グレイスインサンダ

~信徒さんとキリスト教との出会い~

メッセージの恵み

2013-08-25 00:00:00 | 証し
Y.D.さん

メッセージの恵み
~真理はあなた方を自由にします。~

 ここでいう真理とは聖書が語っていることです。その真理とは何か。究極の真理は「神様は私たちを愛して止まない。」ことであります。私たちを守り、導き、養っていてくださるのです。私はこの事実を、三田泉教会に来て初めて体感できたと言ってもいいでしょう。

 私は高校2年生の夏に、その当時兄が通っていた八尾自由教会という、中高生、青年が多く集う教会の高校生キャンプに誘われ、聖書のメッセージを聞き、イエスを私の救い主として信じました。キャンプ後自然に教会活動に加わり、音楽やイベントなどの企画運営などさせていただいて、本当に楽しい教会生活でした。

 しかしながらそこで聖書の本当の恵みを感じていたかとなると、今から思うとそうではなかったと思います。音楽やイベントで自分の力が発揮できる、また指導もしていただいて、自己有用感を強く持てたことが教会につながっていたのだと思います。
冠婚葬祭やイベントが多い教会で、会場作り、音響、駐輪、駐車場係りなど、いろんな役割をさせてもらい、「自分を用いてもらえる」、そんな喜びが教会生活の支えになっていたように思いますし、実際に奉仕をよくしていくと、神様からの「ご褒美」気持ちの報酬や奉仕を通しての学びなどを多くもらえていたように思いますが、聖書が語る、「本当の恵み」は理解できていませんでした。

 そんな教会生活を続けていくうちに、妻と出会い、結婚に導かれ、仕事上、三田に住み、私の通っていた教会の流れをよくしっていただいていた、邦夫先生、晴美先生のこの三田泉教会に導かれました。三田泉教会での一番の恵みは
「聖書の福音を知れたこと」です。
大分前になりますが、晴美先生を通してのメッセージの中で
「神様がどういう方か分かれば、聖書が分かる。聖書が分かれば神様がどういう方か分かる」という意味の言葉がありました。それを自分の仕事。教育者という視点で照らし合わせたときに、
「そうやったんかっ~!」と分かったような気がしました。

 というのも私は、教育者のはしくれではありますが、その仕事、役割は「生徒に力(学力、社会生活力など)をつけていくこと」であります。そして生徒の長所を伸ばす、また生徒自身にそれに気づかせ、また自らで伸ばせていけるように支援していく。これが教師の役割だと思っています。また短所もそうです。それに気づかせ、それを自分でコントロールできるようにしていく、これが指導だと思って取り組んでいます。中学校現場にいますのでいろんな対応をすることもよくあります。最近ではイジメの問題の対応があり、時には警察のお世話になることもあります。そこで話をし、その間違った方向の軌道修正をしてやる、それも役割の一つです。(そのときに罪って「的外れ」っていう意味をよく感じますね~)軌道修正の時の土台になっている感情が「期待」なんです。正直なところ、その期待にも度合いはあるんですが、でも期待を持って話をしていきます。
いつかはわかってくれるやろう、こういうことはわからなあかんことなんやで、と期待を持って話していきます。
また進路指導でもそうです。学力や希望、ご家庭の経済力、適性、立地条件、高校3年間のこと、高校卒業後のことまでも考えて話をしていきます。「行ける高校」「行きたい高校」の狭間の折り合いをつけて指導をしていきます。とにかく生徒個人個人の持っている資質を伸ばしてくれる学校はどこか、何がしたいか、何が必要か、などを考えながら、一人一人に声をかけ、生徒と二者面談を何度かもち、最後には保護者を交えて三者面談で進路の方向を決定していきます。

 こういったことを踏まえていきますと、
「俺ですらこう思っているんだから、神様ってもっとすごい度合いで期待し、あらゆるものをあらゆるものでもって導いてくださるんだな~。」って何気ない時によく感じます。授業にいく間、通勤途中や部活動指導の途中、試合の待ち時間など、ふと空を見上げてよくそんなことを感じます。

 日本の「神観」は閻魔大王に象徴されるように思います。それを小さな時から刷り込まれてしまい、本当の神様の恵みを感じられなくなっているのではないでしょうか。キリスト教会でも教会が、組織が大きくなるとそんな「空気」が人から出るのではないでしょうか。「礼拝さぼると罰があたる」「献金しなけりゃ、アナニアのようになる」「奉仕をしなくては」「祈らなければ」などと刷り込まれることってなかったでしょうか。残念ながら私にはありました。勝手に思い込んでいるだけかもしれませんが、ありました。もちろん「しなけらばならない」という面もあるでしょう。しかし神様は聖書には「すすんで与える人を愛してくださる」とあるように、自発的に、神様に捧げていくことを一番喜んでくださり、罰をあたえようなんて思っておられないはずです。そのように感じるのは、自分が「恵みの的」から自分で外れていっているからだったな~って今振り返ると思います。

神様はわたしたち一人一人を祝福しようとしてくださっている、これが聖書が語る一番の原則ではないでしょうか。
神様は私たちを「緑の牧場に伏させ、憩いの水のほとりに伴う」と思ってくださり、そうさせてくださっているのです。ですから私たちが本当にすべきことは、「まずは、その恵みに浴する」ことではないでしょうか。そして「その恵みをよ~く味わう」ことではないでしょうか。その恵みに浴し、味わったた結果、感謝の祈りや賛美が生まれ、ささげ物が出来るのです。それが「礼拝」なんだと思います。そしてその「すごい恵み」を他の人に分かち合うのです。それが伝道でしょう。私はこの過程なく、ずっと教会生活を続けたり、伝道したりしていたなと、泉教会に導かれてから思うようになりました。

文字通り、聖書の言葉を受け取ってみたらすごいですよ。
「あなたは私の目には高価で尊い。私はあなたを愛している。」
え~、こんな世俗まみれのこの俺を!?あなたって、神様と私とあなたの関係で見てくださるの?ちょっと畏れ多すぎますよ~。
私の目にはってことは、人がどう思おうと、神様は俺のことを思ってくださるっていうこと?
高価で尊い?高価なんて、安っぽい考えしかできないこの俺を?
尊い?ぞんざいには扱われたくないけど、そんな尊ばれるようなことは何にもしてませんよ。世俗の匂いをぷんぷんさせているこの俺を尊いだなんて。。。嘘でしょう。神業的な嘘でしょう?
となります。そのほか枚挙にいとまがありませんが、聖書には「私はあなたを愛している。」「神は愛なり」「神の子どもとされる」(これってロイヤルファミリー的待遇、それ以上!?)嘘でしょう~?すごすぎますよ~
 
 そんな風に感じられるのも、毎週毎週の邦夫先生、晴美先生を通してこの教会に語られるメッセージからなのです。メッセージを通して神様という方がどんな方か分かれば聖書が分かるようになる。その恵みを感じることができるようになったのです。
それは自分で感じられたのではなく、8月4日のあかしあ台礼拝で語られたメッセージのように、ご聖霊のお力のおかげだ、と思います。毎週毎週礼拝堂にご臨在下さった聖霊様に触れ続けていただいて、恐らくこれらのことが見えるようになったのでしょう。

聖書の真理を知れば、「ねばならない」から解放され「自由」になれます。そして本当にその恵みに浴することができる。私はようやくその入り口に立てた、その入り口が見えたのかもしれません。その恵みをこの教会の礼拝を通してみなさんと分かち合っていきたいと思います。

人はパンだけで生きるものではない

2012-05-12 00:00:00 | 証し


S.Kさん(S教会員)

 私の育った時代は太平洋戦争まっただ中でした。次第に戦争が激しくなり、東京下町生まれの私は福島(今、原発事故で大変な所で、今から六十六年前のことです)に学童疎開をしました。その後、昭和二十年三月、東京大空襲によりわが家は焼失し、終戦となりました。小学校六年生でした。
 アメリカの進駐が始まり、教育制度も六三三制に変わりました。高校生となった私は戦前の軍国主義の教育から一変して民主主義教育を受けました。これからは女性も自立しなければならないと強く考えるようになりました。
 私が学校を卒業した頃は戦後の混乱期で労働運動が盛んな時代でした。私はある企業に就職し、組合運動に熱心になり、メーデーに参加したり、ピクニックに行ったりと若者のグループで、青臭い議論をしていました。とても充実した青春時代でした。しかし、米ソ冷戦の時代に入り、アメリカによるレッドパージ(組合運動弾圧)が始まりました。仲間たちはちりじりに地方へ転勤させられ、現実社会の厳しさにがく然とし、生きる気力さえ失ってしまいました。このさ中にグループのひとりの女性が自殺してしまいました。私は二重のショックで悶々(もんもん)としていると、職場の人(クリスチャンではないが)が「教会に行ってみたら」と勧めてくれました。神田の大きな教会(後に知ったのですが、富士見町教会で、牧師は島村亀鶴師)でした。メッセージは遠い昔の遠い国の話のようで、さっぱり解りませんでした。一ヶ月位で行かなくなってしまいました。しかし、この時からキリスト教というものに強く惹(ひ)かれ、神田の古本屋で佐古純一郎の「キリスト教問答」や内村鑑三、矢内原忠雄(もと東大総長)の著書などを読み、知識として理解していました。しかし、まだまだ信仰を持つには長い道のりがありました。
 若き日の挫折から、しっかりした生きる目標もなく、世間体を気にして見合い結婚をし、二人の子供も与えられました。夫は仕事上の付き合いと称してよくお酒を飲み、帰りはいつも深夜でした。まじめで堅い家庭に育った私はそんな夫に対して文句ばかり言っていました。夫の両親も「男の付き合い」だからとかばうので、余計腹を立てておりました。義父母は他の宗教に入っていました(私に勧めることはありませんでしたが)。そんな家庭に不満を抱えながらも子育てに追われていました。
 その頃、私の実家の弟が救われ、まもなく母も救われました。弟は毎月「きぼう」と手紙を送り続けてくれました。また、三浦綾子の著書を紹介され、小説、エッセイをよく読みました。特に戦争を体験され著者のエッセイは、私も同じ世代なのでとても共感しました。三浦作品を通してフラフラしていた私はしっかり生きる指針を得ました。いつか教会へ行こう、今は生活が大変だから、少し落ち着いたらなどと考えるようになりました。
 やがて、子供が小学校にあがったので、私は勤めはじめました。夫に対する不満から、まず経済的に自立してこの家を出ようと考えていました。その頃、実家の母が天に召されました。いつも私の悩みを聞いてくれ、味方になって支えてくれた母でした。「自分が変われば周囲の状況も変わってくるから」といつも祈ってくれました。心の中にポッカリ穴があいた様でしばらくぼんやりしていましたが、私は子供を育てなければとつっぱって働いていました。そして、心身共に疲れ切ってしまい、ただただ虚しくなり、眠れぬ夜が続きました。そんなある夜中に突然「神さま、助けて!」と泣き叫んでいる自分がおりました。今まであまり読まなかった聖書を開き、「人はパンだけで生きるものではない」のみことばが急に迫ってきました(マタイ4:4)。私は何とパンばかりを追いかけてきたのだろうかと、また「なぜ、兄弟の目にあるちりを見ながら、自分の目にある梁(はり)を認めないのか。…まず自分の目から梁(はり)を取りのけるがよい。」とのみことばが浮かび、自分勝手な己を反省し、夫や義父母ばかりを責めていたことに気付かされました(マタイ7:3-5)。もう迷わず、教会に行こうと決心しました。今まで漠然としていた聖書のことばが、海綿が水を吸うように心にしみてきて、イエスさまの十字架のあがないを信じ洗礼を受けました。
 二十代でイエスさまを求めながら、長い間、荒野(あらの)をさまよい、四十五歳でやっと平安が与えられました。この陰で母と弟の熱い祈りがあったことをつくづく感謝しております。私がイエスさまによって変えられたことにより、ギクシャクしていた家族関係も修復されました。それから数年後、義父が急逝し、また義母の病気中、私は過去のわだかまりを捨てて看護し、静かに見送ることが出来ました。その後、夫もガンの闘病中救われ、二十年前に天に召されました。また、五年前には息子夫婦も神さまの不思議な導きにより救われました。
 「主イエスを信じなさい。そうしたら、あなたもあなたの家族も救われます」(使徒16:31)。このみことばは真実です。

神ともにいまして

2011-07-03 08:04:08 | 証し
M・Kさん
 私が救われたのは昭和46年で19歳のとき、大学に入って間もない頃でした。学生運動が活発で、入学と同時に活動家が教室にやって来てアジ演説をぶって行きました。私の両親も息子が学生運動に巻き込まれないか、心配していたようです。
 そんな騒々しい学生生活の中である日のこと同じクラスの友人が一枚のビラをくれました。また革マル派か全共闘のビラだろうと思ってよく見ると、キリスト教の教会に来ませんか、というようなことが書いてありました。そしてビラを見たとき、なぜか行ってみようという気持ちになったのでした。
 ということで、今から40年くらい前のことなのでよく覚えていませんが、キリスト教の神の話も一度聞いてみたいと思ったのだと思います。ただ、初めてその友人と教会の礼拝に行った時は、賛美歌を歌うときは無視し、祈りのときも無視し、会堂のイスにすわったままで立ち上がらず、礼拝後牧師さんには私はこれを持っています、と言って神社の御守りを見せた記憶があります。それがなぜイエスキリストを救い主として受け入れることになったのか、それを今日はお話したいと思います。
 私が中学生の頃からいつも悩んでいたのは、人生の目的は何か、死んだらどうなるのか、人はどのように生きたらよいのか、ということでした。母方の叔父も、父方の叔父も、30代で若くして突然死しており、また小学生の頃の子ども会の夏のキャンプでは年下の子が川で溺れて亡くなっており、人の命についても考えることがよくありました。しかしこれらの悩みについての解答はなかなか見つかりませんでした。そして聖書に出会って初めて悩んでいたことへの答えが聖書の中にあることを知ったのでした。私の悩みへの答えは聖書の中では次のようになっています。
 ・人生の目的とは、
『また、キリストがすべての人のために死なれたのは、生きている人々が、もはや自分のためにではなく、自分のために死んでよみがえった方のために生きるためなのです。』Ⅱコリント5:15
『心を尽くし、思いを尽くし、知性を尽くし、力を尽くして、あなたの神である主を愛せよ。』マルコ12:30 です。
 ・死んだらどうなるのかは、
『神は、実に、その一人子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じるものが、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。』ヨハネ3:16 です。
 ・人はどのように生きたらよいのかは、
『あなたがたが互いに愛し合うこと、これが、わたしのあなたがたに与える戒めです。』ヨハネ15:17
『いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。すべての事について、感謝しなさい。』Ⅰテサロニケ5:16-18 と書かれています。
 ・そして、このような生き方ができるために神がクリスチャンに与えてくださった約束として、次のみ言葉がありました。
『あなたがたの思い煩いを、いっさい神にゆだねなさい。神があなたがたのことを心配してくださるからです。』Ⅰペテロ5:7 
 またイエス様が天へ昇られる前に弟子たちに言われた、
『わたしは、世の終わりまで、いつも、あなたがたとともにいます。』マタイ28:20 があります。
 私が信仰を持つ前にこれらの聖書のみ言葉をすべて知った上で、信仰を持ったわけではなく何年もかかってわかったこともあります。しかし、あらゆる人生の悩みや苦しみや疑問にこたえてくださるのはイエス・キリストであることは保証できます。
 そしてこの人生の悩みや苦しみの原因には、人間が生まれながらにして持っている罪というものがあることも知りました。家族や親戚、職場、友人との人間関係で我々は悩むことが多いですが、その原因には争い、ねたみ、憤り、党派心、そしり、陰口、高ぶり、騒動などがあるということです。これらの罪から救い出してくださるのもイエス・キリストであることがわかりました。悪いのは自分ではなく他の人だ、と思うことが多かった私ですが、自分の心の中をのぞいてみると傲慢、虚栄心、欺瞞、偽善、自己中心、ねたみ、などなどいろいろな問題を起こすような思いがあります。そしてこれらの思いは自分でコントロールできるようなものではなく、神にゆだねてきれいにしていただくしかないことがわかりました。
『私はキリストとともに十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。』ガラテヤ2:20
 私はクリスチャンになった今もときどき罪を犯してしまいます。もちろん法律に違反するような罪ではありませんが、聖書に書かれている心の中にある様々な不純な思いにとらわれてしまいます。でもそのつど神はそれを拭い去ってくださり新しい気持ちで一日を始めることができるのです。そして私が洗礼を受けたのは昭和47年の4月、信仰を持って1年くらいしてから、確かイースターの日だったように思います。それからクリスチャンとしての生活が始まったわけですが、話はこれでハッピーエンドにできないのです。
 クリスチャンになってからの私の最も大きな問題は、洗礼を受けて何年か経った後、教会に行かなくなってしまったことです。就職して母教会を離れたことや、仕事が忙しくなったことなども関係していると思いますが、20代の後半からほとんど教会に行かなくなってしまいました。イエス様を嫌いになったわけではありませんでしたが、教会というところが嫌いになったのです。教会に行かなくなった理由を説明するのは自分の不信仰を証明するようで非常につらくて、みなさんにどう説明したらよいかと悩みましたが、誤解を恐れずに私の情けない体験をひとつだけ書くことにします。
 私は会社に就職してから母教会からは遠い他府県に配属されたので、その近くの教会に行くことになりました。三田泉教会と同じで一般の家を会堂にした開拓教会でしたが、そこにHさんという信仰熱心な少し高齢のご婦人が来ていました。彼女の切実な願いは大事な息子が救われることでした。実は彼女の息子さんは暴力団の組長だったのです。その方は、息子がヤクザから足を洗ってまっとうな暮らしをするようにひたすら神に祈られていたわけですが、ある日のこと教会の牧師さんが私に言いました。Hさんの息子さんに会いに行きましょう。えっ、組事務所へ伝道に行くんですか?、と聞き返しますと、いやいやHさんの家に行くだけだし、息子さんはいわゆる侠(きよう)客(かく)を目指していて簡単に暴力を振るうような人じゃなくて、まじめな極道を目指しているから大丈夫だ、というのです。まじめな極道、という表現には引っかかりましたが、結局、牧師さんといっしょにHさんの家へ息子さんに会いに行くことになりました。残念ながら行ったときの会話の内容はよく覚えてなくて、また、その後息子さんは救われたのか、Hさん親子がどうなったかは聞いていませんが、ヤクザの親分への伝道には勇気が必要だと思いましたし、私のようなものではとても対応できないと思いました。
 以上のような経験をして神様のみわざを見せてもらい、普通だったらクリスチャンとしてさらに成長し信仰の高みに上って行くのでしょうけれど、私の場合は残念ながらそういう重荷を背負われた方とともに信仰生活を送ることがイヤになって結局教会から逃げ出してしまいました。教会には様々な人が来ます。そして人の力では解決できない大きな荷物を背負われた人もおられます。それらの方々と接するとき、自分の力で何とかできないかと思いながら接したらとても対応できるものではありません。結局、その頃の私にとっては教会が精神的に最も疲れる場所となってしまいました。使徒の働きに出てくるパウロや使徒たちのような殉教者的な信仰など持つことはできず、私としては会社で仕事をしている方がよほど気楽だったのです。日曜日は教会や伝道活動の疲れでぐったりする状態で、教会に行かないことが何と平安で静かな生活かと思ったものでした。
 ただ、教会に行かなくなったその後の30年間、ほんとうにいろいろなことがありました。長くなるのでそれらはまたの機会にお話したいと思いますが、神様は厳しい試練をいっぱい用意してくれていました。これでもかというくらい、いろいろな試練がやって来ました。仕事の上で左遷されるような挫折の試練や、家族や自分に与えられた病気や苦しみの試練、自分の財産や大事なものをあっという間に失う試練など、いっぱい経験させてもらいました。
 そして30年経ったある日のこと、ポストに1枚のビラが入っていました。三田泉教会と書いてありました。大学に入って間もない頃に見たのと同じで、なぜかしらないけど気になり電話してみました。昨年の11月頃のことですが、その後はもう一度礼拝に出席するようになり今日に到っています。
 そしてもうすぐ60歳になろうかという歳になってからようやく、若い頃に教会に行けなくなった原因と、そのときにどうすべきだったかがわかりました。
 聖書にはこう書いてありました。
『すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。』マタイ12:28
『あなたの重荷を主にゆだねよ。主は、あなたのことを心配してくださる。』詩篇55:22
『あなたの道を主にゆだねよ。主に信頼せよ。主が成し遂げてくださる。』詩篇37:5
 不思議なことに、30年前もこのみ言葉は読んだことがあり知っていたはずなのですが、心の中に染みとおっていなかったのです。そして私は教会には熱心に行っていましたが、実はイエス様のところに行っていなかったのです。イエス様は教会に行きなさい、と言われているのではなく、わたしのところに来なさい、と言われていることを結局30年かかってようやく理解できた、とも言えます。重荷を背負われている方々と接するときも神を信じ聖霊にお任せして接すればよいのですが、上記のみ言葉とは反対で主にゆだねていませんでした。ある意味で、成長の遅い、信仰がなかなか深くならないクリスチャンなのです。とは言え、そのような者も神は愛してくださり、30年の間あきらめずに様々な試練を用意して根気強く私にこれらのことを教えてくださったと思います。このことがわかったとき、私の目からは涙があふれて止まりませんでした。
 最後に次のみ言葉を深く心の目で読みつつ、これから天に召されるまでの人生を歩みたいと考えていることをお知らせして終わりにします。
『神を愛する人々、すなわち、神のご計画に従って召された人々のためには、神がすべてのことを働かせて益としてくださることを、私たちは知っています。』ローマ8:28
 すべてのことを主に感謝します!


救いの証詞(11月17日)

2010-10-17 00:00:00 | 証し
          Y・Sさん

 私は1989年に受洗しました。受洗の際に与えられた聖書のみ言葉は、「主によって語られたことは必ず実現すると信じきった人は、何と幸いなことでしょう。」(ルカ1:45)です。初めての主との出会いです。「初めに、ことばがあった。ことばは神とともにあった。ことばは神であった」(ヨハネ1:1)。私の聖書を心のよりどころとする信仰生活がスタートしました。
 聖書を学んでいくうちに、重大なみ言葉に出会いました。それは、イエス様の「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。」のみ言葉です(ヨハネ14:6)。この三つの言葉は、10代の頃からの人生を左右する重要な目標であることはわかっていましたが、理解できないまま、年を重ねてしまいました。神の子として、この地上に遣わせられた人のみ言葉です。イエス様のみ言葉を信じきって従っていくことで、この三つのみ言葉の答えが与えられると確信しました。
 つぎに、「患難が忍耐を生み出し、忍耐が練られた品性を生み出し、練られた品性が希望を生み出すと知っているからです。この希望は失望に終わることがありません」(ローマ5:3-5)。このみ言葉に元気をもらいました。希望は夢を育てます。主とともに歩んでいく幸せは、永遠です。私は主を信じきっていく生活の中で、受洗してよかったと、心に平安を与えられました。
 そして、つぎのみ言葉に驚かされました。「あなたがたのからだは、あなたがたのうちに住まれる、神から受けた聖霊の宮であり、あなたがたは、もはや自分自身のものではないことを、知らないのですか」(1コリント6:19)。「あなたがたは、代価を払って買い取られたのです。ですから自分のからだをもって、神の栄光を現わしなさい」(1コリント6:20)。
 そして、イエス様の十字架の贖いです。神の子として私達の罪をすべて背負われて、十字架につかれたイエス様のいのちによる大きな愛です。「私たち生きている者は、イエスのために絶えず死に渡されていますが、それは、イエスのいのちが私たちの死ぬべき肉体において明らかに示されるためなのです」(2コリント4:11)。「こうして、死は私たちのうちに働き、いのちはあなたがたのうちに働くのです」(2コリント4:12)。「心を尽くし、思いを尽くし、力を尽くし、知性を尽くして、あなたの神である主を愛せよ。』また『あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ」(ルカ10:27)。10代の頃から人生の目標である三つの言葉の答がわかりました。それはイエス魂です。私は戦前の神である天皇に支配された軍国主義を経て、敗戦後に文明の利器という物に支配された民主主義の時代を経験しました。長年の生活に自我を重ね合わせて、生きていた自分を後悔しました。心の中の核心である魂はどこにもありませんでした。
 その頃です。教会の生活から神の支配する自然の中での田舎生活が、どこかにあると思いはじめました。「自分のいのちのことで、何を食べようか、何を飲もうかと心配したり、また、からだのことで、何を着ようかと心配したりしてはいけません」(マタイ6:25)。しばらくして、もう自立した娘二人から、松本に行かないか、と誘われました。勿論、喜んで参加しました。というのも、私達の若い頃、この娘達が子供の頃につれていった才能教育の夏期学校です。この夏期学校の最終日、知人の家で野外コンサートを催し、一泊する計画でした。行って見て感動しました。その知人の家は松本市内から東へ車で30分のところにある、小さな集落の中にありました。美ヶ原高原の麓(ふもと)(標高1600m)の広大な庭で大きく焚(た)き火を燃やし、180度の山々を借景にした素晴らしい光景でした。一瞬、神の国を垣間見たように思いました。
 「深みに漕ぎ出して、網をおろして魚をとりなさい」(ルカ5:4)。私は宝塚での生活を主にあけわたす決心をし、娘の知人に空き屋さがしを依頼、2001年の移住から、あしかけ10年目を迎えました。冬の寒さは、マイナス15度~20度と厳しい環境ですが、イエス魂をもって、主の望まれる栄光を祈って生活しています。
 「栄華を窮めたソロモンでさえ、このような花の一つほどにも着飾ってはいませんでした」(マタイ6:29)。今、小さな板を削り、花の浮き彫りに熱中し、“おだまき”“鬼百合”“りんどう”“おやまぼくち”など、出来上がれば欲しい人に差し上げています。5月連休前、私達がいつも祈っている娘さんに差し上げたいと思い、御両親にお頼みしましたところ、永年自宅で療養されていたのが、初めて信州大学病院に入院することを決断され、新薬も効いたとか、6月には退院され、快方に向かっているという話に驚かされ、入院中、私の板を病室に飾ってくださったと二度の驚きでした。主によって語られたみ言葉によって、喜びが与えられました。つぎは、大きな板に“神の国”を浮き彫りすることが、私の現在の夢です。
 話が長くなりました。つぎのみ言葉をもって、私の証詞を終りたいと思います。「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。すべての事について、感謝しなさい」(1テサロニケ5:16ー18)。「神の国は、あなたがたのただ中にあるのです」(ルカ17:21)。

救いの証詞(7月25日)

2010-07-25 00:00:00 | 証し
             T・Nさん  

 僕は高知県の田舎で生まれて、小さい頃から母の導きでずっと教会に通っていました。父は今は教会から離れていますが、僕はクリスチャン・ホームで育ちました。小さい頃から、神様のことを聞かされて何となく分かってはいましたが、実際のところ何も知らないに等しいくらいでした。学校の友達が日曜日に遊んでいるのを聞くと、なぜ、僕だけ教会に通って…といつも不満に思うようになっていました。そして、親にも反抗することがたまにありました。小学生の頃はあまり神様のことを理解していなかったのだと思います。
 中学生になって部活というものがありました。ここでも日曜日は教会に行くために、野球部では都合が悪いので、母が学校に乗り込んで、僕は園芸部に入ることになりました。あの時は嫌だなと思ったし、周りの友達からも避けられるのではないかと心配なことが多かったです。しかし、今は教会で神様を礼拝するという習慣が身に付いたことで、非常に感謝しています。あの時、野球部に入っていたら、今の僕は無かったかも知れません。
 そんな中学生の時、僕は洗礼を受ける機会を得ました。あるミッションに参加した時、僕は自分の罪のために命を捨てて、身代わりになってくれたイエス様のことを知る心の目が開かれ、自分が小さい時に教会について思ったことを悔い改めるきっかけになったのです。そのミッションで流れた歌がまた、僕の心に響いてきました。たしか、「主の愛が、今」という曲だったと思います。いつも僕と共にいてくれて裏切らない神様の愛があることを知りました。そこで洗礼を受ける決心をしたのです。洗礼は中学2年の冬、12月5日、ちょうど、クリスマスに地元の教会の近くにある川で行いました。僕も寒かったけれど、洗礼を授けてくれた牧師先生も寒かったと思います。非常に寒かったので、今でもその時のことは忘れられません。感謝しています。
 洗礼を受けて、何かが変わったかというと、いたって普通であまり変わりがないように思いましたが、この時から、僕と神様の関係は深くなるのだという実感はありました。それと同時に毎日が悪魔との戦いの日々になったと思います。幾度となく、神様への熱い心はさめていくことがありました。でも、神様は僕のたった一人の理解者であって、どんなに孤独であっても、僕の味方であることは、いつも感じていました。
 故郷を離れて10年、様々な所を通りました。最初は自衛隊で働き、本当に人生の荒波を経験しているような気がしました。そんな中で僕は神様に信頼を置いて歩んできました。時には苦しみの中で神様を忘れて取り乱してしまったり、忙しさの中で聖書を読む習慣が崩れてしまい、祈ることをしない日々も続きました。神様を忘れて罪を繰り返す、そんな歩みを思い返すと、本当に僕は洗礼を受けたクリスチャンなのであろうかと疑問を抱くこともあります。しかし、僕が困って途方に暮れた時も、なんらかの道が備えられています。それが実感できることで、神様を信頼することができます。また、転勤を繰り返す日々でありましたが、その地域ごとで良い教会に導かれ、毎週恵みを受けることができたことを感謝しています。
 教会で御言葉を開くと「賜物」という言葉を良く耳にします。僕は長い間、自分に与えられた賜物を見つけることができませんでした。自分は本当に小さな存在で能力もなく、神様の前に何も役に立たないことで劣等感を抱いていました。しかし、多くの教会を訪れるたびに、多くの賛美に触れ、いつの間にか神様を賛美で褒め称えることがとても心地よいということに、気付きはじめ、ああ、僕の賜物は賛美することなのかなと思っています。これからのクリスチャン生活の中で、更に多くの苦難と迫害が待ち受けているかもしれません。それを考える時、すくみ上がる思いがします。でも、人間にはできないようなことでも、神様が共にいて支えてくれることを確信し、ゆだねて生きるように心掛けています。言うことは簡単で、実行するとなるとできないことが多い、弱い人間であることを自覚して、歩んでいきたいと思います。
 クリスチャン・ホームで育ったからといって、必然的に神様の思いにかなうような人にはなれません。どれだけ、神様との関係を守って、御言葉に従って生きるかによるのだと、今でも母に諭されます。日常生活で、物が溢れているこの世界で、神様により頼んで生きることがどれだけ難しいことか。そんな中で生きている間は、楽な方に流れず、狭き門から逃げないで、神様に向かって歩んでいきたいと思っています。