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笑わぬでもなし

世相や世情について思いつくまま書き連ねてみました

「拉致問題」一言

2006-04-14 | 時事
 賢明なる読者諸兄は、既にお気づきのことと思いますが、何かあると必ず現れるのが、北朝鮮であります。何に何があるかといえば、自民党に何かあれば、小泉内閣に何か都合の悪いことが起きれば、必ず出てくるのが北朝鮮問題ということです。横田めぐみさんの夫に当たる人物が韓国で拉致されたという事実が公表されました。横田夫妻を始めとする拉致被害者の会の方々は、自分達の問題が政争の具にされていると機会ある毎に漏らしておりましたが、今回の発表もまた、そのような胡乱さがあるように思えます。
 壊し屋なる異名を持つ小沢一郎氏が、民主党の党首に就くや否やの発表であります。堰切ったように、ホリえもん、耐震偽装の張本人に詐欺罪を適用逮捕させ、すべてなかったようにしております。命は旦夕にせまっているというのが、横田夫妻の本音ではないでしょうか。一刻も早く救出、真相解明をして欲しいにもかかわらず、小出しにしてくるのは、北朝鮮の側にだけ問題があるのではないと思ってしまいます。
 昨日の友は今日の敵という立場になった鈴木宗男氏の外務省への反撃も相俟って、内閣と外務省が結託してまるで国民の目を逸らすかのようにの発表です。
 それとも水面下で、じわじわとこの拉致問題を一気に解決する策でも練っているのでしょうか。じゃぶじゃぶと金をつぎ込んで、はい解決なんてことはないと思いますが、小泉内閣は、まるでどこかの政府とそっくりです。国内に何かあれば、外交に逃げて、国民の目を逸らす。流石に「悪の枢軸」とか「ダークサイド」なんてどっかで聞いたような言葉は、はかないのですが、キャッチフレーズだけは一人前であります。
 このように、あちらだけでなく、こちら側にも焦燥感を募らせることで、輿論操作の布石にしているのではとも考えてしまう小生であります。

死んでも死にきれない

2006-04-12 | 時事
衆議院で医療保険制度の法案の質疑が民主、野党なしで行われたと本日のネットのニュースで知りました。老人医療に関しては、現役並みの収入がある人には、若者同様に医療費を負担してもらう。健康促進法なるもので、病気にかからないように努力してもらうという内容であります。
 今回の改正について思うのは「現役並みの収入」とは一体いくらであるかということであります。年金以外に、定職を持って会社等に勤めているということが一つの目安であったと思いますが、全体この定職というものをどのように定義するのでありましょうか、年収という規定を設けるのであれば、問題なしと考えますが、しかしながらそれによって当然、病院の格差が益々開いていくような気がします。保険適用外の治療を進んで行う病院は、それを求めるに足る収入のある階層、患者が集まるでありましょう。一方で、それができない病院は、保険適用の患者によって占められていくと予想されます。それによって病院経営というものが、成立し難くなり、公立病院などは運営が立ち行かない、更には病院を維持するために公的資金、即ち税金投入、住民税の高騰という事態が生じるのではないでしょうか。町村合併、道州制の導入と言うのもどうやらこのような事態を回避するために、もう少しいやらしい見方をすれば、現行の公立病院が万が一減っても、市町村に最低一つは出来るという論法を立てているような気がします。即ち、都市部における病院の過疎化を助長しやしまいかという危惧を小生は抱くのであります。そして、更にこの背景には、例の団塊の世代の多さというのも絡んでいるのでしょう。しかし、団塊の世代がこの先、永遠に行き続けることなどありますまい、やがて高齢者の人口も減ってくるかもしれません。さすれば、富める高齢者の数と貧しき高齢者の数もまた、現在、もしくは十年、二十年前の水準になるのではと。少々楽観的な見方かもしれませんが。つまるところ、小生、この法案が時限立法のようなものであればよいと思うのですが、審議可決された暁には、どうも怪しいと睨んでおります。だって旧土人法なんて明治につくられた法案を改正するのに百年近く掛かったお役人集団であります。
 国会議員、お役人の方々は、病院の格差を出さないためにも病気にかからないよう健康促進法を立案したのだというかもしれませんが、それがアンチエイジングとかローハスとか横文字を使われてもなんだかねえという気がします。それにそこまで言うなら、BSEとやらも真剣に取り組んでもらいたいものであります。まさか、そこまで「自己責任」などという耳朶に心地よい言葉を並べるのではないのでしょうね。
 人生幸朗師匠ではありませんが、「責任者出て来ーい」と怒鳴って出てこなかったのか、かつて「無責任体質の日本」と呼ばれたわが国でした。二十一世紀になって、責任者と叫んだら「もう一人の自分」が出てくるのが、わが国なのでしょうか。それとも、自己責任とお題目のように唱えて無責任を作り出す仕組みでも拵えたのでしょうか。そういえば、お役人と政治家は「言い換え」、「組み換え」が大好きでした。

小沢さん

2006-04-07 | 時事
民主党の党首に小沢一郎氏が就任したが、その前の党首、そして騒動を起こした議員を見ているとどことなく今の日本の会社組織の一端を垣間見るようであります。即ち、米国流とか何とかに囃されて若きエグゼクティブとかリーダーとか祭り上げたのものの、政治の仕組みなり、組織の成り立ちが解らずに、単に「壊す」というだけで目標が完結してしまい、つまるところ周りと違うことを目指していて同じことしか出来ないという縮図を見せられている気がするのです。
 満を持してというべきか、それとももはや最後の望みというべきか、小泉何某の論法なり手練手管に勝てる才覚は、小沢さんにしかないということなのでしょう。敵を知り、己を知れば百戦危うからずとは孫子の兵法でありますが、自民党に長くおり、その組織のありようと手練手管を見てきた人物と、勢いに乗って「改革、政権奪取」と叫んでいるのでは雲泥の差であります。
 確かに日本の社会が行き詰まりを見せています。国際基準、勝ち組、負け組みという単純な物差し、(偏差値にも似たような物差しでありますが、それゆえある世代のある人々には圧倒的に支持されるのかもしれません)を使って仕組みなり組織なりを改変しようという作業は面白くもあり、血湧き肉踊ることかもしれませんが、改変、改革には、もう少し別の言い方をすれば物を壊したら、壊したなりの責任があるということであります。こわすとこうなる、壊した後はこうするだけでなく、壊した際に出たごみ、残骸をどうするまで考えないといけないということであります。小生が民主、小泉内閣に抱く危惧は、実は壊した時に出る残骸をどう処理するかという視点が考えられていないということであります。これまた先ほどの物差しではありませんが、「セイフティーなんとか」という言葉でごまかし続けているのが今の日本の実情ではないかと。
 最近巷間で「勿体無い」という言葉がもてはやされるのも、どうやら年長者の知恵には敵わないということの証ではないでしょうか。
 小沢代表が、かつての自民の手練手管を駆使するだけならば、時代の趨勢とやらに呑吐されてしまうでしょう。その手練手管に一工夫を加えた先に、民主党の悲願でもある「政権奪取」があると、そしてその手練手管とは、かつての代表や、永田何某をほっておいた残酷さなのかもしれません。

「さん」づけなら「奥さん、旦那さん」で間に合う

2006-04-01 | 時事
病院でのコミュニケーション能力に関して、以前本欄で書きました。聞けば、この度、患者を呼ぶ際には、さんづけにせよとのことである。年寄り扱い、幼児扱いされるのに違和感を覚えるという話が以前議論されたことがあります。今回は、それを受けてか、それとも昨今の医療もサービス業の一つであるという「米国流の資本主義」の見方を受けてか、わからない。誰にでも「さん」づけするという発想の底にどこかしら違和感を覚える。
 呼称とは人間関係の距離を表現するものであり、初対面の人に「ちゃん、くん」をつける人はまずいない。田中さん、鈴木さん、佐藤さんから、始まり互いの距離が縮まるにつれて、ちゃん、くん、もしくはあだ名で呼び合う間柄になる。
 病院という、正確には病室という場所はある意味で特殊な場所で、社会性がややもすると損なわれることもある。それは闘病という状態にいる人間達が、一日も早く社会復帰をするために、健康回復に先進するがゆえに、人との接触が限定されてしまうという意味であります。患者同士で仲良くなることもあれば、日々、検温、食事の配膳、点滴の交換などで接する看護士とも人間的な距離感の遠近が生じてくるであろう。幻想かも知れぬが、看護士をわが子、我が孫の如く感じる老人がいたって不思議ではない。逆に、看護士の中にも、自分の父、母、祖父母を重ねるものがいたところで一向に構わない。なるほど均等な介護、平等な看護は必要であろう。呼称によって生ずる人間関係の親密度で、可とも不可ともいえぬ、黒白のつけられぬ問題も解決できようと思うのだ。
 今回の一律、「さんづけ」には考えることを放棄した人間の所業に思えるのだ。即ち、ある人には、「さん」をつけ、ある人には「おじいちゃん」と呼び、また別の人には「さま」をつけたりするのが、本来あるべき姿ではなかろうか。勿論、これは患者側からの視点で、看護する側の視点で言えば、相当億劫かもしれない。だが、看護士の個性が認められるような職場なら、その看護士が使いたい呼称で患者を呼んでも構わないとも思う。医療業務に差別はあってはならないが、看護の方法は、看護士が100人いれば100通り、患者が100人いれば100通りあるはずだと思うのだが。まるで田中康夫氏の文体を真似るようで気が引けるのだが、ホスピタルの語源はホスピタリティー即ち、「もてなす」という意味ではなかったか。
 お茶汲みは女性蔑視であるから、湯茶は自販機でと、ある時、一斉に職場から私物である茶碗を撤収させた。湯茶を汲むのは面倒でないが、湯飲みを渡したり、渡されたりする際のちょっとした会話が減った。無駄口が、無駄な労力が減ったので、仕事の効率が上がったかと言えば、小生には上がったように見えない。
 聞けば、看護士の不足を補うために、海外からも人材を求めるらしい。今回の一律「さん」づけは、日本語がままならぬ看護師のための策か。看護の平等、均質という錦の御旗を立てて、一律「さん」付けにしても構わないが、為に医療技術が下がり、病院に入ったとたん「仏さん、ほとけさま」のような扱いだけは、小生望みません。

国境のトンネルを抜けても

2006-03-25 | 時事
野球の世界大会が無事終了し、日本が優勝という結果に終わった。視聴率がどうのと騒ぎ、韓国の報道を取り上げていたが、韓国のヒステリックな反応に閉口しながら、ふと考えたのは、あれは日本が中国に対してヒステリックに騒ぎ立てるのと同じ構図ではないかと。確かに中国の反日教育、韓国の反日教育は見ていて気持ちがいいものではない。フランス、イギリスが反独教育を行っていると皆目聞かない。アメリカが太平洋戦争時の日本を独裁国扱いしているのは聞いたことがあるが。
 小林信彦氏が、戦時中の対中教育を書いてあった。小林氏が小学生の頃、教師から教えられた中国人に対する心構えというものは、「中国人の面子をつぶすようなことは決してするな」ということであった。ましてや中国人に対する蔑称なぞ使う人となぞいなかったと。勿論、これは小林氏の周囲であって、それを敷衍することはできないが、小林氏は、今の対中報道のあり方に苦言を呈していた。
 往時の教師が「面子」を保つように指導したのは、「勝者の、持てるものの余裕」でもあったろうと推測する。
 韓国のヒステリックな報道に対しては、冷ややかであるが、中国になると最近のマスコミは頓に反応する。確かに昨年の春先に中国で見られた反日デモとそれにともなう破壊、暴力行為は、いただけない。しかしながら、件のマスコミの過剰な反応は、日本人の潜在的意識に中国脅威を通り越して、日本がこの先、アジアの中で先進国としての地位を失うことを恐れているように思える。端的に言えば、日本にゆとりがなくなったということである。それとも、単なる前時代の反動なのか、ソ連べったりから中国べったりは、朝日のお家芸であった。ソ連はなくなり、中国は資本主義へと、さらにはエネルギー獲得に邁進している。共産主義で発展するなら許すが、資本主義になるなら許すまじという腹積もりなのか。
 韓国のマスコミの愚かさにも閉口するが、わが国のマスコミにも相変わらず閉口させられる。羽織ゴロは国境を越えるということか。

パラリンピック

2006-03-20 | 時事
パラリンピックで日本人が大活躍している。金、銀、銅メダルなら取り放題である。視覚障害者の射撃では、標的に照準が合うのを知らせるのに、聴覚を利用すると聞いた。肢体不自由者のスキー選手は、過去3度もメダルを獲得しているとも聞いた。彼女曰く、金メダルでなければ意味がないと。理由はスポンサーがつかないからだと。
 パラリンピックは、近年開催されていることは告知されても、スポーツ欄で大々的に取り上げられることは少ない。民放では放送しない。夏には一日中電波を垂れ流して、感動を押し売り局すら見向きもしない。一人「皆様の」放送局が教育テレビの枠を使って知らせてくれる。視覚障害者のバイアスロンを見たが、奮闘する選手もさることながら、伴走する相手も大変である。スキーなぞ数えるくらいしかしたことのない小生には、山を上り、坂を滑り、平地を歩くのを見ていると、筋肉の鼓動が伝わってきて、思わずこちらの足がこむら返りをするのではと思ってしまう。伴走者との呼吸も見事なもので、阿吽とはよくいったものである。つかず離れず、さりとて妥協を許さず。選手の耳に聞こえてくるのは歓声の間に響く伴走者の声、スキーの音、そして順位を争う選手の音とその伴走者の声であろうかと画面を眺めながら察してみた。スタート、ゴール付近はまだいい。坂を上って木立が並ぶコースでは、まさに音がもたらす緊張との闘いではなかろうか。それこそ視覚以外の感覚を研ぎ澄まし、顔に当たる風や光を感じ、近くに聞こえる伴走者の滑走する音を聞き分ける。目が見えぬとて一流のアスリートである。その肉体能力に劣った伴走なら不要となるだろう。伴走者も己の技量を磨かねばならないまさに一蓮托生、二人三脚である。
 どこかの国では、オリンピックが開催されるたびに、自国のメダル獲得数、他国との比較対照表まで作って大騒ぎする。これを機会に電化製品まで買い換えるというつわものまでいる。なれど、パラリンピックではそっと触れるだけである。その選手の横顔、生い立ち、美談が取り上げられることはまれである。にもかかわらず、感動を、元気を分けて貰えたと言うが大好きな国民がたくさんいるという噂である。そういえば、24時間電波を垂れ流す番組で、障害者のアスリートの物語を放映していた記憶がある。
 金メダルを取ってこそ絵になる、ものになるというなら、件の肢体不自由スキーヤーがいる。彼女を主人公にしてドラマ、映画を作ってはどうか。興行収入の何割なんてけちなことを言わずに、全額、身障者のスポーツ振興に寄付してはいかが。彼女のような活躍をした選手が引退した後には、どんな仕事が待っているのだろうか。普通ならば後進の育成と言う名目でコーチ、監督なぞ指導者の道がある。彼女にもその道があるのか。日本の大手スポーツメーカーは、その技術力をパラリンピックにも活かされているとも聞いた。恐らくは各メーカーの篤志家がそれを支えいるのではなかろうか。
 景気が上向きになっていると巷間喧しい、税金対策であろうと売名行為であろうと構わない、パラリンピックで活躍するアスリートを支援しておくれと。
 感動嫌いのつむじ曲がりからの願いである。

グーグルとWeb2.0 完結

2006-03-04 | 時事
基督教が性善説に立脚しているか否かは、浅学の小生にはわかりません。しかし昨日、引いたeベイの創業者の言葉が、あたかも布教活動に熱心なイエズス会なり、協会の組織にいる言葉に似ているようで、どことなく違和感を覚えるのであります。
 梅田さんの本の中には、情報の自然淘汰、玉石混交の中から玉のみが残っていくという視点が提示されておりますが、それとても、アダムスミスの「神の見えざる手」を彷彿させるようでいて、事態はそのように楽観的に進んでいくのだろうかと懐疑的にならざるを得ません。だからといって安直にネット社会、「あちら側」を否定するつもりはないのですが。梅田氏の本の内容をあくまでも恣意的に並べただけの感想で、いささかというか大分説得力に欠ける話かと小生も書きながら思っているのですが、ネット社会の根底にある性善説と、この道具を手にしなければ社会格差が生じるような気配に、そんなに楽観的でいいのだろうかと。それは、ややもすると宗教観の差異が、今日のネットのあり方を規定しているのかもしれません。キリスト教圏と仏教圏、さらにはイスラム教圏、それらの宗教なり因習が持つ力が、あちら側の世界でも、今後目に見える形で展開されていくのではないかと。勿論、政治体制なり社会風俗も、その遠因となるでありましょう。グーグルのいう「知の整理」とはあくまでもある文化圏の基準であり、そのルールを理解したり、もしくは基準を満たしたものだけが参加できる整理にはなりはしないだろうか。そんな疑問も頭に浮かんできます。
 三回に亘り、柄にもないことを書き連ねてしまいましたが、古人曰く、「機械あれば必ず機事あり、機事あれば機人あり」と。

承前 中途で申し訳ない。

2006-03-03 | 時事
神の視点を手に入れて、一体何としょう。遍く知識を整理して何としょう。三人寄れば文殊の知恵なりで、一向解決せぬ問題も、蝸牛の歩みながらもよい方向にむかうでありましょう。
 さて、昨日の続きですが、グーグル、Web2.0の背景に、キリスト教の持つ力を嗅ぎ取ると申しました。それは昨日も申し上げたように、「神の視点」と「リンクという民意だけに依存しているから民主主義」という言葉に象徴されているということです。なるほど、コンピューターのネットの世界とは、「求めよ、さらば与えられるであろう。捜せ、さらば見出すであろう。門を叩け、さらばあけてもらえるであろう。」の聖書の文句にそっくりの作りであります。
 ところで、キリスト教とは性善説に立脚するものなのでしょうか、それとも性悪説に立脚するものなのでしょうか、浅学菲才の小生にはいずれかわかりません。ただ気になったのは、eベイの創業者の言葉、「人々が善だという信念から始まるんだ」です。
 尻切れトンボで申し訳ない。明日には完結させるつもりです。すいません。
 

グーグルとWEB2.0

2006-03-02 | 時事
 先日来、考えていたこととはネット世界と言うものについてであります。それが良い悪いという評価を下すつもりはありません。梅田望夫氏の「ウェブ進化論」を読んでの感想でもあります。あくまでも恣意的に言葉を並べただけでありますので、かような論理展開になるものと考えてお読みくだされば幸甚であります。
まず、グーグルという会社について、どのような会社であるか、小生なりに理解したつもりでありますが、その中に「神の視点からの世界理解」という項目や「リンクという民意だけに依存して知を再編するから「民主主義」云々」という言葉を散見するに、ネットの裏側に潜む一種の信仰を感じるのであります。それはネットの神の信仰という本書で用いられているのとは異なる、もっと根本的信仰、即ちキリスト教のもつ力のようなものを感じるのであります。
 キリスト教の布教の歴史、今日の世界で最も売れてる本が聖書であるという事実から見ても、この教えを信ずるものには幸いがもたらされる、それによって人は神の前で等しくなれるという思想がその根底にあるものであります。神の視点からの世界理解とは、二十世紀ならば、俯瞰という図でありましょう。人類が俯瞰という図を、等しく手に入れたのは映画と航空機の発展によるものと考えております。「イントレランス」を制作したグリフィスが創造した映像は「パノラマ」というものでありました。俯瞰という視点は、それ以前は一部の特権的なものにしか開放されておらず、「一般大衆」が手に出来たのは映画という技術の恩恵であると。もう一つは、航空機であります。飛行文学の先駆者といえば、サンテグジュペリがおります。日本では「星の王子様」の作者として有名でありますが、彼の初期の作品は、ゲランの香水の名にもなった「夜間飛行」、「南方郵便機」というものであります。これらの作品の中には操縦席から見た地上の様子、そして人類が目にしたことのない空の風景でありました。航空機の発展は、著しいものであり、人々の輸送手段として世界のあちこちだけでなく、月へも到達せしめるものにと変じたのであります。即ち、映画と航空機は「俯瞰」という視点を遍く人々に開放したという意味で、民主化を進めたと考える次第であります。そして、今日、グーグルアースという地図で得られる俯瞰図は、かつては「宇宙飛行士」という特権的な人物でなければ得られぬものでありました。そしてもしこの世に神というものが存在するならば、まさに神にしか持てぬ視点であったでしょう。我々はコンピュータ、ネットというものを使って容易にその視点を得ることが出来るようになったのです。
 グーグルが「知の再編」という錦の御旗をもってして「民主化」というのもむべなるかであります。そしてグーグルの行うこともまた、今世紀のパラダイムチェンジに貢献すること大なりといえるのでありましょう。 この稿続く。


二八ゆえの五輪

2006-02-12 | 時事
オリンピックが始まったというが、金儲けと故郷再生論に組するものである、ついでに言えば一所懸命という高校野球の延長、即ち道徳の類だから、今更何も思わないが、それでも、原田が体重調整で失格になったというのを聞いてなんともいえぬ違和感を持つ。原田自体に問題があるのではなく、猫の目のように規則を改変していくなんとか連盟とやらの存在にである。冬季で荻原が活躍したのはリレハンメルだったと記憶する。長野では日本のジャンプ陣が活躍した。僻みに近いのかも知れぬが、日本人が活躍するとルールが改変されるのはなぜだろうかといつも考えてしまう。そこに人種差別があるからか。記録を出そう、表彰台の上に一人でも立たせようと、選手だけでなく道具を扱うメーカーまでも努力してきた。尻押ししているとはいえ、日本だけでなく海外の優秀な選手があれだけ使っているのだから、日本のメーカーの技術力は秀でいているのであろう。
 道具を共有できても技術を共有することは時間がかかる。その時間差をどこで埋めるか、それが規則の改変につながってるのだろうか。日本人の身体特性を考え、少しでも滞空時間、飛距離を出そうと選手、コーチは必死に模索した。模索してV字を考えた、板の長さを考えた、考えて大会で成果を挙げるようになると、挙って真似るかといえば、挙って不平を述べ、こちらがひるんでいる間に、その技術を自家薬籠中にした。
 その様は、缶ケリで鬼ばかりやらされるから、拗ねる子供と同じである。呆れていいはずなのに、人がいいのかそれとも別の思惑があるのか、日本人は付き合っている。
 サッカー王国ブラジルは五輪を疾うの昔に見切っている。バスケット、野球の王国アメリカも宣伝効果が認められないと思ったら、さっさと踵を返してコート、グランドに戻っていった。
 五輪は特別という、なるほどそうかもしれない。文化度の成熟が低い国には、特別であろう。何しろ国威発揚の場である。戦争、災害、出産でもなければ国なんてものは考えない。
 競技人口のすそを広げねば、選手のことを考えよというかもしれない。日本は世界に冠たる広告会社を有している。その競技を米国同様に盛り上げる術を電通にでも考えてもらえばよい。選手が安心して競技できる環境を作ればよい、作って選手、指導者、技術者は研鑽に励むのである。記録が並べば、必然優秀な海外の選手が集ってくるだろう。腕試しに道場破り、名目はなんであれ一つ胸をおかりしたいと。世界選手権で入賞、優勝することは、それほど大したことではないのか。五輪では、良い結果が出なかったとしても、世界選手権で勝つことは、それに等しい、それ以上のことかもしれないのに。
 オリンピックが小見出しになればいいのにと思うのだが、あれも紙面の調整か。ならば紙面を埋めるにはもってこいの季節か、俗に「にっぱち」という。「にっぱち」は日本だけでなく、万国共通かとテレビを消す。