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仏教の宗派(3)  禅宗はどうして生れたの?

2006年09月22日 | Weblog

                <写真:道元禅師(道元)>

 臨済宗=栄西  曹洞宗=道元  黄檗宗=隠元

日本においては、嵯峨天皇の代に、懐譲派の義空が初めて禅宗を日本に伝えたが、当時、伝教大師の日本天台宗が広く流布していたため、受け入れられず空しく帰国した。その後、鎌倉時代の僧・栄西(ようさい・1141年~1215年)が、中国(宋)に渡って禅宗を学び、建久2年(1191年)、日本に臨済宗を伝えたのが始まりとなった。

もともと栄西は、14歳にして比叡山に登って天台宗を学び、中国の天台山にまで足を伸ばしているが、当時、すでに真言密教を取り入れていた天台宗では満足できなかったのか、帰国後、疑問を起こして禅宗を学びたいと欲した。そして、再び宋に渡り、臨済宗の万年寺に身を寄せること数年、臨済宗の法義を相承して帰国したのである。

栄西は初めは九州・博多を中心に布教し、後に京都へ進出しようとしたが、比叡山の禅宗停止の訴えにより、建久五年、停止を命ぜられた。栄西は禅宗擁護のために、さまざまに活動し、他宗からの圧力を逃れて鎌倉へと向かった。鎌倉では、北条政子の寺である寿福寺の住持となり、更に建仁2年(1202年)には、源頼家が京に建仁寺を建てたので、住持として迎えられている。だが栄西は、建仁寺を比叡山の末寺とし、天台・真言・禅を兼修する寺とした。名誉欲も強く、思想的にも純粋な禅宗ではないとされている。

道元(1200年~1253年)は、栄西によって伝えられた臨済宗に対し、今日の曹洞宗を日本に開いたのである。道元は幼時に父母を失い、13歳で比叡山に登ったが、後になって、当時名を高くしていた栄西の門をくぐった。栄西の死後、みずから入宋した道元は、座禅修行中に豁然と悟りを開いたと称して、安貞(あんじょう)元年(1227年)帰国して曹洞宗を広め、現在の総本山となっている永平寺を開創した。道元は、自己の悟りを仏からの正伝(しょうでん)の仏法と信じ、仏教全体を禅に統合しようという考えを懐いていたようである。また、前の臨済宗が貴族武士階級に広まったのに対し、曹洞宗は庶民の間に浸透していった。

この後、江戸時代に入って、民の僧・隠元が黄檗宗を日本に伝えたが、その宗旨は臨済宗とほぼ同様のものであり、念仏も混ざっている。現在は、臨済宗が十数派に分派して檀家数百五十万程度、曹洞宗が七百五十万程度といわれ、黄檗宗(おうばくしゅう)はほとんど衰えてしまっている。


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