高野のふもと花坂爺さん

日常の出来事,里の風景や草花を
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世界文化遺産高野山町石道を歩きました。

2014-01-28 18:30:24 | 高野のふもと花坂爺さん
1月28日

高野山町石道は、西暦1904年7月に紀伊山地の霊場と参詣道として世界文化遺産に登録されて今年で10年目を迎えます。町石道とは、

高野山を開創した弘法大師は、京の都から高野山までの表参道に拝者の便宜を図り、慈尊院から高野山までの一町109mごとに

木製の卒塔婆を建たのが始まりで木製の卒塔婆は傷みやすいので高野山の僧覚斅(かくきょう)は石の卒塔婆を建てることを念願し

其れに応じたのが鎌倉幕府の要人で、後佐嵯峨天皇、北条正村、北条時宗、佐々木氏信,安達泰盛、らの協力により20年かけて

石の卒塔婆による道標ができました。現代でも鎌倉時代の町石が9割近く残されています。昔はこの道は私達の生活道路でした

今は国道ができ高野山まで約10k車で20分ほどで行けますが町石道を歩くと私の里から約6k,2時間から3時間ほどかかります。

私が子供ころ父や村の人達はこの道のことを「ごじちょう」と呼んでいました。今考えると私達の村には60町石が有ります。

大門には8町石が有るのでそ間約50町だから「ごじちょう」と言ったのだと思います。今日はその「ごじちょう」を久しぶりに

途中まで歩きました。








55町石 奥に見える石は袈裟かけ石、この石は高野山への清浄結界(煩悩、私欲、から離れた清らかな区域)

お大師様のお母様がここまで来たがお大師様はここから先は、女人禁制で女は登れないことを告げるが

お母様は言うことを聞かず、それならとお大師様は、袈裟を地面に置きそれを越えて行きなさいと告げたそうです。





写真手前が涙川,お母様の涙で川になったとか?





「ねじ」石の供養碑 昔お大師様のお母様が「ねじ」た石があつたそうです。









押し上げ石 お大師様が押し上げたといわれる石、大師の手の形がついてるとか。

お母様が、大師のいうことを聞かず、袈裟掛石を越えてここまで来ら一天空が曇り

大雨になり次第に火の雨と変わり親孝行な大師は、岩を持ち上げてお母様をかくまったそうです。

お母様は大師の思いも分からず結界を越えてきたことに気付き悔しがってそばにあった石を「ねじ」て

悔し涙を流したそうです、その涙が川となり涙川となったそうです。
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53町石は2基建てられています。この石は長らく行方不明で昭和35年に再建されたものです。

再建後元石が大雨で谷から姿を現わし元の場所に戻された。写真手前元石






町石道の風景





44町石も2基有ります。町石道にある石は大正期に再建されたものです。

左上にある石は、昭和48年台風の大水で山肌が洗われ姿を現わし元の場所に戻された。






町石道の風景

高野山奥の院で水行が行われました。

2014-01-26 12:19:10 | 高野のふもと花坂爺さん
1月26日

昨夜からの雨もあがり暖かいせいか高野山に行く道路は霧で前が見にくかったです。

それでも大門で気温2.8°でした。奥の院に着くと大勢の報道人や一般のカメラマンが

詰めかけていました。10時30分から白装束を身にまとった

人達が清流玉川の行場に身を沈め一心に般若心経を唱えていました。








清流玉川の行場です
















同じ時間にお大師様に精進供を運ぶ

僧侶を撮影することができました。

お大師様の精進供は毎日朝6時と

10時30分に御供所(ごくしょ)から

御廟前に運ばれてお供えされます。







第60回文化財防火デー消火訓練を見てきました。

2014-01-24 15:43:48 | 高野のふもと花坂爺さん
1月24日

今日は朝は冷え込んだが日中は暖かくなり

大門で7.5°でした。それでも

伽藍の蓮池は一面に氷が張っていました。

消防車が放水すると虹が現れて

大勢のカメラマンがシャッターを切っていました。








伽藍の蓮池が氷で覆われています。











綺麗な虹が現れました。