「あかね色の空を見たよ」
―― 不登校だった私が支援者として、今 ――
講師 / 堂野博之 フリースクール育海 代表
講演内容 より 一部分抜粋
■5年間やりつくして
中3になると、両親に少し変化が生まれてきました。“学校に行っていない博之を、家族の一員として認めて行こう”という心境に、5年間かかってたどり着いてくれました。真面目で一生懸命な両親にとって勇気がいる事だったと思います。5年間やりつくして、私が荒れつくして、もう認めるしかないという心境になったのでしょうね。
この1年間は、私にとって大きな変化でした。まず朝起こしにきません。朝から喧嘩する必要がなくなりました。家の仕事も手伝いました。学校には行ってないけど、自分の役割をこなす事で両親が喜んでくれる、それがとっても大きい1年でした。
夏休みに先生が進路の話をされ、定時制高校や通信制高校があると教えてくれました。私は、定時制高校に行けば家を出られるかもしれないと思いました。誰も知らない所でもう一度ゼロからチャレンジするしかない、と感じていたからです。でも、その気持ちを伝えることができないまま卒業の日になり「もう行ける所はない、もうどうにでもなりやがれ」という諦めの心境になってました。
その日の夕方、母が仕事から帰ると真っ先に私のとこへ来て、とてもスッキリした顔で「博ちゃん、あんた5年間よう頑張ったなぁ」と言いました。私が「何が頑張っただ、頑張らないから休んでると思ってるくせに」と内心思っていると、続けて母が「お母さんも頑張ったんよ。5年間辛かったろう、お母さんも辛かったんよ」と言ったんです。
その言葉が、バリアを張って大人の言葉を絶対聞き入れない私の心に、ストーンと入ってきて、なんだか温かい気持ちになったんです。「あぁそうやなぁ、僕頑張ったんやなぁ、お母さんも頑張ってくれたよなぁ」と。
その夜、自分の気持ちを伝えようと思って、両親に「俺はこの家を出ようと考えてる。定時制高校に行かせてもらえないか。独り暮らしをして、アルバイトで生活費も稼ぐ。迷惑はかけないからそうしたいんだ」と話すと、両親は涙を流して喜んでくれて「そうか、そんな風に考えとったんか。よし、先生にお願いしよう」と言って、翌日学校へ行ったのを憶えてます。
ö 当時、先生の不登校への理解も難しかった。でも私が一つ憶えているのが、小5年?の担任の先生。家に来た時、将棋を見つけて一緒にしてくれて「楽しかった、また来るわぁ」と言って、何で学校に行かないのかとか聞かないんです。そして学校で「堂野君は大丈夫。将棋ができるやつに悪いやつはおらん」と言われたそうで、後で知って凄く嬉しかったのを憶えてます。
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます