グレイスインサンダ

~信徒さんとキリスト教との出会い~

神ともにいまして

2011-07-03 08:04:08 | 証し
M・Kさん
 私が救われたのは昭和46年で19歳のとき、大学に入って間もない頃でした。学生運動が活発で、入学と同時に活動家が教室にやって来てアジ演説をぶって行きました。私の両親も息子が学生運動に巻き込まれないか、心配していたようです。
 そんな騒々しい学生生活の中である日のこと同じクラスの友人が一枚のビラをくれました。また革マル派か全共闘のビラだろうと思ってよく見ると、キリスト教の教会に来ませんか、というようなことが書いてありました。そしてビラを見たとき、なぜか行ってみようという気持ちになったのでした。
 ということで、今から40年くらい前のことなのでよく覚えていませんが、キリスト教の神の話も一度聞いてみたいと思ったのだと思います。ただ、初めてその友人と教会の礼拝に行った時は、賛美歌を歌うときは無視し、祈りのときも無視し、会堂のイスにすわったままで立ち上がらず、礼拝後牧師さんには私はこれを持っています、と言って神社の御守りを見せた記憶があります。それがなぜイエスキリストを救い主として受け入れることになったのか、それを今日はお話したいと思います。
 私が中学生の頃からいつも悩んでいたのは、人生の目的は何か、死んだらどうなるのか、人はどのように生きたらよいのか、ということでした。母方の叔父も、父方の叔父も、30代で若くして突然死しており、また小学生の頃の子ども会の夏のキャンプでは年下の子が川で溺れて亡くなっており、人の命についても考えることがよくありました。しかしこれらの悩みについての解答はなかなか見つかりませんでした。そして聖書に出会って初めて悩んでいたことへの答えが聖書の中にあることを知ったのでした。私の悩みへの答えは聖書の中では次のようになっています。
 ・人生の目的とは、
『また、キリストがすべての人のために死なれたのは、生きている人々が、もはや自分のためにではなく、自分のために死んでよみがえった方のために生きるためなのです。』Ⅱコリント5:15
『心を尽くし、思いを尽くし、知性を尽くし、力を尽くして、あなたの神である主を愛せよ。』マルコ12:30 です。
 ・死んだらどうなるのかは、
『神は、実に、その一人子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じるものが、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。』ヨハネ3:16 です。
 ・人はどのように生きたらよいのかは、
『あなたがたが互いに愛し合うこと、これが、わたしのあなたがたに与える戒めです。』ヨハネ15:17
『いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。すべての事について、感謝しなさい。』Ⅰテサロニケ5:16-18 と書かれています。
 ・そして、このような生き方ができるために神がクリスチャンに与えてくださった約束として、次のみ言葉がありました。
『あなたがたの思い煩いを、いっさい神にゆだねなさい。神があなたがたのことを心配してくださるからです。』Ⅰペテロ5:7 
 またイエス様が天へ昇られる前に弟子たちに言われた、
『わたしは、世の終わりまで、いつも、あなたがたとともにいます。』マタイ28:20 があります。
 私が信仰を持つ前にこれらの聖書のみ言葉をすべて知った上で、信仰を持ったわけではなく何年もかかってわかったこともあります。しかし、あらゆる人生の悩みや苦しみや疑問にこたえてくださるのはイエス・キリストであることは保証できます。
 そしてこの人生の悩みや苦しみの原因には、人間が生まれながらにして持っている罪というものがあることも知りました。家族や親戚、職場、友人との人間関係で我々は悩むことが多いですが、その原因には争い、ねたみ、憤り、党派心、そしり、陰口、高ぶり、騒動などがあるということです。これらの罪から救い出してくださるのもイエス・キリストであることがわかりました。悪いのは自分ではなく他の人だ、と思うことが多かった私ですが、自分の心の中をのぞいてみると傲慢、虚栄心、欺瞞、偽善、自己中心、ねたみ、などなどいろいろな問題を起こすような思いがあります。そしてこれらの思いは自分でコントロールできるようなものではなく、神にゆだねてきれいにしていただくしかないことがわかりました。
『私はキリストとともに十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。』ガラテヤ2:20
 私はクリスチャンになった今もときどき罪を犯してしまいます。もちろん法律に違反するような罪ではありませんが、聖書に書かれている心の中にある様々な不純な思いにとらわれてしまいます。でもそのつど神はそれを拭い去ってくださり新しい気持ちで一日を始めることができるのです。そして私が洗礼を受けたのは昭和47年の4月、信仰を持って1年くらいしてから、確かイースターの日だったように思います。それからクリスチャンとしての生活が始まったわけですが、話はこれでハッピーエンドにできないのです。
 クリスチャンになってからの私の最も大きな問題は、洗礼を受けて何年か経った後、教会に行かなくなってしまったことです。就職して母教会を離れたことや、仕事が忙しくなったことなども関係していると思いますが、20代の後半からほとんど教会に行かなくなってしまいました。イエス様を嫌いになったわけではありませんでしたが、教会というところが嫌いになったのです。教会に行かなくなった理由を説明するのは自分の不信仰を証明するようで非常につらくて、みなさんにどう説明したらよいかと悩みましたが、誤解を恐れずに私の情けない体験をひとつだけ書くことにします。
 私は会社に就職してから母教会からは遠い他府県に配属されたので、その近くの教会に行くことになりました。三田泉教会と同じで一般の家を会堂にした開拓教会でしたが、そこにHさんという信仰熱心な少し高齢のご婦人が来ていました。彼女の切実な願いは大事な息子が救われることでした。実は彼女の息子さんは暴力団の組長だったのです。その方は、息子がヤクザから足を洗ってまっとうな暮らしをするようにひたすら神に祈られていたわけですが、ある日のこと教会の牧師さんが私に言いました。Hさんの息子さんに会いに行きましょう。えっ、組事務所へ伝道に行くんですか?、と聞き返しますと、いやいやHさんの家に行くだけだし、息子さんはいわゆる侠(きよう)客(かく)を目指していて簡単に暴力を振るうような人じゃなくて、まじめな極道を目指しているから大丈夫だ、というのです。まじめな極道、という表現には引っかかりましたが、結局、牧師さんといっしょにHさんの家へ息子さんに会いに行くことになりました。残念ながら行ったときの会話の内容はよく覚えてなくて、また、その後息子さんは救われたのか、Hさん親子がどうなったかは聞いていませんが、ヤクザの親分への伝道には勇気が必要だと思いましたし、私のようなものではとても対応できないと思いました。
 以上のような経験をして神様のみわざを見せてもらい、普通だったらクリスチャンとしてさらに成長し信仰の高みに上って行くのでしょうけれど、私の場合は残念ながらそういう重荷を背負われた方とともに信仰生活を送ることがイヤになって結局教会から逃げ出してしまいました。教会には様々な人が来ます。そして人の力では解決できない大きな荷物を背負われた人もおられます。それらの方々と接するとき、自分の力で何とかできないかと思いながら接したらとても対応できるものではありません。結局、その頃の私にとっては教会が精神的に最も疲れる場所となってしまいました。使徒の働きに出てくるパウロや使徒たちのような殉教者的な信仰など持つことはできず、私としては会社で仕事をしている方がよほど気楽だったのです。日曜日は教会や伝道活動の疲れでぐったりする状態で、教会に行かないことが何と平安で静かな生活かと思ったものでした。
 ただ、教会に行かなくなったその後の30年間、ほんとうにいろいろなことがありました。長くなるのでそれらはまたの機会にお話したいと思いますが、神様は厳しい試練をいっぱい用意してくれていました。これでもかというくらい、いろいろな試練がやって来ました。仕事の上で左遷されるような挫折の試練や、家族や自分に与えられた病気や苦しみの試練、自分の財産や大事なものをあっという間に失う試練など、いっぱい経験させてもらいました。
 そして30年経ったある日のこと、ポストに1枚のビラが入っていました。三田泉教会と書いてありました。大学に入って間もない頃に見たのと同じで、なぜかしらないけど気になり電話してみました。昨年の11月頃のことですが、その後はもう一度礼拝に出席するようになり今日に到っています。
 そしてもうすぐ60歳になろうかという歳になってからようやく、若い頃に教会に行けなくなった原因と、そのときにどうすべきだったかがわかりました。
 聖書にはこう書いてありました。
『すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。』マタイ12:28
『あなたの重荷を主にゆだねよ。主は、あなたのことを心配してくださる。』詩篇55:22
『あなたの道を主にゆだねよ。主に信頼せよ。主が成し遂げてくださる。』詩篇37:5
 不思議なことに、30年前もこのみ言葉は読んだことがあり知っていたはずなのですが、心の中に染みとおっていなかったのです。そして私は教会には熱心に行っていましたが、実はイエス様のところに行っていなかったのです。イエス様は教会に行きなさい、と言われているのではなく、わたしのところに来なさい、と言われていることを結局30年かかってようやく理解できた、とも言えます。重荷を背負われている方々と接するときも神を信じ聖霊にお任せして接すればよいのですが、上記のみ言葉とは反対で主にゆだねていませんでした。ある意味で、成長の遅い、信仰がなかなか深くならないクリスチャンなのです。とは言え、そのような者も神は愛してくださり、30年の間あきらめずに様々な試練を用意して根気強く私にこれらのことを教えてくださったと思います。このことがわかったとき、私の目からは涙があふれて止まりませんでした。
 最後に次のみ言葉を深く心の目で読みつつ、これから天に召されるまでの人生を歩みたいと考えていることをお知らせして終わりにします。
『神を愛する人々、すなわち、神のご計画に従って召された人々のためには、神がすべてのことを働かせて益としてくださることを、私たちは知っています。』ローマ8:28
 すべてのことを主に感謝します!


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