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笑わぬでもなし

世相や世情について思いつくまま書き連ねてみました

シスの復讐

2005-07-12 | 映画 落語
 シスの復讐の公開が始まり、日毎スターウォーズ熱が高まっているように思えるのは気のせいか。いやがおうでも、盛り上げようとしている宣伝効果の一つかもしれぬが、何はともあれ見てきた。70過ぎの品のよい老婆二人が、ちょうど時間に間に合うわねと言って劇場の優待券を使って入場していく姿に微笑ましさを覚えた。
 テレビでは、エピソード4、5を放映し、あれは予習だろうと睨んでいたが、その通りで、見事エンドクレジットが出るや得心する客と、もう一度見直そうと決意する客を散見した。
 最近のハリウッドのSF映画を見えていると、どうも宮崎駿の影がちらついてしまう。彼の思想とかではなく、アニメに出てくるメカがそのまま実写になった気がしてならん。それはそれで別になんて事はないのだが、とりわけナウシカにでてきた虫を彷彿してしまう。
 話の内容は言うまでもないが、続くエピソード4から6を意識しているのは当然だが、むしろ4から6を下敷きにしている場面、台詞の多さには演出の憎さを感じた。映画を見ていて思わずオーバーラップしてしまったのも、全6編という設定のなせる業である。具体的にどこがどうであるかは謎解きパズルとしてお楽しみいただければ幸甚である。
 難点を挙げれば、相変わらず殺陣のまずさである。エピソード1でも赤鬼のごとき敵役が出し、ワイヤーアクションを使いながらも今一つ物足りなかったし、2でもヨーダと敵役の戦いにフラストレーションを覚えた。これは具体的に言えば、踊りでいうところの腰が入っていないという形である。手だけ使って細い刀を振り回すから、どうしても体の安定がなくなる、勢い、型は単調にならざるを得ない。ましてやフォースという妖力使いの戦いである。カタルシスを感じたい。眠り狂四郎、赤胴鈴之助、机竜之介とは言わないまでも、もう少し工夫が欲しいと思うのは、欲目だろうか。
 そうはいっても、不覚にもラストシーンに思わず目頭を熱くしてしまった。クリスチャンベールのいきんだ声には閉口させらたが、マスクばないぶん台詞も聞き取りやすかったのもよかった。

テレビの映画劇場

2005-07-08 | 映画 落語
 テレビの洋画劇場の品のなさには閉口させられる。唯一見ていて安心できるのは、テレビ東京の昼の映画だけである。もっともカットされてるところは目をつぶっての話であるが。当今、夜の映画番組は、単なる映画の宣伝に堕していて、こんな時期になぜこの映画をと考えると必ず、主演俳優の関連作品が近く公開されるという仕組みになっている。もしくはテレビ番組が放映される。さもなくば、同名の焼き直しドラマが特番として組まれる。映画宣伝にならないときは、わけのわからぬアクション映画である。
 コンテンツなら、フジは黒澤の全作品を持っているし、みなさまのNHKは小津作品全部を有しているはずだ。スターウォーズが公開されるのなら、フジは「隠し砦」を土曜の夜に流せばいいのに。なぜしない。映画産業とのタイアップ、これも興行収入を上げるために一役買っているということなのか。
 株買収でおびえ、保身に回るだけが放送業界とやらなのか。新社屋とやらをあちこちに立てショッピングモールを併設する金があるならば、映画館でも作ったらどうか。映画だけでなく、自局のなつかしのドラマ特集、版権を都合できる名画特集となんとでもなるはずだ。DVDで発売しているコンテンツでも構わない。「大画面で見る」とでも言って、視聴者とやら集めてはどうか。ついでにドラマに関連する商品とやらを、スポンサーである企業に売り出してもらう。そこに「アンテナショップ」の役目を負わせる。30年代ブーム、40年代ブームといって、食玩の世界では、そこそこ売れ行きを伸ばした。ならばどうか、ここは一つテレビ局主体の映画館。少しは馬鹿箱の名が薄れるのではないか。
 

DVD

2005-07-07 | 映画 落語
 昨日は映画の入場料の高さについて述べたが、DVDに関しても一言言いたい。今や、格安のDVDがビデオショップ以外のところでも入手できるようになっているが、問題はコンテンツである。新作の類は、当然DVD化されるが、旧作は未だにDVD化されないものもある。恐らくは主に版権の都合によるものであると思われるだが。主なところでは、今話題のSTARWARSである。90年代にリニューアルされた版はトリロジーとして発売されてるが、公開当時の版はビデオ、LD化されているが、DVDにはなっていない。スターウォーズにはさらにデジタルマスター版もあった。が、それも同様にDVDにはなっていない。
 小津、黒澤はボックスで出ているが、廉価版にはならない。そう考えるとかつて日本映画が一番勢いのあった時代のチャンバラ映画や任侠もの(東映の実録シリーズではありません)、文学作品などは何処へ行ったのやらと思う。松竹、東映はまだしも、東宝にいたっては何をかいわんやである。クレージーの無責任男シリーズは、ビデオ、LDにはなっているが、DVDにはなっていない。ましてや、ビデオが廉価版が当たり前に流通している頃にも、ひとり、一巻、一万数千円の値段で売っていた。
 LDしか入手できないアメリカの名画も徐々にであるが売り出されるようになったが、やはり普通に流通しているものよりも高い。「我が人生最良のとき」は数年前やっとDVDになったが、5千何ぼした。それだけ払っても見る価値はあるのだが。
 名画座もなくなった。新作のDVDはよっぽど気をつけて買わないと損する破目になる。見たい映画、欲しい映画はすべて活字の中でしか思い描くしかなくなった。
 ビデオ、LDときて杯盤になっている名作はまだまだあるはずだ。海賊版撲滅もいいが、一方で倉庫の下で眠っている名作も呼び起こしてくれという。

映画の入場料

2005-07-06 | 映画 落語
日本映画が元気がよいと言うが、本当にそうなのか。興行収入をみれば、確かに相当な金額を出しているが、平日の映画館の閑散さは、背筋が寒くなる。映画の日、女性の日、高齢者割引と次々に割引企画を出して、高校生お友達割引である。高校生三人だと一律千円になるというサービスである。
 映画館によく通う人にとっては周知のことなのかも知れぬが、携帯電話の普及と館内のおしゃべりが目に付きだしてから、映画館にはよほどの覚悟をしなければ行かなくなった小生には、件のサービスは驚きであった。常々思っていたのだが、日本の映画入場料は高すぎる。大人1800円という価格は、今時DVDなら3本は買える。下らぬ映画に1800円払うなら、名作を購入した方が遥かに得である。 米国やフランス、ドイツ、この3国しか入場料は知らないが、それに比べて、2から3倍の値段で、サービスとは一体何の意味があるのだろうか。
 片や、入場料サービスを宣伝するのも、映画館でしかしないというのも納得がいかない。勿論情報誌の類には掲載しているのだろうが、それとも小生が迂愚なだけであろうか。ネットや携帯には件のサービスに関する情報が、ひきりなしに掲載されているのだろうか。
 当今、落語ブームというが、かつての寄席は、皆、映画館に化けた。映画館はパチンコ屋、商業ビルに化け、なんとか踏みとどまっているようにみえるが、末広、池袋演芸場と大差ない。してみると、映画館も文化財保護指定でもせねばならぬのか。入場料を下げれば、客が来るという簡単な図式ではないことは、百も承知である。にしても、使わぬ高速道路、空港を作る金があるなら、少しは映画館に振り分けたらどうか。
 DVDにも言いたいことがあるが、これはまた明日のお楽しみ。

ディープブルー

2005-06-19 | 映画 落語
  ディープブルーを買ってしまった。今更とお思いの方もおられるかと、あきれることなかれ。やはり自然の雄大さ、神秘さには叶わぬ。そしてありのままの姿を追い求めるところに感動がある。と書いて、脳裏によぎるのは「癒し」といういやな言葉であるが、やはり生物の魅力には勝てぬ。波乗りをするかのごとく泳ぐいるか、食物連鎖を思い知らされる、魚の大群。生命の進化を想起させる深海の世界と、次々に繰り出されるパノラマに息を呑んだ。惜しむらくは、カルフォルニア沖で見られる鯨の交尾の映像がなかったこと、マリアナ海溝の画がコンピューターグラフィックであったことでであるが、それを差し引いても面白かった。聞く所によると、件の求愛の際に、海面が真っ白に染まるという。その領域たるや、遥か中空にある人口衛星によってしか見られないと。
 もう10年以上も昔のことだが、鴨川シーワールドでシャチの体に触れたことがある。ショーが終わり、人の波も途切れ、辺りが閑散とした頃、ゆっくりと回遊するシャチに見とれ、目の前に来たとき、思わずその背に手を伸ばした。その温もりと柔らかき感触は、あの巨体のもつ恐ろしさを吹き飛ばし、愛おしさを覚えさせるには十分なものであった。
 それにしても生物や自然の色はかくも美しいのであろうか。不思議な形をした生き物、鮟鱇の出す光の妖美さ、眠る魚の呑気さ、画面に引き込まれ、つい時が経つのを忘れてしまい。仕事に追われる体たらく。
 「美しき天然」の一節「みよや、人々このたぐいなき この天然のうつしえを筆もおよばず書きたもう」とはよくぞ歌ったものである。
 
 

小さん襲名の報に触れて

2005-06-17 | 映画 落語
 小さん襲名が決まるの報を知り、またもや落胆である。五代目小さんが鬼籍に入り、孫の花緑が売出し中で、その勢い、まるで臥竜水を得、天に昇るとは言い過ぎかも知れぬが、留まらず。正蔵復活で、落語界にも何とか活気を取り戻そうともがいているようであるが、遡れば、五代目こさんのせがれを真打にせねば、後が閊えてしょうがないからという苦肉の策が、家元の脱会を招いたのではなかったか。小さんといえば、夏目漱石が最も愛した噺家で、その名跡は円朝にも劣らぬものである。先代小さんこと、小林勇は戦争を挟んで、凋落した落語界を復興させようと、名人たちに交じって若手として活躍した。強情灸、うどん屋と軽妙かつ表情豊かな話を得意として、晩年こそ往時の精彩さは欠けたが、慈愛ある好々爺に見えて一つの芸をなしていた。
 落語ドラマや小朝によるイベントで、盛り上がりを見せているような落語界であるが、実情はすでに末期である。志ん朝が鬼籍に入り、江戸弁というものが聞けぬ世になり、日本語の貧弱さ、文化の低迷から消えた話は数知れず。換言すれば、世情によって禁じ手が作られてしまったということである。先の大戦の頃、時流に逆らうような艶話が葬り去れたことを忘れじと噺塚なるものを拵え、戦後、自由な世になったからと艶噺を復活させた。世が戦争、戦争と騒いでいる時は、噺が消えていくのがはっきり見えた。が平成の御世には「戦争」はないが、文化・教養の零落が知らず知らずに噺を葬り去っていっている。
 なぜに今更、小さんと狐疑してみるが、なにあれは野球で言う「中継ぎ」というやつで、花緑がもう少し大人になるまでと読んだ。
 どんな名跡が出てきても、もう驚かない。せめて、CBS、NHK、コロンビアさん、志ん生、志ん朝、馬生の親子落語と題して、一枚のCDに三人が同じ噺を語っている豪華版を出してくれまいか。限定一枚 一金 一千万円也。その金は女房を売って作りし金ならぬ金を持っておっとり刀で参上します。

タイガー ドラゴン (甲府ぃ)

2005-05-29 | 映画 落語
タイガードラゴンを見ろと薦められて、金曜日の夜にチャンネルを合わせた。役者の演技巧拙は言わない。脚本の巧拙も問わない。脚本家の他の作品を見ていないからだ。一を聞いて十を知るという器用な技は出来ないから、台詞と台詞の伏線、小道具の伏線も問わない。ただ一言、脚本家の狙いは上手い。そして同時にあの手しかないと思った。
 タイガーは落語の話を紹介しながら、その内容を現代に置き換えるという設定である。本歌を紹介して、その亜流を話すという仕組みになっている。現代に置き換えた設定のみのドラマなら本歌を知らぬ人には、何のことかわからぬ。本歌を芝居にしたとて、はたして、曲げが似合い、江戸弁をたくみに繰る役者がいるかはなはだ疑問である。
 へっつい幽霊を末広で何度も聞いているが、「へっついって何」と隣に聞いた婦人をみたのはもう10年以上も前になる。年のころなら50過ぎか。
 円生は、まくらに予備知識を仕込んでから噺をすることがあった。それが耳障りで、どうも好きになれなかった所以である。志ん朝も、時には、まくらになんとなしに予備知識を話して、噺に持っていった。崇徳院、千早振るは百人一首を知らなければ、わからない。ない、ない尽くしになるのは時世時節だから、噺家は工夫を凝らしている。歌舞伎はイヤホンガイドをつけ、踏みとどまったが、落語にイヤホンガイドをつけることはできない。苦肉の策として、本にすれば、岩波、新潮なみの注釈の嵐となった。淀五郎、九段目は忠臣蔵だから、まだ演じられるが、菅原息子はあまり聞かない。落語をドラマ化しようとすれば、勢い「タイガー」の方法にならざるを得ない。してみると、「タイガー」を本にすれば、古典の現代語訳つき注釈本になるかと膝を打った。
 偉そうに書いているが、古い本や、米朝師匠の芸談の本を読めば、わからぬことだらけである。幸い、畏友の一人に古文に通暁したものがいる。今日も付箋をつけた頁をコピーし、講義を伺っている。
 

志ん生 復活 DVD

2005-05-27 | 映画 落語
老醜を晒すつもりはなくても、当人にその自覚がないから老醜とは思わない。増してや芸人になれば、昔の栄華を覚えていたのかと飛び上がらんばかりに喜ぶであろう。
 志ん生復活の題名で講談社より発行されたDVDを見て、つくづく落胆してしまった。映像は巻頭にあるのみで、あとは風景写真を画面に写して志ん生の声を流すものに仕上がっている。動く志ん生を期待していたのに、裏切られた気持ちが大きい。
 とりわけ第6巻の「志ん生の小話」というカラー映像では、脳梗塞に倒れて高座復帰目前なのかどうかわからぬが、噺家の命であるしゃべり、ろれつが回らなくなっている。本人は、頭の中で自分のしゃべる姿を思い描いているのだろうが、映像は見事に裏切ってくれている。映像は時に残酷であるとどこかで聞いた覚えがある。
 今では、番組宣伝に堕したいいとものゲストコーナーであるが、かつて向田邦子が出演した記憶がある。彼女はたまさか躁状態の時期にあり、タモリの制止を聞かずに、40分以上話続けた。出演間もなくして、彼女は飛行機事故で返らぬ人となった。その年のゲストを振り返る企画で彼女を偲ぶ意図で再放映したが、あまりにも反響があったのだろう。爾来、10周年、15周年と記念して往時を振り返る「いいとも」で放映されたためしがない。
  貴重映像だからといって、あればいいというものでもなかろうに。資本主義とは何でも金に換えることなりと言えば、浅墓か。
 老兵は死なずただ消え去るのみとはマッカーサー元帥の言葉である。見事に消え去る禽獣の類がうらやましいと言う。

 追記:6巻は小生気に入らなかったが、4巻5巻の冒頭映像は見ものである。

映画の行く末

2005-05-21 | 映画 落語
自分の出自を尋ねられ、かつて我が家は何をし、どこから来たのかというご先祖さま探しは尽きぬ興味がある。自らの出自は知らないが、ある武士の末裔なら知っている。頃は戦国乱世、野武士の強暴に苦しむ農民に頼まれ、義の為に戦った七人の武士である。その戦では何名かは命を落とした。知謀家の侍の末裔は昭和の御世に大学教授に。黙して語らず、言葉のむなしさを知る侍の末裔は作家に。そして粗暴であるが心優しき侍の末裔は、獣医になった。その大学教授の息子は印刷工となり、勤め先の前にある団子屋の小町と結婚した。結婚する直前に、その娘にはやくざの兄貴がいることを知る。作家には一粒種の娘がいたが、しぶしぶ結婚を承諾した。獣医は妻と死別し、長い間男やもめで、娘を心配させていたが、無事再婚した。今でも北海道にいるはずだ。三人とも連絡をよこさぬが、往時を偲んでたびたび写真を見る。
 勘の鋭い方はお分かりと思うが、七人の侍 勘兵衛の志村喬、久蔵の宮口精二、菊千代の三船 が寅さんに出演している様子である。
 角川が黒澤作品の版権を購入したとか仄聞したが、黒澤作品をリメイクするためならば、やめた方がよい。ブルースウィリスのラストマンスタンディングのような失敗をこれ以上見たくない。
 これはと思う俳優、例えばキッズリターンの金子賢、スウィングガールズの本仮谷ゆいや、ウォータボーイズの妻夫木某、新人として銀幕の中でぱっと煌くものがあったのが、いつの間にかめっきが剥がれたようになってしまうのはなぜか。小生の色眼鏡のせいかもしれぬ。彼らは映画全盛の頃ならひとかどの俳優になっていよう。
 黒澤が成功したのは、コンテンツもさることながら、三船を見つけたことにある。ドンシーゲルとクリントイーストウッド、ジョンフォードとジョンウエイン、優れた監督は優れた俳優を見出す。
 コンテンツを見つけた、いい俳優もそれなりにいる、監督も連れてきた。出来上がったものがこうも駄作になってしまうのはどうしてか。日本映画が面白いとマスコミは言う。侍映画を外国人に撮らせて何を言う。面白いのはまだ無名の新人が登場する作品である。
 件の新人がめっきになってしまうのはなぜか、その問題は奈辺にありや。

双葉十三郎 ぼくの採点表

2005-05-20 | 映画 落語
 今週号のサライに双葉十三郎先生のインタビューが掲載されている。双葉先生は戦前から活躍なされている映画評論家で、ぼくの採点表という映画批評を書き溜め、数年前に大書が完成した。ぼくの採点表という題名でトパーズプレスから出版されている。全7巻にわたるもの。戦前の洋画から今日に至るもの、更に戦後日本映画をまとめたものがある。
 米国では早くから映画辞典になるものが出ていて重宝したが、日本はこの手の索引集を作るのはどうも苦手と見える。米国版のは3社ほどから出版されており、監督索引、俳優索引、アルファベット順に作品とその粗筋、寸評、星印が書かれている。米国の整理好きはどこから発しているのかしらん。ニューヨークにおいでの際は、近代美術館近くのラヂオテレビ博物館に行って見るとよろしい。博物館と言っても展示物はない。エレベータで2階へ行き、名前を記入したら、自分の見たい番組名を記載する欄がある。そこに番組名、例えば24のシーズン3、第2話と記載し、しばし待つと呼び出しがかかる。小さな宇宙船の形をした個人ブースに案内され、スイッチを入れると画面から件の番組が放映されるという仕組みである。閑話休題。
 双葉先生の「ぼくの」は、日本で初めて映画作品辞典だと思う。同時に読み物としても十分堪能できる。双葉先生の筆鋒の鋭さとユーモラスなコメントは、評論においてある種の文体を形成したことを伺える。大作、宣伝に媚びることなく、試写室へ足を運んで映画、銀幕と暗闇、をこよなく愛する人の軌跡でもある。映画を見てから、双葉先生の本を紐解くか、見る前に紐解くか。
 「ぼくは2万本以上の映画を見てきたけど、嫌いな映画に出会ったことがない。なぜかといえば好奇心が強かったから、好奇心があれば、つまらない映画だって面白いんです」とは双葉先生の言葉。
 なくなった色川先生が寄席の楽しみとして、贔屓の芸人だけ見るのではなく、前座から見ること、その前座がどのように成長するのか、とこれもまた好奇心のなせる至福の楽しみ方であろう。
 双葉先生の本は文春新書からも出ています。