部活動
小生スポーツ教育には暗い。殴って選手の力がつくかどうかわからない。中、高、大学の途中まで運動部に在籍したが、小生は運動の指導で殴られた記憶がない。勿論、部活の悪友と悪戯をして横面を張られたことがある。中学の時、試合会場で、拙いプレーをした他校生が、顧問からビンタを食らっているのを何度も見た。顧問の先生は、「うちもたまにはあれをやってみるか」と笑いながら、小生達を並べさせて言った。高校は、格闘技だったが、これまた顧問先生に恵まれ、鉄拳制裁というのはなかった。なかったが実戦になると遠慮なく拳や蹴りが飛んできた。今思えば、あれでも手加減してくれていたのだろう。全国、関東大会に出場できるような強豪校ではなかったが、とりあえず、世間に出て、恥ずかしくないような実力(小生の場合見せかけだけであるが)をつけていただいた。
運動部にいて、よかったことは小生のようなものには、口よりも身体を動かすのが向いているという資質の発見である。大人になっても身体を動かすことの楽しみがあるのは、あの頃のクラブ活動のおかげであると思う。また、親にも感謝したいが、そこそこ頑健な身体、そしてその土台作りが出来たということ。そして何よりも、生活設計を立てる能力が涵養できたということである。正確に言えば、生活設計を立てるのが上手いロールモデルに出会えたということであろう。俗に、部活動と勉強の両立とは、学生にとって永遠のテーマである。部活動を熱心にやりながらも、器用に勉強をこなす。小生が思う、両立とは、変にガリ勉になってはいけない。涼しい顔して、さりげなく勉強ができるというものである。小生のような魯鈍なおつむのものにとっては憧憬の彼方の存在である。だが、このような存在の先輩や同輩、後輩にいた。先輩やら同輩に、どうしてできるのかを聞いてわかったのは、切り替えの早さである。哀し哉、小生の切り替えの早さは、運動から勉強ではなく、勉強からマンガへ、テレビへ、深夜放送へで、成績が伸びたためしはなかった。
全体、いつの間にか少子化、競争社会というやつで、誰もが就職予備校まがいになりつつある大学へ進み、どこの高校も進学率とやらをあげる為に、「お勉強」や「運動」に力を入れている。おじさん向けの週刊誌にも「受験情報」が出る末世である。末世のというのは、物の真価を数値化、「可視化」せねばわからない大人が増えたことの証であると小生は常々思っている。俗に目的の為には手段を選ばずで、進学率をあげる為には、なんでもありで、頭叩いて東大にいくならば、ぼこぼこにせよ。ほおを叩いて有名私大にはいるなら、張り倒せという理屈でありのかしらん。大学に行ってどうする。
山本翁は、何用あって月へと書いた。月に行ったはいいが、その後月での資源開発、移住なりは全て白紙になった。以後、人類は月へ行っていない。大学は見るもの、眺めるものとまでは言わないが、何用あって大学へと問いたくなる学生を見かける。親が子の教育に盲目なるのはわからないでもない。なんとなれば、目くらの手を引く、杖となるのが周りの大人だろうと思うのだが如何に。
そもそも学校の課外活動とはいかなる意義があるのか、小生は親や教師に聞いてみたい。但し、新聞はだめです。なんたって駅伝、野球にさんざっぱら金をバラいまいております故。