自分が高校生んとき。
女子のセンパイが打ち上げで感情たっぷりにテレサ・テンを歌ったり、友人のお母ちゃんが台所でフンフンいいながら小林明子を歌ってたり。
ええ時代やったよなぁ、と。
この感情はただの感傷で否なのか。
なんちゅうか、倫理観とかの問題の以前に、人として物語の世界に浸ることすら否定するのか、と。
自分が高校生んとき。
女子のセンパイが打ち上げで感情たっぷりにテレサ・テンを歌ったり、友人のお母ちゃんが台所でフンフンいいながら小林明子を歌ってたり。
ええ時代やったよなぁ、と。
この感情はただの感傷で否なのか。
なんちゅうか、倫理観とかの問題の以前に、人として物語の世界に浸ることすら否定するのか、と。
今日も悲しい報せ。
ガキの頃から、聴いたり、観たり、読んだりしてた人たちが次々とおらんようになってく。
そういう自分もいつ死んでもおかしない歳になった。
敢えていうんなら、こっからが人生の醍醐味やなぁ。
初アルバムと初連載。
いずれも共通した味わい。
どっかトボけてて、どっか冷めてて、けどどっかあっつい。
当の本人たちは不満たらたらだろうけど、自分は精髄が詰まっているような気がして好きなんやけどな。
元日に自分方、2日に家人方の実家へ行く。
各々の甥っ子姪っ子に会うたり、兄や義弟たちと仕事の話をし、少しく感慨に浸る。
そう感じたのも、久々に幅広い年代と接したり、自分には正社員の部下もおらず、事務方を含め接するのが数人という職場環境だからであろう。
あぁバトンタッチやなぁ、と思う。
父母はまだ健在なのだが、こいつら(甥っ子姪っ子たち)には迷惑かけんようにせなな、との思いを強くする。
こういうのはインターネットが普及する前からあっただろう。
我らのセンパイだってそうだ。
自分だって元から積極的に人と話す方ではないうえ、職を転々としているので人付き合いなど無いに等しい。
何たら症候群とか大層な名付けをせずとも、そんな逃げ道の一つもあった方が生きやすいのではないか。
一年ほど前から、BSの夜アニメを録画して見ているのだが、家人から「どうしたん」といわれる始末。
ジャンルも問わないし、「あのような画」に対しても別に抵抗感もない。
綺麗な色彩、よく動く作画に、ほぉーっと感心している。
で、いろいろ思うところがあるのだが、一番に感じたのは「優しさ」である。
生きづらさというか世間との馴染めなさとか、自分は若い頃からずっとあって、それはただの自分の偏屈さであり継続中なのだが、それとは別の違和感がいつ頃からか、この10年くらいだろうか、生じている。
モノの言い辛さとか、接し辛さとか、腫れ物に触る感じというか。
それが自分の中では、アニメ世界の「優しさ」に繋がっているような気がするのである。
耳に痛いことは言いたくないし言われたくないし、だから皆んな仲良く笑って頑張っていきましょう、みたいな。
まぁ自分は可笑しくもないことには笑いたくないし、必要以上につるみたくないし、つるまなくとも状況を読み動けばよいだけのこと。
「優しさ」とは、お約束の世界に安心している、というふうにも見える。
自分は、社会の趨勢というのは大衆の意思である、と思うている。
よって「優しさ」がはびこっているのは、心が辛くて寂しい人が多いことの現れであろうか?
若い頃の自分は、野田知佑の「一人でいることの、寂しいことの何が悪い」、中島らもの「いいんだぜ」、狩撫麻礼の「リスクを背負う」といった姿勢から学んできた(つもり)。
もちろんそれらには「痛み」が伴う。
今時の「優しさ」は、なぜ優しくなったか、本来なら「痛み」があって、という伏線が見えないのだよな。
先日、テレビのお笑い番組で、若手の笑芸人が、自分たちは生意気ではなく礼儀を知らないだけ、みたいなことをいっていた。
これには社会問題としてのパワハラモラハラがあり、先輩たちも怒ることが出来ない背景もあるようだ。
自分なんか、この歳になると人から怒られることもなくなったので、反対に少しく心細いな、などと思うくらいである。
それはさておき、そんな時代にこそ大切なのは「恐れを知る」ではなかろうか。
このことを考えるときに思い出すのが、『大川端探偵社』の「なまはげ」(FILE.128)や、『ナイトスクープ』の「ガオーさん」。
もの言えぬ時代の「たが(箍)」。
吉本新喜劇をこの十数年見続け、おまけに深夜の新喜劇NEXTまで視聴している始末。
何かモヤモヤしつつも見続ける新喜劇は、自分にとってのアキレス腱のようなものである。
先日、録画していた桑原和男追悼番組をようやっと視聴。
自分は中学生の頃やたら新喜劇にハマっていて、その中でも桑原和男のことが一等好きだったのだ。
追悼番組の中で、花紀京が「桑原は俺よりおもろい」というのを何度も聞いた、という証言に驚きつつも喜んだ。
自分は、和子ばあちゃんではなく、巡査役が特に好きだった。
この番組で印象的だったのは本人の談話映像(99年収録)で、その日の自分の演技に一喜一憂したり、笑いだけが優先している新喜劇の姿勢に違和感があったりと、「あっ、この人は喜劇人なんや」と当たり前なことに今更思い当たった。
自分がモヤモヤしてたのは、今の新喜劇に喜劇人はおらず座長を含め座員のみという、そこであろう。
義父が亡くなった。
今年に入ってから、足の指の壊死(もちろん糖尿病)、肺炎、骨髄炎、最後はおさまりかけていた肺炎が振り返し、それが死因となった。
直接的な死因はあるのだけど、自分にはもっと以前からのことが原因と思え、それは自分にも当てはまる事でもあり、気付いたときには心に寒気がした。
義父の足腰は昨年からヨラヨラ化が進み、部屋の移動も不自由、かつては大酒飲みだったのだけど少量の酒でも腰を抜かすようになった。
こらエライこっちゃ、少しずつでも体動かすようにして足腰強うせな、とはならず、トイレ食事以外歩かなくなった。
おぼれるので風呂には入れず、代わりに訪問介護の人に体を拭いてもらっていた。
だからというて、死に急いでいる訳ではなく、また投げやりになっている訳でもないのだけど、全部他人事というか、生きることは放棄はしていないけど、思考を、ココロを放棄してるというか、自分はそこに死に至る原因を見た(気がした)。
で、自分のことであるが、五十を過ぎてから、これ買いたい、あれ見たい、ここ食べに行きたい、あそこ行ってみたい、というような興味や好奇心の減退を自覚するようになった。
義父を見て、このままでは自分も、生きることに関心を持たない様になるのではないか、という危惧を感じた。
とりあえずバリバリの肉体労働なもので、ちっとは建康とかには気を使う(でないと仕事がしんどい)。
それも大事だが、興味とか関心とか好奇心といったココロの健康もやっぱり大事だな、と今回の件でつくづく思うた。
長生きをしたいとかではないが、少なくともココロを放棄して衰弱して死んでいくのは、ゴメンである。