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笑わぬでもなし

世相や世情について思いつくまま書き連ねてみました

衆に頼めば

2006-11-01 | 時事
単位取得問題で、学校長が自死するという事態がおきました。死者に鞭打つようでありますが、いささか見当違いではないのかというのが小生の実感であります。進学、進路が決定している生徒に対して、今回の事態の収拾のために何をするのかを具体的に示し、かつ関係各位に生徒に不利益にならぬように便宜を取り計らってもらうよう奔走するのが筋であったのではないのでしょうか。勿論、それに伴う大きな代償があるでしょう。教師には休日出勤やら、早出に残業と、生徒を登校させるのも容易ではないでしょうが、やはり、しっかりと対応策を作成するのが先で、まるで、殉死したかのごとく、これを機会に文科省やら代議士が、やむを得ぬというふうに収めていくのが目に見えています。どこぞの政党が、軽減を訴えているというのを聞けば、怪しや、利害関係のある高校でもあるのかしらと疑いたくなります。そもそも、進学率とか抜かして、本来高等教育を受くるに値するかいなかもわからぬ生徒を無理やり大学に押し込み、あげく分数もできない学生を作り出し、果ては、器物破損、強姦、殺人まで犯す大学生までが出てきました。藤村操はとおき昔になりにけりであります。
 衆を頼んで、物事がよきに計らわれるというのは、まるで赤信号云々であります。かたや単位不足で、3年生になっても、2年生の授業に出て単位をとるものもいるでしょうし、専門系の学校で履修をしてしっかり単位をとる学生もいます。思い起こせば、住専、不良債権もそうでした。大人としてのけじめなりがこんなにもあいまいになった世で、教育改革なぞ出来はしまい。
 それに卒業できないというが、生徒によってその深刻度が違っているはずであります。就職する場合には、それこそ内定取り消しの事態もありうるでしょうから、優先的になるでしょう。進学ならば、専修学校か大学かでもかわってくるはずであります。小生には、このように状況を分析するのが面倒くさいから、一緒くたにしてなんとか片付けてしまおうという風に見えてならないのです。大学なんぞ、全入時代で、しかも定員不足の学校が出てきていると仄聞します、ならば足元でもみてやれば、大学入学を認めておきながら、単位取得の為に高校に通うことぐらい黙認するでしょうし、一風変わったWスクールというものであります。衆に頼んで物事が片付くということを覚えたならば、次から次へと無理を通すに違いありません。かつては衆に頼んで、デモ、ストをやったが成果ににつながらなかったのですが、今日びの大人は、衆に頼めばなんでもやってくれるキャラメルママの類いゆえ、これを機会に高校生には、デモ、ストという言葉を覚えてもらえたらどうでしょうか。 

帳尻あわせ

2006-10-26 | 時事
卒業単位が足りないと騒いでいる高校がある。受験勉強と進学率を上げるために、不必要なものを切り捨てた代償である。公立高校で見つかり、あとは芋づる式で、ぞろぞろ単位不足の高校が出てきた。公立高校だから問題になるので、私立高校なら五万とあるだろう。大学生の学力低下が嘆かれたのは、もう5,6年前になる。分数の出来ない大学生、高校で履修すべき過程を修めておらず、大学に来て高校の授業の補習を行うなんて話もあった。
 家庭のしつけができていないから、学校が困るというが、今回の顛末を見て、所詮は棒組みである。アメリカ人が国内のことにしか目を向けないのはつとに有名だが、世界地図のかけないアメリカ人を笑えるような時代は疾うに過ぎた。フランスの首都、イギリスの首都、アメリカの首都、世界地図が描ける、日本地図が描ける学生が今どれだけいるか。
 美しい国というが、自国の歴史、地理に暗く、加えて世界の地理にも暗くて、どうして自国を尊ぶ気持ちが起ろうか。駅前留学させて、肝心なことを教えずに外国語を学ばせて国際人の育成とは片腹痛い。
 雪印に、なんとか銀行、リストラとすべては数合わせ、帳尻あわせと拳を振り上げたはいいが、なに、教育、人材育成というところでも同じことをしていただけである。即戦力だの、専門職だの、企業は大学に求めるが、その大元を辿っていけば、余った牛乳をふたたび鍋、窯に入れているのと変わらない。わが子だけは違うと思うのは親の贔屓目であって、一度、入社試験、入社、させてみればわかるはず。子供は先を読まないから、目先の目的を達するためなら、不要なものは勇んで捨てるだろう。捨てる浅墓さをたしなめるのが分別のある大人であるが、学校、社会を挙げて捨てさせている。
 ある意味、言うのも憚れるが、高校生は犠牲者でもある。心配することはない、帳尻あわせなら、ない知恵を絞って片付ける「大人」がいるだろう。繰り返すが、高校生は犠牲者でもあるが、そういう大人を小ばかにするたくましさぐらい、せめて気の利く親、大人が授けてくれまいか。

身を美しく

2006-10-17 | 時事
いじめのニュースが喧しいが、出てくる校長、教育委員の発言は一昔、二昔前と変わらない。当今では、子供同士のいじめに大人も加わるのだなと。人は他人のことに思いを馳せないと言ってはそれきりであるが、実際、ああまで自分のことにしか思いを馳せられない大人を見ていると、本当に大丈夫かいなと呟きたくなる。文科省の青少年の自殺の原因にいじめがないとして10年の統計が出ている。そんなばかなと思うが、警察庁の死亡事故件数、年金の負担額、消費税の負担率、郵政民営化、道路公団、出てくる数字はみな同じである。初めに数字ありきで算出方法を考え出すから、見事にきれいな数字が並ぶ。末広がりに、ラッキーセブン、いの一番、洒落で数字を出す遊び心があればいいが、洒落が通じぬまじめ人間ばかりであるから、必ず無理が生じる。どうしてそんなことにと言うが、出した本人はまじめもまじめ大まじめである。
 いじめを看過した教師だって、語らせればまじめ人間の塊である。教育熱心なんて声も聞こえてくるであろう。小学生に対して偽善者なんて吐くのは、自分にやましいところがないから吐けるのであるのであり、疚しいところがあれば、子供を捕まえて偽善者なんてはけるわけがない。吐いているのは、子供だけである。子供は大人の口真似をする。原爆許すまじと書けば、子供も倣って書く。してみれば、教師がいじめに加担、教育委員会、校長が片棒を担いでいるのだから、子供が子供を教えているに過ぎない。学校ごっこである。
 小学校で、子供が教師に向って何かと教育委員会に訴えるなんていうと聞いた。どこで覚えてきたのか察しはつくが、俗に何とかと刃物の類である。子供なんてものは、先なぞ読めぬから、吐けば相手が竦むのをみて、これ見よがし使うだろう。
 子供、畜生なんてものは、それこそ最初の躾が大事で、しつけ損なって、英語に水泳、野球に、音楽なんてものをやらせている。当今は格闘技も入っているらしいが。政治家は、公教育で躾けの充実を言っているが、少子化にも拘らず私立学校の進学率が増えている実情をご存知か。しつけのできていない子がいる学校よりも、少しは、お手、おかわりの類が出来る子がいるところへというのが親の心情であろう。私立学校であるから、当然、お手、お変わりの身につけられない子はどこかへいく。どこかは公立である。益々格差が広がる。今秋より、都内の公立校で中高一貫教育校の選抜が行われる。学区なぞは無視したものになるらしい。公立でも格差を広げ、躾けのできる学校、できない学校、お勉強のできる学校、できない学校と作っていくらしい。かつて高校を揶揄するのに普商工農ともじった。コーポレーションアイデンティテイーとかイメージ戦略とかで、商、工、農の文字を取った学校が増えている。上手く迷彩を凝らして学問なり、そこで修める技術なりを糊塗してしまった。いよいよ、居住区の格差を躾けの充実とやらで糊塗しようとするのか。躾なら、ヨットスクールがある。これは厭味でもなければ、揶揄でもない。いっそのこと、小学校の三年間は、ヨットスクールなんて名の学校にしたらどうだろう。カタカナの好きな総理大臣が「美しい国」を作るらしいのだし、本字を忘れて、英語に熱を入れる国だもの。

消火器よりも一声運動

2006-10-16 | 時事
案の定、探りを入れるべく持ちますか持ちませんかを話合う機会ぐらいはという発言が出来た。その様は、まるでおさわりバーに行くが如くである。ここまでなら、こまでなら、何もしないからと迫っては、いざとなったら、けつをまくる。保身と先を読めぬのは、相変わらずである。
 何をするかわからぬ不逞の輩ですぞ、いざ何かあったらどうするんですかとは、恫喝の類である。何かを考えておくだけでもとせがんで、そのうちに備えあればになり、挙句、持ってみたもののどうしていいか、わからない。まるで、一家に一つある使い古しの消火器になるのは明らかである。
 持てば、もっと欲しくなるのが人間の欲である。テレビなぞは一台もあればたくさんなのに、二台、三台と持つ。コンピューターとて同じことである。携帯も同様。新機種が出れば、変更に変更。仮に持ったとしよう、ならば最低基準はどこに置く。向うよりもましなものなのか、それとも欧米並みにするのか、実験場はどこにする。米国が喜んで貸してくれるというのか。ハワイや東南アジアでは、素人でも実弾が撃てる場所があるが、ことは違う。臨界でいいから一つどうです、撃たしてもらいませんかねと揉み手で猫なで声を出しても、無駄であろう。世界の巨万の富を一手に掌握し、それこそ、日本とつかない土地はないなら別であるが。
 論じるよりも明らかなことに無駄な時間を費やす必要があるならば、もっとほかの事を考えたことがいいのに。
 渡世人のことは詳らかではないが、それでも殴りこみをかけに行くのは、三下であると聞く。何年か臭い飯でも食べてくれば、箔がつくのが渡世人の世界だが、殴り込みをかけて、箔がつくような国際情勢ではない。
 国連会議で、一方的に自分の意見を述べて立ち去る姿を見たが、あれはかつての日本の姿ではなかったか。恐らく、かの国の報道では、畏怖堂々の退席と報じているだろう。よく見れば、聞かん坊がすねてるだけである。
 一つ、ここは持つとか持たないとか論じる前に、抱える膝はあるのか、待っても誰も声なんかかけちゃくれねえよなんて、文句を考える議論をしてはいかがか。

病んだ雌馬

2006-10-12 | 時事
朝のテレビドラマで、藤山直美さんが好演している。失礼な言い方であるが、寛美の娘という呼称は不要になっていると感じさせる。すでに勘三郎と組んで芝居をしているから、今更と思うが、どうしてどうして、テレビ画面でも彼女の魅力は十分伝わってくる。間の取り方、表情の作り方、すべてが堂に入っている。原作は田辺聖子女子の本であるから、大阪が舞台になっているが、久しぶりに関西独自の表現に触れて嬉しくなった。曰く、八月のやり、姉の結婚式とすでに、話芸の中でしか聞かない表現がぽんぽんと飛び出してきた。果たして今時分に、このような表現を関西の人は日常の中で使っているのだろうか。京の茶漬けはゆうめいであるが。
 外交はだましあいと言われる。隣国が物騒な、駄々っ子のようなことをして、厄介なことになっている。対中交渉も、安部政経のアキレス腱のように言われている。全体、日本はいつから話しべた、交渉下手になったのであろうか。件の関西の表現を臨機応変に使いまわして、無理難題も蛙の面になんとやらにできるだけの官僚、政治家が絶えて久しい。以前にも書いたが、田中真紀子大臣の時に、ゴマをするを直訳した外交官がいたが、これとても、「show the flag」といわれただけで、怯んでしまう始末もむべなるかなである。
 英語にも婉曲表現はあるし、なぞかけの様な表現もあるが、それとてもイメージから連想できるものである。対して、件の表現は、ひねって、ひねってすんでのところで止めているから、面白い。
 経済制裁を決定して、まずは世論の動向を探っているようであるが、安易に、どんぱちやら、核を持つなぞやめて欲しいが、どうも先生方は、ネットを駆使して、マスコミに働きかけて、その辺りを見極めようとしている。確かにテレビをつければ、先生方のお顔には、病んだ雌馬が映っています。
 念のため:八月のやりで ぼんやり 姉の結婚式で 値と相談 という意味です。病んだ雌馬はお考えください。  

そんなこともありましたなあ

2006-10-10 | 時事
タイミングがよいというか、日本のマスコミ動向を掴んでいるから、しっかり新聞の休刊日に、事件を起こしてくれました。テレビを見ても、秋空のうららかな日と同様に、何事もなかったように不倫に、殺人事件、アクションもののドラマ、人生相談、美容と健康情報に満ちておりまして、なんとも複雑であります。あまりにも日常的に振舞っていることが、情報管制しておりますような気がしまして、不気味であります。一方で町の声なぞ拾って見せてるところでは、「日本はこのままでいいのか」、「なめたまねしくさりおって、いっぱつやったらんかい」という下品な発言はありませんでしたが、まあそれに近いものやらがありました。公平、不偏不党の錦を掲げるマスコミは、もう一方の話も出しておりました。目下、「経済制裁」という切り札がいつ切られるかが問題であります。とりあえず、本日の報道を拝見すれば、入港禁止に、松茸なぞの輸入制限などを考えておるようで、前者は早々に行われる模様であります。
 ところで、経済制裁とは上手くいったもので、要するに兵糧攻めであります。かつて、イランの経済制裁の現状を語った本がありましたが、(毎度のことで題名を失念しました。すみません)、その本には、生活必需品から医薬品に至るまでないないづくしで、それこそ、先の戦争中、わが日本でも負傷兵につける薬もなくて、ヨーチンなり水で薄めた食塩水を塗ってやったという状況が、20世紀末の砂漠の国で起っていたという事実が述べられておりました。
 ミサイルをぼん、爆弾をえいとは、「見栄え」がいいですが、実は経済制裁こそが最も残酷で、制裁措置の効力があるものです。
 しかしながら、経済措置の惨たらしさを話したところで、どうかすると今の日本では「こいつはいいや、もっとやったらんかい」という火に油を注ぐ結果になりそうでありまして、かといって、かの国で邪なことを考えているのは一部の人間だけなのだから、「いっそのことピンポイントで一発いったらんかい」なんて意見も出てきそうで、いかんともしがたいことであります。
 報道管制がしける世の中、グーグル云々という世の中ならば、いっそのこと「無視」なんてことはできないでしょうか。何をやっても、何をいっても相手にしない。新聞報道、ニュースを流さない。国民に知らせるのは回覧板で、しかも隅にちょこっと書いておく。国際会議では、蕎麦屋の出前に徹する。

ニコラスケイジで二本

2006-09-27 | 時事
小生の嗜好がそうするのか、それとも世間の相場なのかわからないが、ここ最近、海の向うの映画は、9.11以後の世界、もしくは関連する作品が多いのであります。先日、誤って表記したバンデッタ(ナタリーポートマン主演)の作品、ニコラスケイジ主演の「ロードオブザウォー」と立て続けに見ました。前者は、未来と言う設定で、独裁政権に牛耳られたロンドンを描き、独裁政権を許したのは、他ならぬ皆様ではないかと語りかけます。後者は、ロシア移民が、腕、口先で国家間の武器商人と成り上がるものです。戦争に行かないのが助かる道だとニコラスケイジに言わせ、地面一杯に落ちたから薬莢が、金貨に見えるという映像が映ります。エンドクレジットには、世界の主要武器輸出国が挙げられて、常任理事国であると出ます。
 毎度無責任な表現でありますが、件の事件でお亡くなりになった方の遺族には、時が解決してくれるという生易しいものではないと承知しております。が、五年という月日が、英米では冷静に今の世の中のあり方を見つめなおす、問い直す時期に来ているのかと感じました。
 いけいけどんどん、正義の御旗の下に、そして異教徒を邪教と呼び、無辜の民を殺戮し、更には自国の若者を戦場に駆りだしたはいいが、命を無駄にしているという現実。
 小生のような瞬間湯沸し器でも、怒るのは簡単であるが、それを持続させるのは途方もない労力と活力を必要とすると感じます。ましてや、一国の規模になると想像もつきません。それこそ、三十分、十五分に一回、宣伝広告を打たねばならないのであります。
 この度、公開されてるニコラスケイジ主演の9.11の映画がどのようなものかわかりません。振り子の役目で先の映画の反対に揺れるものであるのか、それとも同調するものか。
 世の中は虚しきものと知るときし いよいよ ますます悲しかりけり と古人は詠みました。今も昔も変わりはありませんが、猿に顔向けできないじゃないのさ

ウサギ小屋係り

2006-09-26 | 時事
組閣が発表され、誰某が何大臣に、入閣した、しないと言っているが、果たしてこれだけの大臣が必要なのであろうかと誰も声を出さないのが不思議であります。各省庁の大臣以外に、政策名を冠した大臣がおり、その下に補佐官だが副大臣だか知らないがおるらしい。派遣会社の宣伝に、タクシーに乗り込む順番を巡って、役付が譲り合うものがありました。まさに、内閣はそのままという実感であります。
 小生が思うに、災害危機担当なんてものは、そんなに命令系統が必要なのでありましょうか。未だに、自衛隊、公安、警視庁と反目しあっており、災害の時の出動の手順、法整備なぞが混乱するといわれているにも拘らず、役職ばかり作って、まるで、団塊の世代に悩む企業の人事のようであります。書類の右上に決済印を押す枠が十ばかり並んでおりまして、判子の大きさ、字体に心を砕き、中身は猫の手でも押しておけばすむ案件であったりします。
 災害担当大臣なんて、全体何をするのでしょうか。まさか 公方様がいらした時分でもあるまいし、浅野の殿様のように、火消しの演習を思いついたら行うなんてできないでしょう。ましてや自治体に食料の備蓄を請求したり、戦時中のような沿道の屋敷を打ち壊し演習なんてできないだろうに。
 一番番頭を縛って、二番番頭を縛って、三番番頭を縛って、四番、五番、百番番頭を縛ったら、夜が明けて捕まったなんて笑い話がありますが、まさか地で行く組閣とは、と思いましたが、言われてみれば、戦後生まれの総理大臣です。思えば、小学校には、たくさんの係りがありました。

坊ちゃん

2006-09-23 | 時事
自民新総裁決定の報を受けて、早速宣伝活動をしている。かつて、ニュースステージョンでキャスターの発言と、偏向報道で国会に喚問を受け、恫喝されたトラウマか知らないが、なぜかドラマをやっていた。物故者になった大臣ならともかく、未だ健在、更には、「首相」になる人物のドラマ化なんて、立派な宣伝活動ではないか。BBCのように、パロディー番組ならまだしも、今回はドラマ化である。前任者は、写真集に、饅頭であったが、更に上を行く。
 ぶら下がり、ならぬ首相会見の模様がテレビに写されるたびに、あの移動のカットはなぜかしらと常々思っていたが、あれには、後ろでしっかり演出家がついて指導していたのである。勿論、話す内容ではなく、被写体として、テレビという媒体で、どのようにカメラに入っていくのがいいかを指示していたのである。現役のプロデュ―サーか否かはしらん。
 鮫の脳みそと揶揄されて男の後であるから、スリムな姿が映えただろう。あの映像が流れる度に、ぶら下がりから、「いいよなあ」という声が上がるのを聞いた。あれも、故意に音を拾って、流していた。ワンフレーズ政治に、イメージ戦略、更には、あちらの世界を上手く取り込み、圧勝したが、今回は更にその上、もしくは現状維持を目指さねばならないから、これまた「ブレイン」なるものが、ない知恵を絞って、様々なイメージを流しまくるであろう。かくして、ここに、広告会社の天下が来る。
 広告なら詐欺、いんちきの類と言っても、信じない。真っ白と叫んで洗濯物をかがげれば、本当に汚れが落ちると思う世代になってしまった。
 今度の人は、「お坊ちゃん」である。サラブレッドだと言われている。坊ちゃんの品位を見せて、老若男女を魅了した高校生なら、ついぞいた。青いハンカチと白いユニフォームである。まさか、今度の人も、青と白を基調に登場なんてことはないでしょう。二番煎じは、夜回りの後だけにして欲しいのだが。

尻押し

2006-09-15 | 時事
飲酒、ひき逃げ運転が、騒がれている。日本の社会は、酒に寛容であるが、煙草飲みには厳しかった。目に見える煙には、口を尖らせるが見えない煙は目を瞑っていた。トヨタが年間作る車は、日本人、赤ん坊から老人まで含めると、一人七台になると仄聞した。それに本田、日産、富士重工と加われば、一体何台になるのだろうか。車は圧力団体になる、公共の役に立つから、お咎めも受けないでいた。
 法改正が、今更ながらに取り上げらているのは、売る側もあきれる態度なのだろう。いくら車を売りたいとはいえ、運転手の品格、人格まで問えない。車も少ないころは、使う人間も限られていたから、売り手は心配の必要がなかった。売って、売って、売りまくり、日本人一人につき平均三台所有という数が発表されたのはいつのことだろうか。過疎地には、自家用車は不可欠である。病院も店も、駅も遠い。公共の交通は通っていないに等しい。だから車を持つのも無理からぬことである。都市は不要だといっても、揃って持つ。地下鉄、バス、タクシーと一歩外に出れば、ないものはない。あんなおもちゃに、大枚はたいて、ローンを組んでまでと呆れるが、相見互いである。
 運転のマナーが乱暴になった、飲酒でひき逃げとはけしからんというが、町を歩けば、当たり前のように思える。混雑した駅の階段で携帯の画面を見ながら歩くもの、携帯で話しながら歩くもの、見たければ、脇にどいてみればいいのに、話したければ、脇によって話せばいいのにと思うが、相手は思わない。自分は話しながら歩ける、見ながら歩けると思い込んでいる。同じ人物が、何かの拍子で車を運転する。歩いていても勘違いするのだから、ハンドル握っても勘違いするだろう。画面を見ながら右に左にふらふらして、どちらに行くのかわからず、後ろを歩く人の迷惑を考えないなら、ハンドルを握っても同じだろうと察しがつく。
 酒気帯びで、人を傷つけておいて、少しでも罪一等を逃れんとする心根には、子供以下の猿知恵である。ちょっと考えれば、と識者は言うが、考える知恵がないから仕方がない。
 携帯は社会全体でマナーマナーと連呼している、運転もマナーマナーと連呼していた。交通標語は無数に出来ている。飲んだら乗るな、乗るなら飲むな。皆お題目である。お題目の効果が薄れてきたから、法改正である。一つ通れば、あとはところてん式である。
 近く、いろいろな行動に法規制がかかるであろう。人はそれを正義と言って、尻押しするだろう。気がつけば、箸の上げ下げまで規制されている世になるだろう。小生は既に半ば、規制されてますが。