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至誠惻怛(しせいそくだつ)=真心と慈愛の精神

松山城で中秋の名月②

2009-10-03 | 旅の日記
 午前11時半に「伊丹十三記念館」を出発。今夜泊まるビジネスホテル「ミレニアホテル松山」の位置を確認しようと、松山市の中心部へ55番を走らせた。目的のホテルは、現存する堀の西北端にある。松山城下のホテルを予約したのだが、城へ登るロープウェイは城山の裏側にあり、「坂の上の雲ミュージアム」はその中間の県庁近くにある。この位置関係は誤算だった。
 

 ホテルのチェックインは午後2時からで、予約した時間の2時までには時間があった。昼食もとらねばならない。と、伊予鉄松山市駅に隣接し鉄道をまたいで建っている「いよてつ高島屋」の大観覧車を思い出した。高島屋のそばを通ったとき、駐車もしやすいようだった。ホテルの位置を確認したあと、高所恐怖症の私だが、引き込まれるように高島屋の駐車場に入った。4階に駐め、廊下を渡って高島屋本館へ。すでに正午をまわっていた。
 8階の中国四川料理「四川飯店」へ入った。客席はほぼ満席だった。ここは料理の鉄人、陳建一の直営店で、値段は高い。韃靼蕎麦(ダッタンそば・¥1.050)を注文した。陳建一の味はどんなものか、興味があった。結果は、やや薄味のさっぱりした味だった。品格がある味といえばそうだが、ごった煮の強烈な味を日ごろ口にしている者にとっては、ものたらないすっきり感だった。
 
  「四川飯店」の料理
 
 9階屋上にのぼり、大観覧車に搭乗した。1周するのに約15分、500円だった。こわい。乗ったときはそう思ったが、振動はほとんどなく、ゆっくりと上昇していった。松山市街があざやかに見渡せ、徐々に下方に沈んでいった。これから登る松山城がくっきりと見えた。大きく息をしていると、しだいに頂上にたどり着いた。やや揺れたが、これまで乗った観覧車ほどではない。このままでいたいとも思った。しかし、観覧車は下っていった。
 
  大観覧車「くるりん」
 
 観覧車を降りたときは、異次元から帰ったような現実感があった。空中もよいが、地上もよい。もっとも、どちらにしても地上とつながっているのだが、晴れた松山市街を空中から眺めたという不思議な充実感があった。地上の固定観念が振り払われ、自由な見地を体験したような気がした。渡り廊下のエスカレーターに乗って、高島屋の駐車場にもどった。

 少し早かったが、午後2時前に「ミレニアホテル松山」に到着。55番を立体駐車場に上げてもらい、チェックイン。ここは駐車台数が限られているので、早く到着したいと思っていた。同時に、これから行く「坂の上の雲ミュージアム」と「松山城ロープウェイ」は駐車場が乏しいので、このホテルを拠点にして歩いて出かけようと考えていた。
 チェックインし、4階の客室へ肩掛け鞄をおろした。ひと休みして外出。歩くには遠いので、路面電車に乗って県庁前で下車した。そこから歩いて、「坂の上の雲ミュージアム」(2007年4月28日開館)に行った。ここは司馬遼太郎の小説「坂の上の雲」をベースに、正岡子規、秋山好古・真之の松山出身3人の軌跡が、日本の近代国家形成の歩みとともにたどられている。
 
 
      ガラス張りに緑が映し出されたミュージアム
 
 「坂の上の雲ミュージアム」は2つの三角形を重ね合わせた建物で、松山城周辺の歴史や文化が意識され、建物西側のガラスカーテン壁には城山の緑が映し出されるなど自然環境に配慮した外観になっている。建物は地下1階、地上4階。設計したのは建築家の安藤忠雄氏。竣工は、平成18年11月30日。館内=写真=の各階はひと続きのスロープで結ばれ、館外の四角いコンクリート池に水が浅く張られていた。館内の剥き出しのコンクリート壁といい、吹き抜けの空間、スロープや池などは、安藤氏が設計した高梁市立成羽美術館とよく似ている。
 
 
 
 司馬遼太郎の小説「坂の上の雲」は、「産経新聞(夕刊)」に1968(昭和43)年4月22日から1972(昭和47)年8月4日まで、4年半にわたり連載された。計1,296回。その新聞切り抜きコピーが、スロープの壁面いっぱいに展示されていた。これを原作にしたドラマがNHK総合TVで11月29日(日)から足かけ3年にわたり放送されるとあって、このミュージアムはもとより、道後温泉商店街にもたくさんのポスターが張ってあった。
 
  NHKのポスター
 
 現在の企画展は「秋山好古」。秋山好古は日本騎兵を育て、日露戦争でコサック騎兵と互角にわたりあい、後に陸軍大将となった。その足跡が当時の社会情勢とともに詳しく紹介されていた。
 
  企画展を知らせるチラシ
 
 吹き抜けの2階ホールで、「山頭火句碑高浜建立記念の集い」が開かれていた。俳人の種田山頭火が終焉の地を求めて、松山・高浜に降り立った昭和14年(1939年)10月1日を記念して、NPO法人「まつやま山頭火倶楽部」が旧高浜港(松山市高浜町一丁目)に10月1日、句碑を建立した。これにちなんだ「集い」が開かれ、約100人収容のホールは、立ち見もあるほどで、ほぼ満杯だった。
 
 【集いの内容】
 ・お伽座による伊予弁で語る民話と昔話「ほっこら、あったか山頭火さん」ほか
 ・ターナー島を守る会による講演「海の玄関、高浜物語」
 ・神奈川大学・橋本直講師による講演「山頭火の放浪の旅」
 ・ドキュメンタリー山頭火をつくる会による映像放映「山頭火 Last Days in 松山」

 
 ……乞食同然の放浪の俳人(というよりも廃人か)、種田山頭火がやってきた松山では、おそらく迷惑この上なかっただろう。大酒飲みの托鉢僧が、いま上陸地に碑が建てられるとは。だれも真似ができない生き方に共鳴する人は多い。
 
 山頭火の酒豪ぶりはハンパじゃなかった。本人曰く泥酔への過程は「まず、ほろほろ、それから、ふらふら、そして、ぐでぐで、ごろごろ、ぼろぼろ、どろどろ」であり、最初の「ほろほろ」の時点で既に3合だった。酒と俳句については「肉体に酒、心に句、酒は肉体の句で、句は心の酒だ」と語っている。 cf. 「あの人の人生を知ろう~種田山頭火
 
 ……いま人気の太宰治といい、人間の弱さが認められる時代なのかと思う。
 ミュージアムのガラス張りから、緑に囲まれた「萬翠荘(ばんすいそう)」がくっきりと見えた。洋風の立派な建物に、なんだこれと思った。ここは、大正11年に旧松山藩主の久松定謨(さだこと)が建てた別邸で、現在は郷土出身美術家を顕彰する県立美術館分館になっているそうだ。館内にはロココ様式の大正ロマンが漂っていて、県指定の文化財になっている。見るからに由緒ある所だと思った。
 
  西洋のお城のような萬翠荘

 展示品をざっと見て、ミュージアムの外に出た。ここから歩いて、松山城ロープウェイ山麓駅「東雲口(しののめぐち)」へ。伊予鉄大街道駅交差点から緩やかな坂道を上った。道の左右に、飲食店が並んでいる。松山城からの帰り、夕食に寄る店は、ここで見つかりそうだった。
 ロープウェイ入り口にも、NHKの「坂の上の雲」を宣伝する看板があった。ロープウェイはこの季節、通常は午後5時半までの営業だが、この日は「中秋の名月」なので、夜10時まで営業が延長されている。腕時計の時刻は4時過ぎだった。つぎつぎに人がロープウェイに向かっていた。
 
  ロープウェイ入り口
 
 ロープウェイは山頂駅「長者ヶ平(ちょうじゃがなる)」まで約3分。料金は往復で500円。車内では、マドンナ姿のガイドが松山城(本丸の標高は132m)を案内してくれた。平行して敷設されたリフトでも登ることができる。
 
  ロープウェイとリフト
  マドンナが案内するロープウェイ

 松山城
 
 松山市の中心部、勝山(標高132m)にそびえ立つ松山城は、賤ヶ岳の合戦で有名な七本槍の1人、加藤嘉明(よしあき)が築いた四国最大の城郭。門櫓や塀を多数備え、狭間や石落とし、高石垣などを巧みに配して、攻守の機能に優れた日本一の連立式天守を構えた平山城といわれている。
 また、松山城は日本で12ヵ所しか残っていない「現存12天守」のうちの1つで、天守は江戸時代以前に建造されている。平成18年に「日本100名城」、平成19年には道後温泉とともに「美しい日本の歴史的風土100選」に選定された。
 日本で唯一現存している望楼型二重櫓である野原櫓や、「現存12天守」の城郭では松山城と彦根城しか存在が確認されていない、韓国の倭城の防備手法「登り石垣」が二之丸から本丸にかけてあり、堀之内を含む城山公園全体が国の史跡になっている。「日本さくら名所100選(平成元年)」や「日本の歴史公園100選(平成18年)」の指定も受けている。

 
 ロープウェイを降りて、茶屋でひと休み。地酒を買って、少し飲んだ。残りを手に持ち、天守に向かって登城した。
 
  天守のある本丸に向かって登城
 
 登城途中、見晴らし台から夕暮れ近い市街地を眺望。乗った観覧車が見えた。
 
  夕暮れ近い松山市街地
 
 【大天守】 大天守(重要文化財)は三重三階地下一階の層塔型天守で、黒船来航の翌年、嘉永6年(1853年)に落成した江戸時代最後の完全な城郭建築。「現存12天守」の中で唯一、築城主として瓦には葵の御紋が付されている。大天守、小天守、隅櫓を廊下で互いに結び、武備に徹したこの天守建造物群は、わが国の代表的な連立式城郭といわれている。
 
 
 
 



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