2009年4月号の歌誌『五行歌』の
表紙歌がパッと目に飛び込んできたとき、
「あぁ、こういう境地に至れる人もいるんだなぁ」
と、感慨深く思った。
心の
裸体を
さらすと
天が
衣服を与える 10月のマルコ(2009年『五行歌』四月号)
私は以前、
虚飾でもいいから
着こなす
裸では歩けないのだから
愚かでも
歩きたいのだから (2008年『五行歌』9月号)
と、いう歌を書いた事があったから、余計に。
★
歌の完成度とか、良し悪しだとかを、
ここで言うつもりはないし、
自分の歌の悪さを言うつもりもない。
だが、
自分が自分の歌を作ったときの
個人的な想いやら背景やらを抜きにして、
客観的な目で読み比べたとき、
前者の歌の方が、間違いなく境地が深いと思うし、
崇高で魅力的だな、と思う。
心であれ、なんであれ、
ここぞという時に、
裸をさらせるかどうかは、とても大切なことだ。
問題は、さらした後だ。
前者の歌は天が衣服を与えると言い、
私は虚飾でも着なくちゃ生きていけねーよ、と言う。
前者の歌を読んだ後でも、自分の歌どおり、そう思っている。
★
私は最初、
この歌の境地が羨ましいんだろうか?
そういう境地があったのか、なら私も目指そうか、と思っているのか?
と、自問自答した。
いや……羨ましくないな、とほぼ即答した。
目指したいとも思っていないな、ともすぐ確認した。
ただじわじわと、なんだか嬉しくなっていた。
私は、根本的に、
「天」というものを信じきれない。
いや、「天」じゃなくてもいいのだが、
何かをそんなには信じきれていない。
信じる、信じようとするものはある、
だが、最後の最後は、疑う。
信じたくても、疑う。
だからまず、天が衣服を与えてくれるなんて、思えない。
そんなことを前提に、無防備に裸になんて、なれない。
私はきっと、何かを得るためだけに、
虚勢を張って裸になることはあっても、
得ればすぐに、そこらへんにある虚飾を、
必死で探して着るだろう。
だが、それはそれなのだ。私が思うことは、私が思うこと。
私が思うことを言ったとしても、
それは押し付けではない。
だから、それを聞いたとしても、
作者はどうか、自分の歌を、想いを、
否定されたとは思わないで欲しい。
だって、私はそれはそれで別で、嬉しく思っているのだから。
私が嬉しく思うのは、
私がそうは思えなくても、
そういう風に思える人が、
この世にいることを知れたことが嬉しいのだ。
「そこまで『天』を信じきれない」からといって、
「そこまで『天』を信じた」人を、私は決して否定しない。
羨ましくもない。憧れることもない。
でも、同じ時代に、そんな風に思える人が生きていることを、
私は嬉しく思う。
可能性のような、希望のような、光のように、この歌は煌いた。
★
この作者だって、きっと普通の人間で、
常にこんな風に思えているなんて思えない。
それでも、一瞬でもそう思ったことを、そう感じたことを、
歌に込め、他人にお披露目したことを、
私は人として賞賛したくなる。
あるひとつの歌があって、
その境地が、根本から自分とは違う歌に出会う。
器が小さいので、
共鳴できないものと出会うとき、
ドン引きしたり、
違和感を持ってしまい、モロに顔に出たりするほうなので、
こういう嬉しくなるってことは、稀。
同じ境地には至らない。
でも、間違いなく、
想いの深い歌は、私の中に降り積もる。
その降り積もった地層は、
私が何かを歌にしたくなったとき、
あと数センチ足りない想いに、
手を届かせようと、隆起してくれることがある。
そんな風に考えると、
私ひとりの力ではなく、
いい歌が、私に歌を書かせてくれるのかもしれない。
自分の歌にも、人の歌にも、謙虚であるよう努めたいと思います。
表紙歌がパッと目に飛び込んできたとき、
「あぁ、こういう境地に至れる人もいるんだなぁ」
と、感慨深く思った。
心の
裸体を
さらすと
天が
衣服を与える 10月のマルコ(2009年『五行歌』四月号)
私は以前、
虚飾でもいいから
着こなす
裸では歩けないのだから
愚かでも
歩きたいのだから (2008年『五行歌』9月号)
と、いう歌を書いた事があったから、余計に。
★
歌の完成度とか、良し悪しだとかを、
ここで言うつもりはないし、
自分の歌の悪さを言うつもりもない。
だが、
自分が自分の歌を作ったときの
個人的な想いやら背景やらを抜きにして、
客観的な目で読み比べたとき、
前者の歌の方が、間違いなく境地が深いと思うし、
崇高で魅力的だな、と思う。
心であれ、なんであれ、
ここぞという時に、
裸をさらせるかどうかは、とても大切なことだ。
問題は、さらした後だ。
前者の歌は天が衣服を与えると言い、
私は虚飾でも着なくちゃ生きていけねーよ、と言う。
前者の歌を読んだ後でも、自分の歌どおり、そう思っている。
★
私は最初、
この歌の境地が羨ましいんだろうか?
そういう境地があったのか、なら私も目指そうか、と思っているのか?
と、自問自答した。
いや……羨ましくないな、とほぼ即答した。
目指したいとも思っていないな、ともすぐ確認した。
ただじわじわと、なんだか嬉しくなっていた。
私は、根本的に、
「天」というものを信じきれない。
いや、「天」じゃなくてもいいのだが、
何かをそんなには信じきれていない。
信じる、信じようとするものはある、
だが、最後の最後は、疑う。
信じたくても、疑う。
だからまず、天が衣服を与えてくれるなんて、思えない。
そんなことを前提に、無防備に裸になんて、なれない。
私はきっと、何かを得るためだけに、
虚勢を張って裸になることはあっても、
得ればすぐに、そこらへんにある虚飾を、
必死で探して着るだろう。
だが、それはそれなのだ。私が思うことは、私が思うこと。
私が思うことを言ったとしても、
それは押し付けではない。
だから、それを聞いたとしても、
作者はどうか、自分の歌を、想いを、
否定されたとは思わないで欲しい。
だって、私はそれはそれで別で、嬉しく思っているのだから。
私が嬉しく思うのは、
私がそうは思えなくても、
そういう風に思える人が、
この世にいることを知れたことが嬉しいのだ。
「そこまで『天』を信じきれない」からといって、
「そこまで『天』を信じた」人を、私は決して否定しない。
羨ましくもない。憧れることもない。
でも、同じ時代に、そんな風に思える人が生きていることを、
私は嬉しく思う。
可能性のような、希望のような、光のように、この歌は煌いた。
★
この作者だって、きっと普通の人間で、
常にこんな風に思えているなんて思えない。
それでも、一瞬でもそう思ったことを、そう感じたことを、
歌に込め、他人にお披露目したことを、
私は人として賞賛したくなる。
あるひとつの歌があって、
その境地が、根本から自分とは違う歌に出会う。
器が小さいので、
共鳴できないものと出会うとき、
ドン引きしたり、
違和感を持ってしまい、モロに顔に出たりするほうなので、
こういう嬉しくなるってことは、稀。
同じ境地には至らない。
でも、間違いなく、
想いの深い歌は、私の中に降り積もる。
その降り積もった地層は、
私が何かを歌にしたくなったとき、
あと数センチ足りない想いに、
手を届かせようと、隆起してくれることがある。
そんな風に考えると、
私ひとりの力ではなく、
いい歌が、私に歌を書かせてくれるのかもしれない。
自分の歌にも、人の歌にも、謙虚であるよう努めたいと思います。