日々・ひび・ひひっ!

五行歌(一呼吸で読める長さを一行とした五行の歌)に関する話題を中心とした、稲田準子(いなだっち)の日々のこと。

2006年6月の東大阪歌会

2006年06月04日 | 五行歌な日々
6人での歌会。北里くんが、世界旅行に行くので、とりあえず彼にとっては最後の歌会。

全作品、お披露目。

     ★

       すがれた店の
       暖簾をくぐれば
       デジタルな
       埃
       はらはらと          野村敏雄


       叱りながらも
       わたしの
       生き方を
       変えてくれた
       あなただけが         大瀬良稔子


       あじさいの
       蜂の巣の花弁
       うつろう色の
       奥の奥
       女王様が住んでいる      稲田準子


       鬼が泣いている
       鬼が
       その女房と
       人から忌まれていくことを
       泣いている          北里英昭


       愛でられることのない
       地に咲く
       花の潔さに
       憧憬さえ
       おこがましい         楽  人


       砂丘の向こうに
       海と空のパノラマ
       風をいっぱい受けたあと
       くつを脱いで
       地球に足跡をつけて帰る    李 陽子


     ★

野村さんの歌に関しては、
申し訳ないことをした。

「すがれる」を、最初、打ちミスだと思い、
確認したら、
辞典での文章を拾って、
わざわざFAXで送ってくださった。

で、その中には、
「すたれる」に限りなく近い意味のことも書いてあった。

もともと、私は、
「すたれる」の意だと思い込んでいたところもあった。
だから、
「すたれる」は「すがれる」がなまった言葉なんだと、
勘違いした。

さらに、悪いことに、
私だけが、不勉強で、わからないんだろうな、
と、卑下もしてしまっていた。

だから、自分さえ理解したら、それでいいんだ、
という感覚があったものだから、
FAXを歌会会場へ持って行かなかった。

だから、歌会で、この歌の講評の時、
最初にあてた人が、やはり、
「『すがれる』という言葉の意味などが、わからなくて……」
というお話が出て、
わからない人に、挙手をしてもらったところ、
殆どの人が、わからないということを知った。

なにやら、嫌な予感がしつつも、
「『すたれる』という意味だと、思われたら、いいと思いますよ」
と言った。

結局、これは、ミスリードとなった。

作者はまず、
「『すたれる』は漢字で書くと『廃れる』になるでしょ」
と、切り出してきた。

その意味も、含むことは、含むと、断りを入れながらも、
「『すがれる』とは、『末枯れる』と書くんですよ。
で、それは、
草木の葉先などが、冬に近づいて枯れ始めるとか、
人の盛りが過ぎて、衰えるとか、そういう意味合いでね……」
と、続き、
FAXを読むだけじゃ、感じ取れなかった、
微妙なニュアンスの違いが、
作者の声から、響いてきた。

申し訳なく、思った。私の言葉の解釈が、大味でした。

こういう人の細かいこだわりを、私はよくうっかりさんする。

コメントを聞きながら、謝罪の言葉を一言言ったけど、
どこまで、沁みこんでくれただろう。

歌の内容は、
そういう「すがれた」店に入ると、
自分が外から貰ってきた、デジタルな埃が、
はらはらと、落ちていった、の意。

     ★

大瀬良さんのは、
東洋医学の先生に向かっての歌。

この先生がいなかったら、
もっと暴飲暴食をしてて、
長生きできなかっただろうと仰っていた。

稲田の歌は、
大久保駅の市民ギャラリーの展示の歌を選んでいた時、
「あとひとつ、梅雨らしい、歌がないかな」と
過去作品を物色していたら
新しくできた歌。

結果的には即詠っぽい。

実際の紫陽花を見て歌ったわけではないが、
「あぁ、紫陽花の花って、蜂の巣に似ているなぁ~」
と思ったところから。

すると、
蜂の巣の奥の奥には、女王蜂が住んでいることと、
紫陽花の花は、水だか土だかによって、
花びらの色が、いろいろ変化することを思い出した。

そして、花言葉が、「うつろう心、浮気心」とか、
そういうものだったことも、芋づる式に……。

と、したら、紫陽花の花は、蜂の巣のようなんだから、
たとえ表面の花びらの色がうつろうとも、
浮気心とか、そんなレッテル(?)を貼られてようとも、
奥の奥には、

「女王様が、住んでいるんじゃないだろうか」

と、思ったのだ。

紫陽花の奥にある、揺るぎない変わらないものが、
見えた瞬間、歌になった。

読み手の人々も、
かなり、五行目を気に入ってくださってたようだった。

ただ、状況的には、どんな感じなのか、
なんだかこんがらがってたようだけど(笑)

そりゃそうだ。実際に見ているわけじゃないもの。
(だからといって、言葉遊びでもないけれど)

だから、「女王様」を気に入ってくださるだけで、十分だった。

     ★

北里くんの歌は、
「鬼」とは、誰か?父親?とか、
いろいろでたが、
正体は、草壁先生でした。

楽  人さんの歌は、
私には、なかなか理解できなくて、
野村さんや、楽  人さんには、
沢山、例え話をしてもらった。

一応、理解したつもりではいて、
自分の言葉に置き換えることも可能だが、
あえて、ここでは、差し控える。

歌の言葉に直接触れて、
あやふやななりに、
読んでくださる方々の言葉で、
できれば解釈していただきたい。

李さんの作品は、
特に、五行目が、皆さん、気にいっていた。
私もそのうちのひとり。

でも、「なんか……説明が多い感じもする」と、思ったので、
それもちゃんと、口にした。

大勢の人数の歌会では、絶対しないことだけど。
そして、友達との雑談でも、こういうことはしない。
この歌会だからする。

すると、ある方が、
「どこが説明的なのでしょうか?」
と、聞いてきた。

私は、他の方のコメントでも、
注目を浴びた、五行目に行き着くまでの、
四行目、三行目、二行目が、
活かしきれてないと思うといった。

ただ、言葉をどうしたらいいのか、
ということを言い始めたら、
それは、私の作品になってしまうから、
言えない、と答えた。

ただ、こんな景色で、
こんな空気の中に、自分がいた、という、
作者のはしゃぎっぷりは、理解できると言った。

てんこ盛りになっている歌というのは、
読み手には、説明的だったり、難解だったりして、
実は、
その作者の気持ちの、
言葉にならないイキオイを削いでいる場合がある。

言葉がありすぎて、
言葉にならない、
スピード感、ハイテンション感が、
かえって失速する。

だが、書いた本人は、すーっとするのだ。
からだの外へ、出て行くのだから。
そこの尊重は、ちゃんとしたいと思っている。
それも、大事な、歌の効用だから。

作者が、仕上げたものの尊重は、する。

が、私が、どこまで、作者に近づいていこうと、
絶望的なまでに、他人なので。

厳しい読み手になる気は、さらさらないが、
贅沢な読み手なので、
状況が許すなら、
伝わったことと、伝わらなかったことをちゃんと言う。
両方言う。

幸いにも、李さんは、
私の言っていることも、よく理解してくださってて、
そこを含みながら、歌についてのお話をしてくださった。
(ちなみに、鳥取砂丘に感動したそうです)

でも、質問を下さった方は、
私の「説明的と思ったことについての説明」は、
きっと煙に巻かれたような、心地がしたんじゃないだろうか。

それはそれで、仕方ない。

「仕方ない」という自分の中の納得と、
一致しなかったことへの残念な感情を、
胸の中で相殺していく。

     ★

二次会へ行くには、少し早かったので、
北里くんに、ごあいさつをしてもらった。

彼の言葉を、そのまま書いても、
ニュアンスが伝わりそうにないので、
あえて書かないが、
ごあいさつが終った後、みんなで、拍手を送った。

二次会では、全国歌会に行く、
楽  人さんや、大瀬良さんに、
飛行機の予約の大変さから、
事前採点の苦労話を聞いていた。

三次会では、北里君、楽  人さん、私の三人で、
北里君と、草壁先生との対談(?)の話を聞いていた。

四次会では、楽  人さんとふたりで、
「比喩表現は、あるものの『置き換え』作業だけど、
本質を遠ざけているわけじゃないと思うんだよね~」なんて、
正岡子規の『歌よみに与ふる書』を読んだ時の話などを、
思い出しながら、しゃべっていた。

環状線の鶴橋をでたのは、9:40を過ぎていた。

やばい……。

「電車事故が起こらず、ダイヤが乱れていませんように」
と祈りつつ、家に帰った。

なんとか無事、日付変更線をまたがずに、
子午線の向こうにある家に、帰宅した。

いろいろ、反省することも、沢山あって、
多少申し訳なかった気持ちも引きづりましたが、
いい歌会だったと思います。

ありがとうございました。

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