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筑後國御原郡東郷山隈原

現:福岡県三井郡大刀洗町山隈の、いわゆる郷土史(的な…)

九州・沖縄の地震・噴火年表(明治~)

2014-06-01 01:00:00 | 歴史関連
●明治

1889 熊本
1898 多良間島沖
1900 日向灘
1909 沖縄本島
1910 宮崎西部
1911 喜界島

●大正

1914 桜島大正大噴火
1915 石垣島北西沖
1922 島原
1923 ■関東大震災・九州南東沖

●昭和

1926 沖縄北西沖・宮古島近海
1931 日向灘
1938 宮古島北西沖
1939 日向灘
1941 日向灘
1947 与那国島近海
1953 阿蘇山噴火
1958 阿蘇山噴火・宮古島近海
1961 宮崎沖
1966 与那国島近海
1968 えびの地震
1979 阿蘇山噴火
1987 日向灘地震

●平成

1991 雲仙普賢岳火砕流
1995 ■阪神淡路大震災
1997 鹿児島北西部
1998 石垣島南方沖
2001 与那国島近海
2002 石垣島近海
2005 福岡西方沖地震
2010 沖縄本島近海・霧島新燃岳噴火
2011 ■東日本大震災・沖縄本島北西沖

九州・沖縄の地震・噴火年表(~江戸)

2014-06-01 00:00:00 | 歴史関連
●飛鳥・白鳳

416 ■允恭地震・日本最古の地震記録
679 筑紫

●奈良

742 大隅(霧島御鉢)
744 肥後
766 大隅(桜島)

●平安

870 肥後

●鎌倉

1221 宝池鳴動地震

●室町

1443 薩摩
1449 対馬
1471 桜島噴火
1498 日向灘
1507 肥後
1524 霧島山噴火
1534 八代
1544 薩摩
1546 八代
1545 薩摩
1551 八代
1558 八代
1561~1563 八代・地震頻発

●安土桃山

1585 日向
1586 豊後
1596 豊後/薩摩(瓜生島・久光島沈没)

●江戸

1605 筑紫
1619 八代
1625 肥後
1627 豊後
1642 肥後
1643 肥後
1648 肥後
1650 肥後
1661 肥後
1662 日向/大隅・球磨
1663 雲仙岳溶岩流出
1664 琉球鳥島(海底火山)
1665 肥後
1670 対馬
1681 大隅
1683 大隅
1684 日向
1691 阿蘇山噴火
1695~1696 筑後・地震頻発
1699 肥前
1700 肥前/対馬
1703 豊後
1705 阿蘇山・筑後
1707 ■南海トラフ連動型地震(関東から九州にかけての連鎖的地震)・富士山宝永大噴火(49日後)
1723 九州各地
1725 長崎
1730 対馬
1732 長崎
1769 豊後/日向
1771 琉球(巨大津波85m)
1779 大隅(桜島噴火)
1792 島原大変肥後迷惑(雲仙普賢岳噴火・肥後津波)
1830 阿蘇山崩落(津波)
1854 豊後/日向
1855 豊予海峡

三種の神器

2014-02-01 00:00:00 | 歴史関連
■三種の神器
みくさのかむたから

天孫降臨の際に、天照大御神から瓊瓊杵尊に与えられた、天津神の権威を象徴する三種類の神璽(しんじ)。
●八尺瓊勾玉
(やさかのにのまがたま)
●八咫鏡
(やたのかがみ)
●天叢雲剣
(あめのむらくものつるぎ)
※草薙剣(くさなぎのつるぎ)



皇居の八尺瓊勾玉、伊勢神宮の八咫鏡、熱田神宮の草薙剣、の実物は、明治初年に明治天皇が天覧したのを最後に封印されたままとされ、その後、開封された記録は無い。


●八尺瓊勾玉
やさかのにのまがたま

八尺瓊勾玉之五百箇御統(やさかのにのまがたまのいおつのみすまる)

日本書紀や古事記などによると、それ以前にも、複数の八尺瓊勾玉之五百箇御統があったことから、神器の八尺瓊勾玉は、天照大御神の岩戸隠れの際に作られた八尺瓊勾玉之五百箇御統を指し、後に勾玉だけとなって、その名が残ったと推測される。

周囲が八尺(約180cm)、または八咫(約140cm)とは考えにくいことから、御統(みすまる)も含めた長さが八尺であったと考えられる。
瓊は、赤い玉を意味することから瑪瑙の勾玉と推定されている。(チャンネルにイメージ画像あり)

瑪瑙の赤を人工的に発色させる技術が生まれたのは江戸時代であることから、瓊は赤い玉ではなく、美しい玉という意味で、翡翠の勾玉であるとする説もあるが、むしろ、天然で赤い瑪瑙は稀少であるが故に権威の象徴としての価値があったと考えられる。

◆所在:皇居/剣璽の間
三種の神器の中で、天孫降臨以来、唯一、宮中にのみ伝わる。

1185年、壇之浦で海中に没したが、回収されて、現在、皇居(剣璽の間)に実物があるとされる。


●八咫鏡
やたのかがみ

◆八咫鏡は、特定の鏡を指す固有名詞ではなく、神器の八咫鏡は、真経津鏡(まふつのかがみ)と呼ばれる。

咫(あた)は、周囲(主に円周)の長さの単位で、直径1尺に対して円周4咫とされ、八咫鏡とは、直径2尺(約46cm)の鏡を指すといわれ、福岡県平原遺跡で発掘された大型内行花文八葉鏡は、その大きさが八咫であり、伊勢神宮の八咫鏡が「八葉」と呼ばれたことから、八咫鏡は、元々はこれと同じ鏡、または同サイズの鏡だったと考えられる。(チャンネルにイメージ画像あり)

※天照大御神の岩戸隠れの際に、先に作られた日像鏡と日矛鏡は、八咫鏡(真経津鏡)よりもやや小型の鏡であったとされ、八咫鏡と一緒に瓊瓊杵尊に与えられた。

◆所在:伊勢神宮/内宮
第10代崇神天皇の時代、天叢雲剣と共に宮中を離れ、第11代垂仁天皇の時代に伊勢神宮に納められた。

※伊勢神宮にある八咫鏡は、桶代(八咫鏡を納めた箱)の大きさから、やや小型の鏡であるとされることから、八咫鏡とは、単に大きな鏡を意味するとする説もある。

◆所在(形代):皇居/賢所

第10代崇神天皇の時代に最初の形代が作られた。

『養老律令』(720)には、「およそ践祚(せんそ:即位の儀式)の日、忌部、神璽の鏡剣を上(たてまつ)れ」とあり、『日本書紀』には、持統天皇の即位(690)の儀式に際して、忌部によって、八咫鏡と天叢雲剣の形代が新たに作られ、献上されたという記録があることから、古代において、八咫鏡と天叢雲剣の形代は、新たな天皇が即位する度に作られていたと考えられる。

960年、980年、1005年、内裏で火災があり、特に1005年の火災では、八咫鏡の形代が灰になり、改鋳が議論されたが、灰のまま保管されることとなった。

灰になった八咫鏡の形代とは、崇神天皇の時代に作られたものを指すと考えられ、1185年、壇之浦で海中に没し、回収された形代は、後に献上された形代と考えられ、それが、現在、皇居(賢所)にある形代とされる。


●天叢雲剣
あめのむらくものつるぎ
天叢雲剣は、岩戸隠れの後、高天原を追放されたスサノオが、出雲でヤマタノオロチを退治し、その尾から出た剣とされ、スサノオが天照大御神に献上されたとされる。
古事記には都牟刈大刀とあり、天叢雲剣という名は登場しない。

◆所在(形代):皇居/剣璽の間

第10代崇神天皇の時代に最初の形代が作られた。

『養老律令』(720)には、「およそ践祚(せんそ:即位の儀式)の日、忌部、神璽の鏡剣を上(たてまつ)れ」とあり、『日本書紀』には、持統天皇の即位(690)の儀式に際して、忌部によって、八咫鏡と天叢雲剣の形代が新たに作られ、献上されたという記録があることから、古代において、八咫鏡と天叢雲剣の形代は、新たな天皇が即位する度に作られていたと考えられる。

1185年、壇之浦で海中に没したため、伊勢神宮から後白河法皇に献上されていた神剣を形代としたとされ、現在、皇居(剣璽の間)にある形代とされる。

●草薙剣
くさなぎのつるぎ
※剣とは両刃のものを指すが、『古事記』では、「草薙大刀」とされ、片刃ともいわれる。

所在:熱田神宮

第10代崇神天皇の時代、八咫鏡と共に宮中を離れ、第11代垂仁天皇の時代に伊勢神宮に納められた。

天叢雲剣は、第12代景行天皇の時代、伊勢神宮から日本武尊の手に渡り、その後に草薙剣の別名を与えられ、日本武尊の死に伴い、熱田神宮が創建され、草薙剣として納められたとされる。

熱田神宮に納められていた草薙剣は、天智天皇の時代(668)、盗難に遭い、回収後、宮中にあったが、天武天皇の時代(688)に熱田神宮に戻された。

※江戸時代、草薙剣を盗み見た神官が、2尺8寸(約85cm)の、菖蒲の葉のような形の剣(細身の両刃の長剣がイメージされる)であったと記したといわれる。

スサノオがヤマタノオロチを退治する際に使って、天叢雲剣に当たって折れた十柄剣(十拳剣)、天羽々斬(あめねはばきり)とされる剣は、2尺8寸(約85cm)の片刃の大刀とされる。

※戦時中、一時的に移された際の記録では、短剣用に用意された箱に納ま

国郡里制

2013-09-01 00:00:00 | 歴史関連
■国郡里制

大宝律令(701)で定められた地方行政組織の単位で、必ずしも、地域を分ける地理的な郡郷里と同じではない。

大郡=16~20里
上郡=12~15里
中郡=8~11里
下郡=4~7里
小郡=3里

※郡は、20里、千戸を上限と定められていた。

1里=50戸
715年、里を郷に改め、郷を2~3の里に分割。
740年、里を廃止。

平安時代、地方の行政機関が再編されるが、郷は、地方によっては11世紀まで、地方行政組織としてそのまま存続していた。

◇各郡には、郡衙(役所)が設置され、郡司(役人)が配置された。

大領・少領・主政・主帳

※「大領」と「少領」を「郡領」と呼び、旧国造の一族が任命されることが多かった。
※下郡には、「主政」を置かない。
※小郡は、「領」と呼ばれる一人のみを配置。

◇郷
郷は、本来は郡の下部組織であり、五十戸長(さとおさ:郷長)がまとめていたが、郷倉を有するような有力な郷が独立したり、大きくなった郡が分割されたりして、郷のまま、実質は郡と同等の機能を有するものが現れた。


◇小郡官衙遺跡は、御原郡の郡衙の遺跡と考えられ、国郡里制が制定される以前を第一期、国郡里制が制定された後を第二期とし、8世紀中頃、御原郡が分割され、または東郷が独立して設けられたのが下高橋官衙遺跡であると考えられ、この後が小郡官衙遺跡の第三期とされる。

小郡官衙遺跡の第三期において、数多くの鉄の矢じりなどが発掘されており、740年、大宰府で藤原広嗣の反乱が起こり、御原郡衙が軍事的な拠点のひとつになったことが考えられる。

筑紫

2013-08-01 00:00:00 | 歴史関連
『筑後国風土記』逸文によれば、

筑前と筑後、肥前の境にある山には、命盡神(いのちつくしのかみ)と呼ばれる荒ぶる神がおり、往来するのは命がけで、多く人々の命が失われていた。

そこで、筑紫君と肥君の祖(おや)、甕依姫(みかよりひめ)が祭祀をもって命盡神を鎮めた。

鎮まった命盡神は、筑紫神(つくしのかみ)となって、筑紫国と呼ばれるようになった。

また、死者の人城(ひとき:棺)を作るためにその山の木を切り出したところ、山の木が尽きてしまったといわれる。


【補注】

盡:尽の旧字体。

筑紫君は、筑紫君磐井またはその親を指すともいわれ、その筑紫君磐井は、倭王武の子または孫ともいわれる。

甕依姫が祭祀を行った場所に筑紫神を祀る社が建立され、現在の筑紫神社の基になったともいわれることから、筑紫神は、筑紫神社の祭神、五十猛命(出雲系)のことであるともいわれる。

人城(ひとき:棺)は、人基とも書き、単に城または基と書き、「き」と読んだことから、基山という地名が生まれたともいわれる。