グレイスインサンダ

~信徒さんとキリスト教との出会い~

救いの証詞(5月23日)

2010-05-23 00:00:00 | 証し
                  S・Mさん




 私がキリスト教を身近に知ったのは、今から5年程前だったと思います。私の無関心からか、家族のことで、そんなに妻が苦しんでいるとは思ってもいなかったのですが、お向かいのTさんの自宅で家庭集会があり、それに伺っていることを妻から聞いた時でした。その時は家庭集会が何なのかも分からず、近所付き合い的な感じだと思っていました。それから、しばらくして、教会でのパン教室に通っていることを聞いた時も、ただ、パン作りを習っているという感覚だったと思います。それから、日曜日になると妻が教会に通うようになり、私が送り迎えをしていました。
 私の実家は浄土真宗なのですが、私が中学生のときから、母が新興宗教に入信し、家族もそのお寺に行くようになりました。母の熱心さのためか、今では親族の多くがお寺を信じているかも知れません。当然、私もその宗教のお経が染み付いていますが、私のいい加減さからか、不信心さからか、キリスト教に対して、別になんの抵抗もなく受け入れていったと思います。そのうち、送り迎えするのであれば、時間もガソリン代ももったいないと思って、妻と一緒に教会の門をくぐりました。これが初めて教会に足を踏みいれたときで、見た目には想像とはまったく違うので、非常に大きな驚きでした。ここが教会?ふつうの農家じゃないの?よく見る机と椅子は?ステンドグラスは?そんなことを思いました。
 でも、牧師の説教は暖かくて心地よく、いままでの新興宗教のただ賽銭を入れ、何体もの仏像に手を合わせ、また、お金を出して、祈願するだけのお寺通いとはまったく違っていたので、とても新鮮で説教を聞いてよかったと感じました。その後も、毎週、日曜日には教会に通う日が続き、そのうち、礼拝前にはキリスト教入門的な時間を与えてくださり、いろいろ質問したこともありました。
 今でも忘れないのは、息子の高校受験で悩み、不安であった時のクリスマスの祝会で、神さまから頂いたメッセージ・カードです。「あなたは、わたしの愛する子。わたしは、あなたを喜ぶ」(ルカ福音書11:10)。その時の気持ち、神様は私のことを覚えていてくださる、心配することはない、ただ、神様を信じ、祈ればいいと思い、心が落ち着き、安心したことを今でも忘れることはありません。私たちの祈りや皆様の祈りにより、神様が息子にとって最良の道に進ませてもらうことができ、感謝です。
 今でもそうですが、キリスト教について、十分な理解ができていなかったと思いますが、ある時、牧師から洗礼を受けないかと聞かれました。一度は言葉を濁し、その場はそのまま終わりました。こんないい加減な者が洗礼を受けてもいいのか、それこそ罪に罪を犯していくことにならないか。また、新興宗教のように動員などがあったら、そのことに気疲れしてしまわないか、そう考えると心配でためらっていました。このままでいいように思っていた時、牧師にまた、受洗を勧められました。この一言で決心し、こんな私でも神様は迎えてくれるなら、神様を信じようと決心がつきました。まだまだ、信仰が弱く、あの時の気持ちを忘れ、罪を繰り返し犯し、悔い改めをくり返している毎日です。私の不甲斐なさで、家族に心労ばかりかけ続け、辛い思いをさせています。でも、神様を信じた時に、私の罪は赦され、救われたことを感謝し、神様に向かい、祈り続ければ、きっと神様が用意してくださる道があることを信じています。この時を持たせていただいて、改めて気付かせてもらいました。感謝します。

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