて、何がどう語られているのか?
無名の何十万人もの民間人と兵隊が犠牲になったこの事実を、どのように展示し説明しているのか?

ここでは、そうした悲惨さについてはほとんど語られていない。
つまり、戦争の表の部分だけ勇ましく都合のよい論理で紹介してはいるが、裏面の暗部に刻み込まれた取り返しようのない悲惨さの事実は無視されている。
まさに、戦争というものの一面しか伝えていない。

実際に来てみて、僕には遊就館という戦争博物館の性格がはっきりわかった。
もちろん一博物館として、遊就館がどんな思想でどんな方法で公開しようとまったく自由である。
戦争を賛美しようと批判しようと、自らの意思で個人や団体が表現することを妨げる理由はない。
ただし、もし国家がこれにお墨付きを与えるようなことになると、ちと話が違ってくるだろう。

靖国神社そのものは、戦前から国の“英霊”を祀った神社として知られている。
戦後になってそれを支えてきた国体が崩壊し、それでなお一宗教団体として一部の人たちの意思に支持され存在し続けてきた。そういう人たちもいるだろう。
しかしいま、このような遊就館の存在を含めて考えると、靖国神社はまた違ったイメージで浮き上がってくる。
現小泉政権がさかんに主張するように、果たして靖国神社は「追悼」の施設であるのだろうかという疑問が湧きあがってくる。
どれほど「追悼」という言葉を使おうと、現実にここで訴えられているのは「顕彰」であり、むしろ「賛美」というものに思えるのだ。
だから、この神社に少しでも政治性を介入させようとすると、明らかに問題がでてくるだろう。
なぜなら、ここでは戦争そのものが現時点で相対化されておらず、資料館としても客観性に乏しいからである。
ここには一部の軍人を祭り上げようとする主張はあっても、戦争の犠牲者への「追悼」を感じさせる願いや精神を感じ取ることができない。

もし遊就館をまだ見学していなければ、一度行ってみることをお勧めしたい。
いろいろ考えることはあると思う。

ところで、出口近くに特攻の人間魚雷「回天」が陳列されている。
大きな鋼鉄円筒製の全長15メートルくらいの魚雷の中ほどに、
人がもぐれるほどの狭い穴がくりぬかれ、そこに小さな潜望鏡と操縦桿がついていて、
戦士は座ったまま操縦し、敵艦に体当たりする。
必ず果てるための、まさに鉄の棺おけである。

無残だなあと見ていたら、「これ回転するんか?」とおばちゃんの声が聞こえた。
ずいぶん寒い冗談だなあと見返したら、いかにも地方からやってきたというような老夫婦が、
横で首を伸ばして、説明プレートを覗き込んでいた。
「バカ、これ人間魚雷だべえ」と夫。「ふーん」と妻。
そんな会話を交わしてふたりはさっさとその場を離れた。
ふたりとも、いかにも戦中生まれの夫婦にみえるのだったが・・・・。

渋谷「麗郷」で今宵また・・・・

2006-02-06 | 随想
渋谷で夕刻に解放された後で、まさにともし火に吸い寄せられる気持ちで向かう酒場がある。
台湾の屋台料理店の「麗郷」だ。
少し以前は、109スタジオの交差点に崩れんばかりにあった日本酒の「玉久」や、怪しげなキャバレーと同居する「沖縄」もその選択肢のひとつであった。

「玉久」はすでにかの場所から撤退し、「沖縄」もbunkamuraなどという気恥ずかしい場所近くに移転している。
あの込み合ったカウンターと、底が抜けそうな座敷で、古い酒屋のカレンダーなんかを見上げ隣人の肩と触れ合いながら、とりあえず熱燗とコチの刺身から始め、気が滅入っているときには、鯛カブトをつついて息をついたりしていた「玉久」は、少し先のこぎれいなビルの何階かに移転し、一度行ってあまりに変貌した雰囲気になつけず、二度と行かなくなった。

また、ゴーヤちゃんぶるやスクガラス、豚足で30度もの焼酎やマムシ酒を頑張った「沖縄」は、トイレに貼られた「本日の沖縄の天候・晴れ。気温33度」のポスターも、あの民芸調のインテリアの面影も無く、無国籍のシラーッとした空間に化けて落ち着けるところでなくなった。

だが、嘆くまい。「麗郷」や「龍の髭」がまだ残っている。
だから先日、映画をみた後しぜんに「麗郷」に足が向かった。決まりは、いつもカウンター席。瓶ビールに、わいのわいのと吊るされた腸詰である。これさえあれば、とりあえずもとりあわずもため息くらいつけようというものだ。

ずっと以前、青山の某出版社にいて営業の連中と厳しいやりとりしたり、オタクそのものの部員にイラついたような後で、必ず来たのがここなのだ。思えばいつもひとり勝手に消耗していたような気がする。
しかし、このカウンター越しに目の前でのぞける厨房の、段取り手っ取り早い調理人たちのみごとな手際、威勢のよい包丁の音や火花散る中華鍋のガランゴロンの音を飽かず眺めているうちに、不思議に気持ちが落ち着いてきたものだ。

次々と注文が入って、みるみる、次々と、あがってくるさまざまな料理はどれも旨そうで、つい手の平を差し出したくなる。そうした、休みない熱気やリズムをひとりでぼんやり感じていると、いつも次第に元気になってくるのだった。

こうして今宵もビールを二本、腸詰に蜆の大蒜漬け、青菜いために舌鼓を打つうちに、生きているって案外いいことだなあと、少しばかりこみ上げてくるものがあった。明日も、まあね、なんとかやっていこう、と。

ベーゴマの思い出

2006-01-24 | 随想
今朝がたテレビを見ていたら、懐かしのベーゴマが子どもたちにリバイバルしはじめているとの話で、小学生の男の子や女の子たちが夢中になってベーゴマに興じているさまを放映していた。

映像がなかなか凝っていて、盆の上で回転するベーゴマを、上からそして横から、ブーンと唸る音といっしょにアップで映したり、それを夢中に覗き込む子どもたちの顔を下から仰いだり、臨場感をたっぷり演出していた。
見ているだけで、そう、あのときの、あの真剣だった気持ちがすぐによみがえった。
相手を飛ばすか飛ばされるか固唾を呑んで見守る、自分のコマの勢い、傾き具合。
カッ!と火花と音を発して、盆からコマが飛び出すあの一瞬。

相手を弾き飛ばしたときのしてやったりの喜びと達成感。
やられたときの、なんとも無念な喪失感。
ぶっついて、左右にいっしょに飛び出した瞬間、安堵と解放感で敵と同時にする「たっちゅー!」の叫び。
(「たっちゅー」の叫びは、もともと「ふたっつー!」の語源が勢いよく訛っていったものだと今に思われる)

戦いの場には、コマひとつひとつにいろんな細工や施しを工夫し、手塩にかけて加工して送り出す。
まず強くなければならぬ。
ガチンコ勝負で相手を弾き飛ばすのだから、鉄の六角の角を鍛え上げる。
各辺の面を薄べったく削り直し、辺と辺の合わさる角をできるだけ鋭くなるようにする。こうするとまた、美しい。

次に、重心を下げねばならぬ。
コマの底すなわち回転する中心をできる低くするために、買ったばかりのコマの底を一度平らに削ってしまう。
削っただけではぺったりして回らないので、そこに新たに回転軸を現出せしめようとする。上からごりごり削って円錐の底を再現させるのだ。
すると、ぶちかまし合う再生コマの角が低くなり、相手のコマの角は本来接すべく敵の角を見失って空しく宙をもがく。
そこをすかさず、いともたやすく弱い側面を突いて、盆の上にポケッとひっくり返してしまう。その無残なこと。恥ずかしいこと。やーい!

さらに、変身自在であらねばならぬ。
これは通称「おちんこゴマ」と呼ぶもので、市販状態のコマの円錐の底をヤスリでまずタテに四辺、切り込みを入れる。
しかる後に四方から内に向かってギリギリと身を削って小さな角柱のごときものを、そこにそそり立たせる。
最後にそれを丸く、用心しながらあまり先端を尖らせぬように円柱状に細工し、仕上げに先端を丸くしておく。

これがなぜ、変身自在であるか。
このコマを、両足を前後に踏ん張り、あくまで低く構えた腰と腕を同調させてすばやくブンと盆に投げ込むと、盆底の中心を動かず、まるで身をよじるように角度を変えつつビィーンと回転する。
すると、自在に相手を下から掬い上げ、ときに互角にガチンコ角合わせしても、回転する中心が一箇所に強固なため(と思っているだけ)、簡単に外へはじかれたりはしない。
が、逆に身をよじって伸びた側面を運悪く突かれてしまったときの無様さは、たとえようが無い。
まず、ボケッといとも簡単にひっくりかえる。その光景たるや、突起物を天に突き立ててままの無防備そのものである。
子どもごころにもたまらなく恥ずかしい姿なのだ。

さらに、化粧をほどこす。
オモテ面には、大下だの川上だの当時の野球の選手の名前が彫られているか、大文字アルファベットがぎこちなくレリーフされている。
その文字の間のわずかなスペースにエナメルで赤や黄、青などを塗りこむ。もちろん六つの辺にも色を塗りこむ。
これが回転すると、どんなに幻想的で美しいことか。

さて、このように周到に仕上げたコマを実戦の場で初見参させるときの気持ちはいかばかりであったか。
それが敢え無くも弾き飛ばされて、相手に奪われてしまったときの落胆ぶりは、さらにいかばかりだったか。いまでさえ取り戻したいと思う。

ベーゴマの思い出はつきない。
削る際に使う道具をめぐって、バインダーなんかを使うと強くないし、だいち卑怯だなどといった、リニューアルと育成過程における数々の論争。
当時は少なかったコンクリート面が露出せる場所を探しまわり、そこで削っているうちに、つい指の爪まで削って血が噴き出したあの記憶。
小学生のときの昼休みに、学校近くの友人の庭で夢中になって回し続けているうちに遅刻し、両手にバケツを持たされて立たされたつらさ。
いつしか学校で禁止されるようになり、やがて再起を誓って缶カラに詰め、庭に埋めて以来、どうにも行方知れずになってしまった、あのベーゴマたち。
今なお、缶の蓋が開けられるのをひたすら黙って待っているのだろうか。こころが痛む。

それにしても、ベーゴマひとつにあんなに夢中になれるほどたっぷりと時間があったんだなと、往時の黄金のような日々をまぶしく思い返す。

言葉のない世界

2006-01-16 | 随想
「帰途」

言葉なんかおぼえるんじゃなかった
言葉のない世界
意味が意味にならない世界に生きてたら
どんなによかったか

あなたが美しい言葉に復讐されても
そいつは ぼくとは無関係だ
きみが静かな意味に血を流したところで
そいつも無関係だ

あなたのやさしい眼のなかにある涙
きみの沈黙の舌からおちてくる痛苦
ぼくたちの世界にもし言葉がなかったら
ぼくはただそれを眺めて立ち去るだろう

あなたの涙に 果実の核ほどの意味があるか
きみの一滴の血に この世界の夕暮れの
ふるえるような夕焼けのひびきがあるか

言葉なんかおぼえるんじゃなかった
日本語とほんの少しの外国語をおぼえたおかげで
ぼくはあなたの涙のなかに立ちどまる
ぼくはきみの血のなかにたったひとりで帰ってくる


これは20代の始めのある時期に読んで、それ以来いつも口にしてきた田村隆一の詩である。
その静けさ、その美しさ、詩人がそれを「帰途」と表現せざるをえなかった決意のほどを、眩しく受け止めてきた。
表現するということ、思想として何かを捉え返そうとする意味がそこにある。
そして、いつしかこの詩にあるような思想を、自分の生き方として憧れるようになっていた。

しかし、現実はなかなかむつかしいものだ。
言葉なんか信じられない、と言葉を使って語る人もいれば、反応する言葉を惜しむ人もいる。
人のなかにいて人に恃みながら人に反応しないまま通り過ごそうとする。
確かに、反応するに値することはこの世界にどれだけあるのかと問われれば、沈黙するしかないかもしれない。

花を 花のごとき傷痕を!

田村隆一の別な詩に、うなるほどにかっこいいこんなフレーズがあって、
青臭さのただなかにあったぼくらは聖なる隠語として、ひそかに口ずさんだものである。
「傷痕」さえあれば、感動を共有できるような思いがあった。
しかし傷痕などはいつの時代にも見えやしない。
あいかわらず、言葉を使ってそれを見ようとするしかないのである。
語られることのない言葉を、言葉をつかって見つけること。

十七歳の純潔

2005-02-18 | 随想
風邪をひいて 煙草を吸うと
のどの奥に いつも 青い船が走る。
そのときだけの 秘密の味が
ある遠い思い出に そっとしみてゆくのだ。

それは我の多かった夏 立ち去る恋人を見て
灰と消えたシガレットの 無言の歌ではない。
ずっと昔 戦争のさなか 辞書の紙で
巻いてふかした紅茶の葉の 死の臭いでもない。
さらにずっと昔 子供のとき 好奇心で
覗いた父のシガーの 夢の切り口でもない。
それら 生活のけばだつ衣裳のひだに
今も漂う煙たち!
それらではなく ぼくが反芻する透明な味は
はじめて母から離れ 旅をした海のまばゆさ。
いがらっぽい十七歳の純潔。

(以下略)

数日前から熱発で、どうやらインフルエンザにやられたようである。そして、風邪をひいて喉がいがらっぽくなると、いつもこの詩が口を衝いてくる。清岡卓行さんの『冬の朝』という詩の一節だ。清岡さんというと、夭折した詩人の原口統三とアルチュール・ランボーの信奉者である。

それらではなく ぼくが反芻する透明な味は
はじめて母から離れ 旅をした海のまばゆさ。
いがらっぽい十七歳の純潔。

この3行は、読んだ瞬間にボクの感性に突き刺さった。
はじめて母から離れ 旅をした海のまばゆさ。
少年はいつの時代にも出て行く。母から離れ、海に遭遇し、海を渡って行くのだ。眼前には圧倒的に広がる碧一色。大きく波打ち、風が縦横に舞い、波頭に真白いしぶきがあがり、光がさんざめく・・・・それらを、少年はどんな想いで、受け止めるのだろう。
その時でしか感得できない海という存在、その時でしか知覚できない内面の決定的な解放感。彼には海がどう見えたのか。

十七歳というのは、いつも絶対的なものに思えてならない。人によっては二十歳がそれなのかもしれない。しかし、たった一度しかない、というありふれた言い方が、二十歳よりも未だ不安定な十七歳のほうに、いっそう特別な意味を与えるように思える。
ボクの十七歳? それはもう、毎日が愚かしくも悲喜劇の繰り返しだったなあ。阿呆と純潔がまさに紙一重な時代。
そして、彼の十七歳、彼女の十七歳。本当は誰もが同じように、その時を超えていったはずだ。母から離れて、ひとりで旅に出てしまえるなら。

最近、十七歳が起こす理不尽な事件報道に接するたびに、なぜ彼らは出て行かなかったのか、なぜ親たちは彼らを旅に出さなかったのかと思う。親たちが十七歳のときに、そうしなかったのだろうか?