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笑わぬでもなし

世相や世情について思いつくまま書き連ねてみました

北野武著 「光」

2005-11-24 | 映画 落語
本日は、Thanks Giving dayでありました。これから米国はSEASON SALE に入っていくと思うと、時の歩みの速さを覚えます。ところで、北野武さんの本が最近出ました。その著書の中で、自分が入った高校のことが書いてありましたが、ある意味で北野氏の高校の選択が最良だったと頷けました。
 小生思うに、自分がトップになれる場所、もしくは自分が最下位になる場所は、人間をダメにするのではと。出来るなら中より上にいられる所がよいということです。すなわち、自分の可能性の見切りが良くも悪くもつけるのであります。運動、学業どちらでも、構わないですが、自分が優れていると思っていても上には上がいるから、どこで自分の場所を確保するかと奔走します。
 運動では負けたけど、学業では、学業では負けたが、趣味の世界では、自分のアンテナをどこに張っていくか、それは根っこでも構わないのですが、それを見つけるには、やはり自分がトップに立ててしまう、もしくは自分がいくら逆立ちしても勝てない場所ではきわめて辛い状況になるのではないでしょうか。
 競争に勝つ方法は、競争の波に乗らないという方法もあるということです。北野氏はかつて、トップに立ちたいという若手芸人にこうも述べました。同じ事やっても、上には上がいるのだから、違うところ、人がいないところへと行けと。
 かようにして若き頃模索した結果が現在の北野氏の姿になっているのだと思います。
 北野武氏の近著は「光」ロッキングオン社刊です。 


落語ブームと言うけれど

2005-11-14 | 映画 落語
ブームと言うのは怖いものです。落語ブームという奴で、寄席に若い人が見受けられるようになりましたが、少しく「教養」の範囲が入ってくるものが受けなくなっています。与太郎や艶話なら、教養、素養はさほど要りませんが、源平盛衰記なぞになると、本来荒唐無稽の脚色が出来る面白い話なのですが、一の谷や鵯越、那須与一なぞすっかり抜けていますから、何のパロディーなのか、どこがおかしいのかわからない人が多いようです。たまさか小生が寄席に行った日がそういう場合だったのかもしれません。
 でも、ブームの怖さを感じます。それは受けない話が演じられなくなるという事態が生じてくるからです。勿論、「ブーム」以前にも演じられなくなった噺はあります。先人達の自家薬籠にしていた話なぞ、やはりおいそれとは出来ないもので、ある噺家さんがなくなると、もはや演じられなくなるものもありましょう。にしても、今の一時的なブームで、噺の受けや客の理解力に合わせるようになれば、確実にいくつかの噺はなくなるでありましょう。
 そして、もう一つ噺家さんが噺に戻ってきたのは悪くは無いのですが、時間の中で噺を無理に続けようとするあまり、早口になってしまうことです。もしかすると、早口は今時の流行なのかもしれません、いやもしかすると、昔よりも今の人のほうが早口になったのかもしれません。早口になってしまうと噺が平板になり立体感が損なわれます。
 ブームには必ず終わりが来ます。別段ブームに限りません。古人曰く、満つれば欠くるといいました。

宇宙戦争

2005-11-09 | 映画 落語
HGウェルズの宇宙戦争は、小学生の頃の読んだので、殆ど記憶に残っておりませんが、蛸を大きくした宇宙船の絵だけは鮮明に覚えています。スピルバーグの宇宙戦争は、確かにスピルバーグの得意な場面が出てきてます。彼の自伝でも述べているように、幼い頃突然父親にたたき起こされ、流星群を見に行った話をモチーフにして、必ずドアの向うに閃光が走り、幾つもの影が動く場面、ETや未知との遭遇で使われたあの場面であります。今回も随所にそのような光の効果を使用しております。ジョーズや激突で見せた執拗に追いかける場面もないことはないですが、往年の切れが失われているようで緊迫感にかけました。なれど、上映時間の長さをあそこまでにしたのは、流石です。(たとえそれが彼の意図とちがっているとしても)
 ダコタファニングに叫び声を何度もあげさせ、カラスやかもめの群れを登場させたり、地下室でランプの光を強調する場面を描いたりなぞは、やはり三つ子の魂百まで?なのでしょうか。
 一時、コッポラが彼が幼少の頃見た映画、お話を映画化しました。今回のスピルバーグにもその気配を覚えます。そう考えると、宇宙戦争という題材、随所に見えたヒッチコックの繰り返しなぞは、幼いスピルバーグ少年が銀幕、ブラウン管の前で、場面場面で顔色を七面鳥のように変えていた姿が思い浮かんできます。
 日本の「アニメ」、漫画の影響は凄いものです。10年前にNYで見たドラゴンボール。宇宙戦争で出てきた宇宙人が、ドラゴンボールの「セル」の姿と設定に似ていたのは驚きでした。
 小生の一押しは物語り中盤で出てきたティムロビンスの演技であります。
 

北野武監督

2005-11-07 | 映画 落語
北野武監督の新作が一昨日より公開されました。まだ見てません。ところで、北野武監督論に関していくつか目を通したものの中で感じることは、批評家の方々は、北野監督の背景を無視しておられるのではということです。
 前作座頭市は、当初、酷評されました。勝新のイメージが壊れるとか、最後の下駄のタップは何だとか。北野監督のこの作品に至るまでの過程を顧みれば、自ずと件の手法は上手いとしか言いようが無いはずです。黒澤監督と親交を結び、その映画を見た北野監督です。勿論、勝新さんとも親交がありました。それらのことを踏まえれば、一言、北野監督の出発点は「芸人」にあるということです。
 最後の下駄のタップダンスは、黒澤監督へのオマージュであり、もしあれをそのまま神楽で描いていたら、黒澤監督の物真似、二番煎じでしかありません。いかに黒澤映画に近づき凌駕するかの答えが、あのタップです。それは、日本という市場に留まらず、海外を意識したものでもあります。なんたってアステアですら、下駄でタップを踏むのを見たら、感動するに違いありませんもの。加えて、北野監督の師匠は、タップ、殺陣、なんでもござれの芸人でありました。
 座頭市では、人を切る効果音(大根を切るあの御馴染みの音)を変えていました。ここにも、北野監督の計算が見えます。勝新さんの殺陣は、歴代の名優、嵐カンや千恵蔵にも匹敵する特徴のある殺陣です。その殺陣に勝てるはずなどないし、まして同じものなどできようがありません。そこで効果音を変えるという発想で殺陣の粗を見事に昇華しました。これもまた、浅草のコントで覚えた手法を上手く使ってます。即ち、侍コントで、相手斬る時の効果音を変えて喜劇にするものです。斬った瞬間に例のブス、ズバという音ではなく、犬の鳴き声や、鳥の声、鈍い音を入れて、斬られた相手が、その場で「すいません、夕べ鳥なべしたもので」と答え、ずっこけるというものです。
 なくなられた淀川先生は、「映画を見るだけでは、映画の勉強になりません、いろんなものを見なさい、歌舞伎、文楽、能狂言、バレエにお芝居、今の若い人は映画ばかり見て映画を撮ろうとするからダメなの」と言っておりました。
 北野監督が、監督として優れた資質を持っているのはどうやらこの辺りにあると思うのです。今週末に武監督の新作に足を運ぶ予定です。

クリントイーストウッド

2005-11-05 | 映画 落語
ミリオンダラーベイビーについては公開以前にコメントしました。今更と思えますが、DVD発売になって、益々クリントイーストウッドの力量に感服します。物語の紹介はさておきまして、クリントイーストウッドらしさが光るショットが随所に見られました。
 夜のハイウエイでヒラリースワンクと車内で会話する場面のショットなぞ、闇を意識したもので、彼の輪郭と横顔の表情の豊かさを浮き彫りにします。夜の病院の廊下を歩く場面、ジムから出てきて通りを歩く場面のシルエットは往年のハリーキャラハンの大きな体に長い手足を少々もてあましたあの姿を見事に復活させています。
 そしていつの頃から、彼の映画には病院で横たわる、病気、負傷で横たわる場面が登場するようになりました。ハリーの時にもありましたが、あくまでも付属品としてであり、「許されざるもの」「目撃者」などから病床に横たわる娘、友人、それを見守る姿です。今回も話の上で現われます。
 スペースカウボーイから、老いと生に関して彼の視点は益々深みに行っている様な気がします。老いることの楽しさ、辛さを映像に乗せて伝えようようとする姿は、映画作家というよりも、ジャスをこよなく愛する哲学者の姿にも小生には映るのであります。
 モーガンフリーマンという演技に押さえが利く俳優をナレーションに再び起用したことにも納得がいきます。「許されざるもの」で語り部としても登場した彼は、正確には彼の声には詩を歌う詩人の要素があります。物語の内容上、深刻に響く話も、彼の声により、その重たさを免れると同時に、見終わったあとでずんと心に残る響きがあります。そして主人公は、今回もマーニーの如く、消え去ってしまいます。どこに消えたかはわかりません。しかし、日常のどこにである何気ない風景の中に溶け込んでしまう、それは絵画の片隅に描かれた人物、建物、草木のようであります。
 ジョンフォードがいない今、彼に匹敵する監督は、今やクリントイーストウッドこそが、その人物だといえましょう。今回の映画を見てつくづく痛感しました。是非とも、我が谷は緑なりきを上手く料理して我々の前に見せていただきたい。

噺家 春風亭小朝

2005-11-02 | 映画 落語
春風亭小朝を見ていて、思ったのは、師匠に志ん朝師匠を描いていたのだなあということです。実際の師匠は柳朝でありましたが、小朝が辿ってきた足跡を見ると、かつての志ん朝師匠の軌跡に似ているということであります。ある意味で、単なる雑感であります。
 志ん朝師匠は、NHKドラマに出演し、自らの名を冠した番組で司会をやり、かつては、鬼平犯科帳でウサギこと木村忠吾役を演じておりました。その後、ぴたりとテレビ出演を打ち切り、三木のり平さんの舞台に絞って活躍の場を、落語と住吉踊りに専念しました。のり平さんとの出会い、白鴎氏との出会いが芝居心と所作の幅を広げて、話に膨らみが出たことは確かです。愛宕山での幇間一八が谷底へ降りて、金を拾うところ、その一八と山の上にいるだんなとの会話とのやり取りなぞ、目をつぶると空間の奥行きが、その所作から谷の深さが窺えたものです。それは紙一重の差であります。首をどのように傾けるか、あごをどう突き出すか、ほんの少しであります。さほど噺家を見たわけではありませんが、愛宕山に出くわす度に、声だけでかたづけている方が殆どでありました。
 話は小朝に戻りまして、彼もかつてNHKで百才万歳という番組で司会を務め、合間に噺を聞かせて、対談を行うという仕事をしてました。同時に、舞台への挑戦、そして三匹が斬るという高橋秀樹、役所こうじとの時代劇にも出ておりました。
 小朝の話の運び方、所作、間合いの取り方は一品であります。創作落語でも上手く古いものを取り入れ、さも古典落語、講談にあるような口ぶりで話し始め、聴いているものを魅了します。また、演目によって舞台を使い分けるセンスも、あれだけテレビに出てひとつの小朝像を作り上げた成果であります。そして今や見事にテレビに距離を置き、噺家だけでなく、正蔵の後見人、更には落語の興業師としての手腕を振るっております。
 ひとこと、言わせて貰えば、小朝には、志ん朝とのり平という師弟関係のような「芸人」との交わりがないことであります。役所さん、高橋さんもベテランです。しかし小朝が出会ったのは、役所の途上期であり、高橋のマンネリがまだマンネリ化しない時期だった。それは芸を競う上でとても面白いことなのでしょうが、とうてい敵わない芸を側で見て、それにあわせるよう教育されることとは全く違います。
 小朝師匠の器用さは、感服すべきものがあります。正蔵よりも先に、春風亭一門の名跡を継ぐべきだと思っております。ですが、芸に幅、貫禄をつけるには、惜しいかな時代といういたずらが師匠を今の芸域に留めてしまっているような気がします。

コント55 なんでそうなるの

2005-10-30 | 映画 落語
コント55の40周年を記念をして、DVDが発売されてます。日テレの「なんでそうなると」とフジ、テレ朝などの番組をまとめたものです。前者は、往年の元気な姿が、後者は少し歳のいった二人であります。そういえば、3,4年前にコント55の舞台を見ましたが、往年の動きの切れは見られませんが、相変わらずの言葉のやりとりとコントの作りは同じでありました。
 コント55の笑いには、好き嫌いがはっきり出るような気がします。欽ちゃんのもつサディズムと次郎さんの受けが、エスカレートしていき、ナンセンスになる過程がなんともいえないのでありますが、ひとつ外れると怖さがあります。その怖さは紙一重であり、一線を越すといじめにも似た不快感になってしまいます。そこをどう欽ちゃんが言葉を繰るか、また次郎さんが逆手にとってやり返すかの攻防が新たな笑いを作り出します。好き嫌い出るのは、恐らく、ナンセンスさにひねりが足りない、エスカレートの過程でパターン化されたものに辟易する、そして一つ外れて見えてしまうなどではないのでしょうか。
 とにもかくにも、「なんで」の名場面集では、欽ちゃん主導のパターンと次郎さんが上手く欽ちゃんをやり込めるのがバランスよく配置されております。小生のお奨めは、無賃乗車、生放送というコントであります。
 かつて、日テレで欽ちゃんとジャニーズの若い子が番組をやっておりました。欽ちゃんが演技及びコント指導をするという内容です。偶々見た回では、刀の抜き方、立ち回りの足運びをジャニーズの少年に教えておりました。今回のDVDでも、食事をしながらの演技指導を次郎さん相手に行います。ここが欽ちゃんと次郎さんが浅草出身たる所以であります。
 欽チャンはドラマに出ることなく素人をいじる番組、劇団を作っていきました。次郎さんはドラマに出演し、オペラを歌う歌手になっていきました。二人とも浅草を故郷とし、それぞれが師と仰いだ人と同じ道に進んだのはむべなるかなであります。

真夜中の をDVDで観ましたが。

2005-10-10 | 映画 落語
遅ればせながら、真夜中の弥次さん喜多さんを見ました。恐らく、タイトルの由来からして、しりあがり寿氏は、真夜中のカウボーイ世代だったと推察します。経歴を見たら58年生まれですから、なるほどと首是できました。知人が劇場で観たときに、このタイトルを読み取れる人がどのくらいいるのだろうかと考えていましたが、若い世代方には、少々無理かもしれませんと答えておきました。ところで、くどう監督の世代からして、少々、背伸びしているような感じがありましたが、あの辺りは、しりあがり氏の原作が、そうなっているのでしょうか、それとも監修に回って示唆したのでしょうか。画面で繰り広げられるギャグのいくつかは、ドリフのもの、ひょうきん族のものが散見されましたが、随所に往年のクレージーが基調になっている箇所がありました。あれは、くどうさんの世代では、オンタイムでは観られないはずです。してみれば、しりあがりさんの監修があったか、原作に描かれているのでしょうか。それとも、「勉強家」のくどうさんのことですから、メガフォンを執る前に、予習したのでしょうか。
 そういえば、始まって間もなく、現代に背景を変えてしまうのも、かつて企画倒れに終わった川島雄三監督の幕末太陽伝を彷彿させました。話がわかりにくいでしょうが、実は幕末太陽伝の企画段階では、舞台を江戸の品川にして描き、最後はセットを壊して現代の品川の町を主人公の左平次を駆け回らせるという話でした。勿論、会社側からストップがかかり、今日見られる作品になったのは言うまでもありません。真夜中では、それを逆にしたところに小生は、かつての川島監督の企画のにおいを感じたのですが、いかがでしょうか。また、現在では時代劇を撮影するには、金がかかるというのが本当らしいと仄聞したことがありました。鬼平、剣客があれだけベストセラーになり、ファンもいるにもかかわらず、フジがなかなか放映しないのも、時代劇のベテランがいない(裏方の人材不足)と背景の無さ(都市開発)、加えてセットの制作に金がかかるということです。そこを上手く切り抜けるために、あのような設定にしたのはくどうさんらしい機転と推察しました。(原作で、そうなっているのかもしれませんが)
 ともあれ、この映画はくどうさんの人生の一区切り、カンマをうったと印象を受けました。
 追記:巻頭、七之助の唇のアップは、父親の勘三郎氏そっくりでしたね。なるほど、生き写しとはよくいったものです。

村田雄浩

2005-10-05 | 映画 落語
NHKのドラマをちらっと見ました。村田雄浩さんは見事な俳優です。あれだけ役において顔が出る俳優さんはちと珍しいのでは。頼りない男、上司、侍の時には、顔に所在の無さが浮かび、頼もしい役になると引き締まり、敵役になると憎らしさが出ます。あれは天性のものか、勉強したのか知る由もありませんが、一番印象深いのは「ミンボーの女」であります。伊丹監督は、彼の素質を見抜いて起用したのでしょう、それが監督の手によって開花したのかはわかりませんが、監督の慧眼は瞠目に値します。閑話休題して、以前は髭を蓄える役をやらせると、少し腰つきが浮いたような感じを受けましたが、どうしてどうして、村田さんの演技の幅は、年を重ねていくに従い広くなっているようです。大河ドラマでも武将の役で何度か出演しているはずです。今は、洗剤の宣伝に出ていて、奥様にめろめろな亭主で顔を見かけます。TBSのドラマ「思えば遠くに来たものだ」では、大きな体を生かし、柔道部員の役で、物静かであるが内に悩みを抱える好青年を演じていました。
 役者はいろいろなものに化けます、村田さんは、好青年から中年、老年へと化ける技量を持ち始めたのではないでしょうか。
 役柄でしゃばらず、かといって存在感を与える名優に、これからも活躍を期待する次第です。

ジャッキーの映画と大人

2005-09-28 | 映画 落語
大人(たいじん)と読みます。ここ数日、懐かしくもあるジャッキーチェンの映画を再見しまして、大人と大食について考えました。彼の映画を見ると、食事の場面は大半、皿が幾つも並び、饅頭が山のように積まれ貪り食う所があります。
 先ごろ、香港だかで大食いチャンピョンに日本人がなったことで話題を集めましたが、よく考えてみるとあれは、かの国においては最大の屈辱であったのではないでしょうか。
 大人とは徳のあるものを指す言葉で、富の象徴でもあります。わが国は武家政治のおかげで、上に立つものが範となることを目指し、吉宗を始めとして質素倹約を美徳としてきましたが、かの国では、痩せた人物は大人に相応しくないという思想があるそうです。すなわち、国を代表する人物が貧相で痩せていた場合、相手の国に対して、上に立つものが貧相であるから、さぞ国も貧しいのであろうと考えられるからです。
 ものの本によりますと、斉の国(失念)だかの皇帝が、宰相を選ぶのに頭を痛めたという話がありました。品行方正、頭脳明晰、冷静沈着、非の打ち所がないのだけれど、ただひとつその人物は痩せていたということです。頭を悩ましている皇帝に、別の臣下が、司馬康(?)の例を持ち出して説得したという話がありました。司馬何某は、痩せた名相であったそうです。
 記憶を辿って書いているので、間違いがあるかもしれませんが、今をときめくジェットリーことリーリンチェイの出世作、少林寺の悪役(王将軍)は痩せた人物でありました。
 かの国では、太るということが富と徳の象徴であり、大食いと言うのも立派な徳のうちに入っているようです。蓋し、太平の世のデブは宰相に相応しいということも忘れていないようです。洋の世界でも「太った豚より痩せたソクラテス」という庶民のための言葉がありました。
 小生の周りには「大食い」の輩がおります。カレーのココスで何グラムのご飯にするかで論争になった記憶がありますが、なにはともあれ、わしわしとご飯を食べて、ジャッキーのように修行に励まねばとカウチポテトを決め込む日々です。