グレイスインサンダ

~信徒さんとキリスト教との出会い~

メッセージの恵み

2013-08-25 00:00:00 | 証し
Y.D.さん

メッセージの恵み
~真理はあなた方を自由にします。~

 ここでいう真理とは聖書が語っていることです。その真理とは何か。究極の真理は「神様は私たちを愛して止まない。」ことであります。私たちを守り、導き、養っていてくださるのです。私はこの事実を、三田泉教会に来て初めて体感できたと言ってもいいでしょう。

 私は高校2年生の夏に、その当時兄が通っていた八尾自由教会という、中高生、青年が多く集う教会の高校生キャンプに誘われ、聖書のメッセージを聞き、イエスを私の救い主として信じました。キャンプ後自然に教会活動に加わり、音楽やイベントなどの企画運営などさせていただいて、本当に楽しい教会生活でした。

 しかしながらそこで聖書の本当の恵みを感じていたかとなると、今から思うとそうではなかったと思います。音楽やイベントで自分の力が発揮できる、また指導もしていただいて、自己有用感を強く持てたことが教会につながっていたのだと思います。
冠婚葬祭やイベントが多い教会で、会場作り、音響、駐輪、駐車場係りなど、いろんな役割をさせてもらい、「自分を用いてもらえる」、そんな喜びが教会生活の支えになっていたように思いますし、実際に奉仕をよくしていくと、神様からの「ご褒美」気持ちの報酬や奉仕を通しての学びなどを多くもらえていたように思いますが、聖書が語る、「本当の恵み」は理解できていませんでした。

 そんな教会生活を続けていくうちに、妻と出会い、結婚に導かれ、仕事上、三田に住み、私の通っていた教会の流れをよくしっていただいていた、邦夫先生、晴美先生のこの三田泉教会に導かれました。三田泉教会での一番の恵みは
「聖書の福音を知れたこと」です。
大分前になりますが、晴美先生を通してのメッセージの中で
「神様がどういう方か分かれば、聖書が分かる。聖書が分かれば神様がどういう方か分かる」という意味の言葉がありました。それを自分の仕事。教育者という視点で照らし合わせたときに、
「そうやったんかっ~!」と分かったような気がしました。

 というのも私は、教育者のはしくれではありますが、その仕事、役割は「生徒に力(学力、社会生活力など)をつけていくこと」であります。そして生徒の長所を伸ばす、また生徒自身にそれに気づかせ、また自らで伸ばせていけるように支援していく。これが教師の役割だと思っています。また短所もそうです。それに気づかせ、それを自分でコントロールできるようにしていく、これが指導だと思って取り組んでいます。中学校現場にいますのでいろんな対応をすることもよくあります。最近ではイジメの問題の対応があり、時には警察のお世話になることもあります。そこで話をし、その間違った方向の軌道修正をしてやる、それも役割の一つです。(そのときに罪って「的外れ」っていう意味をよく感じますね~)軌道修正の時の土台になっている感情が「期待」なんです。正直なところ、その期待にも度合いはあるんですが、でも期待を持って話をしていきます。
いつかはわかってくれるやろう、こういうことはわからなあかんことなんやで、と期待を持って話していきます。
また進路指導でもそうです。学力や希望、ご家庭の経済力、適性、立地条件、高校3年間のこと、高校卒業後のことまでも考えて話をしていきます。「行ける高校」「行きたい高校」の狭間の折り合いをつけて指導をしていきます。とにかく生徒個人個人の持っている資質を伸ばしてくれる学校はどこか、何がしたいか、何が必要か、などを考えながら、一人一人に声をかけ、生徒と二者面談を何度かもち、最後には保護者を交えて三者面談で進路の方向を決定していきます。

 こういったことを踏まえていきますと、
「俺ですらこう思っているんだから、神様ってもっとすごい度合いで期待し、あらゆるものをあらゆるものでもって導いてくださるんだな~。」って何気ない時によく感じます。授業にいく間、通勤途中や部活動指導の途中、試合の待ち時間など、ふと空を見上げてよくそんなことを感じます。

 日本の「神観」は閻魔大王に象徴されるように思います。それを小さな時から刷り込まれてしまい、本当の神様の恵みを感じられなくなっているのではないでしょうか。キリスト教会でも教会が、組織が大きくなるとそんな「空気」が人から出るのではないでしょうか。「礼拝さぼると罰があたる」「献金しなけりゃ、アナニアのようになる」「奉仕をしなくては」「祈らなければ」などと刷り込まれることってなかったでしょうか。残念ながら私にはありました。勝手に思い込んでいるだけかもしれませんが、ありました。もちろん「しなけらばならない」という面もあるでしょう。しかし神様は聖書には「すすんで与える人を愛してくださる」とあるように、自発的に、神様に捧げていくことを一番喜んでくださり、罰をあたえようなんて思っておられないはずです。そのように感じるのは、自分が「恵みの的」から自分で外れていっているからだったな~って今振り返ると思います。

神様はわたしたち一人一人を祝福しようとしてくださっている、これが聖書が語る一番の原則ではないでしょうか。
神様は私たちを「緑の牧場に伏させ、憩いの水のほとりに伴う」と思ってくださり、そうさせてくださっているのです。ですから私たちが本当にすべきことは、「まずは、その恵みに浴する」ことではないでしょうか。そして「その恵みをよ~く味わう」ことではないでしょうか。その恵みに浴し、味わったた結果、感謝の祈りや賛美が生まれ、ささげ物が出来るのです。それが「礼拝」なんだと思います。そしてその「すごい恵み」を他の人に分かち合うのです。それが伝道でしょう。私はこの過程なく、ずっと教会生活を続けたり、伝道したりしていたなと、泉教会に導かれてから思うようになりました。

文字通り、聖書の言葉を受け取ってみたらすごいですよ。
「あなたは私の目には高価で尊い。私はあなたを愛している。」
え~、こんな世俗まみれのこの俺を!?あなたって、神様と私とあなたの関係で見てくださるの?ちょっと畏れ多すぎますよ~。
私の目にはってことは、人がどう思おうと、神様は俺のことを思ってくださるっていうこと?
高価で尊い?高価なんて、安っぽい考えしかできないこの俺を?
尊い?ぞんざいには扱われたくないけど、そんな尊ばれるようなことは何にもしてませんよ。世俗の匂いをぷんぷんさせているこの俺を尊いだなんて。。。嘘でしょう。神業的な嘘でしょう?
となります。そのほか枚挙にいとまがありませんが、聖書には「私はあなたを愛している。」「神は愛なり」「神の子どもとされる」(これってロイヤルファミリー的待遇、それ以上!?)嘘でしょう~?すごすぎますよ~
 
 そんな風に感じられるのも、毎週毎週の邦夫先生、晴美先生を通してこの教会に語られるメッセージからなのです。メッセージを通して神様という方がどんな方か分かれば聖書が分かるようになる。その恵みを感じることができるようになったのです。
それは自分で感じられたのではなく、8月4日のあかしあ台礼拝で語られたメッセージのように、ご聖霊のお力のおかげだ、と思います。毎週毎週礼拝堂にご臨在下さった聖霊様に触れ続けていただいて、恐らくこれらのことが見えるようになったのでしょう。

聖書の真理を知れば、「ねばならない」から解放され「自由」になれます。そして本当にその恵みに浴することができる。私はようやくその入り口に立てた、その入り口が見えたのかもしれません。その恵みをこの教会の礼拝を通してみなさんと分かち合っていきたいと思います。

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