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筑後國御原郡東郷山隈原

現:福岡県三井郡大刀洗町山隈の、いわゆる郷土史(的な…)

筑紫君磐井の一族

2013-07-01 00:00:00 | 歴史関連
■筑紫君磐井
(つくしのきみいわい)

倭王武(倭の五王)の子または孫とされる。
福岡県八女市近郊を拠点として、筑紫国全体を統治していたが、磐井が直接統治していたのは筑後国一帯と考えられる。
※御妻(御端)郡、御池(御毛)郡、御井郡、御原郡などの地名から、筑紫御国(つくしのみくに)と呼んだとする仮説もある。

■火中君○○
(ひのなかのきみ)○○

磐井の嫡子で、磐井の反乱において磐井と共に死去。
磐井の時代、筑紫国の領土となっていた熊本県北部、火中国を統治していたと考えられる。

■筑紫君葛子
(つくしのきみくずこ)

磐井の反乱において磐井、火中君の死去した際、粕屋屯倉を献上して助命され、筑紫君を継承した。
それ以前は、筑前国一帯を統治していたと考えられる。
※筑紫奴君葛子
(つくしのなのきみくずこ)
漢倭奴国から出た仮説。

■筑紫火君○○
(つくしのひのきみ)○○

筑紫君磐井と火王朝の一族との間に生まれた庶子とされ、佐賀県鳥栖市近郊を拠点として、磐井の時代には筑紫国の領土となっていた肥前国一帯、筑紫火国を統治していたと考えられる。
※筑紫君葛子と筑紫火君は同一人物、または筑紫火君の子とする説もある。

◇火中君、筑紫火君は、筑紫君と同じく、統治者としての称号と考えるべきである。

※あくまで異説、こういう説もあるという話。

筑後川の戦い

2013-06-01 00:00:00 | 歴史関連
筑後川の戦い

527年・磐井の乱
倭国筑紫王朝:筑紫君磐井
vs 大和王権:物部麁鹿火

1359年・南北朝
南朝:懐良親王・菊池家
vs 北朝:足利勢(少弐家他)

筑後平野をはさんで対峙すると、筑後平野全体を見渡せる場所、南は高良山、北は花立山に陣を構える。

南から攻める場合でも、北から攻める場合でも、筑後川をどのタイミングで渡るかが、勝敗を分ける鍵となり、いずれにしても、戦場は御井郡となる。

磐井の乱では、北から攻める大和王権が筑後川を渡り、最終的には、筑後川南岸、御井郡が主戦場となったため「御井の戦い」と呼ばれた。

南北朝では、最終的には、南から攻める南朝方が、筑後川北岸に進出したことで、御井郡の北、御原郡が主戦場となったため「大原(御原)の戦い」と呼ばれた。

主戦は以上のようであるが、磐井の乱は一年半、南北朝においては、菊池武光が高良山に征西府を築いてから筑後川の戦いまで23年、中小規模の衝突や末端の戦いは、筑後川の両岸を中心に、筑後平野全体に広がり、800年以上の時間差がありながら、二つの戦いの痕跡が重なる場所は多く、南北朝の戦いの痕跡は、磐井の乱において戦場となった可能性がある場所を示すともいえる。

武士道の徳目

2013-04-01 00:00:00 | 歴史関連
【義】
正しい道(人道)
[倫]
人間関係における義

【勇】
義を守るための強さ

【仁】
優しさ、弱者への配慮

【忠】
義への敬意、行動原理
[孝]
親や家族に対する忠

【誠】
義への信、正直さ

【誉】
体面、外聞
忠または誠についての評価
[名(家名)]
武家においては最も重要
命と同等の価値
⇔[恥]

【礼】
義の表現

◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇

【礼】
義の表現
仁の表現=思いやり
礼の最高の姿=愛

[礼儀作法]
=礼の形式・表現方法

[虚礼]
形だけで心が無い
[失礼]
心が無いことが相手に伝わること
[無礼]
礼を欠くこと

仮名字源

2013-03-01 00:00:00 | 歴史関連
[あ]安 阿 愛 亜 悪
[い]以 伊 移 意
[う]宇 有 雲 憂 羽
[え]衣 盈 要 江 得 縁 延
[お]於

[か]加 可 閑 家 我 駕 賀 歌 佳 香 嘉 歟 荷
[き]幾 支 起 木 祈 貴 喜
[く]久 具 九 倶 求 供
[け]計 个 遣 希 稀 気
[こ]己 古 許 故 期 子 興

[さ]左 佐 散 斜 沙 差 狭 乍
[し]之 志 新 事 四 師 斯
[す]寸 須 春 寿 数 受
[せ]世 勢 聲 瀬
[そ]曽 所 楚 處 蘇

[た]太 多 堂 當 佗 田
[ち]知 地 千 遅 致 治 智 池 馳
[つ]川 徒 都 津 頭
[て]天 帝 亭 轉 傳 弖 (人偏+弖)
[と]止 東 登 度 刀 戸 土 斗 砥

[な]奈 那 難 南 名 菜
[に]仁 爾 耳 丹 二 児 尼 而
[ぬ]奴 怒 努 駑
[ね]年 禰 念 音 根 寝 子 熱
[の]乃 能 農 濃 野 廼

[は]波 者 盤 半 八 葉 破 芳 羽 婆 頗
[ひ]比 飛 非 日 悲 火 備 妣 避
[ふ]不 布 婦
[へ]部 邊 遍 弊 倍 反 閉 敝 幣 辨 篇 變 経
[ほ]保 本 報 寳 穂 奉

[ま]末 万 萬 満 馬 間 摩 漫 真 麻
[み]美 見 三 身 微 民
[む]武 無 舞 牟 无 夢 務
[め]女 免 面 妻 馬 目
[も]毛 裳 母 茂 藻 蒙

[や]也 夜 屋 耶 哉
[ゆ]由 遊 游 湧 喩
[よ]与 餘 余 夜 慾 世 代

[ら]良 羅 等 蘭 落
[り]利 里 梨 理 李 離
[る]留 類 流 累
[れ]禮 連 麗
[ろ]呂 路 廬 露 論 樓 婁 侶

[わ]和 王 倭 ○ 輪
[ゐ]為 井 居 委
[ゑ]恵 衛 慧
[を]遠 越 乎 尾 緒

[ん]无

仮名字源297字
仮名は、本来は発音記号にあたる。

※現代の平仮名50音は、各1字目。

条里制

2013-02-01 00:00:00 | 歴史関連
■条里制
古代から中世にかけて用いられた土地区画法

東西、南北を直線的に区画し、6町(1町=109m)四方を1里という。
1町四方を1坪、1坪を100分割して1段といい、農家では、現在でも、ヘクタールやアールよりも、町、段で表す方が一般的である。

東西を条、南北を里、として、「一条三里」というふうに地番として用いた。

郡里の境界を定めるのに利用される場合もあり、御原君と御井郡の郡境は、条里制による区画を利用しており、直線的になっていた。

後に、各条里は、地番ではなく、「字地名」で呼ばれることが多くなった。