アメージング アマデウス

天才少年ウルフィは成長するにつれ、加速度的に能力を開発させて行きました。死後もなお驚異の進化は続いています。

炎の男火麻呂 、ぶじの御衣 Ⅱ 

2016-12-05 18:49:59 | 物語
 二
 雅が浚われて三月余り後にやっと実家から迎えが来た。
「決して戻りませぬ。私の中に火麻呂の子が宿っております」
 と、嘘をついて拒む雅。
 年が明けて直ぐ、困り果てた両親が止む無く国守の葛麻呂に訴えた。
 例え国守といえども当の雅の意思なくして火麻呂を罰することが出来ず、姦計を巡らして火麻呂を防人へと追いやる事にした。

 防人たちが集う鴨郷の杜にようやく護衛の多摩軍団が到着した。たかだか十人にも満たない
防人の監視に隊正日下部泥麻呂に率いられた五十の兵士が派遣されて来た。
 その上多摩軍団一千の長官、郡司小幡猪足まで同行するという、まるで囚人を護送するような物々しさだ。それほど火麻呂を恐れていたのだ。
 国衙から鴨郷までわざわざ見回りに来た葛麻呂が雅のいる丘に登ってきた。
「早くも喪に服しておるのか」
 雅の藤衣を侮蔑の眼差しで眺め回し、葛麻呂が言った。
「紀の娘とも有ろう姫が、粗末な藤衣など着せられておるのか」
 藤衣はふぢの蔓から織られた粗末な衣であるが、丈夫で美しく、雅にとっては火麻呂が買って呉れた唯一の宝物だった。また、藤の御衣と言って身内の喪服として使われる事が多い。生きて会えぬかも知れない想いでこの朝藤衣を纏ったのだ。
「これで火麻呂も終わりだ」
「防人の任期が三年になったと聞いております」
「確かに、だが火麻呂は駄目だ。太政官にも大宰府にも手を回した、知らぬのか? 太宰の師はわが一族の長旅人じゃ。早くて十年、それもおとなしくしておればじゃ。明日にでも迎えを寄こそう。もはや妻には出来ぬが妾として面倒を見てやろうぞ」
 憎々しく言い放って丘を降りて行く葛麻呂。

 防人の一行が出発した。
 騎馬の猪足を先頭に、武装した軍団が武器を取り上げられた防人の前後をものものしく固め、後尾に食料兵器を積んだ馬車と防人の従者たちが続く。豊かな防人には従者が許されていたのだ。
従者の群れに真刀自がいた。暴れ者の火麻呂が脱走しないように従者として同行を願い出、許されたのだ。
信心深い雅の姑真刀自は経を誦しながら歩いている。
一行が丘の下を横切っていく。
火麻呂が雅を見上げて笑って見せた。
「筑紫になど行くものか。直ぐ戻ってくる」
 火麻呂の前夜の言葉を思い出し、雅の不安が増した。
「脱走などしたら、奴に落とされるか処刑されてしまいます。それに、母刀自をどうなさるお積もり?」
「なあに、ひっ担いで逃げるさ」

 丘の上の雅に気がついた女達が指差しながらざわめいている。
「あの女は誰を見送っているのだろう? 誰の女房なのかしら?」
 などと噂をしているに違いない。
 郷の人々は雅を見たことはなく、火麻呂に略奪された花嫁とは知らないのだ。
 火麻呂を見送りながら浮かんだ歌を今度は口にして詠む雅。
「防人に、行くは誰が背と、問ふ人を、見るが羨しさ、物思いもせず」
 遠ざかる一行に少しでも近付こうと斜面を降りる雅、茨が弾けて襲って来た。雅の心と身体に痛みが走った。
 咲き綻ぶふぢの花の中で立ち止まって火麻呂を見送る雅。
 雅の唇に一筋の血が流れ、その目が深い悲しみに沈んだ時、
 左手が無意識に下腹を軽く押さえ、右の掌が大切なものを護るように左手の上に重ねられて行った。
 最後に雅を見ようと丘を振り返る火麻呂、
 そこでは、光と翳の中で浮かび上がる斜面に藤衣が一斉に花を咲かせていた。
 そこには、ふぢの花房の挟間に哀しみに溢れながらも不思議な優しい微笑を称える雅がいた。

 東国から九州に赴任する防人は東海道を上って難波の津まで行き、難波から船で任地に赴いた。食料や戎具を始め旅費は自弁である。本来戎具などの備品は自己管理であったが、この赴任行では兵団が全て管理した。この一事に葛麻呂の悪巧みが露骨に顕れていた。

 最初の夜は足柄峠目前の坂本で野営した。
 焚火を囲む防人たちは不安に慄いていた。
「難波に着く前に皆殺にされる」
「狙っているのは一人だけだ」
 と防人の一人が火麻呂を睨んだ。
 無言のまま腕組みをして薄笑いを浮かべている火麻呂、その左右だけが空いていた。
「矢張り皆殺しさ、そうすれば証拠が残らない」
「いっそのこと逃げてしまおう」
「武器ひとつなしにか! いったい何処に逃げる、家族はどうなる」
「泣き言なんか止めろ止めろ」
 火麻呂のまるで他人事のような暴言に色めき立つ防人達。
「蛆虫に聞かれたらどうする。ほれ、誰か近づいてくる」
 確かに足音が近づいてくる。
 一斉に聞き耳を立てて黙り込む一同。
 やってきて立ち止まる泥麻呂、
「夜明け前に発つ。早く寝ろ」と言って、火麻呂の顔を意味ありげに見やってほくそ笑んだ。
 あわてて焚火を消す防人達。
 ゆっくりと立ち去る泥麻呂、もったいぶって火麻呂を振り返った後闇に消えた。
 茣蓙を抱えた火麻呂が真っ先にその場を離れると、防人達は火麻呂が遠くに離れるのを確か
めてひそひそと話し始めた。
「奴を消しちまおう」
「ああ、それしか無い」
「だが簡単にくたばる玉じゃ無い」
「皆で寝込みを襲えばなんとかなるさ」

 火麻呂が寝床と定めた岩陰に入ると、そこに泥麻呂が立っていた。
「火麻呂、今度こそ終わりだ」
「幾らで頼まれた」
「殺せとは言われてはおらぬ。何事が起きても見ぬ振りをすればよいそうだ」
「殺すのが怖いのか」
「ふん、俺は好きなようにするさ。強がりを言うな、火麻呂」
 泥麻呂を無視して茣蓙に横たわる火麻呂。
 しゃがみ込んだ泥麻呂が刀子を抜いてその刃を火麻呂の首に当てた。
 ごくりと唾を飲み込んで観念する火麻呂。
「火麻呂、汝がどうなろうと俺は知らぬ。だが他人に殺されるのも我慢が出来ない」
 と言うと、泥麻呂は刀子を鞘に収めて火麻呂に握らせた。
「閻魔の土産にこれをやる。だが人を危めたらお前は本当に終わりだ。いっそ自分で地獄に落ち
てしまえ、火麻呂」
 不気味な笑を浮かべて去って行く泥麻呂。
 刀子を懐に捻じ込む火麻呂、直ぐに寝息をたてて寝込んだ。

 多摩軍団五十を率いる隊正日下部泥麻呂は真刀自の甥で火麻呂の従兄だが、幼いころから
仲が悪く、時には殺し合うほどの大喧嘩をした。
 泥麻呂は努力の人と言える。その努力の目標は二歳年下の従弟火麻呂だった。
 身体まで火麻呂に負けぬ程大きく逞しく、努力で成長させた。
 二十歳になってすぐ、優しい娘と知り合い、妻に迎えた。
 次の年男児が生まれた。母親の乳を求めて離れなかったため、乳麻呂と名付けた。
 その次の年、今度は女児が生まれた。紅葉した楓のように紅くかわいい手をしていたから、
楓、と名付けた。
 泥麻呂は家族の為に懸命に働いた。火麻呂と競う事で費やしていた情熱を田畑を耕すことに
集中させ、数年で鴨郷の青年で一番の田畑を持った。
 三年続きの大飢饉が泥麻呂から全を奪い、子供達を養うには夫婦でに身を落とすしか無
い程まで困窮した。が、泥麻呂は志願して兵士となる道を選んだ、武勲をたてて失った田畑を
取り戻すためにその道を選び、一年もしないうちに十人の長、火長を賜った。
 火長になって直ぐ絶好の好機が泥麻呂に訪れた。陸奥で蝦夷の叛乱が起こり、坂東から大軍
が発せられた。
 征東軍は陸奥の叛乱を平定した後、出羽にまで遠征した。
 泥麻呂は大いに奮戦し、数々の手柄をたて、今度は五十人の隊長、隊正に大抜擢されて武蔵
に凱旋した。
 我が家の前に立った泥麻呂は呆然として立ち尽くした。懐かしい小屋が跡形も無く消えてい
たのだ。その傍らに小さな墓石が三つ、仲良く並んでいた。
 降り続く氷雨が左右の墓石の銘を浮かび上がらせた、乳麻呂、楓、だが妻の墓石の銘は読み
取ることが出来なかった。
 火麻呂が防人に徴用される二年ほど前の出来事である。

 泥麻呂は火麻呂と分かれたその足で今度は伯母真刀自を尋ねた。
「母刀自」
 家族が死に絶えた泥麻呂は伯母を母のように慕いこう呼んでいた。
「難波で船に乗ればもう大丈夫。火麻呂から目を離さぬ方が良い」
「筑紫に着けば安心出来るかのう」
「殺されることは無い」
「新羅や唐が攻めてきたら」
「大勢死ぬほどの大戦など聞いたことが無い」
「三年勤めれば鴨郷に帰れるのだろう?」
 首を横に振る泥麻呂。
「望のかけらもないのかい?」
「火麻呂が白髪になるまで郷に帰れぬ」
「とても婆は生きておらぬのう」
「ああ。皮肉な事に、母刀自が死ねば火麻呂は郷に帰れる」
「婆が死ねば帰れるのか」
 顔を輝かせて泥麻呂を見詰める真刀自。
「親が死ねば喪が与えられる。一年だけだ」
 その夜以来、真刀自は寝る前、目覚めの時、そして行軍の間中仏に祈り続けた。火麻呂の髪が白くならないうちに、一日も早く安らかな死が訪れるように、と。
 当時の仏教というのは個人の現世利益を謳わない。ただ善行をつみかさねれば、その善の分だけ極楽浄土で安楽に暮らせるだけだ。信心深い母真刀自に比べて息子の火麻呂に仏への信仰心は皆無と言ってよいほど無かった。その代わり神は密かに恐れていた。ただ、この漢に神と仏の区別が果たしてついていたかどうか、分からない。


 箱根を越えた駿河で真刀自が病を得た。
 遠江、三河と、東海道を歩き続ける真刀自。乱暴者で罪深い火麻呂の分まで祈り続けて仏の加護に縋った。
 真刀自の祈りが通じたのか、この間火麻呂に変事は起きなかった。
 三年前までの飢饉で火麻呂の兄夫婦と孫を亡くしてから、真刀自の身寄りは息子の火麻呂と甥の泥麻呂だけになった。この世に思い残すことは何も無い。いや、一つだけあった。雅が火麻呂の子を生んで呉れればどんなに嬉しいか分からない、せめて今一度孫をこの手で抱きたかった。
伯母の異変に気付いた泥麻呂が尾張でよぼよぼの牛と荷車を買ってきて真刀自を乗せた。
菩薩のような微笑を浮かべて泥麻呂に手を合わせる真刀自。
「掲帝掲帝、波羅掲帝、波羅僧掲帝、菩堤、僧莎訶、般若波羅蜜多心経」
般若心経を誦した後、泥麻呂に囁いた。
「有難う。筑紫に着くまでは決して死なぬ」
無知で素朴なこの老婆は、筑紫についた後で自分が死ねば、息子に一年の自由が与えられると信じて疑わない。

十日ほどで三関の一つ鈴鹿に着いた。この先は朝廷の本拠畿内である。ここまでの国々と違い多数の兵士が関を固め、通行を詮議している。現に一行が柵の外で待たされてから一刻も経っている。たかが防人を送るのに五十もの兵士が護衛しているのをかえって疑われたのかも知れない。
馬上で不安にかられる郡司の猪足、忌々しげに火麻呂を睨んで、始末しなかった事を後悔した。葛麻呂から隙を見て殺すように命じられていたが、己が手を汚したくは無かった。そこで、初日の行軍中泥麻呂に悪巧みを仄めかした。「火麻呂は道中殺害されるかも知れない」と、更に「憎みあっていても従兄弟同士、逃がしてやれ」と唆かした。
「武器なしに逃げるものか。あれでも火麻呂は案外賢く用心深い」と言う泥麻呂。
「刀子くらいなら渡しても良い。かわいそうだから逃がしてやれ」
 そんなわけで、猪足は火麻呂が刀子を隠し持っているのを知っていた。だから決して火麻呂の側に近づかなかった。悪賢くも火麻呂が誰かを傷つけて逃亡するのを待ち構えていたのだ。

「七位大領小幡猪足様」
 衛士の呼ぶ声に我に返る猪足。
「どうか御通り下さい。ご入用の物が有れば用意せよと命じられました」
「水と糒を少々、それだけで良い」
馬上で踏ん反り返って威張る猪足。
「これより出発―ッ!」
 従七位外多摩郡司大領小幡猪足はこの時得意の絶頂にいた。

 十年程前の霊亀二年(西暦七百十六年)、葛麻呂が武蔵国守として赴任すると直ぐ猪足は多摩
郡司に任命された。勿論賄賂が効いたのだ。
 郡司となった猪足は、醜く太ったその腹にも負けぬ程悪行の限りを尽くして巨財を為した。猪足の枡は貸す時が七割で取立ては二割増しだったし、専売の酒には水を足し、朝廷からの
穀物の支給や税の免除などを貪ぼるように私物化した。
 養老三年(西暦七百十九年)から飢饉が三年続き、猪足の圧制の為に多くの民が飢死し、流
民となって流離った。
 火麻呂の兄家族も、泥麻呂の妻子もその飢饉が原因で死んだ。為に二人とも猪足を怨んでいた。
いや、多摩の庶民で猪足を憎まぬ者など誰もいなかった。
2016年12月5日   Gorou


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