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Feelin' Groovy 11

I have MY books.

クジラアタマの王様、の感想

2020-05-14 | 
『クジラアタマの王様』とはハシビロコウさんのこと。
*注)ネタバレあり


*いつかの上野動物園*

私の大好きなハシビロコウさんが若干悪者として登場するのは悲しいが、 それは置いといて。
この本は 新型インフルエンザによるパンデミックを扱い、
今まさにリアルさをもって読むことができる。

まず大まかな流れは以下の精神!?で進められる。

「短期的には非難されても、大局的には、大勢の人を救うことができればそれでいい」

そして
「たとえば、大勢を救うためには一部の人たちに我慢をしてもらわなくてはいけないこととかありますよね」
「そういった場合に決断するのが政治家だと思うんですよ。
 自分が憎まれても、恨まれても、大勢の人間、国の未来のために決断するのが」

「政治家が自分の利益に貪欲になることは別に気になりません。
 恐ろしいのは、国の利益よりも、自分の利益を優先させようとした時です。」

ってとこで、うん、うん、そう、そう!!となるわけです。

ストーリーとしてはそのような感じ(どんな感じ!?詳細は読むべし)


それでは本題の【ハシビロコウ】さんの位置づけについて。
「それまでは案内人であったはずのハシビロコウが、急に、自分たちの敵となった」
というところで、『1Q84』のリトルピープルを想起した。

とにかく毎日の習慣で勝手に友好的だと思って指示に従っていたが、
途中で敵対するものに変化した。
しかしその時期を過ぎればまた敵でも味方でもないかもしれない存在。

そういうものが存在することを意識し、
自分に都合のいい解釈で考えなしにその存在に流されない。
自分自身でしっかり考えて行動するのが大切(あるいは行動しないのも選択肢のひとつ)
と、伊坂さんの他の作品でも言っているテーマが伝わってくる作品だった。

最後に、
この本は一部コミックパートで表現されている。
あとがきに「人物の動きを文章化することはできますが、スピードや躍動感という意味では、
映画やコミックの方が効果的に表現できる」とあったが、残念ながら躍動感などは感じなかった。
私はすべて文章がよかった。
一旦絵を示されるとそれ以上の想像はできないから。
ただ絵が悪いというわけではなく、夢を表現したよい絵だった。

本文の「」は『クジラアタマの王様』(伊坂幸太郎著/NHK出版)より引用


誰もが無言で、めいめいで勝手に知るんだ。

2019-04-24 | 
  人生を道にたとえる言葉は多いが、比喩ではない実際の道の歩き心地についての言葉を、
  人生で誰も与えてくれなかった。誰もが無言で、めいめいで勝手に知るんだ。
  (『私に付け足されるもの』長嶋有著 文芸書)


言われたらそうだな、と思った。
そしてそういうものって結構あるな、と。

長嶋有さんの本はいつも、
考えてはいても毎日の生活でたちまち流されていく内容を
言葉に書き起こして気づかされることが多い。

なんか普通の生活をもっと丁寧にじっくり生きたいなと思う。
そしてそんな素敵なことを思ったのにスグ忘れてしまうのもまた、日常。。


他、長嶋有本の記事↓

いいなあとか、そういうんじゃなくて・・・
パラレル、じゃない。
そろそろなんじゃないか
エロマンガ島だって?

もしかして死ぬ前に読みたい本なのかもしれない。

2013-07-18 | 
  記憶はなくなるんじゃない、静かに、別の場所に移動していくだけ。
     (『なくしたものたちの国』集英社 角田光代 松尾たいこ)



全体的に好きな空気の本だった。
特に子供の頃のことなんかは、ね。

内容は輪廻転生を感じる部分もある。
すでに無くしたり、あるいは亡くしたり、
はたまた「なくしそう」でそれを恐れていたりする場合には
この本でいくらか心穏やかになる方もいるのではないかと思う。

私はその辺り、全く逆の考えなので
少々気持ちが離れる箇所もあったけれど、
それは本のせいではなく、たぶん私の人生経験が貧弱だからだろう。
そこで自分の納得できるように解釈するとこんな内容の本↓だった。

現実に全く同じ姿かたちとして、それはもうなくなっても、
全く別のものからふとそのなくしたものを想起したとするならば、
そのなくしたものはそこに存在しているんだよ。
だから見た目なくなっても、まだ気づいてなくても、
あちこちにそれは存在しているんだよ、と。



ああなんか指示語多すぎで国語の問題が作れそう。。。




クレーター錯視

2011-09-30 | 

ところで。
砂丘が気になりだしたのは、
恩田陸の「砂丘ピクニック」(『不連続の世界』より)を読んでからだ。

主人公が翻訳中の本に、「T砂丘が消えた」という記述があり、
その理由を探るため鳥取砂丘に来ている場面がある。

作中ではあの大きな砂丘が本当に消えたり移動したりするはずがないので、
「錯視により消えたように見えたのではないか」という説を披露している。

たとえばクレーターが光の当たる方向により
窪んでいるのではなく盛り上がって見えることがあるそうだが、
砂丘にはその反対の現象が起こったのではないか、という。

なんかよくわかんない。

【クレーター錯視】を調べると
こんな分りやすい画像のあるサイトがあった。

イリュージョンフォーラム

なるほど。
本来へこんでいる場所が、逆さにすると膨らんでみえる。

人は光は上から来るものだと理解しているので、
影が出来る方向から凹凸を認識する(らしい)。
だから逆から光を当てると反対に見える、というわけ(だそうだ)。

だから砂丘を寝転がって月明かりで見たら、その影の出来る方向によっては
砂丘が消えた!なんてことも起こり得る、のかなぁ。。。

ちょっと無理がある気がするけど…まぁいいか。
楽しい説ではあるものね。

ついでに作中で登場する
植田正治写真美術館の「逆さ大山」も見たく、訪れた。

当日は晴れだったのに黄砂真っ盛りの日で
大山はうっすらしか見えず…水面に逆さ大山はほとんど映っていなかったのでした。↓
本来はとても綺麗な眺めのはずです


八日目の蝉

2011-03-25 | 
  「前に、死ねなかった蝉の話をしたの、あんた覚えてる?
  七日で死ぬよりも、八日目に生き残った蝉のほうがかなしいって、あんたは言ったよね。
  私もずっとそう思ってたけど」千草は静かに言葉をつなぐ。
  「それは違うかもね。八日目の蝉は、ほかの蝉には見られなかったものを見られるんだから。
  見たくないって思うかもしれないけど、でも、ぎゅっと目を閉じてなくちゃいけないほどに
  ひどいものばかりでもないと、私は思うよ」(『八日目の蝉』角田光代著 中央公論新社)



『八日目の蝉』映画化されて来月公開のようですね。
いろんなことを考えながら読む本としては素晴らしい作品ですが、
あまり考えず読んだり観たりしてヘンな共感を呼ばないといいけどなと内心思う。
いや、これに共感できる人がおそらく大勢いる、それが現実世界である、
ということを共感できない人は受け入れなければならないということなのかな。


不倫相手の子どもを誘拐して本当の母親のように愛情を注ぐくだりで
その誘拐犯に同情し、涙もじゃあじゃあ流れてくるでしょう。

でも不倫とは自分が中絶したり相手の奥さんが妊娠する可能性があることは
よく考えずとも分かるわけで
不倫するならそのような覚悟を持ってすべき。

誘拐後いくら愛情を注ごうともそれはだたの自己満足で
学校も行けず病院にも行けないような環境で育てることは奪っているものの方が多い。
また小説にはしっかり書かれていないけれど、
自己中心的だったとはいえ子どもを誘拐された後の実の両親の気持ちを想像してみてほしい。
自分が悲しんだから他の人を悲しませてもいいなんてことは絶対にない。

小説は誘拐された子どもを「八日目の蝉」になぞらえ、
そのような体験をしてしまった主人公の本来はないはずの未来への姿勢が主眼なんだと思う。

もちろんどんな経験からも何かを得られるということはある。
起きてしまったあとでその考え方は救いにはなるけれど、
それが同じことを起こしていい理由にはならない。