グレイスインサンダ

~信徒さんとキリスト教との出会い~

「などて揺らぐことやある」

2009-11-29 00:00:00 | 証し
証詞と説教(ルカ福音書6:46~49)岡田邦夫

     

戦火をくぐり抜けて…
 私は終戦の2年前に、東京は日暮里(につぽり)という所で生まれた。アメリカからB29が頻繁に来るようになってきて、焼夷弾(しよういだん)を雨のように落とす。爆発はしないが、日本の木造家屋の密集地を大火災にしてしまう、アメリカ軍が考えだした、省エネ弾。アニメ映画「火垂るの墓」には実にリアルに描写されているとのことである。落下の時の「ヒュー」という音は戦火のもとにある人たちにとって、どれほど恐怖だったことか。けたたましいサイレンが鳴る。「警戒警報発令!」の声に慌てて、防空壕に逃げ込むのだが、幼い私にはまだわけがわからない。防空ずきんをかぶせられれば、「けいかいけ、けいかいけ」と回らぬ舌で言っては、部屋の中を喜んで走り回る。無理矢理、母の背に縛られ、防空壕に走っていく。難を逃れたものの、東京にいては命が危ないと判断。家族は群馬県郡山の農家に疎開。しかし、兄は特攻隊に志願し訓練は受けたが、ゼロ戦がなくなっていた。終戦を迎え、兄も家族も全員助かった。といっても、疎開から帰れば東京は焦土と化していた。我が家は消失、他人がバラックを建て住んでいて、住む場所がない。そういう中から、多くの日本人がそうであったように、私たちも何とか生き延びていった。
 この話は母から聞かされた話で、私自身、何一つ覚えてはいない。しかし、60年以上たっても、これだけ言えるのは、脳が幼い頃の情報を消去したものの、潜在意識という所に、戦時下の緊迫した空気や、言いしれぬ恐怖というものが残存しているからではないかと、私は思う。

ガードをくぐり抜けるとそこは…
 日暮里に帰ったものの、生きていければそれでいい。日の入ってこない薄暗い長屋に一家は住んだ。下町である。私は小学生になり、山の手にある第一日暮里小学校に、六年間かよった。山手線、東北線、常磐線などのいくつもの線路の下の長いガードをくぐりぬけ、長い階段を上って高台にある学校に行くわけである。逆に帰りは、長い階段を走って降りると、勢いついて、薄気味悪いガード下を一気に抜けられるというもの。ところが、ガード下を出てすぐ、踏切があり、線路が一本通っている。それも遮断機も何もないので、危険きわまりない。たまに貨物列車が通るとはいえ、私たちは注意して渡っていた。
 ところが、ある日、友だちといつものように、ガード下を走っていたら、捨て犬がいた。その小犬があまりにも可愛いので、連れ帰りたくなったが、皆、家では飼えない。助けを求め、クンクンついてくる。無情だが、振り切って走った。列車の音が聞こえたが、踏切を渡った。蒸気機関車が大きな音を立てて、踏切を過ぎていく。私たちは振り返った。何と、列車というものを知らない小犬が、走る車輪と車輪の間をくぐろうとしている。私たちは叫んだ。「来るな!」「シッシッ!」。その声も車輪の音に消される。小犬は私たちの所に来たい一心。私たちの目の前で、大きな車輪に命は砕かれてしまい、列車は何食わぬ顔で行ってしまった。私たちは呆然と立ち尽くした。何も言わず別れそれぞれ家に帰った。衝撃が大きく、私はどうしてもこのことを話せなかった。無言のまま、その夜を過ごした。
 しかし、その後、上級生の女の子が本を読みながら、そのガード下を抜けようとした。本に夢中で、列車に気付かず、はねられ死んだと朝礼で知らされた。知らない子だったが、小犬のこととダブって、子供ながらに死は残酷にやってくるものだと感じた。その頃、親戚が若くして結核で亡くなり、初めて葬式に行った。黒幕がはられ、異質な感じの祭壇があった。死に顔も見せてくれた。子供には何か表現出来ない、死の状況というものが不気味に思え、恐ろしかった。

最後の時をくぐれるのか…
 しかし、なぜかわからないが、身近な死にまつわる一連のことは心の深くにしまった。義務教育を終え、家の事情で早く就職する必要があったので、都立化学工業高校に入学した。時は高度成長期、高卒でも、引っ張りだこだった。3年の夏休みには、信越化学中央研究所に内定していた。そこで、卒業までの空白期間が生じたので、私は人生を深く考えるようになった。そんな矢先、都電に乗ろうとした時に、キリスト教の音楽と講演のブルーのチラシを受け取った。どんなものだろうと、友人の渡辺君と二人で共立講堂に行ってみた。その後、教会を紹介されたので、とにかく行ったのだが、私には一から十まで判らなかった。残念ながら行くのをやめた。
 しかし、判らないはずなのに、「最後の審判の時、自分は神の前に立てるのだろうか」という不安が生じていた。勤め始めた職場も楽しかった。希望もあった。研究所の山岳クラブに入り、山登りは楽しかった。ベンハーなどの映画に感動した。人を好きになっても片思い、語学や絵画やスポーツに挑戦しても長続きはしない。それなりの青春をしていた。しかし、楽しければ楽しいほど、その後が虚しくなり、「最後の審判の時、自分は神の前に立てるのだろうか」という不安がよぎる。うまくいかない時は、なおそうだ。それは無意識の中にある幼児の時の空襲経験が底にあるからなのか。それとも、しまってあった子供の頃の死の恐れの経験が顔を出してきたのだろうか。それとも、小学校の授業で、上野の美術館や博物館によく、歩いて見学に行ったが、子供には気味の悪い谷中の墓地を通って行ったということや、国立西洋美術館にあるロダン作の巨大な「地獄の門」が心に焼き付いていたせいだろうか。
 一緒に共立講堂に行った友人はすでに洗礼を受けていたし、はからずも、同じ社に入社していた。2年が過ぎた頃、社内電話で特別伝道集会に誘われた。その日に柴又キリスト教会に行った。平松実馬という型破りな伝道者が説教され、私は不思議と心を開いていた。その場で信じる決心をして、祈り、新生した。何か、重荷が軽くなり、神の子にされたという喜びがあり、言いしれぬ平安が訪れた。しかし、その後、気分はエレベーターのようであった。ハレルヤ、主よ、感謝しますと昇ったかと思うと、どうして私をお見捨てになったのかと降ってしまう。そのような時に、牧師に紹介された内村鑑三の「ロマ書の研究」を読んだ。文語調で読めない漢字も多い。しかし、熱情、パトスが伝わってきて、わくわくしてしまう。いよいよ、8章まできた。1節「この故に今やキリスト・イエスに在る者は罪に定められることなし」。解説というより、内村先生の説教が聞こえてくるようだ。このみ言葉が私の魂にいっぱいになって、「最後の審判の時に立てるだろうか」という不安を押し出してしまった。この時、「こういうわけで、今やキリスト・イエスにある者は罪に定められることがない。」のみ言葉は、私にとって天国へのパスポートとなった。魂は安定した。

ルカ福音書6章46~49節をお読みします。
 わたしを主よ、主よ、と呼びながら、なぜわたしの言うことを行わないのか。
 わたしのもとにきて、わたしの言葉を聞いて行う者が、何に似ているか、
 あなたがたに教えよう。
 それは、地を深く掘り、岩の上に土台をすえて家を建てる人に似ている。
 洪水が出て激流がその家に押し寄せてきても、それを揺り動かすことはできない。
 よく建ててあるからである。
 しかし聞いても行わない人は、土台なしで、土の上に家を建てた人に似ている。
 激流がその家に押し寄せてきたら、たちまち倒れてしまい、
 その被害は大きいのである。
 この洪水は最後の日に起こることのたとえ。東京大空襲の火の雨や、蒸気機関車の小犬を踏みつける大車輪のイメージと私は重ねて想像する。罪人には、最後の決着のつく、審判の日がどれほど恐ろしいものなのか。もし、それをとことん考え出したら、精神は破壊してしまうだろう。しかし、ここに大いなる救いがある。岩の上に土台をすえて家を建てておけば、洪水がきても、流されず、びくともしないように、主のみもとで、み言葉を聞いて行う者であれば、最後の審判が来ても、キリストのゆえに、聖霊により、威風堂々と立っていられるのである。

陸橋の下をくぐると…
 この救いの確証をいただいた経験で、私の人生は終わってもいいようなものだった。しかし、そうではない。これからが始まりだった。本郷善治郎牧師の説教を通して養われ、牧師夫人・春子師を通して信仰の訓練を受け、柴又教会の信者との交わりの中で、成長させていただいた。教会生活は充実していた。しかし、ある日、会社の帰り、大森駅で乗った京浜東北線が田町駅にさしかかった時に、ブレーキの大きな音とググーッと車体の鈍い音が重なって、電車はつんのめるように止まった。体が倒れないように必死にこらえた。摩擦が起こした油の焦げ臭いにおいがしてきた。どうしのたかと窓を開けると、車掌さんが車両の下をのぞきながら、こちらに向かって来る。「ここだ、ここだ」と叫んで、私たちの座っていた真下から、真っ赤なものを取り出した。車内の人たちの話では、陸橋から労務者風の男が飛び降りたらしいとのこと。むしろを掛けられた。電車は田町駅で、車両交換され、それに乗って、家路についた。帰っても、食事は喉を通らない。「くんちゃん、どうしたの」と案じられても、言葉が出てこない。一晩、泣いた。「誰かが、福音を伝えていたら、あの人は死ななくてすんだろうに」。悲しさと悔しさが混じって破裂しそうだった。自分のような者でも牧師、伝道者にならなければならないのだと、強く迫るのを感じた。中学の担任の先生に岡田君はおっとりしてるから、もっと苦労した方がいいと、三者懇談で言われたことがあった。そんな頼りない人間に何が出来るというのか。しかし、出来るか出来ないかが問題ではない。しなければならないことなのだと思った。
 信越化学の小坂徳三郎社長は子会社を作り、この老朽化した研究所をその場所に移転するという方針を打ち出し、社員の配属も大きく変わろうとしていた。私はこれを機に辞職した。東京聖書学院に入ろうと思って、牧師に伝えると、「召命」はあるかという。私は祈り求めた。マタイ福音書4章19節の「わたしについてきなさい。あなたがたを、人間をとる漁師にしてあげよう。」との召命のみ言葉をいただいた。祈って、一週間目であった。牧師に報告すると喜んではくれたが、受洗して、2年以上たたないと学院には入れないという。それで、1年アルバイトをして、学院に入れてもらい、何とか卒業し、日本ホーリネス教団の牧師になった。ところが、牧師になってから、自分が乗っていた電車に人が飛び込んで亡くなったという経験が2度もあって、たまに思い出して、身が引き締まる。

教会の門をくぐると…
 私は思うのです。私はクリスチャンになって、天国に行けるから大丈夫。それだけでいいのか。大丈夫じゃない人たちがいるのだ。私は信仰の確信をいただいて、すぐ、無神論者だと言っている母親に話した。「お母さん、イエス様を信じて、天国に行けるようにしようよ」。しかし、「神はいると思えばいる、いないと思えばいない。天国もあると思えばあるがないと思えばない。」と返ってきて、勝ち目はない。とにかく教会に行こうよと誘った。こんなに強く親に願い事をしたのは初めてだった。母は、息子が牧師にお世話になっているのだから、挨拶に行くと自分で理屈をつけて、教会に一緒に行ってくれた。教会の人たちの清らかさに感心して、教会が気に入り、しばらくして、特別伝道会で決心して、救われ、受洗した。65才だった。
 後で聞けば、最初の子、長男のたかちゃんが4才の時に、伝染病で突然亡くなり、涙、涙の一年を過ごしたと言う。学歴はないが活字を読むのが好きで、この時、お経の本を読み、新約聖書を3回も読んだのだと。そうしているうち、何となく落ち着いてきて、次の子たちが順々に生まれ、たかちゃんのことは封印して、時は過ぎた。無神論でいけば、息子の死も、神よ、なぜなのかと問う必要がないので、そうしてきたのではないかと私は思う。しかし、それで、人の死の問題を解決できるわけではない。受洗してから、その封印を解いて、神よなぜなのかと問い求めた時、イエス・キリストによる答、光が与えられた。失われた時間を取り戻そうと、旧新約聖書を赤鉛筆片手に、一生懸命読み続け、10年後、平安のうちに天に召されていった。母の生きた証しで、娘と孫娘、私にとっては姉と姪が受洗した。自宅で行われた葬儀で私は証しのため、讃美歌285番を歌った。4節はこうである。
   この世を主に 献げまつり 神の国と なすためには
   責めも恥も 死も滅びも 何かはあらん 主に任せて
 私は思うのです。悔い改めて、イエス・キリストを信じたら、いつでも天国に行けるのかも知れない。しかし、それだけで良いのだが、また、良いわけではないのである。誰かのために、福音のために、神の栄光のために生きる使命があるのである。この聖書によれば、みもとにいき、み言葉を聞き、行うことだ。そういう人は「地を深く掘り、岩の上に土台をすえて家を建てる人に似ている。洪水が出て激流がその家に押し寄せてきても、それを揺り動かすことはできない。よく建ててあるからである」。

死の門をくぐろうとしたが…
 このようにたとえで話された主は、私たちの生涯で生きたたとえを見せてくれる時がある。豊中泉教会で牧会していた時のこと、緊急の電話があった。1991年8月のことだった。Tという兄弟が朝、職場に着いたら、突然、胸が苦しくなって、それが尋常ではない。同僚が即座に病院にタクシーで連れて行った。そして、心臓では専門の渡辺病院に搬送され、入院したという。奥さんからだった。家内と二人で、かけつけたら、本人がベッドの上でにこやかに迎えてくれた。「先生、すみません。でも大丈夫です。万が一のことがあっても、天(うえ)がありますから」と落ち着いて話す。これなら、大丈夫と思ってひとまず帰る。心筋梗塞だというのに、その怖さを私たちは実感してはいなかったのだ。再び電話、主人の意識がなくなったとのこと。再び、病院に着いた時には手術中だった。心臓のまわりにたまった水を抜くという危険なもの。薄暗い廊下のベンチで三人で祈った。奥さんがみ言葉がきたと背筋を伸ばして言った。無事、手術は終わった。一時、ほっとした。
 事の重大さを知らされた。心臓の筋肉の40パーセントが壊死(えし)し、そのため、肺機能の低下、腎臓が停止、肝臓も停止、意識はない。最悪の事態とのことだ。阪大病院救急病棟へ搬送された。重篤の病人がずらりと並ぶ病棟。彼も呼吸器、透析機など、様々な医療機器が取り巻き、体はむくんでパンパン、荒い息だけが生きている証しのような状態である。家族や教会のことを思うと、私の胸に突き上げるものがあった。「この人を死なせてなるものか!」。一週間、断食祈祷せよと、御霊が私に示した。集中祈祷会をしようと家内が呼びかけ、教会に集まって祈った。よく祈る人たちである。彼の母親は荒砥教会、今の白鷹教会の亡くなられた梅津うめ先生じこみの祈りの人である。しかし、一日15分の面会に行っても、何の変化もなく、毎日が過ぎていく。断食中の私にみ声がしきりに響く。「もとのようにする」、「もとのようにする」。聖書を開くとエレミヤ書33章6~7節にあった。「見よ、わたしは健康と、いやしとを、ここにもたらして人々をいやし、豊かな繁栄と安全とを彼らに示す。わたしはユダとイスラエルを再び栄えさせ、彼らを建てて、もとのようにする」。T兄は健康といやしとをもたらされ、もとのようになると確信した。聖霊の確信である。教会員に伝え、信じて祈った。ちょうど、断食の最終日、一週間目、家族と家内が病棟に行ったら、T兄は意識を回復したのである。家族は大喜び。奇跡である。それは祈った人たちに伝えられて、共に喜んだ。
 一般病棟のナースステーションの隣りの特別治療室に移された。ゆっくりではあるが、機器が一つずつなくっていき、病室が徐々に広くなっていった。院内感染などいくつかの危機はあったが、翌年の五月の連休の時に退院した。家族にとってまさにゴールデンウィークだった。リハビリ後、職場に復帰した。そこは大きくはない商社、バングラディッシュの会社とも取引をしていた。バングラの社長は丸紅など大手の商社が交渉してきたが、T兄以外とは取引しないと断っているという。よほど彼は信頼されていたのであろう。再び倒れたら、今度こそ助からない。しかし、医師の許可を得て、バングラに飛び立った。商談は成立し、喜んで、元気に帰ってきた。まさに「もとのようになった」のである。
 一年後の検診に行って本人が驚いた。担当した主治医が告げた。実はTさん、最初、阪大の医師団は脳死と判定していたのだと言う。私が「一週間待ってください」と頼んで、病院に泊まり込んだのだと言う。そこで意識を回復したのは医師としても奇跡だと思う。「それを含め、Tさん、あなたは5度死んでいたんですよ」と言うから、ショックである。あれだけ弱っている所に肺炎、助かる率はわずか。そのあと抗生物質の効かない院内感染、これもそうである。それに伴い喉に穴を開けて呼吸器をつけたが、こういう場合、ほとんどの人は精神的にまいって亡くなる。それらを越えてきたのだから、たいしたものだと。そして、T兄が入院中、主治医はずっと、病院に寝泊まりしていた。ある日、用もないのにふらっとナースステーションに寄った。T兄の心電図が止まった瞬間が目に入った。慌てて、病室に行き、電気ショックを与えて、回復したのだと言う。心電図を見逃していたら、あなたはここにはいない。5度も死んでいたかも知れないのに、今元気なのは神の奇跡としか言いようがないと告げられた。彼を知るノンクリスチャンの人が、神は信じられないが、Tさんの神は信じられるというほどだ。自分の知らない所で、こんなことが起きていたのかと思うと、彼は計り知れない神の愛と恵みに心底感謝したのである。

試練をくぐり抜けて…
 「水を汲みし僕どもは知れり」なのだ。祈った者は知っている。牧師、教会に与えられたみ言葉、「もとのようにする」がその通りになったのだということを。「わたしのもとにきて、わたしの言葉を聞いて行う」というのは、倫理的なことだけでなく、神のみ言葉がみ業になって現れることに、参与することではないだろうか。T兄に襲った試練という洪水にも、彼を揺り動かすことはできなかった。これはやがての日にもたらされる洪水にも、みもとにゆき、み言葉を聞いて行う者は、少しも揺り動かされることはないという証しなのである。新聖歌247番の2節を歌いたいものだ。
  来なば来たれ試みよ 襲いかかれ悪しき者
  主に隠れし魂の などて揺らぐことやある
  主の手にある魂を 揺り動かすものあらじ

くぐり抜けることの出来る「人」は…
 たとえに建物が出てきたが、以前、近畿教区でキャンプ場を建設したことを思い起こす。滋賀県西浅井町の琵琶湖畔に1000坪の土地を買って、廃校となった木造の中学校舎を解体を条件に無料で譲り受けた。それを運んで、半分の長さに立て直すという一大プロジェクトを計画した。MFM(メンフォーミッション)のボランティアが諸外国から、たくさん来られ、日本側もたくさんの牧師・信徒が参加、共同で奉仕し、出来上がったのだ。建設を仕切っていたのが、ニュージーランドから来たOMSIの大工宣教師ホーリヤさんだった。牧師が奉仕に行っても建築は素人だから、うまくできない。しかし、ホーリヤさんはいつも「だいじょうぶ」と言ってくれた。今も、耳に残っている。
 主のみ言葉を聞いて行えと言っても、主はパリサイ人ではないのだから、私たちの行いを、試験のように点をつけるようなことをなさらないだろう。ここの聖書をよく見ていただきたい。
 「わたしのもとにきて、わたしの言葉を聞いて行う者が、…地を深く掘り、岩の上に土台をすえて家を建てる人に似ている」。
 聞いて行う者、土台をすえて家を建てる人とある。「者」「人」を問題にし、重要視しているのだ。人は皆違うものだから、比較して、数字化など出来ないのだ。たとえ、生きることに不器用でも、主に出来る限りのことをしようとしている「人」なら、大丈夫なのだ。あれもこれも欠けているという欠けだらけの器でも、主の手にある「人」なら大丈夫なのである。うわべではない。見えないところで手を抜いてはならないのだ。主がお嫌いなのは「偽善者」だ。ありのままでいい。ごまかさないことだ。み前に真実であることだ。見えないところで土台に杭がうってあれば、大丈夫なのだ。そうであれば、だめ出しされていた取税人でも、罪人と呼ばれ過小評価されていた人でも、ぜんぜん大丈夫なのだ。

痛みつつ、くぐりつつの途上…
 良いサマリヤ人のたとえがあるが、私は拡大解釈してこう読みたいのである。サマリヤ人というのはユダヤ人からは極端に軽蔑されていて、傷ついている人たちだと思う。強盗に襲われ傷ついた旅人を助けたのは、ユダヤ人祭司、レビ人でなく、傷ついたサマリヤ人。傷ついた人の隣人になったのは傷ついたサマリヤ人だったと私は解釈をしてみるのである。H.J.M.ヌーウェンの本に「傷ついた癒し人」というのがある。自分が痛んでみると、人の痛みがわかる。そこから、癒しが始まる。主イエスが十字架で徹底的に傷つかれたからこそ、傷ついた私たちを理解し、ほんとうに癒してくれるのである。
 三田泉教会は開拓教会である。牧師を含め、教会員の中には傷ついた人、病んでいる人がいる。それで、元気にバリバリ伝道するのは少し難しい。しかし、それで大丈夫なのだと思う。教会の方針は「傷ついた癒し人」の伝道、牧会である。傷ついたから、傷ついた人に関われるところがある。そこから福音を語れるのである。私たちの間には復活のキリストが手と脇腹の「み傷」を示して、立っておられるのである。「エマオの途上」の話は絵になる。レンブラントの絵は有名だ。シャレだが、私たちは「笑顔の途上」にいるのである。痛みを抱えた者同士の旅であり、復活のキリストがみ傷を示して同伴してくださる旅である。信仰によって笑顔を回復していく信仰の旅である。旅の行き先は涙も死もなき新天地、まったき笑顔の町である。まだ、途上である。大丈夫だ。友も足並みをそろえ、キリストも足並みをそろえてくれる。

最後の難関をくぐり抜ける…
 今日、私は救いの証詞をし、献身の証詞をし、牧会の証詞をしながら、繰り返し申し上げてきたのは、ただ一つである。「わたしのもとにきて、わたしの言葉を聞いて行う者が、…地を深く掘り、岩の上に土台をすえて家を建てる人に似ている」。
 やがて、終わりの日が来る。いや、今すぐ来る。すべてが震われるのである。しかし、私たちは「震われない国を受けているのだ」。と言っても、見えない所で手を抜かず、耐震構造になっているだろうか。それとも、手を抜いて、偽善という偽装をしていないだろうか。大丈夫なのか。見えない所をしっかり、見ておこうではないか。
 「わたしのもとにきて、わたしの言葉を聞いて行う者」であるなら、私たちは絶対、大丈夫なのだ。洪水の後に現れるのは、ノアの時のような虹ではなく、それより遙かに美しいみ国である。私たちは「震われない国を受けているのだ」。復活のキリストがその傷跡を示し、十字架であなた方に代わって、先だち震われたのだから、み言葉を信じるあなた方は震われない、大丈夫とおっしゃっているのである。聖霊というお方が、み言葉を聞いて行う私たちの道行きに同伴し、その日が来ても決して震われない、大丈夫だと証ししてくださっているのである。

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