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1231 ギリシャ・アテネ

2023-08-09 13:01:08 | 日記

ギリシャ・アテネ

ギリシャ・アテネ市場

ギリシャ・アテネアクロポリス

ギリシャ・アテネ アレオパゴス

 

アクロポリス(ギリシア語: ἀκρόπολις)とは、

古代ギリシアポリスのシンボルとなった小高い丘のこと。

アクロポリスは「高いところ、城市」を意味し、

防壁で固められた自然の丘に神殿や砦が築かれているのが普通である。

アテナイのアクロポリスである。

ペルシア戦争時に木造建築のために全てが灰に帰したと伝えられているが、

その後の石造建築による再建の結果、ペリクレスの時代に最も輝かしい時代を迎え、今日の私たちの知るアクロポリスが誕生した。

 

現在この丘には、

古代ギリシア美術を代表する4つの傑作、

パルテノン神殿プロピュライア(神域の入り口の門)、

エレクテイオンアテナ・ニケ神殿がある。

二千年の歴史を刻んだパルテノン神殿は、

白色とも桃色ともつかない光の加減で変化する大理石の柱46本が、

青空を背景に荘厳な雰囲気を漂わせている。

 

「アレイオス・パゴス」(: Άρειος Πάγος)、

あるいはその訛りである「アレオパゴス」

: Areopagus)とは、アテナイのアクロポリス西北面の中腹にある小高い丘、

である「アレス神の丘(大岩)」のこと。

 

ここに貴族たちの会議所(評議所)が置かれたため、

(ちょうど「アカデメイア」や「リュケイオン」などと同じく)

「アレイオス・パゴス」(アレオパゴス)はこの場所を指すと同時に、

その機構を意味する語ともなった。日本語では両者を区別するために、

後者の意味では「~会議」「~評議所」等と表現する。

この機構の議員は最高職であるアルコンの経験者から選出され、

その地位は終身かつ貴族によって独占されていたため、

民主政確立のための大きな妨げとなっていた。

こうした中、

前462年にエフィアルテス英語版)やペリクレスが結託して政変を起こし、

アレオパゴス会議の多くの権限が剥奪された。

これにより政治上の多くの権限は民会に委ねられるようになり、

民主政が確立されていった。

 


1230 ヨッパ

2023-08-09 12:51:51 | 旅行

1230 ヨッパ

ヨッパ・いちじくの木

ヨッパ・高校生

※ヨッパ

ヤッファの地名は、アラビア語:يَافَا(ヤーファまたはヤーファー)と、

ヘブライ語:Yafo(ヤッフォ)、

そのラテン語表記と歴史的変遷によりJapho(ヤーフォ)、

Joppa(ヨッパ)、Yapu(ヤプ)などと様々な表記(読み方)が存在する。

テルアビブの公式行政単位名には「Tel-Aviv/Yafo」と、

ヘブライ語の「Yafo」が含まれている。

4000年以上前の古代都市からの歴史を有するという、

イスラエルに所在する地中海に面した港町。

現在イスラエルのテルアビブに併合された市街地は、

テルアビブ中心部からみて南部に位置する。

新約聖書に記述される、

イエス使徒ペテロが滞在したとされる「皮なめし職人シモンの家」がある。

 

ヤーファーは1950年までテルアビブとは別個の自治体であったが、

1950年に北部のテルアビブ市と南部のヤーファー市が合併し、

新たにテルアビブ・ヤッフォ市が新設された。

イスラエル建国以来、

この地区はイスラエルを代表するスラム街であった。

麻薬を打つための注射針などもよく落ちていたと言う。

だが、近年になり、ヤッフォの旧市街は「芸術の街」として生まれ変わり、

旧市街にはアラブ・ヘブライ劇場も設立されている。

ただ、隣接するパレスチナ系住民が多いアジャミ地区は、

2010現在も貧民街のままであり、

ユダヤ人による土地の買占めや、

行政の怠慢に憤りを感じている住民も多い。

 

※いちじくの木がとても大きい。二人のザアカイが木に登る。

ヨッパの高校生と旅行団が国際交流を始める。

イスラエルに来て覚えた歌で・・・、

エベヌ・シャローム・アレヘム。の二か国による大合唱。

(私たちは・貴方がたに・平和をもってきました)

 

最初は、女教師が高校生を制していたが、

先生も大いに生徒を鼓舞して交流に貢献。

 


1230 カイザリヤ

2023-08-09 12:46:18 | 旅行

1230 カイザリヤ

カイザリヤ道水橋の跡

カイザリヤ

カイザリヤ・ロ-マ時代の劇場

 

カイザリヤ

Philippou、英語Caesarea Philippi)は新約聖書に登場する地名で、

ヘルモン山南麓の高台に位置した町である。

新改訳聖書では、ピリポ・カイザリヤと表記される。

旧約聖書時代のバアル・ガドやバアル・ヘルモンと同じ場所であると、

考えられている。

今日の名称はパニアスである。

 


1230  ハイファ

2023-08-09 07:31:06 | 旅行

ハイファ

ハイファは、イスラエルハイファ地区にある都市である。

地中海に面した海港であり、カルメル山の麓に位置する。

ハイファーはアラビア語での発音である。

(パレスチナでは、ヘーファとも)

 

 

7世紀まで東ローマ帝国領であったが、

ペルシャ帝国の支配下に入り、ついでアラブ人が支配した。

1100年十字軍に占領され、

1265年マムルーク朝が奪取するまで十字軍国家の一部であった。

その後、この地はオスマン帝国の支配下に入り、

一時期ナポレオン・ボナパルトに占領されたりもした。

19世紀に入ると、

イエス・キリストの再臨を信じるドイツ人が入植(この入植地は現存する)、

発電所や工場を建設するなどした。

更にバハーイー教が本拠を移したのもこの頃であり、

街にはバハーイー教の建物(バーブ寺院万国正議院など)があり、

観光名所にもなっている。

20世紀に入ると、

シオニズムの高まりからユダヤ人の入植や移民が進み、

1947年にはアラブ人が70,910人に対しユダヤ人が74,230人と、

多数派を占めるまでに至った。

第1次中東戦争の際にはイルグンによるハイファ製油所虐殺事件英語版)が、

起きるなど激戦地となったが、

3,300人くらいの非ユダヤ人がイスラエル建国後も残り、

現在も非ユダヤ人の人口が9%と比較的多い。

そして、イスラエル建国以前の英国委任統治領時代におけるハイファは、

現在のイラクレバノンなどへ至る鉄道が敷設されており、

イラクにおいて生産された原油はイラクからハイファ港へ至るパイプラインで、

ハイファ港まで輸送され、

ハイファ港から各地へイラク産の原油が輸出されていた。

無論、イスラエル建国後は、

ハイファからイラクやレバノンなどへ至る鉄道やパイプラインなどはない。

 


1230  アッコの要塞

2023-08-09 07:23:40 | 旅行

1230  アッコの要塞

アッコ

アッコは地中海に面した港湾都市であり、

歴史的には東地中海交易の拠点として栄えた。

イスラエル独立後も、イスラエルに残ったパレスチナ人が多く定住し、

人口のおよそ3分の1を占めている。

アッコ旧市街は、

2001ユネスコ世界遺産リスト(文化遺産)に登録された。

旧市街は地上にオスマン帝国時代の各種建築物が残っているだけでなく、

地下により古い十字軍時代の大規模な遺構が、

現存していることが確認されている。

 

アッコ(ヘブライ語: עַכּוֹ‎、アラビア語: عكّا‎、英語: Acre)は、

イスラエル北部の西ガリラヤ地方に位置する北部地区にある

「アッコ」はヘブライ語での読み方であり、

アラビア語ではアッカー(アッカ)と呼ばれる。

また、アッコン、アクレ、アークル、サン・ジャン・

ダクル(Saint-Jean-d’Acre)などとも呼ばれる。