読点、句点の位置は考えている以上に重要である。それは読み、音声と密接に繋がっているからだ。人名などで、どこで切るかの話をすれば、大抵の人は、わが意を得たりと納得する。たとえば、「やしきたかじん」である。「やしき、たかじん」、「やしきたか、じん」、「やしきた、かじん」と思いつくだけで三通りある。ところが、文章になると存外句読点の意味を考えないのが世の常らしい。常らしいと書くのは、小生一人が気になっているだけかもしれないし、小生だけが今頃そんなことも知らないでいたのかもしれないからである。
「闇の夜は吉原ばかり月夜哉」の句で、噺家の切り方と露伴の切り方が異なり、異なると、前者は明るい色噺、後者は一葉女史の苦界じゃえという哀しい話になる。噺家は「闇の夜は、吉原ばかり月夜哉」といい、『文七元結』、『蔵前籠』、『三枚起証』、『明烏』なんて噺になる。露伴翁は、この句を「闇の夜は吉原ばかり、月夜哉」と読んだ。勿論、句であるから、句読点はない。ないが読み手によって、どこに句点を入れるかで世界が逆転してしまう。それだけこの句が秀逸である証拠だ。が、噺家の句点の入れ方は、「古典」となったものに改良を加えないから、永遠にこの句の秀逸さは聞き手に伝わらない。
かつて林望氏がNHKの教育番組で、太宰治の「富士」をとりあげて、句読点の効用を語っていた。「富士には月見草が似合う」という一文の、どこに太宰は句点を入れたかと。「富士には月見草が、似合う」か「富士には、月見草が似合う」かのいずれであるかと、前者は富士と月見草が一組になって平面状に均一に置かれている印象を与え、後者は富士と月見草が分離されることで、遠近法を感じさせる文になっていると林氏は解説していた。
俗におしゃべり、語りの専門家と呼ばれる噺家に、今、先の句を考えて演出する腕を持つものはどれほどいるのだろうか。「明烏」(堅物の若旦那が、町内の札付きにそそのかされて吉原に遊びに行く話)なぞ明るい話は、従来の切り方で入っていくのが一番であろう。「お直し」(元女郎の妻と亭主が食べるに事欠き、女房に元の仕事をさせる話)の枕にこの句を用いて、露伴翁の切り方で演出したら、さぞ「お直し」の悲哀と滑稽が浮かんでくるのではないか。もっとも、昨今の携帯小説やら、流行作家の作品を目を通してみれば、小生の言う演出なんて無駄に過ぎないような気がしないでもない。
日本史の教育も危うくなっている今日、国語教育なんてものに期待できないのは百も承知だが、句読点の使い方をしっかり教えるなんてのは夢のまた夢の話なのかもしれない。巷間、国語の勉強といえば、漢字の読みばかり。漢字で頭を鍛えるのに夢中な国民に、かつて日本人が有していた惻隠の情を知れなんて、船でゴビ砂漠へ行けというもの。せいぜい身の丈にあった使い方と言えば、流行の「KY」程度である。もっとも小生のこの話こそ、巷間落語を楽しむ方には「KY」な奴の戯言なのかもしれない。
「闇の夜は吉原ばかり月夜哉」の句で、噺家の切り方と露伴の切り方が異なり、異なると、前者は明るい色噺、後者は一葉女史の苦界じゃえという哀しい話になる。噺家は「闇の夜は、吉原ばかり月夜哉」といい、『文七元結』、『蔵前籠』、『三枚起証』、『明烏』なんて噺になる。露伴翁は、この句を「闇の夜は吉原ばかり、月夜哉」と読んだ。勿論、句であるから、句読点はない。ないが読み手によって、どこに句点を入れるかで世界が逆転してしまう。それだけこの句が秀逸である証拠だ。が、噺家の句点の入れ方は、「古典」となったものに改良を加えないから、永遠にこの句の秀逸さは聞き手に伝わらない。
かつて林望氏がNHKの教育番組で、太宰治の「富士」をとりあげて、句読点の効用を語っていた。「富士には月見草が似合う」という一文の、どこに太宰は句点を入れたかと。「富士には月見草が、似合う」か「富士には、月見草が似合う」かのいずれであるかと、前者は富士と月見草が一組になって平面状に均一に置かれている印象を与え、後者は富士と月見草が分離されることで、遠近法を感じさせる文になっていると林氏は解説していた。
俗におしゃべり、語りの専門家と呼ばれる噺家に、今、先の句を考えて演出する腕を持つものはどれほどいるのだろうか。「明烏」(堅物の若旦那が、町内の札付きにそそのかされて吉原に遊びに行く話)なぞ明るい話は、従来の切り方で入っていくのが一番であろう。「お直し」(元女郎の妻と亭主が食べるに事欠き、女房に元の仕事をさせる話)の枕にこの句を用いて、露伴翁の切り方で演出したら、さぞ「お直し」の悲哀と滑稽が浮かんでくるのではないか。もっとも、昨今の携帯小説やら、流行作家の作品を目を通してみれば、小生の言う演出なんて無駄に過ぎないような気がしないでもない。
日本史の教育も危うくなっている今日、国語教育なんてものに期待できないのは百も承知だが、句読点の使い方をしっかり教えるなんてのは夢のまた夢の話なのかもしれない。巷間、国語の勉強といえば、漢字の読みばかり。漢字で頭を鍛えるのに夢中な国民に、かつて日本人が有していた惻隠の情を知れなんて、船でゴビ砂漠へ行けというもの。せいぜい身の丈にあった使い方と言えば、流行の「KY」程度である。もっとも小生のこの話こそ、巷間落語を楽しむ方には「KY」な奴の戯言なのかもしれない。
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