福島原発の時の報道を「大本営」と揶揄して、戦時中の新聞の有り様と変わらぬことを嗟嘆した。東電発表、政府発表を唯々諾々として書き連ねる新聞記者の姿はネット上の画像配信でご覧になられた方も多かろう。何かと悪い事に重ねられるあの戦争時であるが、今回は、往時のキャンペーンを復活させてはどうか。
福島の収束が完了せぬまま、この夏の話をして、関西電力を始め、政財界は原発再稼働を虎視眈々と狙っている。大飯原発二万が一のことがあれば、京都は全滅であろう。数々の歴史的建物の除染を考えると、今の技術を持ってして、本当に除染が可能であるのか。勿論、京都府民の皆さんの命も大切である。それとも、今の福島のように汚染を糊塗して半ば強制的に居住させるつもりなのであろうか。話はずれるが、今福島に戻っている人々の心情を慮ると、何も言葉が出ない。以前にも書いたかもしれぬが、故郷とは、砂粒一つ、草一本が故郷なのだ。だからこそ、獏然と広がる見慣れた光景、自分の家、通い慣れた道、学校という大きなものだけを故郷と考えると大きな過ちを犯すことになると小生は考える。故郷への郷愁を「満たす」のなら、にた土地を見つけ、そっくりそのままを再現すればよいだろう。映画のセットであれだけ出来るのだから簡単である。だが、それはその地を故郷にしていた人にとっては、千葉にあるお伽の国と同じものでしかあるまい。そのような大きな心傷を負った人をこれから先、どれだけ作り出すつもりなのであろうか。
大飯原発なる自治体のことを考えれば、軽軽なことは言えまいが、これだけ通信手段が発達して、かつ文物の往来の利便性が高まった世の中なのだから、彼の地に中小企業なり、工場を誘致し原発に変わる産業なりを興すことはできないものか。はたまた別の形態の発電所を作るということができないものかと迂愚な小生は考えてしまう。
聞けば、関西電力は今夏の電力不足を危惧しており、停電の可能性を匂わせ、「恫喝」にも似た手段に訴えようとしている。いざとなったら本当にするかもしれないが、(なにせなんとかと刃物なんていいますから)。さてお話戻って、あの戦争のキャンペーンを今こそ、復活させてはいかが、曰く「欲しがりません勝つまでは」、「贅沢は敵だ」。かのお方ですら、高齢にも関わらず去年の夏は御所の電気を節電された。往時ならば、日本国民が倣って節電し、さらには各地で挙って、その成果を賞揚するなどしたであろう。だが実際は、テレビ局は放送時間を減らすこともなく、新聞が薄くなるでもなく、同じニュースを同じ言葉で書き連ねていただけである。今こそ汚名返上であるキャンペーンなら眉唾、眉唾で結構なので「贅沢は敵だ」なんて全面広告を打ってくれまいか。
原発に関しては、小生はどっちとも言えないのが本音である。技術革新は不可欠であろうし、廃炉にするにも、新しい原発を作るにも今の技術をそっくり捨て去る訳には行くまい。ただ思うのは、結論を早急に求めすぎることである。焦って何かいいことがあるのか。下衆の勘ぐりで言えば「やり逃げ」というところか、自分の老い先を考えて貰えるものは貰っておいて、後は野となれ山となれではあまりにも「大人」として常識が欠けてやしまいか。
いずれにしても焦っていいことありません。小生、それでさんざっぱら女性で失敗しどうしだったもので。