■令制国
土着豪族である国造や縣主による統治から、律令制に基づく中央集権化に伴い、中央から派遣された国司により統治されるようになった地方行政区分。
大化の改新(645)直後から、藤原京遷都(694)以前の間に成立したと考えられる。
令制国制定に伴う分割
◇丹波国
丹波国・但馬国・丹後国
◇凡河内国
河内国・摂津国・和泉国
◇筑紫国
筑前国・筑後国
◇火(肥)国
肥前国・肥後国
◇豊国
豊前国・豊後国
※他にも分割された国はあるが、以上については、大和王権との関係において、勢力の分断が目的であったと考えられている。
◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇
令制国分割とその経緯に関する異説
倭国(九州の王朝の連合国家)に属した南部の王朝が東征して勢力を拡大したことで成立したのが大和王権であるとする説において…、
丹波国、凡河内国は、大和王権の京畿進出にあたり、抵抗勢力であったために分割された。
倭国筑紫王朝は、北部九州の平野部一帯(※筑前平野、筑後平野、佐賀平野、熊本平野を合わせて筑紫(つくし)平野と呼ぶ)を支配する倭国最大の王朝であり、倭国において、かつて、同列若しくは格下であった大和王権からの服従の要求に対する答えが磐井の反乱(527)であった。
磐井の反乱鎮圧直後から、分割されるまで、筑紫国は大和王権の軍事的な監視下におかれた。
※その役所が後に大宰府となった。
火国は、筑紫国と同盟関係であった一方で、火国の南にあった王朝から発展した大和王権とも友好的な関係にあったと考えられ、令制国制定にあたり、筑紫国が、筑前国・筑後国・肥前国の三国に分割された際、筑後国南部が火国に割譲された。
火国は、肥前国と肥後国に分割されたのではなく、筑後国南部を併合して肥後国とされた。
土着豪族である国造や縣主による統治から、律令制に基づく中央集権化に伴い、中央から派遣された国司により統治されるようになった地方行政区分。
大化の改新(645)直後から、藤原京遷都(694)以前の間に成立したと考えられる。
令制国制定に伴う分割
◇丹波国
丹波国・但馬国・丹後国
◇凡河内国
河内国・摂津国・和泉国
◇筑紫国
筑前国・筑後国
◇火(肥)国
肥前国・肥後国
◇豊国
豊前国・豊後国
※他にも分割された国はあるが、以上については、大和王権との関係において、勢力の分断が目的であったと考えられている。
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令制国分割とその経緯に関する異説
倭国(九州の王朝の連合国家)に属した南部の王朝が東征して勢力を拡大したことで成立したのが大和王権であるとする説において…、
丹波国、凡河内国は、大和王権の京畿進出にあたり、抵抗勢力であったために分割された。
倭国筑紫王朝は、北部九州の平野部一帯(※筑前平野、筑後平野、佐賀平野、熊本平野を合わせて筑紫(つくし)平野と呼ぶ)を支配する倭国最大の王朝であり、倭国において、かつて、同列若しくは格下であった大和王権からの服従の要求に対する答えが磐井の反乱(527)であった。
磐井の反乱鎮圧直後から、分割されるまで、筑紫国は大和王権の軍事的な監視下におかれた。
※その役所が後に大宰府となった。
火国は、筑紫国と同盟関係であった一方で、火国の南にあった王朝から発展した大和王権とも友好的な関係にあったと考えられ、令制国制定にあたり、筑紫国が、筑前国・筑後国・肥前国の三国に分割された際、筑後国南部が火国に割譲された。
火国は、肥前国と肥後国に分割されたのではなく、筑後国南部を併合して肥後国とされた。