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笑わぬでもなし

世相や世情について思いつくまま書き連ねてみました

古いやつだとお思いでしょうが

2012-05-14 | 時事

 福島原発の時の報道を「大本営」と揶揄して、戦時中の新聞の有り様と変わらぬことを嗟嘆した。東電発表、政府発表を唯々諾々として書き連ねる新聞記者の姿はネット上の画像配信でご覧になられた方も多かろう。何かと悪い事に重ねられるあの戦争時であるが、今回は、往時のキャンペーンを復活させてはどうか。

 福島の収束が完了せぬまま、この夏の話をして、関西電力を始め、政財界は原発再稼働を虎視眈々と狙っている。大飯原発二万が一のことがあれば、京都は全滅であろう。数々の歴史的建物の除染を考えると、今の技術を持ってして、本当に除染が可能であるのか。勿論、京都府民の皆さんの命も大切である。それとも、今の福島のように汚染を糊塗して半ば強制的に居住させるつもりなのであろうか。話はずれるが、今福島に戻っている人々の心情を慮ると、何も言葉が出ない。以前にも書いたかもしれぬが、故郷とは、砂粒一つ、草一本が故郷なのだ。だからこそ、獏然と広がる見慣れた光景、自分の家、通い慣れた道、学校という大きなものだけを故郷と考えると大きな過ちを犯すことになると小生は考える。故郷への郷愁を「満たす」のなら、にた土地を見つけ、そっくりそのままを再現すればよいだろう。映画のセットであれだけ出来るのだから簡単である。だが、それはその地を故郷にしていた人にとっては、千葉にあるお伽の国と同じものでしかあるまい。そのような大きな心傷を負った人をこれから先、どれだけ作り出すつもりなのであろうか。

 大飯原発なる自治体のことを考えれば、軽軽なことは言えまいが、これだけ通信手段が発達して、かつ文物の往来の利便性が高まった世の中なのだから、彼の地に中小企業なり、工場を誘致し原発に変わる産業なりを興すことはできないものか。はたまた別の形態の発電所を作るということができないものかと迂愚な小生は考えてしまう。

 聞けば、関西電力は今夏の電力不足を危惧しており、停電の可能性を匂わせ、「恫喝」にも似た手段に訴えようとしている。いざとなったら本当にするかもしれないが、(なにせなんとかと刃物なんていいますから)。さてお話戻って、あの戦争のキャンペーンを今こそ、復活させてはいかが、曰く「欲しがりません勝つまでは」、「贅沢は敵だ」。かのお方ですら、高齢にも関わらず去年の夏は御所の電気を節電された。往時ならば、日本国民が倣って節電し、さらには各地で挙って、その成果を賞揚するなどしたであろう。だが実際は、テレビ局は放送時間を減らすこともなく、新聞が薄くなるでもなく、同じニュースを同じ言葉で書き連ねていただけである。今こそ汚名返上であるキャンペーンなら眉唾、眉唾で結構なので「贅沢は敵だ」なんて全面広告を打ってくれまいか。

 原発に関しては、小生はどっちとも言えないのが本音である。技術革新は不可欠であろうし、廃炉にするにも、新しい原発を作るにも今の技術をそっくり捨て去る訳には行くまい。ただ思うのは、結論を早急に求めすぎることである。焦って何かいいことがあるのか。下衆の勘ぐりで言えば「やり逃げ」というところか、自分の老い先を考えて貰えるものは貰っておいて、後は野となれ山となれではあまりにも「大人」として常識が欠けてやしまいか。

 いずれにしても焦っていいことありません。小生、それでさんざっぱら女性で失敗しどうしだったもので。

 

 


お灯明

2011-07-31 | 時事

 今年ほど天気予報が気になる年はない。晴ればかりでは農作物にはよくないと分かっていても、やはり、かの地が晴れておりますように、雨が降っても恵みのであり、ひどく降らないようにと祈らずにいられない。過日、岩手から東京に来た人が、どちらが現実かわからないけれども、東京に来て友人・恩人と久濶を叙すことで、岩手に戻った時の現実に立ち向かえると言っていた。小生は、あまりに日常にもどりすぎている東京の姿に辟易なり不満を覚えていたのだが。それに、今、福島から子供たちが全国に飛び出していっている。もはや外で伸び伸びと遊ぶこともままならぬ子供らが、ようやく迎えた夏休みという絶好の機会を利用して、短い期間ながらもスポーツに、水遊びに興じている。その姿を見れば、「日常」という営為もまんざらではないだろう。いやはやもって、小生の頭、目もまだまだ修行が足りない。

 ここ連日、中国の列車事故を報道して、中国共産党、国家の姿を好き勝手に述べているが、全体何を考えてテレビのコメンテーターなり司会者はものを言っているのだろうか。曰く、中国は情報統制を敷いており、国民には正確な情報、今我々が見ている映像は中国では見られない。事実の隠蔽が露見したために形式ばかりの事故調査委員会を作っている。責任を鉄道省に押し付けることで国民の目を逸らしている。これまでも公共の建造物で事故、手抜き工事が行われている。鉄道省の役人に賄賂が送られている。

 小生、別段、中国という国に敵意もなければ、強い憧憬を抱くものではないが、今回の日本の報道を見て盗人猛々しいとはこのことかと合点が言った。思えば3月11日の大地震から出た福島原発事故の報道、対応は今回の中国と寸分たがわぬものではなかったか。当時、小生の情報源は、専ら海外の新聞であった。各紙とも、早くからメルトダウンに、避難勧告、放射能の危険などを言及していたが、日本の新聞にメルトダウンなり、放射の危険性を訴えるものは絶無に等しかった。その後も、ネット上で東電の会見をネットとテレビで同時に見ていると、フリーランスの記者、赤旗の記者が質問する場面は見事にテレビでは削除されていた。「会見の途中ですが」というアナウンサーの声を何度聞いたことか。ユーチューブ等に投稿された原発の映像がテレビのニュースで放映されたのはいったいいくつあったのだろうか。手抜き工事の写真、マンションの倒壊写真が公開されるだけまだましで、これまであった原発事故の実態、そしてそれを示す写真が、どれだけ公開されただろうか。東電がばらまいた金がどれだけで、どこに、誰に渡ったかが明確にされただろうか。

 中国の事故と日本の事故の順をひっくり返して見れば、おそらくいつか見た光景になるだろう。中国の列車事故が起こってから、日本の原発事故が起こったと仮定して、かの国が日本の事故報道一色に染まり、自国の原発技術を誇示し、日本の技術を追い抜いたなどの文言を並べたとしよう。きっと日本の「有識者」「中国事情通」と呼ばれる方々は、中国に対して、自国で起きた大事故から国民の目を逸らすために、「日本をだし」にしていると。

 この度の中国鉄道事故に関する報道は、情報が統制されてない我が国はすばらしい、技術立国である我が国はかの国よりも格段優れていると言っているようで、聞いていて寒気を覚える。確かに、我が国の技術は世界に冠たる優れたものであろうし、あると小生は信じている。しかしながら、ここ数日の豪雨で、原発の汚染水はどうなったのか、昨晩の地震の影響はどうなのか、全く報道されない。はたまた、避難所にいる人々の食事は、大丈夫なのか、新たに豪雨のために避難した人々の生活はどうなっているのか。

 小生が冒頭、「日常」という営為に、とりわけ東京という土地にいて感じる「日常」の有り様に疑問なり、不満を持つのは、まさにこの点にある。隣国の事故も大変なことでろうが、しっかりと出す情報は出していただきたい。

山本翁曰く、「人は自分のことを棚に上げなければ他人を批判できない」と。今回ばかりは、翁の言葉に逆らうが、棚に上げるのはお灯明、お供えもの、そして当たりもしない宝籤だけで十分である。

 

 

 

 


日本 ちゃちゃちゃ

2011-07-19 | 時事

 小生の嫌いな言葉に「元気をもらう」、「勇気をもらう」がある。感動したことをいかに説明するかを窮したときに用いる便利な表現であろう。「かわいい」と一頃流行った女言葉の類と小生はみなしている。件の詞は、語彙力、表現力の欠如の証左であり、「表現力を身につける」という文部省(現文科省)の教育政策は、いつものように失策に終わったという小生は睨んでいる。だが、今回ばかりは、嫌いな言葉でも、「かの地」の人々の心の支えになるのなら、大いに結構。勇気、元気、パワー、愛なんでも構わない、かの地の人々に差し上げてください、かの地の人々も戴いてください。小生のように、日々の雑事に追われている凡人には到底できないことである。

 蹴球の楽しさを教えてくれたあの試合は、何度見ても面白い。観客が試合の一進一退に息を呑み、声を上げ、時に歓声がため息に変わる場面など、男子の試合では容易に見られない。何よりも「ブーイング」の類がなかったのがよい。球を前後左右、斜めに送ることで相手を翻弄したり、忍者のごとく敵の背後を取り、あらぬ方向に球を蹴り出すことで相手を幻惑する、また、個人の力ではなく、個々の力を合わせる、呼吸を読むところに、蹴球の魅力があるところを教えてくれた試合は、このスポーツに暗愚な小生には、絶好の教材であった。

 世界一を水差すようようで申し訳ないが、「なでしこ」はいつまで「なでしこ」足りうるのだろうか。少し前には「カーリング娘」がいた。さらには「ソフトボール娘」がいた。彼女たちは、「女の人生」ともいうべき結婚して引退してしまったのだろうか。いやそんなことはあるまい。勿論中には、そういう選手もいるであろうが、結婚しようがしまいが後も選手生活を続けているだろう、今日もどこかの競技施設、運動場で、技術の向上と体力の増強、来る晴れの舞台に備えて、日々努力しているはずである。サッカーも、カーリングも、そしてソフトボールも、彼女たちにとっては人生の大半を占めているが、派遣、アルバイトをしながら選手生活を送っているものも少なくないと聞いた。

 全体、いつから日本人は「おこもの類」に落ちてしまったのだろうか。元気、勇気をもらってばかりで、彼女たちの選手生活環境を改善しようという姿があまり見受けられない。確かに、予算のひとつも付いたろう。だが、不況のおりから、廃部になったり、競技場を閉鎖したり、明るいニュースを聞いた記憶が少ない。小生が情報に疎いだけであろうか。

 ソフト、サッカーは世界一である。海外の主要都市を回って、日本企業の広告、日本製品を見ないことはあろうか、否。海外の人々が日本製品を買い求めないことがあろうか、否。海外のスポーツクラブで日本人選手は皆無だろうか、否である。「経済大国」「先進国」と呼ばれて久しい日本である。その日本を代表する選手が活躍をして世界一になったのである。ならば、どうして世界一に相応しく遇しないのか。世界一に相応しい練習環境を作れないのか。

 俗に「熱しやすく冷めやすい」のが日本人と言わている。そろそろ、その心性を脱ぎ捨てようではないか。震災の翌週に、北野武氏が、金をかけて、地方に訳の分からない建物を作った愚かさを叱責していたが、訳の分からぬ「なんとかの宿」、「なんとか館」なぞ作るなら、その金を彼女たち、彼女たちに続く未来の世代に回してはどうか。「日本再生」とお題目のように唱えていた政党の皆さん、どうであろう。贅沢三昧、パンとサーカスの生活はやめて、文化国家、教育国家として日本を生き返らせようなんていえば、気になる支持率も上昇します。(しかし、数字を気にする大人を見ていると、偏差値とやらに振り回されている小、中学生の類に思えないのだが、やはりマ元帥が言った12歳の少年説は正鵠を射ていたのか)。 ついでに自治省だが、郵政省の指導を受けて「地デジ」で一儲けした放送局にお願いしたいが、地デジ化を機に、番組改変をしたらいかがであろうか。テレビを見る人も減っていると聞く、今回の震災でテレビ、マスコミ報道が当てにならないこともバレてしまったのだし、コンテンツのなさも(韓流ドラマと通販ばかり)、周知の事実なのだから、彼女たちの日々の試合を中継するだけで十分だと思うのだがいかがであろうか。試合中継だけはと危惧する必要はありませんぞ、お得意の「感動をおしつけドキュメンタリ番組」があるでしょう。「五輪、ワールドカップを目指す小さな云々」、「何何にかけた青春」。

 広告明けに、広告前の映像を流したり、やたらとつまらないことを先延ばしする映像よりも、編集の利かないスポーツ中継の方がどれほどすっきりするか。


新 税収

2010-10-11 | 時事
今月一日から煙草が値上がりをした。小生は愛煙家である。ご他聞に洩れずまとめ買いをした一人である。財務省の発表ではこの度の値上がりで、300億だかの税収アップを見込めるという。昨今の健康ブームに、嫌煙運動で、喫煙者は減っているというのに、税収が見込めるとはどういう計算であろうか、ぜひお聞かせ願いたいものである。今回の値上げだけで一時的に税収が上がっても、次年度、次次年度と税収の見込みが成立しなければ、一時的なその場しのぎでしかない。それとも、喫煙者は今後も減ることなく値上げするたびに、煙草を買い続けるというのだろうか。ちなみ、小生、値上がりしても買い続けます。そういいながら、まとめ買いしているのはいささか矛盾していると思うのであるが。
 噺の枕に、釣り人をからかう話がある。釣れますかと言われ、さっきからずっと粘っているのですが、一向に魚のいる気配が感じられないんですよと答える。すかさず、男は釣り人に向って、ああ、そこ夕べの大雨で出来た水溜りですよ。この度の値上げは、水溜りに釣り糸を垂れる釣り人のようである。
 久しぶりの投稿であるから、前々回の話の重複するが、何度でも言う。煙草に税をかけるなら、いっそのこと携帯電話、パソコンに税をかけたらいかがだろうか。中国との関係でレアアースがどうの騒いでいるが、思い起こせば、福田、安部内閣時代に日本はレアアースの金脈を持っていると言っていた。使われなくなったパソコン、携帯の中にレアアースが埋まっている。一昨日の日経にも似たようなことを書いてあった。さらに言えば、森内閣時代に、全国の小、中学校にパソコンを導入させたはずである。その古いパソコンは今でも使われているのだろうか。消費税なんてけちなことを言わずに、車の車両税の如く、所有税を獲ったらいい。年額120円程度でいい。ゲームに楽曲をダウンロードに幾許かの金を払うなら、120円も苦になるまい。いまや携帯は一人複数所有するものもいる。現下問題になっている、フリーター、派遣も携帯なしでは勤まらぬらしい。ならば、月額10円で流通している携帯電話の数を考えれば億単位の収入は見込めるであろう。ついでに通信費の中にも課税すればいい。大した内容のないメール(本文章も含むが)も、減るだろう。一日に一人のパソコンに送付される「業務メール」なんていうものも、絞れば内容のあるものなんて10通に満たないであろう。一通につき50銭でも獲れば、今の日本人ならうっかりしているから気がつくまい。いつものように通勤電車に乗って、朝も早よから小さい画面を見つめ、休憩時間に画面を覗き、人と会話している途中でも、暇さえあれば画面を覗き、帰りの電車で、また覗く。試しに踏み切り傍に立って、通り過ぎる車両を見上げてみるがいい。各車両、つり革に捕まって画面に向っている人を数えれば、それこそレアアースの喩えではないが、税収の宝の山である。アイパッドをつけて、携帯画面を覗いているなら、高額納税者の仲間入りである。
 端数が出たらなんて心配しなくても大丈夫である。朝三暮四なんて言葉も死語になっているから端数切り上げで、これまた増収ですぞ。消費税なんてちんけな噺です。

ぶちです

2009-11-02 | 時事
艶婦、毒婦の類なら、昔からいた。色に狂って道を外したものなら、芝居の種、話の種になったものだ。落ちた道が色恋だから、人は喜んだ。助平心を丸出しでも、笑って済ませられた。公金を横領して、何に使ったかと思えば男に貢いでいたから、殊更、世間の情を引いた。
 婚活が一つの産業となって久しいが、婚活の弊害を説かぬのは、一頃流行の「自己責任」とやらかしらん。ババを引くも外れを引くも全て本人次第で、当方責任を一切持ちませんか。昔は世話好きのおばさんなり、会社の親父がいて、どれ一つに、あの人に、あの子によい縁談でもとあった。あったから紹介するほうは、こと慎重に顔を潰さぬよう気を使ったものだ。別に婚活を提供している会社を責めてるわけじゃない。例によってマスコミの報道の不甲斐なさである。出会い系とやらには、一時期規制をかけろと息巻いていたが、今では一言も出ないのは、出会い系とやらを使っているのが、「大人」と言われている人だからか。
 にしても、件の女が貢がせた額が、堂に入ってる、云千万というのは別にしても、色々な男から引っ張った額が、妙に現実的である。30過ぎの男で、勤め人をしていれば、サラ金とやらから引っ張れる額がちょうどあのぐらいであろう。一社からなら、ここまでで手を切って、2つ3つから引っ張れる余力があるなら、これぐらい。総勢20数人ぐらいいたというが、あれも名前が割れただけで、50や100近く貢いで、縁が無かったと諦めた男はまだまだいるだろう。玄人に貢いだならば、道楽なり、勉強代として笑い話になるが、こと「婚活」を謳った素人である。俺も、俺もと名乗り出られないのが巧妙である。
 ただ、生い立ちなりを考えると、少しく心が寒くなる。育った北海道の町は荒涼としていて、大学進学で東京に出てきて、中退して、職を転々と、まるでどこかで聞いた話である。「世の中、所詮、金なんだ」と勘違いしたのが、道を外した始まりなのか。かたや自暴自棄で見ず知らずの命を奪い、かたや、詐欺とたかりで命を奪う。件の女は「クレーマー」とも聞いた。自己主張しなければ損になる、主張しなければ負けてしまう、そんな価値観がどこからか聞こえてくる。
 このような事件が起きるたびに、卒業文集などがでてきて、その内容が公開される。今回、嫌いなもの「ばかな人、汚い人云々」とあったのには驚いた。小学生の卒業文集ならまだしも、高校の卒業文集である。高校生にもなって、無分別なことを書くのもなんだが、それに目を通したと思しき教師は全体、どんな頭の構造をしておるのか。ガキが馬鹿なことを仕出かしたら叱るのが大人の役目だろうに。それとも高校教師とやらもガキの類か。はたまた「個人情報保護なんとか」やらで、今日日の文集は、製品になるまで、業者以外に目を通せぬようになっているのか。
 花魁は、尾をもたずに男を騙すからおいらんと言った。玄人、素人と区別があったが、素人苦労との見境が無くなった。
 「おいおまえ、嫁さんもらうんだってなあ、しろかくろか」、「なんです、しろかくろかって」「素人か玄人かってことよ」、「あ、それならぶちです」 
 こんな洒落もわからねえガキどもに、落語ブームって言われてもねえ。

ダム報道

2009-10-18 | 時事
民主党が政権を取って一ヶ月あまり、予算の多寡もさることながら、前原大臣の八ツ場ダム計画中止が一時期騒動を起こしていた。地元住民は、自民政権の中で翻弄され、今度は民主政権と泣くに泣けない状況であるらしい。が、小生は二年前ダム建設予定地を訪れた。緑と清流の美しい場所で、小さな村落に「秘湯」の趣を覚えた。勿論、温泉地は疾うの昔になくなり、新たにダム建設後、再生する予定であると看板が出ていた。
 マスコミは、中止にかかる費用と、これまでの費用を天秤にかけ、さらには地元住民の心情を世論に訴えかけることで、ダム建設の中止を慎重にするよう述べていた。住民感情を前面に押し出し情に訴えるのは効果的であるが、よく考えて欲しいのは、作った後はどうなるのかということである。
 テレビ一台購入しても、長く大事に使おうすれば、途中で修理の一つや二つは出てくるだろう。車一台においても、悪名高き「車検」というやつで安全性の確認を使用者に要求している。女房、亭主一人貰っても、釣った魚に云々とはいくまい。
 かく言う件のダムもまた、建設後の費用について一向に報道されない不思議さである。人伝てに聞いた話だが、ダムには砂、土砂が年々蓄積されていくという。ダムのそこが上がってくるということです。ということで、その砂を吐き出す作業をしなくてはならなく、一年に10億だか、100億かかるらしい。その経費を省くために、作ったダムの上流に新たに砂防ダムを作る、そのダムの上流にと、切りがないような愚かなことをやってきたのが、河川行政、ダム行政の正体らしいのである。ダム行政については先週号のスピリッツ「美味しんぼう」で紹介されている。
 お話戻して、ダムを作った後の経費について一行も報道されず、地元住民の感情ばかり、前原大臣の独断専行を批判するものばかりなのはなぜか。
 まさか、世は使い捨て、今時テレビが壊れて修理に頼むものなぞいるか、買い替え、買い替えというつもりであろうか。ならば、ODAに、米軍基地の負担金、その他諸々の海外援助費、全部やめてみたらどうだろう。向う数十年、ダムも作り放題、使い捨て放題ですぞ。

脳トレ 申告

2008-04-02 | 時事
「どこかにくたばりそうな坊主はいないか、いたらこの書面に判子つかせて宗教法人を作れ、それからな、例の爺い、もうそろそろだろ、今日辺り入院先に行って預金、証券関係、それからな土地の権利書まとめてふんだくって来い、いいな」というような台詞を、マルサの女で三国連太郎扮する地上げ屋が吐いておりました。天網恢恢疎にして漏らさずではありませんが、マルサに追い込まれていきます。法を犯すものはさ裁かれるのが「正義」というものであります。しかしながら、これを国家が率先して行なう時には、制度改革という名で片付くのであります。ほかでもありません、後期高齢者保険制度であります。75歳以上の老人から所得に応じて一割から三割の医療費負担をさせ、かつ年金から保険費用を天引きというものであります。六千円を12ヶ月で、7万2千円です。年金は一律でありません。議員年金、軍の恩給、国民年金と併せてもらっている老人が75歳以上全員であるならば、それもよいことでありましょう。ですが中には月三万なんて方もいらっしゃいます。三万円から六千円を差し引いて月額2万4千円で一月を過せる老人なんてはたしているのでしょうか。良心的な医師は、自分の診ている患者が通院をやめてしまい、病気を悪化させてしまうのではないかと心配しております。
 巷間、保険制度についてのみ書かれておりますが、仄聞したところによれば、そのような老人に確定申告をさせるという話であります。小生仕事の都合上確定申告を毎年行なっておりますが、果たして世のサラリーマンの中で確定申告を行なっている人がどれだけいるのでありましょうか。働き盛りのサラリーマンならば、確定申告なぞ、申告ソフトで一発でありましょうが、75歳以上でパソコンを自由に使いこなせる人はどれだけいるでありましょうか。恐らくは役所から来た葉書、申告用紙を片手に公民館やら税務署の横に臨時に設置されたプレハブで、係員の言うままに数字を書き込み、判子をついてくるのが実状でありましょう。まだ体が動かせる老人はいいでしょうが、寝たきりの独居老人だっているはずです。冒頭、伊丹監督の名作の台詞を書き込んだのは、まさにこのことを述べたいがためであります。
 ましてや国民年金問題と絡めて考えれば事態は一層深刻であります。姥捨てどころか老人を締めているようなものであります。それとも昨今はやりの「脳トレ」の一貫として申告をさせるのでありましょうか。

物語

2007-10-19 | 時事
スポーツは筋書きのないドラマという。筋書きを練って、役者を揃えて、役作りにも念を入れたのが、今回の騒動の顛末でなかろうか。親子鷹で、世界を狙い、数多の挫折と栄光を手に入れて、最後はチャンピョンになる。チャンピョンになった暁にリングには母親登場なんて筋書きなり青写真を描いたのだろうが、そうは問屋が卸さなかった。
 スポーツだ品行だのと喧しく専門家なりコメンテーターなりが連日画面に顔を出しているが、「そんなに物語」が欲しいのかと思ってしまう。話が飛躍しているかもしれないが、世界戦の勝敗、内容どうこうではなく、むしろ最初にテレビ局側なりが用意した「感動物語」をそんなに世間は必要としているのかという感想である。
 夕方のニュースを見ていると、なんでもかんでも物語仕立てに仕上げ、それこそ、特番で使えなかった映像の切り売りである。難病と闘う子供、激務に耐える医師、ギャンブルで身を持ち崩した男性、女性。どれもがちょっとした感動もの、警告ものに仕立てられ、女性誌、男性誌の三文記事なりけりである。
 これらのうちのどれ一つでもとりあげて、長期にわたって追い続ければ、連続ドラマの出来上がりである。活字の物語は疾うに去った。携帯物語とやらは、会話のオンパレードで、スタインベックの「怒りの葡萄」の一節、サリナス平原のような描写はもはや過去の遺物になったのかもしれない。漫画も細部こだわり、物語の構成が緻密になればなるほど読者は離れていく。「しからば映像で」と勢い込んでも、もはや向田邦子のような作家はいない。いつまでも続くと限らぬ君塚、三谷である。ならばとスポーツをそれ自体演出したのが件の顛末かと睨んでいる。
 物語を誰もが語れる時代になって、誰もが自分の物語をネット上で公開できるようになった今では、物語の定義すらも危うくなってしまった。上もしくは外から来る物語を勝手に自分で読み換えて、自分だけの物語が流通させてしまっているのが、今の世の中なのかもしれぬ。自分で物語を書くのは自由だが、外から来た物語は書いてあるとおりに読むのが筋ではなかろうか。といっても当今では、自国の戦災も勝手に読み換えるのが「大人」の頭であるから甲斐なしは先刻承知であるが。
 学部時代、英文学の泰斗から教えを請う機会がありましたが、その際に終始一貫しておられたのは「書いてある通りに訳してください」の天の声でありました。

ルールは強者のためにある

2007-09-23 | 時事
世界柔道で、お家芸がお家芸でなくなったのを嘆いている。漢字の柔道とローマ字の柔道は違うらしいとも言っていた。理事に日本人がいなくなったのも原因であるとも書いてある。ルールは弱者に有利ではなく強者に有利になるものだと思って見てれば、負けて当然、勝ったら見事殊勲を挙げたものである。準々決勝、準決勝でも行くだけ立派なものである。なにせ相手は印籠の如きルールブックを持っている、審判を味方につけている。草野球の類と変わらない。
 日銀が金利を上げる、上げないと呟けば、世界市場が恫喝する。そのくせ自国の負債が手におえなくなると、金利を勝手に下げる。これとても草野球の類である。
 自民の総裁が、福田に決まったが、出来レースはかくの如きである。マスコミが喧伝する前に、地方選と議員選を同時に開票するなんて、まさに八百長である。数年前に、地方選を先にして、蓋を開けたら小泉有利の結果が出た。勝ち馬に乗れと結果を見た議員どもは勇んで小泉に一票を入れた。
 漫画が好きで、弁が立つ、顔にも特徴があって風刺しやすい、同じことを言わせても片や、金貸しの営業マン程度の印象しか与えない。紹介された商品の金利と契約内容を問い質したら、言葉に詰まりそうである。マスコミには不利だと流せば何とかなると思ったら、判官びいきの日本人である、いつ何時地方票が堰切って、敵方にいくかわからない。ならばと投票日を同日にし、街頭演説も極力少なくして、テレビの露出も抑えよう。
 目出度く自分たちの思い通りになったが、さて国民の目はどうなのだろうか。新聞テレビが、三面記事と総裁選と書けば、世間は枕を益々高くする。年金の横領、公務員、社保庁の始末はどこへやら、総理がいない今、大臣とても肩書きのみで権限がないなら、初めから要らないのではないか。
 えこひいきをする審判が差配する試合を見て盛り上がる観客がどこにいよう。いるなら自分の贔屓のチームが勝てばいいなんて思うファンのみである。そんな試合を繰り返して野球は人気がなくなった。国民の政治離れが気になる、気になるというが、あんなことをすれば政治離れは益々加速してだろう。行けば益々悪さをする、数に物を言わせて何でもやりだすであろう。遊戯の類は、愛想を尽かせば話は済むが、国の政治は愛想をつかしても、只ではすまない。
 本日は誰でも知っていることを述べた。

看板に偽りあり

2007-08-05 | 時事
身長185センチ、体重90キロ 年収8000万 預貯金3億 敷地1500坪 建坪500 車10台 思いつくままに勝手に数字を並べてみた。こんな書き方をすればきっと間抜けなトラックバックなりが訳のわからぬ広告を引っ張ってくるだろうに。何もなければお慰みである。世はいかさまとは山本翁の言葉であるが、ここ数日相次いで発覚した大学合格者数のいかさま数字には呆れてものが言えない。小生、有難くも親から学資を出していただきどこぞの大学の学士なるものを有しておりますが、小生の学生の頃と、隔世の感である。勿論、塾とか予備校の合格者数なんてものは眉に唾して数えていたが、高校までが堂々と数のごまかしをやるとは呆れてものが言えない。そういえば、中高一貫なんて学校が雨後の筍のように現れ出した頃、新設の学校は挙って塾とやらに何がしか手を回して、優秀な子供を集めたという。偏差値なるものを過剰に信じる親がいるのをいいことに、あらかじめ模擬試験とやらで偏差値の設定を高くしてもらい、新設だけれども、入学試験は厳しいぞと。どうやらその類の売込みが高校へ廻ってきたのが、この二校の事例なのかもしれぬ。関東で一つ、関西で一つなら、その下にはもっとあるだろう。旧制中学やその時期からある私立高校ならまだしも、今や15歳の97%が高校とやらに進学し、18歳人口の50数%が大学とやらに行くという。
 しかし、そのような得体の知れない高校よりも、何回も試験を行なっている大学の方がもっと問題なのではなかろうか。一人で十数学部も受験できて、合格者数に三十も、四十にもなるというのは全体どういう仕組みになっているのだろうか。合格した人間は、「能力」なるものがあるのかもしれない。しかし受験機会が年に一回の時に合格した大学生と、年に三回あって合格した大学生とは明らかに資質が違うであろう。大学側が回毎に難易が大幅に異なる試験を作っているとは、小生には到底考えられない。事実、複数回行なっている資格試験の類の問題を眺めてみると、難易にそう大差がない。ならば、往時の早応大学(仮称)生と、現今の早応大生とは、名前は同じでも、お頭の中身は全く異なるであろう。
 衆寡は敵しないから、委曲を尽くして説いたところで、上記の違いを理解をせぬ。理解せぬから、件の学校長は、経済的にゆとりのない子には、学校側から金を出して受験させると嘯いている。その甘言にまんまと乗る親がいて、乗るだけならまだしも一人前に「教育問題」など語りだす。大学だけが全てではないなんて耳朶に響きのよい言葉を弄しているが、そろそろ大学なるもの、進学なるもの考えた方がいいのではないか。猿に芸は仕込めても、馬鹿には芸は仕込めない。
 都立のある農業高校では、自分たちが育てた作物を、近隣の住民に販売をしていると聞いた。農業だけでなく流通も学ぶ教育を、その学校では実践している。おそらく生徒の中には、農業方法をもっと学びたいとか、流通を通して農業経済、農業経営を学びたいという子もいるだろう。そういう子供に対して大学は果たして門戸をひらいているのだろうか。