goo blog サービス終了のお知らせ 

笑わぬでもなし

世相や世情について思いつくまま書き連ねてみました

ホラ-映画と想像力

2006-02-11 | 映画 落語
 お勧めの映画は何ですかという質問をされることがあります。頭にはいくつか浮かぶのですが、相手を見ると何を言っていいのかわからなくなります。映画、芝居、絵画すべては相手を選びます。それが小生の考えでありまして、知っている知らないの項でも述べましたが、どの程度の好奇心と想像力があるかで、同じ作品を見ても受け取り方は千差万別だからです。
 過日、友人がホラー映画を見ていて、つくづく思ったのはこんな役に割り当てられて気の毒だなあということでした。子供が白塗りにされたり、目の淵を隈取されたり、残バラ髪にされ目の玉だけアップにされたりと。ついでに申せばジュエルシューマッカの「オペラ座の怪人」にも違和感を覚えました。ミュージカルの方を見ていないでいうのもおこがましいのですが。つまるところ想像力の欠如であります。
 見えるもの見えないものならば、見えないものを恐れるのが人の心情でありましょう。わかるものとわからないものならば当然後者を畏怖の対象とするものであります。
 たまさかNHKで「第3の男」を放映するとかで喧伝しておりましたが、「第3の男」とくれば「大怪獣(鳥?)ラドン」であります。ラドンとあの名画の共通点といえば、陰翳であります。第3の男ではオーソンウェルズの体が明かずに、苦肉の策として逃げる男の影のみを追って緊迫感を出しました。大怪獣ラドンでは、映画開始してから30分近くラドンの姿は見えません。家の瓦が、クルマが吹き飛ばされる場面、大地を暗くする巨大な鳥の影と緊張感を見るものに与えます。
 人間の脳みそは想像以上に愚かだと養老先生の本で読みましたが、見事にその愚かさ、虚を突いての影の効果を件の二作品は利用しております。
 オペラ座の怪人はミュージカルの方が先行してしまい、映画化した際には見るものの期待を裏切らないようにという意図もあったのでしょうが、往年のオペラ座のそれとは、雲泥の差になってしまったのは残念なことであります。
 昨今のホラー映画も、すべてめくれば、はいという具合で見るものの想像力を要求してこないのに、物足りなさを感じるのであります。
 蛇足ですが、先ごろまで「着信」とかいうホラーがテレビ朝日でやっておりました。その中には、ヒロインの女の子の制服姿や「普通の女の子」の格好やらスエット姿などがありました。小生の想像力は、この女の子のファンにとってこれらは「お宝映像」になるのだろうなあという方向に向いていたのは言うまでもありません。

稲垣浩監督の本

2006-02-07 | 映画 落語
どこでどう見つけてくるのかわかりませんが、ブログ案内のホームページに小生のブログが掲載されるらしいのでありまして、案内状と言うか承諾書めいたものが過日送られてきました。トラックバックやらなにやらと十分にブログの機能を活かせていない小生にとっては、有難いことであります。
 稲垣浩監督の『ひげとちょんまげー生きている映画史』は、様々な発見に見ている本であります。とりわけ小生を驚かせたのが、伴淳こと、伴淳三郎さんが日活で殺陣師をしていたという事実であります。その記述は一行程度のものでありますが、かつて由利徹さんと共演したドラマの中で、殺陣をつける場面があったと記憶しておりますが、小生の勘違いかもしれません。
 伴淳さんといえば、「あじゃぱー」が一世を風靡し、あじゃパー天国という題名の映画まで作られました。内田吐夢監督の「飢餓海峡」では刑事役を務め、その渋い演技でブルーリボン賞を貰ったと思いますが、爾来、コメディアンからの脱皮、シリアスもできる俳優と扱われました。思い起こすのは、飢餓海峡の撮影中、内田監督が伴淳さんに何度もダメだしをして、発狂寸前にまでなったということです。何しろ、襖一枚隔てた部屋に寝ている監督が、寝言で「伴淳の下手くそ」と言ったそうですから、片や伴淳さんも機会があったら、刺し違えてやるという覚悟をしていたという話です。
 先ほどのテレビはTBSの「ムー一族」だったと記憶しております。久世氏演出の良質のドラマであり、合間に樹木きりんさんと郷ひろみの歌が入り、同じく由利先生ときりんさんの絡み、伴淳さんの絡みを入れてユーモアとシリアスを上手く調合したドラマでありました。
 今のドラマを見ていますと、このような贅沢さがないように思えます。誰のせいとは敢えて書きませんが、バイプレイヤーを上手く使いこなし、そこだけで見るものを惹きつけるそんな場面がありません。舞台で活躍するコメディアンの不足もさることながら、劇団、一座を持つ喜劇人の少なさも遠因になっているのでしょう。確かに今の若手の「お笑い」と呼ばれる人たちにもそのような演技の才能がある人はいます。ガレッジセールの「ごり」と呼ばれる方とかドランクドラゴンとか、惜しむらくは舞台できちんと立ち居振る舞いをしつけてくれる人がいないということです。
 稲垣監督の本から随分と脱線しましたが、この本には他にも阪妻やら円谷英二やら宮川一夫さんやらの逸話が書かれており、読み応えのある本であります。中公文庫でありますが、古本屋で見つけたためにもしかしたら絶版になっているかもしれません。毎度古い話ばかりで恐縮です。

軍艦軍艦ハワイ

2006-02-06 | 映画 落語
色川武大先生の『あちゃらかぱい』を読んでいて気になることがありました。というよりも、様々な本で出くわすことでありますが、それは歌の調子や文句の調子です。「♪ 美しい人に 出会ったときは 優しく ひざまづいて」とか 「ア ピピョイ 指をもちゃげて チョイ チョイ シー ピッ」とか活字で書かれておりますが、これがわからない。神様 手塚治虫先生の『アドルフに告ぐ』の中でも「紀元二千六百年」と歌って歩く、提灯行列の場面が描かれておりましたが、これもまた調子がわからないのであります。
 高瀬實 「あのねぇ わしゃかなわんよぉ」の調子が幼心にユーモラスに聞こえました と書いてあったとします。これもまたわからないのであります。即ち強勢、なり抑揚がどこにおかれているのか皆目見当がつかぬため字面を追いかけて想像するしかありません。
 いつぞやは、早慶のボート部はこの歌を歌ったという記述にぶつかり、これもまた難渋しました。このときは奇跡的に、職場に来ている女性が、日本で初めての女子ボート部員であると判明し、きれいな歌声で歌っていただいたことがあります。
 戦争に関する書物を読んだりすると、昭和、大正、明治の風俗はなんとなくですがわかりますが、音楽協会、もしくは著作権協会に登録されてない歌や愛唱歌の類は、皆目見当がつきません。これらは個人のレベルにまで遡らないとわからないのが実情ではないでしょうか。
 書誌学が発達した西洋では、映像もまた丹念に残しており、ザッツエンターテインメントのような傑作もできますが、日本では映像は残されておらず、残してあっても浅草レビューの系譜を引くもの、浅草オペラの流れを組むものを映像として体系的にまとめたものはありません。エノケンは見られますが、ロッパやシミ金となるとあるにはありますがというお寒い状況下になります。話がやや脱線しましたが、防空壕の歌 「空襲警報聞こえたら」とか「ジープでアメリカさん、こんにちわ」などラジオやテレビで歌詞を読み上げ、歌を聴きたいと喧伝すれば、日本国中からテープなりMDなりが送られてくるのでしょうが、小生のような暇人に付き合ってくれる方は限られております。
 歌舞伎や落語のように今を見て少し前を見れば、なんとか推測がつきますが、件の風俗は、なんともしがたいものであります。
 例えば、「軍艦軍艦ハワイ」と調子をとるじゃんけんなぞ、音声を伴うものは是非とも「音声ブログ」なり音楽発信のできる御世だからこそ、しっかり収集して、一つのエンサイクロペディアにしてくれまいか。

シンデレラマン

2006-02-01 | 映画 落語
 ロンハワードの略歴を見るとアメリカ出身となっていますが、父親の影響かそれとも、彼の自前の努力の賜物なのでしょうか。「シンデレラマン」はアイリッシュのボクサーの軌跡と大恐慌時代を描いた秀作であります。思わず、往年の名作、「波止場」や「我が谷は緑なりき」を再見したくなるような、家族愛、夫婦愛、そして男の姿を思い浮かべます。
 そしてまた、例の如くボケが始まった証拠かもしれませんが、アメリカの画家の作品にボクシングを題材にした絵画がありましたが、ラスト近くのリングの場面なぞは、まさにそれを模したものでありました。
 アメリカンスプレンダーで好演した、ポールジアマッティニーのセコンドも熱くなる男を見せております。なによりも子役を上手く使っておりまして、必要以上に喋らせない、目の演技に集中させたところが見るものにぐっと来させます。
 昔の記録フィルムを見て、再生を試みたロンハワードの手腕は、戦時中のニュース映画を見て「地獄の黙示録」を作ったコッポラーとは一味違った、即ち映像を意識するという点で評価できるのではないでしょうか。
 一方で、父が父らしく、母が母らしく振舞っていた、家庭がその機能をしていた時代が、かの国でも遠くなってしまったのではと感じました。二時間超の長尺にも関わらず、物語をコンパクトにまとめる凄さは、アポロ13でも見せてくれた監督の才能でもありましょう。そうそうついでに付け足しておけば、「静かなる男」もこの映画に触発されて再見したくなりました。 

夫婦善哉

2006-01-24 | 映画 落語
織田作之助の『夫婦善哉』が今、無性に読みたいのですが、近辺の本屋になく、仕方ないので我慢してます。『夫婦善哉』を突然出してきたのは、他でもありません。森繁先生と淡島千影先生の映画を再見したからであります。物語の最後に、「頼みにしてまっせ」という森繁先生のアドリブが有名になってしまったために、ついぞ台詞の呼吸、心の動きを見落としていたのでありました。
 例えば、内縁の妻の実家で出された茶菓子が半欠けの煎餅であります。煎餅をだしながら、「すいまへんなあきゅうぞうで」といえば、「あら、この人の名前も久蔵だから」と。「きゅうぞう」と「久蔵」をかけているところなぞ、豊田四郎監督の冴えなのかそれとも原作なのか、調べたくなってしまいます。ちなみに、煎餅の焼き損ない、出来損ないを業界用語で「きゅうぞう」というそうです。本妻が嫌で逃げ出して芸者と一緒になったが、商才があるでなし、甲斐性があるでなしの半人前の男であることを物語の随所でぐいぐい見せ付けるところは、森繁先生の名演と台詞の呼吸の上手さが相俟って物語の終盤への意味合いの重さを伝えるには十分であります。そうかと思えば、男が実家に戻り、ひとりの生活を持て余している淡島千影が、男と通った洋食屋に行き、思わず「ライスカレー二つ」と注文してしまう間。昔なじみの芸者仲間が訪れると、私が奢りますと連れ出したのも同じ洋食屋であります。
 物語の終わりに、善哉屋に入ります。一人前の善哉をわざわざ二つに分けて出す。その理由を男が講釈します。が、この二つに分けてがなんとも憎らしい。割れ鍋に綴じ蓋でありませんか。
 俗に所帯をもって一人前とみなされます。夫婦善哉とはそれを教えてくれる話です。独り者とは、聞こえがいいが、器の広さと量がわからずにいるものではないか、尻馬に乗って、やれ株だの金儲けだのに手を出して、馬がこけたら、水に落ちた犬を打擲するが如く、罵詈讒謗を浴びせる姿を見ると、やはり分際を知らないのだ。閑話休題いたしまして、この映画は森繁さんの台詞だけでなく、足の演技でも有名になっています。
 織田作之助を軽視しておりましたが、この作家は戯作者として読み直してみる価値があると思う、今日この頃であります。

 人生は大いなる誤解から成る ジャームッシュ

2006-01-09 | 映画 落語
ジムジャームッシュの smoke and cigaretts は、贅沢な大人のコントです。ビルマレーイ、イギーポップ、ケイトブランシット、スティーブンブシューミー、トムウェイツ、などの豪華キャストで、ひたすら煙草と珈琲を飲み、ドラマが全く起こらない話の連続です。言い換えれば、人生は大いなる誤解から成り立つという高尚な笑いで満ち溢れた大人の童話集であります。
 類は友を呼ぶといいますが、類にも限界があり、限界を悟る時こそ、大いなる誤解を知る時であります。あの話がわかるなら、この話もと思うのは、贔屓眼で見ているからで、実はあの話もわからずにいたことなぞ何度もあったはずです。にもかかわらず、その場で返事をしてしまうのは、相手への思いやりであり、相手への期待であります。随分経ってから、なるほどあの話はこのことだったのか気がつけばまだいいほうで、烏兎怱々、時の歩みに流され忘却の彼方へと追いやれられるのが大概であります。あの話がわかるのに、この話がわからぬとは、ならばと委曲を尽くすのは人の情であり、委曲を尽くせば尽くすほどわからなくなるのが人の常であります。
 幼少のみぎり、近所の老人に可愛がられました。まずは祖父の思い出話に始まり、次第に祖父との遊び、即ち将棋を教え込まれました。不幸にして、棋士になるほど将棋に関心も持たず、へぼ将棋よろしく、何番やっても勝てませんでしたが、何を相手は感じたのか、小生のへぼ振りが亡き祖父にそっくりと喜んでおりました。どこがどう似ているのかこちらには見当がつきませんし、今から思えば小学生のやる将棋なぞ、たかが知れております。ましてや羽生、谷川名人なぞの天才からは縁遠い鈍才ぶり。それでも二日に、三日に遊びに行けば、将棋でもするかと盤を出して駒を並べて、小生が飽きぬように「待った」をかけたり、飛車角を落しなりと工夫して付き合ってくれました。小生にはおじいちゃんのお守りという思い、あちらには近所の子供のお守りという思い、ここに目出度く両者の思惑が至り、無事に一日を過したものです。
 この札が出れば、あの札が出ればと期待します。期待したところで出ないことは承知でも、人生は続きます。すなわちめくってもめくっても。小生の場合、その後に「ちんちろりんのかっくん」が加わります。
 『スモークアンドシガレット』ジャームッシュ監督作品、一話終わるごとに頭の中で呟いて見て下さい。人生は大いなる誤解からなる。

誰か映画化してくれまいか 池波ワールド

2006-01-04 | 映画 落語
「おたく」という人たちが、人気漫画を自分で物語を再構成して売っているという話を聞きました。中には卑猥なものもをあるといいますが、とりあえずは、物語の再構成というところに感心しました。何を今更と思われるかもしれませんが、ハリウッドではリメイクや漫画を実写かする際に、キャスティングをブログ上で公開し、人気投票する手法もあると聞きます。
 そこで、常々思うのですが、池波正太郎先生の作品をコラボレーションしてくれまいか。鬼平の後期の作品の中に、秋山小兵衛が登場します。小兵衛は無理かもしれませんが、秋山大二郎なら長谷川平蔵の活躍と時代の中でも符合するはずです。よく考えれば、当今「時代小説」と看板を掲げて書いてある小説の大半は、藤沢周平氏、池波氏の二番ならぬ三番、四番煎じであることが、ある意味で平蔵の続きであることになるのでしょうが、小説と言う物語で続編を書くのは、流石に憚られるかもしれません。しかし、映画にして脚本を書けば、なんとかならぬでしょうか。鬼平作品の中でも、長編と呼ばれるもの、例えば『鬼火』なぞと剣客商売の『暗殺者』なぞを重ねて物語を作ってみてはと常日頃、考えている次第であります。
 さて、問題はキャスティングであります。長谷川平蔵はいわずと知れた中村吉衛門です、秋山小兵衛は藤田まことであり、さて秋山大二郎は、と来て考えてしまいます。京極備前守には、幸四郎、団十郎でありましょう。小兵衛の碁敵の宗哲先生には、当然財津一郎であります。さて、やはり残る秋山大二郎ですが、いつも顔が浮かばず、非常にきびしいぃーであります。
 この正月は久しぶりに池波世界に浸っております。

耳こそ命

2006-01-02 | 映画 落語
年末、年始はお笑い番組が時間潰しに大活躍でした。民放は吉本、松竹芸能頼みで、漫才は専ら関西系に占拠されております。みなさまのNHKのみ、東京の若手漫才師が出演しておりました。吉本の芸人は、いつの間にか司会業へ転向して、漫才をやりません。若手呼ばれるものも、バラエティー番組の司会につくことを目指しております。もはやしゃべくり漫才をじっくり聞くゆとりもなくなってしまいました。他には、歌舞伎の舞台中継もありました。坂田藤十郎の襲名とさらには、先ごろの勘三郎襲名とで歌舞伎は、なんとか古典芸能の域を保っています。演者が競う土壌がまだ残されている証左でありましょう。
 翻って、落語を見ればお寒い状況であります。ブームに乗って昨今の噺家のCDが昨年の秋ごろからシリーズ化して出されておりますが、今一つ購入する気になれないのが現状であります。へっついがわからぬ大人を寄席で見かけたのは、20年も前のことです。落語には日本語が残っているという声も聞かれますが、江戸弁は噺家の中に殆ど残っていません。訛りが抜けなきゃ、噺家になれないのが昔でありましたが、今ではそんなことはありません。無理して「ひ」と「し」を使おうとするから耳障りこの上ないです。なるほど、話の構成力は今の落語家云々と聞きますが、構成力なぞ、噺の骨組みを看破すれば数えれる限りしかないのだから、それに気づかずに聞いているほうが魯鈍としかいいようがありません。噺家は誕生したが、志ん生、文楽、可楽、円生、金馬に三木助、彼らの衣鉢を継ぐものがいなかったということです。一人談志が孤軍奮闘しておりますが、命は旦夕にせまっております。
 ところで江戸落語では、訛りはぼやけたものとして演出します。江戸と言う土地柄が、噺に出てくる地方者を嘲る所以であります。一方で関西落語の方は、どうなのか不勉強ゆえわかりません。ざこば師匠は、あえて河内弁を取り入れることで荒くれ者を表現しております。大阪の船場の商人言葉なぞ、聴いていて耳朶に心地よさが残ります。その大阪弁を上手く使いこなしているのか、それとも関西弁としてあいまいにしているのかわかりません。
 噺は耳から入ります。耳に敏い聞き手がいなくなったのも落語が衰退した理由かもしれません。
  
  

海外ドラマ

2005-12-05 | 映画 落語
なぜかわかりませんが、先週のアクセスは異常に多かったです。猫またぎにも等しい文なのになのによくもまあと感心していましたが、このように述べますと、平素愛読なさっている方には失礼でありますなあ。
 海外ドラマ(主にアメリカのテレビドラマでありますが)は、よく見ます。人気の高かった、高い24なぞは、ロバートアルトマンの貴賓さに比べれば、足元にも及ばないので、シーズン1のみを一通り!?見てなるほどねえでありますが、ソプラノーズやER、プラクティスなぞは何度も見たりします。アメリカのドラマを見て思うのは、音楽の使い方の上手さであります。日本のドラマはタイアップした曲をこれでもかこれでもかとインプリンティングするように背景音楽として使いますが、米国のドラマ、件のドラマ、アリーマイラブなぞは、BGMに上手く往年のヒット曲やスタンダード、もしくはドラマの主題歌を織り交ぜ、プロットの膨らみを見事に演出して見せます。
 日本の場合は、作曲家協会の圧力かなにか知りませんが、版権なのでしょうか、そのように上手く音楽を使いこなした番組を見かけません。もしかしたら、そのようなドラマがあるのかもしれません。小生の見る限り、音楽を使っているのは、朝のワイドショーであります。あれなぞは少しばかり古い映画、公開されて2年ぐらい経った映画のサントラをこれでもかと使っております。画面を見ていて、いいのかこれと呟いてしまいます。
 本日はガンドルフィーニという癖のある俳優が主人公のソプラノーズを見ていて、ふと気がついたことを書き留めてみました。

アイランド

2005-11-29 | 映画 落語
なんとか俳優という符牒は、名誉であると侮蔑の対象でもあります。即ち、ある俳優が作品は違えど、必ず同じような設定出でまくるというものです。それが一つの看板なり、マンネリになってしまえば、それはそれで面白いです。例えばチャックノリスのエアフォースシリーズとか、スティーブンセガールのテロシリーズのように、しかしながら、俳優としての可能性なり役柄の幅を持っていながら、製作者側の都合か、はたまた本人が希望するのかわかりませんが、役柄が変わっても、結局は、あの時のヒーロー、ヒロインと同じ設定になっているという人がいます。
 お馴染み、ブルースウィリス。そしてイアンマクレガー。アイランドという作品でイアンマクレガーはスターウォーズそっくりの画面構成の中を、オビワンの如く暴れまわっています。ここまで画面を意識されると、スターウォーズも映画冥利に尽きるのですが、にしても酷すぎた作品でありました。唯一の救いはスティーブンブシューミが、これまた渋い役で出ているところでしょうか。といっても物語の前半で死んでしまうのですが。
 1984とスターウォーズ、それに未来世紀ブラジルを上手く?切り貼りしたこの作品は、クローン人間が自らの出自を知り、クローン製造工場を叩き壊すという話であります。壊した後はどうなるのかは書いてありません。
 随所に出てくる逃亡シーンは、スターウォーズのエピソード6、2辺りを見てから、眺めると良くわかるはずです。二時間と言う長尺も少々いただけません。昔でいうところのB級がどうしてこうなってしまうのか、今更ながら時代の貧困性を覚えます。