ここまでの情報を総合すると、天之御中主は、今から3000年近い昔の日本に実在した人物で、日本を最初に統一し、伊邪那岐命の娘であった天照(アマテラス)という女性を次の王にするようにと霊界から指示を出した方、ということになります。これまでご紹介したメッセージは、いずれも、そうした方のものとして、相応しいものではないでしょうか。ここでは、天之御中主は、天照大御神について語られています。
(ここから)
さて、この霊言を閉じるにあたって、天照大御神ということに関して、話をしておきたいと思う。
日本では、昔から、天照大御神が主宰神であり、日本の中心神であるようにいわれて来たと思う。他の民族の神話を手繰(たぐ)ってみても、歴史を見てみても、女性がその中心であったということは、非常に珍しい場合であろうと思う。
しかし、天照大御神という人間、あるいは女性といってもよい、こうした霊格を持った高級神霊といってもよい、そういう方の存在が、今から二千数百年前にあったのであるけれども、その威光が現在まで続いて来ているということを、日本人は、ひとつの誇りとせねばならん。そして、日本の女性は、また、それを誇りと思わねばならんと思う。
なぜ、女性の存在が、精神的支柱になり得たのか、という事を、私は語っておきたいと思う。それは、日本という国の特色に、非常に関係があるからである。
人類を、いくつかの民族としてとらえてみるならば、男性的なる民族と、女性的なる民族というのがあるのである。男性的なる民族というものは、外交を主とし、そして、様々なる画期的な試み、前進ということを、もってよしとしている。
しかし、女性的なる民族というものがある。それは、和というものを大切にする精神である。調和ということだ。すべてを暖かく包み込む優しさ、これが女性的なるものの特徴である。
天照大御神という高級神霊が、この、日本神道のなかにおいて、中心的神霊の一柱として据えられた本当の理由は、この日本の国というものを、麗しい、調和のとれた、和のある国とせんがために選ばれたのである。この国の国民(くにたみ)は、過去、本当は、争いというものを好まなかったのである。「和をもって尊しとせよ」という聖徳太子の言葉は、この天照大御神のお心、そのものであるのである。
そのためには、神への信仰ということが、何にもまして大切であった、ということも知らねばならん。
神という存在を考えなければ、人間は、我(われ)が我(われ)が、という気持になるのである。自分が偉い、偉いと思う気持ちの根本には、神の不在があるのである。神がいない国であるからこそ、神を信じない人間であるからこそ、優劣を競い、どちらが優れている、どちらが偉いということでもって争いが起きるのである。
大いなる神への帰依、ということを根本に信じているならば、そうした人間心の争いが、いかほど、つまらないものであるかということが、身にしみてわかるのである。
すなわち、天照大御神というものは、包み込む大いなる海のごとき心の、精神の象徴であるということだ。また、美しさの象徴でもあるということだ。
美の究極にあるものは何であるか。それは、調和ではないだろうか。美の究極にあるものは何か。それは、均整ではないだろうか。調和と均整、釣り合いがとれた美しさ、こうしたものを、人びとは感ずるのではないであろうか。然り、そのとおりである。
さすれば、諸君は、人生の途上において自らの心の帰依するものを持たねばならん。諸君らの心は、何に対して帰依するのか、何に対して、敬虔(けいけん)なる心を持つのか。何に対して、畏(おそ)れを持つのか。何に対して畏怖を感ずるのか。
人間は、畏れということ、神仏に対する畏敬の念ということを忘れた時から転落が始まって来たのである。自分が自分が、という方向に動き、それぞれが、一票の値打ちを持つ自我人間になった時に、人間の転落は、最後の段階まで来ているといってよい。そんなものであってはいけない。
諸君よ。地上の人間たちよ。畏れということを知りなさい。大いなるものの前に平伏(ひれふ)す、という気持ちを知りなさい。それを知るということが、大いなる第一歩であるのだ。
諸君らは、いくら謙虚にしても謙虚にしても、まだまだ謙虚さは足りない。本当の意味で偉大なる神霊と、地上に肉を持つ人間との距離は、分かっていないのである。
そして、神を引きずり降ろし、神を、人間以下のものにまで引きずり降ろしているのが、諸君らの、現代の科学であり、諸君らの、現代の思想ではないのか。そして、あまつさえ「神は人間の想像の産物である」などと言っておる。あるいは「神は死んだ」と言う哲学者がいる。こうした馬鹿なことを言い、人間は自らが主体者であるとうぬぼれて増上慢になった、こうした思いを起こした時に、地上の地獄が始まったのである。
諸君よ、私は、繰り返し、繰り返し、諸君に言っておく。大いなるものへの畏(おそ)れ、畏(かしこ)みということを忘れるな。大いなるものへの帰依ということを忘れるな。それが謙遜になるということであり、慎しく生きるということでもあるのだ。
諸君らの人生は、ほんのささやかなものである、ということを知れ。傲慢(ごうまん)になってはいけない。
大いなるものへの畏れと、謙譲の美徳を持て。無限の力を持っているものに対して、有限の力を持っているものの卑小さを知れ。それを知った時に、初めて自我の思いが消えてゆくのだ。
そして、ひとつひとつの水の粒子のごとく、大いなる川の水を創るために協力し合って流れてゆくことができるのだ。水の粒子ひとつひとつが、自分の個性を主張し合っておっては、水というものも、川というものも成り立ってゆかんであろう。大いなる川という流れの中に帰依することによって、水の粒子は豊かに幸せに流れていっておるのである。決して水の粒子ひとつが、浮き上がって飛び回ることをもってよしとはせんのである。
諸君よ、大いなるものに帰依せよ。そして、神の自己実現としての、川の流れの中にある自分というものの美しさを知れ。他を害さず、そしてどこまでも自らを伸ばしてゆく努力こそが、だいじなのであるということを知りなさい。
私は、再度、再度言おう。諸君よ、心の中に神を持て。そして、その内なる神というものは、結局のところ、優しく、美しく、調和のとれた神であるということを、そして、それは、伝統的に我が国において崇拝の的でもあった、天照大御神に対する信仰でもある、ということを知りなさい。
神を失った時に、神を見失った時に、諸君らの堕落があったということを知れ。謙虚さの美徳は、大いなる畏れを感じるということだ。自分を超えたるものの存在を知るということだ。超越した存在を知るということだ。この畏(おそ)れ、畏(かしこ)みということを忘れるな。この畏怖(いふ)ということを忘れるな。これもまた、諸君らの大いなる魂の糧となるであろう。
神々は、高天原(たかまがはら)に、確かに集いたもうのである。
高天原という言葉は、もう古いかもしれぬが、高級霊界においては、日本では、日本の神々、高級神霊たちが集っているのである。そして、彼らは、この日本の国というものをどのようにすばらしい国にするかということのために、日夜、心血を注いでいるのである。
その努力を想う時に、諸君は傲慢になってはならん。不遜になってはならん。常に、精神統一をして、神の心を伺(うかが)うような、謙虚な自分であれ。神の心に適(かな)ったような、自己実現をしてゆく自分であれ。そうした思いを忘れてはならん。
この日本の国に、神々が集いて、諸君らを幸せにするために、常に、神評定(かみひょうじょう)をしているということを忘れてはならん。そして、大いなる帰依を忘れてはならん。
心に、天照大御神を、いつも抱き、そして、健全なる精神でもって生きてゆけ。その時に限りなく美しく、限りなく輝いている諸君らの未来が開けてくるであろう。以上である。
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さて、この霊言を閉じるにあたって、天照大御神ということに関して、話をしておきたいと思う。
日本では、昔から、天照大御神が主宰神であり、日本の中心神であるようにいわれて来たと思う。他の民族の神話を手繰(たぐ)ってみても、歴史を見てみても、女性がその中心であったということは、非常に珍しい場合であろうと思う。
しかし、天照大御神という人間、あるいは女性といってもよい、こうした霊格を持った高級神霊といってもよい、そういう方の存在が、今から二千数百年前にあったのであるけれども、その威光が現在まで続いて来ているということを、日本人は、ひとつの誇りとせねばならん。そして、日本の女性は、また、それを誇りと思わねばならんと思う。
なぜ、女性の存在が、精神的支柱になり得たのか、という事を、私は語っておきたいと思う。それは、日本という国の特色に、非常に関係があるからである。
人類を、いくつかの民族としてとらえてみるならば、男性的なる民族と、女性的なる民族というのがあるのである。男性的なる民族というものは、外交を主とし、そして、様々なる画期的な試み、前進ということを、もってよしとしている。
しかし、女性的なる民族というものがある。それは、和というものを大切にする精神である。調和ということだ。すべてを暖かく包み込む優しさ、これが女性的なるものの特徴である。
天照大御神という高級神霊が、この、日本神道のなかにおいて、中心的神霊の一柱として据えられた本当の理由は、この日本の国というものを、麗しい、調和のとれた、和のある国とせんがために選ばれたのである。この国の国民(くにたみ)は、過去、本当は、争いというものを好まなかったのである。「和をもって尊しとせよ」という聖徳太子の言葉は、この天照大御神のお心、そのものであるのである。
そのためには、神への信仰ということが、何にもまして大切であった、ということも知らねばならん。
神という存在を考えなければ、人間は、我(われ)が我(われ)が、という気持になるのである。自分が偉い、偉いと思う気持ちの根本には、神の不在があるのである。神がいない国であるからこそ、神を信じない人間であるからこそ、優劣を競い、どちらが優れている、どちらが偉いということでもって争いが起きるのである。
大いなる神への帰依、ということを根本に信じているならば、そうした人間心の争いが、いかほど、つまらないものであるかということが、身にしみてわかるのである。
すなわち、天照大御神というものは、包み込む大いなる海のごとき心の、精神の象徴であるということだ。また、美しさの象徴でもあるということだ。
美の究極にあるものは何であるか。それは、調和ではないだろうか。美の究極にあるものは何か。それは、均整ではないだろうか。調和と均整、釣り合いがとれた美しさ、こうしたものを、人びとは感ずるのではないであろうか。然り、そのとおりである。
さすれば、諸君は、人生の途上において自らの心の帰依するものを持たねばならん。諸君らの心は、何に対して帰依するのか、何に対して、敬虔(けいけん)なる心を持つのか。何に対して、畏(おそ)れを持つのか。何に対して畏怖を感ずるのか。
人間は、畏れということ、神仏に対する畏敬の念ということを忘れた時から転落が始まって来たのである。自分が自分が、という方向に動き、それぞれが、一票の値打ちを持つ自我人間になった時に、人間の転落は、最後の段階まで来ているといってよい。そんなものであってはいけない。
諸君よ。地上の人間たちよ。畏れということを知りなさい。大いなるものの前に平伏(ひれふ)す、という気持ちを知りなさい。それを知るということが、大いなる第一歩であるのだ。
諸君らは、いくら謙虚にしても謙虚にしても、まだまだ謙虚さは足りない。本当の意味で偉大なる神霊と、地上に肉を持つ人間との距離は、分かっていないのである。
そして、神を引きずり降ろし、神を、人間以下のものにまで引きずり降ろしているのが、諸君らの、現代の科学であり、諸君らの、現代の思想ではないのか。そして、あまつさえ「神は人間の想像の産物である」などと言っておる。あるいは「神は死んだ」と言う哲学者がいる。こうした馬鹿なことを言い、人間は自らが主体者であるとうぬぼれて増上慢になった、こうした思いを起こした時に、地上の地獄が始まったのである。
諸君よ、私は、繰り返し、繰り返し、諸君に言っておく。大いなるものへの畏(おそ)れ、畏(かしこ)みということを忘れるな。大いなるものへの帰依ということを忘れるな。それが謙遜になるということであり、慎しく生きるということでもあるのだ。
諸君らの人生は、ほんのささやかなものである、ということを知れ。傲慢(ごうまん)になってはいけない。
大いなるものへの畏れと、謙譲の美徳を持て。無限の力を持っているものに対して、有限の力を持っているものの卑小さを知れ。それを知った時に、初めて自我の思いが消えてゆくのだ。
そして、ひとつひとつの水の粒子のごとく、大いなる川の水を創るために協力し合って流れてゆくことができるのだ。水の粒子ひとつひとつが、自分の個性を主張し合っておっては、水というものも、川というものも成り立ってゆかんであろう。大いなる川という流れの中に帰依することによって、水の粒子は豊かに幸せに流れていっておるのである。決して水の粒子ひとつが、浮き上がって飛び回ることをもってよしとはせんのである。
諸君よ、大いなるものに帰依せよ。そして、神の自己実現としての、川の流れの中にある自分というものの美しさを知れ。他を害さず、そしてどこまでも自らを伸ばしてゆく努力こそが、だいじなのであるということを知りなさい。
私は、再度、再度言おう。諸君よ、心の中に神を持て。そして、その内なる神というものは、結局のところ、優しく、美しく、調和のとれた神であるということを、そして、それは、伝統的に我が国において崇拝の的でもあった、天照大御神に対する信仰でもある、ということを知りなさい。
神を失った時に、神を見失った時に、諸君らの堕落があったということを知れ。謙虚さの美徳は、大いなる畏れを感じるということだ。自分を超えたるものの存在を知るということだ。超越した存在を知るということだ。この畏(おそ)れ、畏(かしこ)みということを忘れるな。この畏怖(いふ)ということを忘れるな。これもまた、諸君らの大いなる魂の糧となるであろう。
神々は、高天原(たかまがはら)に、確かに集いたもうのである。
高天原という言葉は、もう古いかもしれぬが、高級霊界においては、日本では、日本の神々、高級神霊たちが集っているのである。そして、彼らは、この日本の国というものをどのようにすばらしい国にするかということのために、日夜、心血を注いでいるのである。
その努力を想う時に、諸君は傲慢になってはならん。不遜になってはならん。常に、精神統一をして、神の心を伺(うかが)うような、謙虚な自分であれ。神の心に適(かな)ったような、自己実現をしてゆく自分であれ。そうした思いを忘れてはならん。
この日本の国に、神々が集いて、諸君らを幸せにするために、常に、神評定(かみひょうじょう)をしているということを忘れてはならん。そして、大いなる帰依を忘れてはならん。
心に、天照大御神を、いつも抱き、そして、健全なる精神でもって生きてゆけ。その時に限りなく美しく、限りなく輝いている諸君らの未来が開けてくるであろう。以上である。
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